2 いたいのいたいのとんでいけ
2.
side.K
ここには、いろんな大人の人がいる。
洗いもののお手伝いをしながら、思った。
「そうだ。今度の日曜日に、マルさんが帰って来るよ」
今朝。朝ごはんを食べているときに、ももさんが言った。
父はまだ眠っていた。父は朝に弱くて、たいてい十時を過ぎるまでおふとんの中だ。
そのせいか、いつも私は家主さん家族の朝ごはんにお呼ばれしていた。このとき、跳ね上げ式めがねのサングラス部分は、上げることにしている。
「今回のご旅行は長引きましたね。もう新学期は始まってるというのに」
「仕方ないよ。何だったっけ。何か、病気にかかってたらしいから、治るまで出してもらえなかったんだろうさ」
私がきょとんとした顔をしていたのを見て、一朗さんが言った。
「マルさん……スカマルさんっていうのはね、このシェアハウスに住んでいる外国の人だよ」
「スカマルさん」
名前を繰り返す。
「スカマル・ブランさん。確か、アイルランド系だったかな? 近くの私立高校で国語や古典を教えてる人なんだ」
「……国語って、日本語?」
外国の人なのに……? と思いながら聞けば、一朗さんは可笑しそうに「そうなんだよ」と言った。
「でも、発音もきれいだし、知識も豊富だし、そこらの日本人よりも日本人だよ」
「一朗も、ずっと古典と漢文はマルさんに教わっていたものね」
「うん。すごく上手だよ」
お蔭で塾に行かなくても、国語系は常に学年一位だったよと一朗さんが笑った。
「だから、コトリちゃんもわからないところがあったら教えてもらうといいよ。とっても深く教えてくれるから」
「歴史にも精通しているから、そちらを聞いてもいいかも知れないね」
おこうこをぽりぽりかじりながら、ももさんが言った。
「そうだね。日本史も、世界史も詳しいよ」
「あとは、地理も詳しいね。流石、世界中を旅してるだけはある」
「地理だったら、閑谷さんも詳しいでしょう?」
おくさんの言葉に、ももさんは眉を寄せる。
「君ね。彼がどういう人間か知ってて言ってるのかい。まあ、いい人だけどさ。教えるのには向いてないよ」
第一、ほとんど帰って来ないし。とももさん。
「閑谷さんって言うのは、今は留守にしてるもう一人のシェアハウスの住人だよ。旅人さんで、一年のうちほとんど何処かに行ってるけど。親父の友だち」
「向こうがこっちを友だちって思ってるかは知らないけどね」
「またそういうことを言う……」
おくさんがため息を吐くが、ももさんはどこ吹く風で、おみおつけをすすっている(お味噌汁をおみおつけ、というのはここで知った。言い方が可愛いので、私もこちらを使うようにしている)。まるで先生や親に文句を言われた子どもみたいに、すーんと右耳から左耳に流している態度だ。
ももさんは、不思議な人だ。立派な大人なのに、私と同い年くらいの男の子みたいな顔をするし、同い年くらいの子みたいなことを言ったりする。今みたいに、聞きたくないことは、しれーっと聞き流す。
「そういうことだから、国語と社会はマルさんに聞くといいよ」
そして、私に話しかけるときも、同い年の友だちに話すような雰囲気で話しかけてくれる。
子どもや年下に向かって、というより、本当に同級生に話しかけるようなのだ。
だから、こちらも話しやすい。全然にこにこしている人じゃないのに。
「はい」
不思議な人だなあ、と思う。
「一朗、そろそろ行った方がいいんじゃない?」
「あ、ほんとだ。やっべ」
一朗さんが、慌てて席を立った。
「それじゃ、行ってきます!」
「いってらっしゃい」
一朗さんのお仕事は『
「『男衆』さんのお仕事は、大変なんですね」
「今は、をどりの時期だからね」
をどりの内容は、一朗さんから聞いた。芸妓さんや舞妓さんたちが勢ぞろいして踊りを披露する期間だと。「この説明じゃちょっとあれなんだけど、詳しく話すと長くなるし、またおいおいね」と、一朗さんは言っていた。
世界には、まだまだわからないことがいっぱいある。
わからないと言えば、一朗さんも不思議な人だと思う。今まで見たことのない大人、の一人だと思う。
大人は、仕事を大変だと言ってとても嫌がるものだと思っていた。そういう仕事に就くのが大人なのだとずっと思って来た。
子どもでいるのも辛いけど、大人になるのも辛いんだなと、それが生きるということなんだなあとずっと思っていたのだけれど。
一朗さんは、とても大変そうなのに、全然嫌そうじゃなかった。むしろ、楽しそうですらあった。自転車に乗ってさっそうと仕事へ行く姿は、まるでピクニックに行く人みたいだった。
不思議なひと。
「そうだ、コトリちゃん。抹茶味は好き?」
おくさんが、お皿の泡を洗い流しながら言った。
「好きです」
私は言う。抹茶やチョコレートみたいな、ほろ苦いものは好きだった。
ふふふ、とおくさんは悪戯っぽく笑う。
「あのね、昨日美味しい抹茶のチョコレートを頂いたの。あとで、二人でこっそり食べましょうね」
お手伝いのお礼よ、とおくさんは言った。私はどぎまぎしながら、頷く。おくさんの『こっそりおやつ』は、二日に一回ある。どれも美味しい。
いつも楽しそうに密やかに、その秘密のお茶会に誘われる。私はまだ慣れなくてどきどきしてしまう。
そういえば、おくさんも家事は大変そうだけれど、どこかこんな風に楽しそうにしていることが多い。
不思議だ。
ビィィー
「あら、宅配かしら」
呼び鈴が鳴った。おくさんが、小首を傾げる。
「コトリちゃん、ちょっと行ってくれる?」
「はい」
私は拭いていたお茶碗をそっと机に置き、玄関に出た。ぱちんとサングラス部分を下げて。
「はーい?」
玄関のすりガラスに、ぼんやりと影が映っている。荷物の影も。いくつもあるように見えるから、かなりたくさん荷物が送られて来たのだろうか。
私は下駄箱の上のハンコを持って、鍵を開けた。
「こんにち、は……」
ガラ、と玄関を開けると、そこには。
「コトリさん、ですか?」
にこにこ笑う男の人がいた。
鼻がすごく高くて……確か、そう、わし鼻という形。綺麗な茶色の瞳。白髪まじりの髪。……外国の人だ。
「は、はい……」
にこっ。
もともとにこにこの笑顔だったのに、更に笑顔が深くなった。そんなことってあるんだなあと思っていたら。
「はじめまして! わあ、かわいいおひとですね!」
ひょい、と抱きかかえられた。
「!?」
ふ、
「ふわぁぁあぁ!?」
思わず、変な、高い、ひょろひょろした声が出た。
*
side.C
朝に弱い僕は、目を覚ましてもたいてい布団の中でしばらくまどろんでいる。
台所から、水を流す音と、皿のぶつかるカチャカチャいう音が聞こえている。朝ごはんを食べ終えたのだろうなあとぼんやり思った。きっと、コトリは生成りのエプロン(奥さんのものをコトリ用に作り直したもの)を着て、せっせと手伝っているのだろう。
一朗さんの「いってきます」も、百さんが二階へ上がる足音も、夢うつつで聞いた気がするが、定かではない。
もうしばらくしたら、お手伝いを終えたコトリが部屋に戻ってきて、端に寄した机の上で、勉強を始めるだろう。そうしたら、僕はやっと起き出して、まずは朝の一服、それから珈琲でもいれにいくのだ。
いつもの朝。ずーっと前から、ここに来たときから続く僕の日常。
一花が、コトリに変わっただけ。一花の裁縫仕事が、コトリの勉強に変わっただけ。
そう思うと、妙に物悲しいと同時におかしな気持ちにもなった。
一花が居なくなったのに、僕の隣に人の気配が変わらず在りつづけることに関する不思議。
きっと、一花が生きていたらもう少し賑やかな感じに変わっていただろうことを思ったら、やはり悲しさや寂しさが大きくなった。
布団を頭からかぶる。
嫌やなあ。目を覚ましたら、相変わらず一花はいてへん。何て辛い現実やろう。
ビィィー
そんな僕の弱気な考えを打ち消すかのように、玄関からチャイムが聞こえた。
『はーい』
何故か、コトリの声と足音がする。奥さんに任されたのか。
まあ大体宅配か何かだろうから、コトリでも大丈夫だろう。
この家に来る配達員とは、コトリも何度か顔を合わせているはずだ。
気分も上がらないし、もうひと眠りして立て直すか、と寝返りを打ったときだった。
『ふわぁぁあぁ!?』
「!」
コトリのか細い悲鳴が聞こえ、思わずガバリと起き上がる。
コトリは物静かな子で、そうそう大きな声を出したりしない。それなのに。
何かを考えるより先に、立ち上がる。布団が足にからまりこけかけたが、ダンッと両手を畳について難を逃れた。手がビリビリと痺れたが構わず、布団を蹴飛ばして襖へ進む。それを乱暴に開け放つと、ちょうど奥さんも台所から飛び出してくるところだった。
僕は寝起きでくらくらする頭を何とかなだめて、廊下を進む。
ドタドタと上からも足音がした。……百さんだろう。
そうして三人が玄関に揃って。
「……マルさん、何してはるんです?」
「蝶さん、おくさん、百さん、ただいまかえりました!」
僕らは全員ぽかんとした。
玄関に立つその人は、にこにこと無邪気に微笑んでコトリを抱き上げていた。
予想通り、生成りのエプロンを身に着けたコトリ。
「ちょっと。週末じゃなかったんですか」
「ふふふ、おくれてきたApril foolです」
いつも通り、カタカナのところは発音が英語(まあ、当たり前だけども)のマルさんだ。
「はあ……頼むから、わけのわからないことはしないでほしいね」
百さんが、頭を押さえてため息を吐く。
「蝶さん」
「あ、ハイ?」
「こちらが、コトリさんですね? あなたの娘さんになった」
いや、娘というか……預かっているだけと言うか……何というか……と思いつつ、
「なんで知ってはるんです?」
とりあえず問うた。
「百さんから聞きました」
ちら、とコトリを見れば、カチンコチンに固まってしまっている。
(そらまあ、せやんなあ……)
知らん男に抱き上げられたら、そりゃぁ驚く。僕でも驚くだろうから、ちっちゃいコトリにしたら、ほとんど恐怖に近いのではなかろうか。
「あのう、そろそろ下ろしたってくれませんか」
「Oh、これは! Ladyに失礼をしました」
僕の言葉でコトリが固まっていることに気が付いたらしく、マルさんは苦笑してコトリに謝り、
「はい」
「え」
僕の方へ、抱き上げたままのコトリを差し出した。
コトリも、目を丸くしている。
これは……どうしろと?
固まったままの僕に、マルさんは小首を傾げつつ、更に僕の方へコトリを傾けた。
バランスを崩したコトリの両腕が、咄嗟に僕の肩に回され、僕も慌てて腕を差し出して、辛うじて抱っこの体をなす。
ずし、と腕にかかった重みに、僕は静かに驚いた。
(……こんなに子どもって重いんや)
けれど、僕の首に回された腕の細っこさやぶらつく棒のような足は、折れてしまいそうで、まるで重さと見合わない。
変な感じ。
「あの……」
コトリが恐縮したように身を縮めて僕を呼ぶ。
「あ、ああ、すまんな。ほれ」
僕は、ぎこちなくしゃがんで、コトリを解放した。
まあ、一緒に暮らしているとは言え、他人(しかも男)に抱っこされるのはあまり気分が良くないだろう。
申し訳ないことをした、と思ってコトリを見れば、特に不快そうな様子は無く、不思議そうな顔をしていた。
そんな僕らを、マルさんは興味深げに見つめていたけれど。
「……そうだ、蝶さん」
「はい?」
マルさんが少しだけ寂しそうに眉を下げて微笑んだ。
「あとで、一花さんのおぶつだんに、手をあわせても?」
一花さんに、おみやげがあって。
そう言ったマルさんに、僕はハッとして、それから、
「……お願いします」
頭を下げた。
空気が、しん、と重くなる。僕は慌てて笑顔を作り、
「まあ、仏壇言うても、カラーボックスなんですけどね。高いのはよぉ買わんし、場所もあらへんから」
あっけらかんと言ってみせた。
「色は、きいろ?」
マルさんが優しく問うた。
「もちろん」
「それは、すてきです」
一花さんに、きいろはよくおにあいでしたから。
マルさんの言葉に、僕はうなずいた。
「……とりあえず、中に入りなよ。その荷物、部屋に運ぶの手伝いましょうか?」
「百さん、よろしいのですか。おしごと中では?」
「別にいいよ。行きづまってたし」
百さんはコキコキと首を回すと、紙袋の一つを手に取った。
*
「……」
おりんも何も無い、骨壺と写真だけが置かれてあるカラーボックス。その前で手を合わせるマルさんを見ながら、僕は何というか、呆然とした気持ちになっていた。
写真の前には、マルさんが一花にと買ってくれていたヴェネチアングラスで出来たペンダント・トップが置かれていた。
『マルさん、マルさん! 私、お土産はヴェネチアングラスで出来た何か可愛らしいものがいい!』
マルさんが旅立つ前日、一花がそうねだったのだ。
居間で。晩ごはんのあと。何となく僕らも、マルさんもそこでしばらくのんびりテレビを見たりしていた。
『何やねん、それ』
『ペンダント・トップとか、ブローチとか。安くて小さなものでいいから、欲しいの』
きらきらしていて、綺麗なんでしょ? と無邪気に言う一花に「いいですよ」とマルさんは笑った。
『友人のおみまいに、ちょうどVeneziaもよろうと思っていたので』
『イタリアとドバイって、何か変な取り合わせの旅やなあ』
『いっぺんに用事をすませようとおもったら、この組みあわせになってしまったんですよね』
『ドバイかあ……石油はおみやげに出来ないから、やっぱりヴェネチアングラスで』
そう言った一花に、マルさんも僕も笑った。
……この人が旅行へ行く前には、一花は居たのだ。生きて、居たのだ。
旅行のお土産を手にすることを当たり前に信じて。
マルさんもそう信じてお土産を買ったのだろう。
何だか、一花の不在という奇妙さと哀しさがまたここでグッと僕の胸に迫って来た。
一人の人が旅に行っている間、たったそれだけの間で、こんなに大きく事が変わるだなんて。
やはり奇妙だと思う。
「……おわかれ、いえませんでしたね」
マルさんが、ぽつんと言った。
「そら、しゃーない。僕も言えへんかったもの」
僕は、自嘲気味に言う。
「いきなり電話かかって来て、それで、やったから」
「……」
病院に行ったら、病室ではないところに通された。あのときの衝撃が忘れられない。
「葬式は、なんや、ぼーっとしてる間に過ぎ去ってもたし……」
そこまで言って、僕は首を振った。
横に、ぽっかりと昏い闇が口を開き、僕を待っている気がした。
「しめっぽい話はやめやめ! 一花に怒られてまうわ!」
にっこり笑ってみせると、マルさんは何か言いたげな顔をしたものの、「そうですね」と静かに頷いてくれる。
「せや、何か旅の話したって下さい。……コトリ」
後ろにちょこんと控えていたコトリが、ハッと姿勢を正した。
部屋に居るのにサングラス部分は下がったまま。
そうやんな、まだマルさんは知らん人やもんな。いきなり抱き上げられた驚きもあるだろうし。
「マルさんは、色んなところ旅してはって、色んなおもろいことを知ってはる。色々と教えてもらい」
「……国語の先生だけど、社会も得意だって」
コトリが、おずおずと言った。
「何や、知っとったんか?」
「朝、百さんが教えてくれて」
「なるほど」
「ふふ、そうですよ」
にこっとマルさんが笑う。
「ちかくの高校で、きょうべんをとっています。国語も、古典も、大とくいです。いろいろな国へいったので、いろいろな文化や風習もおはなしできます。なんでも聞いてくださいね」
こくん、とコトリが頷いた。それを見て、何かを思い出したように「そういえば」とマルさんが言う。
「私、コトリさんにわたすものがあったのですよ」
「……コトリに?」
マルさんが、ごそごそとズボンのポケットを探り、何か包みを取り出した。それそのまま、
「はい、どうぞ」
コトリへ差し出す。コトリは、差し出された包みを、そぉっと受け取った。
「開けてみてくださいな」
クラフト紙の包装紙を、ピリピリとゆっくり、丁寧に剥がしていく。
「わあ……」
中から出て来たのは、真っ白な小鳥のブローチだった。
表面がつるつるした、よく磨かれた石で出来ている。ちょん、と開けられた穴で表現されたつぶらな瞳が、可愛らしかった。
「これは?」
「それは、Dubaiの市場で見つけたのです。ふしぎな店でした。ちいさな店で、石や貝でできたaccessoryや小物、きれいな布でつくられた鞄やstole……そういうかわいらしいものや、うつくしいものが、ところせましとぎっしりつまっているのです。さまざまな色にあふれていました。市場のすみっこにぽつんとあって……ゆめみたいな。ほんとうにあったのかと、店を出てからずっと……今もおもっています」
その夢みたいな店で、マルさんはこの小鳥のブローチと目が合ったという。
「これは買わねばならないと、おもいました」
「誰にあげるとも決めずに?」
マルさんは、ふ、と微笑んだ。
「そういうことが、旅だとよくあります。だれにあげるかわからずに買うもの。あげる人はきまっていても、なにをあげるかはきまらず、そのときになってわかるもの。……そういうことが」
「で、コトリがいることを聞いて、コトリにやろかってなったと」
「お名前を聞いたとき、私、なんてよいものを買いましたかととくいになりました」
「本当に、いいんですか?」
美しい小鳥と見つめ合っていたコトリが顔をあげ、不安そうにマルさんを見た。
「もちろん!」
マルさんが、にっこりと微笑んだ。
コトリはその笑顔を見つめ返すと、カシャンとサングラス部分を跳ね上げた。
「ありがとうございます」
それから、深々と礼をする。
いつ見ても、この子の礼は老人めいたものを感じる。
好々爺的なものや、どっしりとした自信や鷹揚さのようなものではない。
長く生きて倦んでしまった、あるいは、長く生きたことに対する罪悪感を持っている、そんな老人を彷彿とさせる気配だ。
「……」
コトリは、申し訳なさそうに身を竦めながらも、じっと小鳥のブローチを眺めていた。その瞳は、心なしか輝いているように見える。
せやんなあ、と思った。綺麗なものには心躍るものだ。
「つけたろか?」
「!」
僕が言うと、コトリはびっくりしたようにこちらを見た。
「……いいんですか?」
「ええよ。針、怖いやろ」
ブローチは、見るからにピンの部分が固そうだった。
貸し、と手を差しだせば、遠慮がちな手が、そっとブローチをそこへ載せる。
僕はまずブローチのピンを外し……案の定、少し固かった……、次にコトリのエプロンの胸元部分を摘まんだ。ちょうど左肩ひもと前身ごろが合わさるところ。
そこへピンを刺し、そっと留める。
白い小鳥は、コトリの胸元で可愛らしく羽ばたいていた。
「……よっしゃ、これでええ」
「ありがとう、ございます」
そっと小鳥の頭を撫でながら、コトリは小さく微笑んでお礼を言う。
ぺこんと頭を下げる様は、年相応に見えてちょっと安心した。
「おにあいですよ」
嬉しそうに、マルさんが言った。
コトリははにかみながら、視線を俯けた。
*
side.K
どうしよう、とても嬉しい。
ちら、と廊下に置かれた大きな鏡を見て、私はまた口元がゆるみそうになる。だからあわてて首を振って、あまり笑わないようにする。
でも、嬉しい。
鏡に映る私の胸元……エプロンには、可愛い小鳥が飛んでいる。
(きれいだなあ……)
マルさんははじめ、怖い人……というより、よくわからなくて怖いと感じてしまう人……だと思っていたけれど、父や百さんたちと話している様子を見て、本当に優しい人なのだとわかった。
たまにいる、にこにこ笑っているけれど、本当は怒っていたり、怖いことを考えていたりする人じゃなかった。
そのことに、私はとても安心した。
それに、私にこんなきれいなものをくれた。
旅先で何となく買ったものでも、とても嬉しい。
しかも、「買って良かった」と言って、私にくれたのだ。本当に、嬉しい。
私にあげることを、「良かった」と言ってくれたのが、とても、とても。
いちばん嬉しかったのは、父がこれを着けてくれたことだった。
『針、怖いやろ?』
そう言って。
ピンの針がこわいということをわかってくれる人がいて、まずびっくりした。
私は、これを自分の指や身体に刺してしまうのじゃないかといつもこわい思いをするのだけど、それをおかあさんに言ったらもちろん叱られた。
『そんなこと思ってる人なんて誰もいないよ』
不機嫌な声で言われた。
『なんでそんなもたもたすんの? もっとちゃっとつけられないの? 鈍くさいんだから』
おかあさんは、私がおそるおそるピンを外したり付けたりするのを見ると、心底嫌だという風によくそう言った。
『鈍くさいから、怪我するんでしょ』
いらいらした声で言われて、ピリピリする痛い視線で見られていると、いつも手が冷たくこおったみたいになって、上手く動かなくなる。だから余計にこわくなって、おそくなって、おかあさんの機嫌が悪くなる。
……安全ピンは、私にとっては強敵だった。
けれど父は、針がこわいということをわかってくれて、しかも、わざわざ着けてくれた。
すごい。すごいことだ。
私は、新しい世界に来たみたいに思った。
ここへ来てから、何度もそんな気持ちになるけれど、また。
(誰にも、わからないと思ったのに)
怒られもせず、さっとこわいことから私を逃がしてくれた。
すごいなあ、本当にすごい。
私は小鳥の頭を指先でなでた。つるつるとした感触が気持ち好かった。
すてきだな、と私の頬がまたゆるみそうになったとき。
『んー、ちょっとそれダサいよねー』
頭の中で、声がした。
ビャッと、冷たい手で首筋を触れられたような心地になる。
鏡の中に、ここにはいないはずのエマちゃんの姿が見えた。
……まぼろしだってわかっているのに、私は動けない。
『エプロンに付けるのは、ちょっとちがわない? というか、ちょっとそのブローチ、子どもっぽ過ぎない?』
エマちゃんが、にこにこ笑いながら言う。
『小鳥ちゃんはさ、もっと大人っぽいのをめざした方がいいよ!』
悪いことはひとつも言ってないのに、私のためを思って言ってくれているのはわかっているのに、
『そういうの、好きなのはわかるけど、でも私たちもう高学年だし、もっとキラキラして、女子って感じで、でもシュッとしたの選ばないと! せっかく女の子に生まれたんだから。お洒落しないと、ダメなんだよ?』
自分のひとつひとつが間違っていると言われているような気持ちになるのは、何故なんだろう。
エマちゃんの影の後ろから、もっと大きな影……おかあさんが現れる。
『エマちゃんの言う通りでしょ。アンタはダサいんだから。エマちゃんの言う通りにしなさい』
まぼろしだ。まぼろしなんだ。
そうわかっているけれど、でも、これは現実でもあった。
ちゃんと記憶にある。
言われたことのあるものたち。
『何へらへらしてんの。お世辞に浮かれてたら、はずかしいよ』
「!」
おかあさんが、私の頬が笑っているのを見て怒った
ひゅ、と息を飲む。
「コトリちゃーん?」
おくさんの声で、ハッと我に返った。
鏡には、私しか映っていない。……当たり前だ。
はー……と、詰めていた息を吐き出した。
「……いま、いきます!」
私は、鏡の中の私が笑っていないことを確認して安心する。
おかあさんは、私があまりに浮かれていると機嫌が悪くなった。
あまり、嬉しそうにしてはいけないのだ。
人はたぶん、私が嬉しそうだったり、楽しそうだったりすると、気持ちよく思わないのだ。
父も、おくさんも、マルさんも、ここにいる人はみんないい人たちだけど、だからといって甘えちゃいけないのだ。
ちゃんと、自分に言い聞かせる。
猫山さんは大丈夫と言っていたけれど、それでも他人なのだし、きちんとしないと、きっと私のことなんてすぐ嫌になってしまう。
猫山さんがせっかく見付けてくれたのに、そんなことになったらダメだ。
猫山さんは私の味方だと言ってくれたけれど、そんなことが続いたら、ぜったい私のことを嫌いになる。
油断するのは、甘えるのは、ダメ。
私は気を引きしめて、おくさんのいる台所に入って行った。
*
side.C
「そういえばハグ、しないんですか?」
「はあ!?」
マルさんの問いに、僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「蝶さん、しーっ、しーっ」
「……すんません」
時刻は夜の十一時。二階の、マルさんの部屋。
元屋形のここはもちろん、古い木造建築だから防音性は高くない。夜中の大声は「ご遠慮願います」なのだ。しかも今は、煙草を喫うために少し窓を開けているから余計だ。
口に手をやり、僕はちらと左右の壁を見た。両隣から「うるさい」という声は聞こえて来ない。ギリギリセーフだったのか、それとも気にならないくらい熟睡していらっしゃるのか。
「……で?」
僕は、新しい煙草に火を点けながら問う。
マルさんが、新しいお酒を自分のグラスに注いだ。「いりますか?」と問われ、僕は首を横へ振る。
美しい青のびいどろで出来たグラス。上が濃く、下へいくにつれ白くなる。夏を先取りしたような意匠。
「よいお酒が手にはいりましたから、いっしょにのみませんか?」と誘われ、今に至る。旅行中に手に入れたものかと思えば、日本酒だった。学校へ復帰したときに、快気祝いとして同僚からもらったのだそうだ。旅先でかかった病気は、僕らは聞いたことのない病気だったが、かなり『やばい』ものだったようで、それを知っていた同僚たちが半泣きでくれたという。
「で、とは?」
煙草を喫って、吐く。紫煙が、ぷかりと暢気に浮いた。
「ハグって、何やねんな」
百さんたちは下戸で、酒は呑まない。かくいう僕らもそんなに強いわけではないけど、酒は好きだ。だからこうして良いお酒が手に入ったとき、たまにお互いの部屋で少しお酒を呑む。
一花がいたときは、ここに一花もいた。
だから、二人だけで呑むのは意外と初めてだった。
その所為だろう。僕はさきほどから、一花が座っていたところをちらちら見てしまう。それに気付いているだろうに、マルさんは何も言わないでいてくれた。
「コトリさんです。ちっちゃい子は、おやごさんのハグをよろこぶでしょう?」
「いや、ちっちゃい子て……コトリ、もう小学五年やで? しかも、女の子やし」
それが? というようにマルさんは首を傾げる。
日本に来て長いマルさんだけれど、こういうところは外国人だなあと思う。
はぁーっと今度は大きく息を吐いた。
「嫌やろ、どう考えても。一応、育ての親っちゅーことになっとるけど、僕はあいつにとって他人や。会って間もないし。『お父ちゃん』って言われたこと無いし……いや、そりゃ仕方ないことやし、僕もそこまで育ての親として自覚してるわけやないし、ええんやけど……まあ、とかくそんな他人の男とハグとか、絶対嫌やろ」
そもそも血の繋がった男親でも嫌に違いない。
そう言えば、マルさんは、相変わらず首を傾げたまま。
「そうですかねぇ。百さんは、よくおひざに、みちこさんや、さやこさんをのせていましたよ?」
小学校のあいだは、おじょうさんたちも、よく百さんの背中にもたれかかったり、おんぶしてもらったりしていました。
そう言うマルさんに、僕は「うーん……」と唸った。
意外だ。
百さん、お子さんとかまったく興味無さそうなのに。
でも確かに、今でもお子さんたちは百さんを慕っているように見えるから、案外そういうことなのかも知れなかった。
「というか、そんな昔からマルさんここおるんやね?」
最古参と聞いたことはあるけれど。
「そうですね……長いこと、おいてもらってますねぇ」
マルさんが、懐かしそうに目を細める。
「でも、蝶さんもなかなか長いでしょう?」
「せやねぇ……」
ここの人たちが面白くて。一体どういう人たちなんやろう? 何を考えて、思ってはるんやろう? 次にどんな行動をとりはるんやろう? もっと知りたい。そんなことを思っていたら、ずるずるとここに居た。
一花には「本当にちぃちゃんは知りたがりやね」と笑われた。
笑いながらも、一花は付き合ってくれた。一花も、楽しいと思って……いたと、信じたい。
「みなさん、おもろいしな。マルさんも、そんなとこ?」
「そうですねぇ……まあ、私の話はいいです。コトリさんですよ」
「やから、さっきも言ったように、血も繋がっとらん他人の男に触られたいんかっちゅー話や。触られたないやろ」
血の繋がった親子やったら、まあ百さんとこみたいなのもいるかも知れないが。
「ていうか、マルさんのもアウトやからな、あれ」
マルさんに下心が無いことはわかっているが、それでもだ。
「めんぼくないです……」
しゅんとしょげるマルさんは、きちんと反省しているようだった。百さんのお子さんたちとも過ごして、きっと可愛がっていたのだろう。だから、つい出てしまった癖なのか。
このしょげぶりを見るに、これからは気を付けてくれるだろう。
「話をもどしますが……。もちろん、コトリさんが蝶さんにさわられたくないようなら、ぜったいダメです。私も、ぜったいそんなこと言いません。……でも」
マルさんは、ちょびっとお酒に口をつけた。
「コトリさんは、蝶さんにふれられるのをいやがっているようには、見えません」
「……」
僕は、煙草を口に宛がいつつ、思い返す。
「……そもそも、撫でたこととか無いしなあ?」
あのマルさんからコトリを受け取ったときが、まともに接触した初めてのときではなかったか。
「蝶さんがだっこしたとき、コトリさんはいやがっているようには見えませんでしたよ。Broochをつけたときも」
「……」
それは、確かにそうだった。
コトリは、ぽかんとはしていたが、そこに嫌悪の色は無かった。ブローチを付けたときは、嬉しそうでさえあった気がする。まあ、後者は単にブローチの功績だと思うけれど。
「ハグまではいかずとも、なでたり、お手てをつないだりするようなふれあいは、コトリさんにとってわるくないのではとおもいます。私が見たかぎりでは」
マルさんは、美しい青いびいどろグラスを手の中で揺らしながら、柔らかく笑ってそう言った。
「そういうふれあいは、相手にだいすきだと、ここにいていいのだと、つたえているようなものですから」
「……一花がいたら」
ふう、とまた紫煙を吐き出して言う。
「そうしたやろな」
「……」
視線が自然、一花の居た方へ向く。今度はマルさんも、つられるようにしてそちらを向いた。
一花が居れば、予定通り、彼女が彼女の望む通りにコトリの育ての母となっていれば。
『コトリはいい子だねぇ、本当にいい子だねぇ』
そう言って、うりうりと撫で、頬擦りをし、ぎゅうっと抱き締めてやったのではないか。
それこそマルさんの言う通り、大好きだよと、ここに居てもいいんだよと、全力で伝えるために、そうしたのではあるまいか。
一花のそうした姿がありありと浮かんで、僕の胸はぎゅうと詰まった。
もう、会えない。有り得たかもしれないその姿を見ることは、もう二度と無い。
胸が塞がる。溺れたように、息すらも上手く出来ない気がした。
「……っ」
僕は、たまらず煙草を灰皿に強く押し付け立ち上がる。
「すんません。酔いがまわったみたいですわ。今日は、ここでお開きいうことで」
「……はい。おやすみなさい。階だん、気をつけて」
マルさんの声は、小さな子にかけるように柔らかく優しかった。
*
「……風邪、ひくやん」
部屋に戻ると、先に寝ていたコトリが、布団の隅で(何故かこの子は布団の隅っこも隅っこで寝る)掛け布団もかけず丸まって眠っていた。
ぎゅっと寒そうに縮こまっているのに苦笑する。
いつのまにか掛け布団がずれてしまったのだろう。
僕は、そうっと近付いて布団をかけ直してやる。
「えらいしかめ面で寝よるなあ」
悪夢でも見ているのか、コトリは難しそうに眉をしかめて寝入っていた。
うなされはしていないから、もしかしたらこういう寝顔なのかも知れない。
「一花とは大違いや……」
一花は、いつも太平楽な寝顔でぐーすか眠り込んでいた。寝汚く、いくら起こしてもちっとも目を覚ましやしない。
けれど、平和な寝顔を見ることは、いつだって僕にとって倖せだった。
「あ、でも」
ふと思い出す。
そうだ、一花も。
初めの頃は、いつもしかめ面の寝顔だったと、思い出す。
『夢見すんごい悪いんよ、あたし』
付き合いたての頃、一花はいつもそう言って自嘲していなかったか。
その自嘲は、一体いつの頃から無くなったのだろう。
気付けば、一花は太平楽な寝顔を浮かべる女になっていた。
僕の隣で。僕を、倖せな気持ちにする寝顔に、一花は。
「……いちか」
マルさんの部屋で何とか堪えた涙は、もう堪えきれなかった。
見る見るうちに視界を滲ませ、目元を熱くする。
「いちか、いちか」
僕の隣で平和に眠るようになってくれた。僕が居たからそうなったと、自惚れていいのか。そう聞いたらきっと「自惚れ屋!」と笑ってくれただろう。その声はもう響かない。
気付いた事実がとても嬉しいのに、もう一つの事実がどうしようもなく、辛く哀しい。
「いちか」
ぼろぼろ、と涙が零れる。でも、この涙を拭ってくれる手も、指も無いのだ。笑いかけてくれる人は、もう何処にも。
「……どう、した、の?」
ハッと声のした方を見る。寝ぼけ眼のコトリがこちらを見ていた。
「……どこか、いたい、ですか?」
寝ぼけた声が、悲しそうに言う。
緩慢に伸ばされた手が、頬を伝う涙にそっと優しく触れた。
「いたい……いたいの、とんで、け……」
「!」
子どもの高めの体温が、ぺた、ぺた、と遠慮がちに僕の頬を撫でる。ふらふらと宙をさまよい、僕の痛みを逃がした手を思わず掴んだ。
弱々しく握り締めた僕の手を、コトリはそぅっと握り返す。
「ありがとう。……痛いの、どっか行ったで」
僕が言うと、
「よかったぁ……」
コトリは、あどけない笑みをふにゃりと浮かべた。
それは、交じり気の無い安堵の笑みだった。
またこみ上げそうになる涙の気配を何とか押しとどめながら僕は言った。
「うん。……ありがとうな」
それからもう片方の手をコトリの方へ伸ばして、一瞬躊躇ってから、指先だけで彼女の前髪を梳いた。
彼女の笑みは崩れることなく、少しくすぐったそうにくすくす笑った。眠たそうなその笑い声が、初めて聞いた彼女の笑い声だった。
「もう寝ぇ。大丈夫やさかい」
「はい……」
コトリは、目を瞑るやいなやすぐに眠りの世界へ戻って行った。すうすうという穏やかな寝息。
「ありがとうな……」
繋いだ手を額に押し当てて、僕は言った。
大切なことを思い出させてくれて。
笑いかけてくれて。
「ありがとう」
温かな手に涙が零れないよう気を付けながら、僕はしばらくそうしていた。
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