1 養子と死体と噂話
1.
side.K
かしゃ、ぱちん。かしゃ、ぱちん。
私は、めがねに付いたサングラス部分を、上げたり下ろしたりして、視界が入れかわるのを楽しんでいた。
小さな坪庭に面した縁側に座り、ぷらぷらと足をゆらす。
かしゃ、ぱちん。かしゃ、ぱちん。
視界が、くらい、あかるい、くらい、あかるい、くるくる入れかわる。
めがねの上に、上げ下げ出来るサングラスが付いたこれは『跳ね上げ式眼鏡』というらしい。
昨日、父が買ってくれた。
サングラスと普通のめがねを交互にかける私を、見かねてのことだった。
私は、日の光と人の視線に強くない。頭や目が、痛くなってしまう。視力も低い。
だから、外ではサングラス、家の中では普通のめがねをかけていた。
といっても、はっきりとそんな風に使いわけているわけでもなくて、外で遠くのものや細かいものを見たいときはめがね、中にいても、窓のそばにいるときや気分を落ち着けたいときはサングラス、という風にごちゃまぜで使っていた。
それを見て、
「いちいちかけ直すの、面倒くさいやろ」
と、父が買ってくれたのだった。
実は父の言う通りだったので、吃驚するくらい、嬉しかった。
商店街の古いめがね屋さんで。古いのに、中は清潔できれいだった。
めがね屋のおじいさんも優しい人で、店の奥からこれを出してくれた。
「蝶さんの言う眼鏡は、たぶんこういうのだろう?」
丸くて、可愛いめがね。
かしゃ、ぱちん。
私は嬉しくなって、何度もさわってしまう。
私の実のおかあさんは、私のサングラスもめがねも嫌いだった。
大嫌いだった。
『ただでさえ、視力が弱いなんて情けないのに』
いつもそう言っていた。
『そのサングラス、付けるのやめなさい』
おかあさんと歩くときは、絶対につけさせてもらえなかった。
『痛いのなんて、気のせいなんだから』
『人の目が怖いなんて馬鹿なこと言わないの』
『そんな弱くて、生きていけると思ってるの』
おかあさんは、心底嫌だ、という風にずっと私にそう言い聞かせた。
私は、心の中でいつも「ごめんなさい」と何度も謝りながらも、どうしてもどうしてもしんどくて、サングラスもめがねも手放せなかった。いつも持っていた。
お守りみたいに。
サングラスは大好きだ。
サングラスをつけると、世界が少し柔らかくなって見える。薄暗くて、ぼんやりとしていて、やさしい感じに見えるのだ。
やさしい、柔らかなサングラス越しの世界が大好きだった。
だから、私は、私の『母』になる予定だった人も、父も大好きだ。
『サングラス? へえ、その年でイケてるねぇ』
一度だけ会ったあの人はそう言って笑ってくれた。
『でも、もっと似合うのがきっとあるよ。うちに来たら、まずは一緒に探して、一番似合うやつを買おうじゃないの。最初のプレゼントね』
お日さまみたいな笑顔だった。私でも見られるお日さまの顔だった。
父にはその話をしていないのに。父はまず、私にこの『跳ね上げ式眼鏡』をくれた。
すごい、と思った。
これがきっと、『ほんとうの夫婦』なんだなあって。
かしゃ、ぱちん。
「……あんまパチパチやりすぎたら、すぐアカンようなんで」
父が、パソコンから顔を上げずに言った。
私は慌てて「はい」とうなずく。
『すぐアカンよう』になるのは駄目だ。
だって、お気に入りだから。
私は、つるの部分を指で触るだけにする。
一番奥の、小さな坪庭に面したせまいこの部屋が、父の部屋だった。
そして、私が今、住まわせてもらっている部屋。
畳敷きの和室。押し入れ。入口は襖。本だなとちゃぶ台。仏だん代わりのカラーボックス。ちゃぶ台の上には、いつもノートパソコンが乗っていて、父はそこで日がな一日話を書いている。
父は童話作家だ。
父の書いた話を、私はひとつ読んだことがあった。
そのことを言って、また感想も伝えたら、父は嬉しそうに「ありがとうな」と言った。
そのときの笑顔は、不思議だけれど、私と同い年の男の子みたいな笑顔だった。
頬をちょっと染めて、はにかんでいて。でもすっごく嬉しいって、顔にそのまま書いてあるような。
可愛いなあ、と失礼ながら私は思った。
今、膝の上には父の本が乗っている。
私が読んだことのあるものの、つづきだった。
私はその本につづきがあるなんて知らなくて(むかし通っていた学校の図書室には、入ってなかった)、嬉しくて一気に読んだ。
物語の主人公は転校生で、ある日、学校の裏庭にある穴から、不思議な世界へ迷い込む。一緒に迷い込んだ、同じクラスの男の子や隣のクラスの女の子、いっこ上のお兄さんや、ひとつ下のしっかり者の女の子らとともに大冒険のすえ、無事帰って来る……というのが、ひとつめのお話だった。
めでたしめでたし、の向こう側にいた主人公たちは、やっぱりまた大変な事件に巻き込まれていたけれど、前に読んだものよりもこちらの方が好きだと思った。
仲間たちが、前よりもずっと仲良くなっていて、胸がきゅんとなった。
いいなあ、いいなあ。こういう『友だち』同士も、きっとこの世のどこかにはあるんだなって。
私の周りには無かったけど、きっとこの広い広い世界のどこかにはあるんだ。彼らはぜったいにいるんだ。
この本を読んでいると、何故かすんなりそう信じられた。
だから、好き。
感想を早く伝えたくて、私がぷらぷらと縁側で足を揺らしていたら。
トントン。
襖を叩く音がした。
「コトリちゃん、いる?」
それから、家主さんの『おくさん』が私を呼んだ。
「はい」
私はこたえた。「蝶之助さん、入るわよ」とおくさんが断ってから、襖を開ける。
「晩ごはんのお手伝いをして欲しいのだけど……いいかな?」
はいと、こたえかけてから、あわてて父を見た。父がうなずく。
「家賃分、働いてきぃ」
私はこっくりたてに首を振った。
「はい」
「じゃあ、蝶之助さん、コトリちゃん借りるわね」
おくさんの後ろについて、台所へ行く。
お手伝いをするのは、初日からだ。
初日は、枝豆をむくことで、二日めは、えびのからむき。そんな感じの、簡単なこと。
お手伝いは、嫌いじゃない。
お手伝いをしているあいだ、おくさんはいろんなことを教えてくれる。
このまちのこと。この家のこと。父のこと。おくさんたちの、息子さんのこと。娘さんのこと。家主さんのこと。この家に住む、ほかのひとのこと。
「今日は、じゃがいもの皮を剥いてほしいんだけど……ピーラーとか、果物ナイフとか、使ったことある?」
「あります」
私は言ってから、急いで付け足した。
「あの、とっても下手なんですけど……」
おくさんはにこにこ笑って言った。
「いいのよ、剥けるだけで」
私はほっと安心しつつ、それでも、私の手つきを見るまではわからないぞ、と気を引きしめる。
もしかしたら、ものすごく呆れて、優しいおくさんでも、とても怖いことを言うかも知れない。
そうしたら、嫌われてしまうだろうか。父にも、嫌われてしまうだろうか。
私はにわかに不安になる。
いくら優しい人でも、私がヘマをしたらわからない。
ヘマをする人間は、どこでもぽいっと捨てられるのだ。
おかあさんが、くちずっぱく言っていた。
気を付けよう。
私は、ぎゅっと小さくこぶしを握った。
*
side.C
「えー、ほんまにぃ?」
「ほんまやって! こないだ、焼却炉のえんとつから煙出てたもん! やっぱりあの寺、人燃やしてるんやって!」
「マジかよ、あれ使ってないって言ってたのに!」
「きっと、人燃やすときしか使ってないんやで!」
きゃらきゃらと賑やかに小学生たちがお喋りしながら裏路地を通っていく。塀越しにその声を聴きながら、僕はぼんやりと縁側に座り、小さな坪庭を眺めていた。
(コトリと同い年くらいやろか)
如何せん、姿は見ていないのでわからない。子どもの声を耳がよく拾うようになったのは、やはり子どもが近くにいるからだろうか。
コトリが来て、はや一週間が経とうとしている。
だいぶん慣れてきたようで、毎日奥さんの手伝いをしたり、そのへんを散歩して、道を覚えたりしている。
特に不調は無いようだ。強いてあげるなら、三日ほど前に鼻血が出たくらいのことか。緊張からかも知れない。
と言っても、その場に僕はいなくて、コトリの服に付いた血であとから知ったことなのだけど。
「よくあるんです」
と恥ずかしそうに言っていたから、本当に不調はなさそうだ。
勉強も、ちゃんと毎日している。
何か決まりでもあるのか、午前中は必ず机に向かっていた。
僕が横でぐうぐう寝ていても、一人起きて、部屋の隅に寄せたちゃぶ台の上で、もくもくと漢字ドリルなどを解いている。
ちなみに、コトリ自身が持参した教科書もあったが(それにより、彼女が小学五年生であると知った)、問題集や参考書なんかは、百さんのお子さんたちが使っていたものを再利用中だ。
奥さんが何でも取っておく性分のため、奇跡的に残っていたのだ。もちろん、いろいろ変更になったせいで使えない部分もあるだろうけど、まあ、使える部分だけでも、ということで使わせてもらっている。
ここの家のお子さんたちは皆、答えはノートに書く習慣だったようで、使い回しは余裕だった。コトリも、それにならってノートに答えを書いている。
「こうした方が、何度でも使えて便利やろう?」
とは、家主・百さんの息子、一朗さんの言。
百さんには二男二女のお子さんが居るが、全員成人していて、今この家に住んでいるのは一朗さんだけだった。
コトリという小さな居候が増えても、一朗さんは驚きもせず、むしろ嬉しそうに自分や弟さん妹さんの使っていた問題集を探し出してくれた。
新しいノートも買ってくれた。
思えば、奥さんも同じように少しはしゃいでいた。
よく弟妹の面倒を見ていたと聞いていたけれど、その名残だろうか。
コトリは、困ったような、照れたような、はにかんだ笑みを浮かべて小さく「ありがとうございます」と言った。
ああいうとき、「もっと大きな声で言いや」とか注意するべきなのだろうか。
にわか父親なのでさっぱりわからない。
とにかく、いきなり出来た養い子は、思いのほか手のかからない『いい子ちゃん』ではあった。
(よく躾けられてるんやろうなあ……)
確か離婚して母一人、子一人。母は相当なキャリアウーマンで、海外勤務になったのを機に、あの猫山の会社を利用した……という話らしいが。
(出来るバリキャリは躾もバリバリやったってことか……)
コトリは今、百さんと三宅さんに連れられて南禅寺に行っており、留守だ。
三宅さんは、百さんのエッセイに使われている写真のほとんどを撮っている男性カメラマンで、強烈な古都フリークだ。
京都や奈良が大好きで、その良さを語り始めたら止まらない。確か御年四十になるはずだが、三十代、見ようによっては二十代にしか見えない、年齢不詳の妖精みたいな人だ。
そんな人と(+百さんと)、何故コトリが南禅寺に行くことになったのか。
あれは、一昨日のことだ。
今度出る百さんの新刊に使う写真について、三宅さんが打ち合わせに来た。
そこで、コトリと三宅さんは初めましてと挨拶をして。
「名刺代わりに」
と彼が、いくつかの写真を、コトリに見せた。
京都や奈良の山々を撮った写真。
深い緑と朱い鳥居。夕陽に照らされる参道。
コトリが思わず言葉を零した。
「きれい……」
そこから、三宅さんはコトリ相手に熱烈に語り出した。京都の奥深さ、奈良の豊かさについて。
そりゃもう延々と。子ども相手でも大人相手でも、三宅さんの古都愛は等しく語られる。もちろん、僕も何度かお相手させられている。
大体、途中で飽きておざなりな返事になるものだが、コトリは違った。
真面目に聞いて、真面目にうなずき、時には質問をはさみさえした。
これには僕も奥さんも、百さんもびっくりした。
顔を見ても、取り繕った様子はなく、単に興味があるだけに見えた。それでも、大人にこんな長話をされたら普通、子どもは引くものだ。
けれど、彼女は引くこともなく、いつまでも興味深げに聞き入っていた。
そんなコトリの態度に、三宅さんはすっかり彼女を気に入った。
今度の撮影(つまり、今日)にコトリも連れて行くと言い出し、そして本当に三人で出かけてしまったのだった。
ご機嫌な三宅さんに、呆れている百さん。そして、何故か申し訳なさそうな顔をしたコトリ。
『……行ってもいいですか?』
と聞いてくる声には、怯えが含まれていた。
(子どもって、あんなもんやっけ?)
コトリが実際、三宅さんの話に興味を持ち、一緒に行きたいと思ったなら、もっとわくわくした顔で聞いて来てもいいと思うのだが。
逆に「知らない大人とおでかけなんて気が乗らない」と思っていたとしたら、たぶん「引き止めてほしい」という雰囲気をもっと出しただろうし。
あれは「正真正銘、このおじさんが語る素敵なところへ行ってみたいけれど、本当に自分が行ってもいいのだろうか」という、言葉通りの迷いだった気がする。
(もし僕やったら、喜び勇んで行くなあ)
行ってもええ? ええやんな? よっしゃ行ったるで! くらいの調子だ。
(僕が養い親やからやろうか?)
遠慮の固まりで、あんな風になってしまうのだろうか。
(だとしたら、前途多難やなあ)
一花。
僕は、ふと一花の写真を見る。仏壇代わりのカラーボックスの上。彼女が一番気に入っていた笑顔の写真が、そこにある。
(君やったら、どないしたやろか)
行きな行きなー。行って、色んなことを教えてもらいなよ。
そう気安く言ってやっただろうか。そして、たやすく安心させてやっただろうか。
……僕は、安心をあの子にあげたかったのだろうか。
写真の笑顔に問うてみるも、当たり前だが答えは無い。
夢にも、まだいっかな姿を現わさない。
「変わったもんだけ、遺していきよってからに」
何故だか忘れ形見、という言葉が思い浮かんだ。
と。
トントン。
「蝶之助さん、居てはる?」
「……奥さん? 居てますけど」
「ちょっと邪魔させてもらいますね」
「どうぞ~」
すら、と襖が開いた。入って来た奥さんは、何処か神妙な顔をしていた。
「どないしました? 家賃なら、先月はちゃんと
「今月もよろしく頼みますよ」
「どないやろ。ショックで原稿まったく進んでへんさかい。もしかしたら原稿落ちて、お金も入らへんかも知れませんわ」
半分、本当だった。日がな一日パソコンに向かってはいるが、実はほとんど仕事は進んでいない。書いては消し、消しては書いてを繰り返し、一日かけてやっと一ページというような状態だ。一花のことを考えては、その死の理不尽さに憤り、不在に目を背け、だからといって仕事に没頭できることもなく。また一花のことを考え、筆は止まり、再開しても、気に入らずすぐに書き直す。そんなことの繰り返し。
生きていくために書かざるをえないから書いているだけで、何もしたくないというのが本音だった。
正直、一花の置き土産が無ければ、筆を折ってしまってもかまわないくらいだ。
「嫌やわ、ちゃんと払ってもらわんと困りますよ」
「まあ、子持ちになりましたさかいなあ」
冗談っぽく言った僕の言葉に、奥さんはさらに何とも言えない顔になる。
そっと僕の傍に座り、覚悟を決めたように口を開いた。
「……コトリちゃんのことやねんけど」
「なんぞしよりましたか」
『いい子ちゃん』に見えて、影で悪さするような奴やったか。
僕は逆に何だか面白くなって来た。
それが顔に出ていたのだろう。奥さんが顔を顰めた。
「ちょっと。真面目に聞いて下さいよ」
「聞いとります」
「コトリちゃんね、死んだ猫を抱えてたらしいのよ」
「……死んだ猫?」
僕は、首を傾げた。
「三日くらい前に、車に轢かれた猫の死骸を抱えているコトリちゃんを、髪結いの田中さんが見たって言うの」
「はあ」
何でまた死んだ猫。
「でも、そんな猫やったら血みどろちゃいますの? あいつが血ぃ付けてんのなんて、それこそ三日前の鼻血くらいなもんですわ」
鼻血と言われて納得するくらいのちょっとした血の跡だった。
「……それなんやけど」
奥さんが、今日のおでかけに「あの可愛らしいワンピース着て行ったら?」と昨日何気なく言ったらしいのだ。
可愛らしいワンピースは、たぶんここへ初めて来た日に着ていたものだろう。
白くて清楚な雰囲気のワンピースだった。
初めてのおでかけにはちょうど良い、と奥さんは思ったらしい。だが、コトリは顔を曇らせると首を横へ振り、「あれは、だめです」と言ったらしい。
「もしかしたら……と思ったの」
「……」
血が付くのを避けるためにわざわざ自分のワンピースを?
ちら、とコトリの持って来た古めかしいボストンバッグを見る。
あの中に、コトリの衣類が洗濯しているもの以外すべてある。
そして、今日洗濯した中にあのワンピースは無かった。というより、あのワンピースを初日以外見たことがない。
「ねえ、蝶之助さん」
「面倒見てる子どもやからって、勝手に他人の持ちもん見るんはアカンでしょう」
と言いつつ、僕は気になって仕方なかった。
ほんまに、ワンピースが無かったら?
あの血が、鼻血では無かったとしたら?
何故、あの娘は死んだ猫を抱えてうろついていたのだろう。
僕の興味は尽きない。
でもそれは、育て親としての興味ではない。たぶん、物書きとしての興味だ。
机の上の灰皿をずるずると引き寄せ、煙草を手にした。
「ちょっと」
「あ、すんません」
考え事をするときの癖でつい。
「でね、昨日、少し注意深く見ていたらね」
奥さんは声を低くして言った。
「また持っていたの、死体を」
「死体を」
「今度は、鳥の雛だったけど」
コトリが小鳥の死体を。と思って、何上手いこと言うとるねん、と自分で一人ツッコんだ。
奥さんが言うには、昨日の夕方、玄関から出かけようとしているコトリは、何か両手に持っていた。膨らんだハンカチの端から、小さな尾羽が見えたとか。
「何処に行くの? って聞いたら、『お寺さん』って。すぐ帰りますって言葉通り、まあ小一時間くらいで帰って来たけれど」
「……」
そういえば昨日、彼女から微かに線香の匂いがしたと思い出す。
「ねえ、あの子、大丈夫なんかしら」
「精神的にということ?」
「そういうのも、ぜんぶ含めて」
ふむ、と僕は頷いて、取り出した煙草を手持無沙汰に指先でいじくりまわした。
死体に興味を持つ、怯えた子どもか。
「……お話の題材としては完璧なんやけど」
「蝶之助さん!」
「はいはい、わかってますって」
コトリのことについて、奥さんにはだいぶん世話になっている。や、僕ら夫婦からしてお世話になりっぱなしではあるのだけれど。
ご飯をごちそうしてくれることはもちろん、コトリを買い物の手伝いに連れ出して、上手いことご近所さんたちに紹介したりとか。「蝶之助さんが親戚から預かってる子どもさんなんです、そう、諸事情で学校行かれへんさかい、うちで療養というかね」みたいな感じで言っているのではないかと推察する。あの特殊な眼鏡が、それに説得力を持たせたのではないかとも。そのとき近所のお巡りさんにもちょうど会ったと言っていた。お巡りさんに顔を覚えてもらって、家を把握してもらったら、迷子になっても安心だ。そういう気配りは、なかなか僕には出来ないことだった。
他にも衣服のことや、勉強道具についてや、細かいことも。
本当に助けてもらっている。
その奥さんが「気になる」というのならば、気にせねばならないだろう。
物書きとしてではなく、養い親として。
「……それとなく、聞いてみますわ」
「頼みましたよ」
奥さんは立ち上がって、ぽつりと言った。
「……でもあの子、本当にいい子と思うのよ。優しくって、真面目でね」
どうか、その印象のままの子であって欲しい、という祈りにも聞こえ、僕は、
「そうやねぇ」
と煙草をくわえ、頷いた。
半分本音で、半分は、たぶん建前で。
*
夕方。玄関が騒がしくなったな、と思ったら、すぐにとたとたとこちらへ近付いてくる足音がした。
すらり、と襖が開く。
「ただいま、です」
縁側で坪庭を眺めていた僕は、くるりと振り返った。
「おう、おかえり」
帰って来たコトリは、心なしか頬を紅潮させ、楽しそうに見えた。
カシャ、とサングラス部分を跳ね上げながら、僕の隣に静かに座る。
「楽しかったか?」
一応、聞いてみる。
「……はい」
コトリが頷く。その口角は、しっかり上がっていて、そういえばここまではっきりした笑顔を見たのは初めてかも知れないと気付く。
「良かった」
僕もつられて笑った。するとコトリは一瞬目を丸くしたあと、はにかんだ。
それを見ると、何故かほっとする。不思議なものだ。
「気に入ったんか?」
「はい。……何だか」
言いかけて、コトリは躊躇った。目顔で先へ促すと、恐る恐る口を開く。
「……妖精がいそうだなぁって」
「……水路閣?」
僕が言えば、ぱっとコトリの目が見開かれた。
「は、い」
ぱちくりと目を瞬かせる。
何でわかったの? と言いたげな顔だ。僕は笑った。単純な話だからだ。
「昔、僕も思ったからや」
「!」
そう、単純な話。あのお寺の敷地にぬっとそびえ立つ不思議な橋、その古めかしさを見て、幼い僕が「絶対ここに何か棲んでいる」と思っただけのこと。
昔読んだ物語に出て来た善き隣人たちの気配がしたと。
「そそられるやろ。どんな物語があるんやろって」
「うん」
実は未だにその気配を感じているのだけれど、それは言わなかった。
だが、そうか。コトリも。
僕はくすぐったいような、嬉しいような、むずむずした気持ちになる。
「他にもどっか行ってったんか?」
「えっと、知恩院と八坂神社に」
「そりゃ、ええなあ」
はにかんだ笑みを浮かべていたコトリが、ふと視線の先に何かを見付けて顔を曇らせた。
僕はそちらへ、何気ない様子で視線をやる。
狭い坪庭。
よく見ると、地面に白い蝶が伏していた。
……死骸、だと思われた。
せっかく春になったというのに、力尽きていた。寒い日が続いたせいかも知れない。
「……」
コトリの顔は、晴れない。その両目が、物憂げに白い蝶を見つめている。
僕は、あることを思い付いて、立ち上がった。
「どれ。僕も三宅さんに挨拶してこよかな。三宅さん、来てはるんやろ?」
「そのまま、晩ご飯も一緒だって」
「なるほど」
敢えて僕が部屋から居なくなる。
果たしてどうするか。
部屋を出て、襖を閉めた。ほんの少し、隙間を作って。
だが、足音が遠ざからないと逆に怪しまれるだろう。
適当に廊下を歩いて、途中でひっそり引き返すか。
そう思って歩き出したら。
「あ」
「蝶さん」
居間から、ひょっこり三宅さんが顔を覗かせた。
本当に会うとは。
僕は、古都愛を語られる前に部屋へ戻らねば、と愛想笑いを浮かべて会釈をした。そしてそのまま踵を返そうとして。
「ちょいちょい」
「……」
手招きして呼ばれてしまった。
流石に十近く上の人を無視するわけにはいかず、僕は渋々彼のもとへ。
「今日は、コトリが世話になりまして……」
「別に世話はしてないよー。一緒に遊んだだけだよ」
三宅さんの声は、独特の甘い声をしている。キャラメルボイスとでも言うのか。
「ね、コトリちゃん。本当にいい子だね」
「はあ」
声を潜めて、しみじみと三宅さんは言った。
「まだ来たばっかりやよって、掴めとらんことのが多いんですけども」
「そりゃあ、これからだね。でも」
にっこりと無邪気に笑う。
「あの子は、いい子だよ。それは、確かだよ」
それは歌うように、けれどもきっぱりとした口調で言われた。太陽は東から昇るんだと言うくらい。
「言いたいのは、それだけ」
じゃ、と三宅さんはトイレの方に行ってしまった。
僕はぽりぽりと頬を掻く。
(とりあえず……)
コトリの様子を見ておくか。
そろそろと廊下を戻る。襖の隙間から、ちろ、と覗いた。
コトリは、ハンカチを手に(美しい紅のハンカチだった)、庭に降りていった。僕の下駄をつっかけ、少しつんのめりそうになりながら。
しゃがみこんだのだろう、視界から消える。
僕は意を決して、そぅっと襖を開け、中に入った。
庭の方へ近寄る。
彼女は、優しい手付きで……本当に優しい手付きで蝶をハンカチの方へ移した。
赤ちゃんを抱き上げるような、しっかりしているのにふわっと柔らかな。大事なものを手にするときの動き。
「……なあ」
「!」
それを見たとき、僕は自然と口を開いていた。
「それ、どないするん?」
バッと振り返ったコトリは、真っ白な顔をしている。
驚きと、それから、困惑と怯え。
「これ、は……」
眼鏡の向こうの目が、大きく見開かれ、唇がわななく。
そういう表情は、よく知っている。
見て知っているというより、表情筋が憶えている感覚。
大人の怒りや叱責にすくんだ記憶は、心の奥底に刻み付けられている。
それが無理解からくるものであればあるほど。
憶えている。
だから、僕は思い付いたことを言う。意思表示の代わりに。
「墓、作ったるん?」
なるべく平坦な声で聞いた。コトリの眼が、瞬いた。
「……はい」
慎重に、コトリが頷く。こちらの思惑を読み取るまでは、気を抜いてはいけない。そう思っているのがわかる。緊張感が伝わる。
「何で?」
「なんで……」
コトリは、手の中のハンカチに目を落とす。死んだ蝶をやさしく慰めるように包んだそれは、さながら聖骸布だ。
「……ちょうちょ、きれいなのに」
「……」
「生きてるときは、みんな好きだって言ったり、追いかけたりするのに。死んだら」
コトリの物憂げな瞳は、もう僕では無くて聖骸布のハンカチを見つめている。
「みんな、嫌がるから」
そう言って、きゅっと唇を結んだ。
これ以上は何も言うまい、というよりも、これ以上は上手く言えないから口を閉じていよう。そう言っているような気がした。
たぶん、今までもコトリはそうしてきたのだろうと知れた。
迷いない手付きから。見付かったときの怯えようから。
ずっと一人で、自分より小さな生き物の埋葬をしてきたのだろう。
「猫や、鳥も?」
また驚いたようにこちらを見上げる。……そうやな。隠してたつもりのもんがバレてたら、吃驚するよな。僕は、思わずふっと笑った。
「……うん」
コトリが、ややあって頷く。
「ここで一番人気の、甘えたさんなのよっておくさんが言ってた三毛猫さん」
「……ああ、ミケか。さよか。ミケが逝ってもうたか」
野良猫の割に、人懐こくふわふわした毛をしている猫だった。
「前に見たとき、色んな人が撫でたり、声をかけてたのに。事故で、痛そうに死んでる三毛猫さんは、みんな避けて通ってた」
生きてるときは愛するのに、死んだらそっぽを向くから。だから。
自分が抱き上げて墓を作る。
彼女の理屈。
きっと、万人には理解されないだろう、されてこなかっただろう理屈だ。
コトリの秘密。
僕も正直、すべてをすとんと納得したり、理解したわけではない。
けれど。
「……そうかあ」
とだけ、僕は言った。
お前さんの言うことは、わかった。
ただそれだけの意味だ。
否定はしない。
ただそれだけの。
それでも、コトリは、目を微かに見開いて僕を見た。そこに怯えはなかった。
「けど、ミケの埋葬は大変やったろ。どこ埋めたん」
「……三宅さんが」
その日。自分のワンピースやタオルを使って猫を包み、抱き上げ、そのあたりをうろついていたコトリ。何処に埋めていいかもわからず、途方に暮れていたそうだ。そんなコトリに声をかけたのが、三宅さんだった。
三宅さんに事情を言えば、知り合いのお寺さんに連れて行かれたという。名前を聞けば、すぐそこのお寺さんだった。
「そこのお坊さんが、『うちの焼却炉で火葬したろ』ってお経読んで、火葬してくれて」
そして、お寺の敷地の隅に、埋葬場所をくれたという。
先日の鳥の雛は、その横にそのまま二人で埋葬したらしい。
「ちょうちょは、この庭に埋めたろか」
僕は、何気なくそう言った。
養い子の……この場合、趣味と言っていいのか、癖と言っていいのかよくわからないが、この行動を、僕はどう捉えるべきなのか、まだ考えは無い。
埋葬したろやなんて、面白いこと考える子やなあ、くらいの感想しか無い。
でも、人の顔を見て子どもが怯えているのは、何となく嫌だったから。
その提案をしたのだと思う。
それにきっと、一花ならそうした。
見える気さえした。庭に、二人並んでちょうちょのお墓を作る姿が。
怯えるコトリを抱き締めるだろう一花の姿が。
その情景が、まるで今、目の前にあるかのような錯覚を覚えたなら、僕が言う言葉なんて一つしかない。
「……いいの?」
「ま、それくらい小さいのんは、かまんやろ」
スコップ(※1)借りてくるわ、と僕は立ち上がった。
「あの!」
「うん?」
コトリは、顔を真っ赤にして言った。
「ありがとう、ございます」
僕は、どういう顔をしていいかわからず、少し首を傾けて、
「どういたしまして?」
と言った。何となく、自分の頬も熱い気がした。
あの怯え切った顔が、安心した顔になったのを見て、
「ええやん」
と一花が笑うのが、何故か脳裏に浮かんで消えた。
ふわ、と温かい風が頬を擽り、去って行った。
(※1)……関西では、土を掘る道具の小型の方をスコップという。
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