4.実母、襲来。巣立ち。

 4.


Side.C


「……大丈夫ですか?」

 机に突っ伏して死にかけている僕に、コトリが労わるように声をかけた。

「んあー……アカンわぁ……」

 ざあざあざあ。

 ひっきりなしに降る雨音が、僕の気分を憂鬱にする。むっとこもる湿気と熱が、より不快感を増長させた。

 梅雨。

 雨の日は、どうしても調子が悪くなりがちな僕からしたら、本当に最悪な季節。

 いや、この時期にぎょうさん雨降ってもらわな、お米を食べる身としては困るのだけれど。

 お米大好き日本人にとって、不作は大敵だ。

 そんな金持ってへん身としても。

 お米が高くなったら泣いてまうわ。ただでさえ小麦製品の値上げにひいひい泣いているのだから、これ以上の値上げはノーセンキューだ。

「あの、お水。たくさん飲まないとって、奥さんが」

「せやな……」

 コトリが差し出してくれたグラスを手に取り、くっと煽る。

「あれ、それ何?」

「あ……おこうこと、千枚漬けと、柴漬け……おくさんが、塩分もとらなきゃいけないから持って行ってって」

 いつのまにか机の上に置かれたお盆には、お漬物が乗った小皿が乗っていた。

 水差しもある。

「せやな……梅雨時は、無自覚の熱中症が怖いっちゅーもんな……」

 とりあえず、つまようじの刺さっていたおこうこから頂く。

 ぽりぽりとうさぎのように、ちまちま食べ進めていけば、あまっじょっぱい味が口の中に広がった。

 ……あ、気付けば僕、今日朝から何も食うてへんわ。食欲わかへんかったから仕方ないとは言え、良くないことだ。

「食べられる……?」

「ん。うまい。これなら食える」

 ぽりぽり。しょりしょり。

 お漬物を食べる僕を見て、コトリがほっと息を吐いた。

 ああ。心配させてもうたんか。

 悪いことをした。

「……すまんかったな」

 ぽん。

 コトリの頭に手を乗せれば、コトリははにかむ。

「ううん」

 僕も目を細めて、もう一、二度、ぽんぽんと撫でた。

「アカンな。梅雨は、アカンわあ。上手いこと動かれへん。毎度のことやけど」

「毎年?」

「せやね。子どもの頃は、こんなんちゃうかった気ぃすんねんけど。年やろか」

 またコトリがお水をグラスに注いでくれたので、それを一口飲んでから。

「コトリは? 梅雨はどない? 気分が憂鬱になったりとかせーへんか?」

「平気」

 そう言って、コトリはそっと眼鏡のつるに触れた。

 跳ね上げ式眼鏡のサングラス部分は上げられている。

「雨が降ってると、あんまり眩しくないから」

「それも、そうやなあ」

 なるほど、確かにそうだ。

 鋭い光の無い世界は、コトリにとっては柔らかく、優しいものなのかも知れない。

「ほな、梅雨の間は、コトリに助けてもらおうかなあ」

 僕の言葉に、コトリは嬉しそうに、

「はい」

 と言った。


 *


Side.K


「そう。やっぱりお漬物なら食べられたのね」

「はい」

 おくさんは、良かったわ、と微笑んだ。

「梅雨には一花さんがよくお漬物をたくさん買ってきたり、冷汁やひや茶づけをひんぱんに作っていたから。それを思い出したのだけど」

「あの……冷汁や冷茶づけは、簡単に作れますか?」

 父は、梅雨入りしてからずっと食欲がない。

 だから、少しでも食べられるものを作れるようになりたいと思った。

「ええ。……そうだ。今日の晩ごはんは冷汁にしましょうか。たくさん作れば、残りは冷凍していつでも食べられるし」

「はい!」

「蝶さんも大変だねぇ」

 写真から顔を上げて、三宅さんが言った。

 三宅さんは、今日は朝からうちで写真の整理をしている。自宅よりもはかどるらしい。

「百さんも、大丈夫? 調子悪くなってない?」

「まだ平気だよ。私は、どちらかというとこれから先の季節だね。今も暑いけど、どうせ今年も、これから更に暑くなるだろうからね」

 新聞のページをめくりながら、ももさんが「やれやれ」とため息を吐いた。

「ももさんも、夏が苦手なんですか?」

 私がくと、「一番苦手だね」と眉を盛大にしかめて言う。

「君の場合は、光かも知れないけど。私は、あのむっとこもるような暑さがどうにも。……まったく、夏が来るたび、京都に住んでいることを後悔するよ」

「百さんは、毎年、熱中症一歩手前までは確実にいくからねぇ」

「一度なると、あれは癖になるんだよ。一度、ひどいのになってしまってから、癖になってるんだ」

「本当、毎年困りますね」

 奥さんがため息を吐いた。

「お前、そうは言うけれど、私が一番、弱っているんだよ。毎度毎度、気を付けているのに、気付けば具合が悪くなるんだからね」

 私は、夏の京都は初めてだからドキドキする。

 気を付けないと。

 迷惑をかけないように、というのもあるけれど、父が倒れたりしないように、というのもある。

 もしかしたら、父は梅雨が明けたら大丈夫なのかも知れないけど。

「あ、ねえ。梅雨が明けたら、川床ゆか行こうよ。行ったことある? 川床」

「ゆか……?」

 私が首を傾げると、三宅さんが嬉々として説明してくれた。

「お料理屋さんが、納涼のために川の上や川の良く見えるところに作った、期間限定の座敷のこと。本当は五月からやってるんだけどね」

「お外……」

「大丈夫。川床の昼営業は、五月と九月だけで、他はぜんぶ夕方から夜だよ」

 ももさんが、新聞をたたみつつ言った。

「そうそう。だから、コトリちゃんも楽しめるよ。あ、スイーツのお店もあるんだよ」

 俺のおススメはねー、と三宅さんがいろいろ教えてくれる。鮎の塩焼きの美味しさとか。意外と素朴な煮物が一番おいしかったお店とか。そこで聞く川のせせらぎや、水の匂い、いつもと違ってみえる京都のまちあかりについて。

「いいなあ……」

「いいんだよ。だから、行こうね」

 蝶さんから許可もぎとっとくし、と言って三宅さんが笑った。

「若者には、どんどん京都の魅力を伝えてファンにしないとね」

「あれ、祇園祭は? 夜も楽しめると言うか、寧ろ本番じゃないか」

「もちろん、お誘いするつもりだけど、やっぱり激混みだから、いろいろ策を練らないとと思って。混雑ばっかで嫌だったなって記憶になったらもったいないし」

 良い思い出になるようにしたいじゃん!

 三宅さんが、力説する。

「夏の京都は……いや、京都はいつでも魅力的だけど……面白いから、いろいろ紹介するね」

「死ぬほど暑いけどね」

「百さん、水差さないでよ。確かに死ぬほど暑いけど」

「そうだ。コトリちゃん。日傘、買いましょうか。夕方でもまだ日射しはあるし、暑いだろうから。あるに越したことは無いでしょう?」

 奥さんが言った。

「可愛い日傘があれば、少しは夏を乗り切る助けになると思うの」

「日傘とサングラスの両方で防げば、一段と安心だろうしね」

 ももさんもうなずく。

「ね、今度一緒に買いに行きましょう」

 奥さんがにっこり笑った。

「とても可愛い傘ばかり売っている店があるの。日傘も売っていて、どれもとても可愛いのよ」

「……行ってみたい、です」

 日傘は、確かに憧れだった。

 いつでも自分で日陰を作れるなんて、すてきだなと思っていた。まちで見かけるお姉さんたちがしている日傘は、レースだったり、模様があったり、様々で、興味深かった。

「じゃあ、決まりね」

「今年は、男も日傘を持つのを推奨されてるらしいよ、百さん」

「……男用の日傘が売り出されれば、考えんこともないかな。暑いもの」

「何かね、あるみたいだよ」

 夏の話。

 今までは、夏が大嫌いだった。

 暑くて、陽射しは痛いくらいで、日焼け止めをしていても火傷したみたいになることもあった。

『子どもは夏に外で遊ぶものでしょうが。どうしてそんなに弱っちいの? 外で遊ばないからそうなるのよ。外で遊んで、少しは強くなりなさい』

『夏ってやっぱり一番楽しいよね。夏が嫌いなひとなんていなくない? あんなに明るい季節を嫌いなんて、おかしいよね』

 周りはみんな、夏が好きだった。夏が好きなことは当たり前のことだった。

 夏におすすめされる遊びはたいてい外遊びばかりで、私の身体には、とても辛い。例え、何処かに買い物に出かけるにしても、人混みや冷房で私は気分が悪くなってしまう。

 そんな弱い私は、ダメで、いけないのだと何度も言われた。

 慣れろ、と。

 けれど。

「俺、夏は夜が好きだな。そりゃ夜も暑いけど、まだ昼間よりマシだし。場所によっちゃ、夜はほどほどに空いていたりするから」

「そんなこと、枕草子でも言ってたね」

「そうだ、蛍! 蛍も見に行こうよ。今、見ごろなんだ。次、晴れた夜にでも」

 私も楽しめるかも知れないことが、探せば、実はあって。

 どうしたらもっと過ごしやすいかを、教えてくれる人がいて。

「蝶さんも……あ、慶之助さんや、三浦さんも誘えたら誘って、行きたいな」

 私は生まれて初めて今、

「ね、行こうよ、コトリちゃん」

 夏が楽しみだと、思っている。

「……はい!」


 *


Side.C


 ざああああああ

 今日も、朝から雨が降っている。

「あー……」

 いい加減起きなければ、と布団から何とか這い出した。のそのそと布団をしまい、部屋を出て、洗面所に向かう。そのあいだにも、掃除機をかける音がしたり、何かをしまったりする音が聞こえていて、今日は特別な来客でもあるのだろうかと首を傾げた(三宅さんは来客にはいれない。あのひとは、もう半分くらいこの家の人だと思う)。

「おはようございます~」

「おはようって、もうすぐお昼よ。蝶さん」

 居間で机を拭いていた奥さんが、呆れ顔で言う。

「どないしはったん。えらい掃除して」

「……今日は猫山さんが来るって、前にコトリちゃんが言ってたでしょう」

「……あー」

 忘れてた。

「まったく。いつもと違って、ここで私たちも交えてお話するということだから、綺麗にしとかないと」

 そうだ、確かそんな話だった。お宅訪問的な。

 けど、僕があまりに調子が悪いから、百さんと奥さんが代わりにやってくれるという話になったのだ。

「別にそんな綺麗にして出迎えんでもええんとちゃいます? あの女……」

 得体の知れないあの女を、そんな丁重に出迎えなくてもいい気がする。

「そうもいきませんよ。コトリちゃんを預かっているお家として、ちゃんとしたところなんだって思ってもらいたいじゃないの」

 ほらほら、蝶さんもちゃんとした服に着替えて。もしかしたら呼ばれるかも知れないんだから、と自室に追い立てられた。

 仕方なしに、そんなに見苦しくも無く、かつ着ていて鬱陶しくも無い、新しめのTシャツに、先週下ろしたばかりの綿パンへと着替えた。

 街中に繰り出せと言われたら、少々だらしない格好に見えるが、家の中やご近所だったら、まあ普通程度に見られる服だ。

 着替えてから、はたと気が付く。

「コトリは?」

 居間に戻って尋ねた。

 台所で作業しているのかとも思ったが、先ほど奥さんに挨拶しても顔を見せなかった。出かけているのだろうか。

「買い物に行ったわよ。蝶さんお気に入りのお漬物が切れていたから」

「……まあ、雨やし、大丈夫か」

「行きつけの、いつものお店だしね。美味しいから、猫山さんにも出してあげたいって言ってたわ」

「いや、優しすぎひん? みんなあの女に優しすぎひん?」

「そう邪険に扱わなくてもいいじゃないの。確かに得体の知れなさはあるけど、いい人だってコトリちゃんも言ってるんだし」

 奥さんも得体の知れへんって言うてもうてるやん。

「そろそろ帰って来るころだと思うんだけど」

 奥さんが言ったとき。

 ガラガラガラ……

 玄関の開く音がした。

「ほら、お帰りなすったわ」

「コトリ、おかえりー」

 何買うて来たん?

 と聞きながら玄関へ出たけれど。

「……え」

 そこに居たのは、コトリだけじゃなかった。

「あなたは、この家のひとですか」

 やたら険のある目付きの女と、

「……どうも」

 コトリを庇うようにして立っている猫山。

「コトリ?」

「あ……」

 猫山の後ろで、コトリが迷子の子どものような顔をして立っていた。

 ぎゅっと自分の服の胸もとを握り締めて。真っ青な顔をして、びしょ濡れで立っていた。

「お前、濡れとるやないか! どないしたんや、傘は……」

 慌てて飛び出そうとしたら、件の女に腕を掴まれた。

「答えて下さいます?」

「!?」

 僕が目を白黒させていると、猫山が言った。

「この方が……コトリちゃんの『お母さん』です」

 皮肉気に歪んだ笑顔で。


 *


Side.K


 ざああああ バタバタバタバタ

 頭上で鳴る、雨の音。この商店街には屋根がある。だから、商店街の中にいる間は安全だった。

「そうなの。蝶さん、今年も調子悪いんだねぇ」

「でも、ここのお漬物ならたくさん食べてくれるから……」

「コトリちゃんは優しいねえ」

 漬物屋のおばちゃんこそ優しい顔で笑って、次々お漬物を袋に詰めていく。

「えらい子にはご褒美だ。コトリちゃんは、お漬物は何が好き?」

「えっと、おこうこ……」

「じゃあおこうこ、おまけにたくさん入れとこうね」

 おばちゃんは、ためらいなく山盛りのおこうこを詰めてくれた。

「あ……ありがとうございます」

 私は、慌ててぺこりと頭を下げた。嬉しい。

「いいよいいよ。蝶さん、早く調子が良くなるといいね」

 おばちゃんからお漬物を受け取って、お金を渡す。ちょうどあったのも、嬉しい。

 幸先がいい、というやつかも知れない。

「あら、コトリちゃん。おつかい? えらいねぇ」

「こんにちはっ」

 商店街を歩くと、『かおなじみ』になったお店の人が声をかけてくれる。

「おいでおいで。これ、おまけにあげる」

 煎餅屋のお姉さんが、お煎餅をくれた。お豆さんのたくさん入った、ベビーカステラの色をした甘いお煎餅。

「でも……」

「いいのいいの。それ欠けちゃってるし。食べちゃって」

「ありがとうございます」

 少しお行儀は悪いけど、お煎餅をぽりぽり食べながら商店街を歩いた。

 商店街は、いつも人が多くて賑わっている。

 ちょっと前まで、こういう人がごちゃごちゃしているところは苦手だったけれど(今も、得意ではないけれど)ここは何だか好きだなと思う。

 美味しいお煎餅をぜんぶ食べてしまってから、傘を差して商店街の外へ出た。


 ざあああああ……バタバタバタバタ


 雨音がひっきりなしに響いている。

 商店街の中に漂っていた食べ物の匂いより、ぐんと雨の匂いが濃くなった。

 早く帰ろう。

 左腕の重みを確認して、頬が緩んだ。

 父は、お漬物を喜んでくれるだろうか。

 今日来る猫山さんにも出そう。私の好きなおこうこ。美味しいと思ってくれたら、いいのだけれど。

 ぴちぴちちゃぷんと足元から水音が鳴る。

(あの歌は確か……)

 心の中で、好きな童謡を歌う。

 あのリズムで、ちょっとだけ跳ねるように歩いた。

(あめふりって言うんだっけ?)

 オレンジ色の長靴は、マルさんからのプレゼント。

『蝶さんはあかいろで、一花さんはきいろ……そんな風に、一花さんが言っていたので』

 二人の色を合わせてオレンジ色の長靴を買ったとマルさんは言った。

 私は、その言葉が嬉しくて仕方なかった。

 あの人……『母』に、もう一度会いたいなあと思った。

『じゃ、これからコトリちゃんのお母ちゃんになれるようがんばるから、よろしくね』

 そう言って、太陽みたいに笑っていたあの人。一度だけしか会えなかったことが、悔しい。

 あの人と父が並んでいるところを一度でいいから見たかった。

 三人で一緒に、商店街に行ったりしたかったな。

(でも)

 この夏は、他の人たちとも一緒におでかけする約束がある。

 ぜんぶ夕方からのお楽しみ。

『夏の夜は、ある意味で冬より長い気がする。長いというより、濃いっていうのかな』

 三宅さんがそう言っていたことを思い出す。

 私もそう思えたら、嬉しい。

 生まれて初めて、楽しみな夏。

(楽しみだなあ……)

 そんなことを考えながら、差しかかった信号待ちの交差点で、ちょいと傘をかたむけて空を見上げた。

 と。

「……何をそんな浮かれてるの?」

 横の道から、声をかけられた。

「──……」

 ざああああああああああああ。

 雨音が、遠くに感じる。車の音も。

 すう、と頭から、背中から、温度が消えていくような。

 私は、声のした方を見た。

 そんなはず、ない。

 だって、海外にいるはずで。

 『お荷物』の私を置いて、海外にいるはずなのに。

「こんな時間に、何をしてるの? 学校は?」

 ざあああああああああああ。

 雨のヴェールの向こう。

 とてもするどい目付きで。冷え冷えとした声をして。

 おかあさんが、立っていた。

「おか……さ……」

 全身から、力が抜ける。

 辛うじてお漬物の入った袋はぎゅっと握り締められたけれど、傘はするりと私の手から逃げて行った。

 ざあああああああああああ。

 雨粒が、たくさん、当たる。

「ねえ、何してるの? どうして学校に行ってないの?」

 どうして。

 どうして、どうして、どうして。

 私の唇は震えるばかりで、開くことが出来ない。

 咽喉が、きゅぅと小さく縮んで声が出ない。

「……それに、何なのその眼鏡は?」

 サングラス部分を跳ね上げた眼鏡を見て、おかあさんは心底嫌そうにため息を吐いた。

「何、同情ひいて今の家の人に買ってもらったの?」

 同情じゃなくて。父は、ただ私が不便そうにしているのを見かねて。だから。

 何も言えない。何も言えない。

 だって言ったところで、どうせ否定される。

「何とか言ったらどうなの? 何で黙ってるの?」

 はあ、と大きなため息。びくっと肩が勝手に震えた。

「本当に、」

 ダメな子、と母の口が動くのを見る前に、


 ザッ


 私の前に人が立った。当たっていた雨粒が消える。

「……何してるッスか?」

 目の前に立った人を見上げる。猫山さんだった。

 腕を軽く広げて、私を庇うようにして立っている。

「ねこやま、さ……」

「こんにちは、コトリちゃん」

 顔だけ振り返って、猫山さんはニィッと笑った。

「風邪、ひくッスよ」

 それから、またおかあさんの方へ向き直る。

「で、何してるッスか?」

 猫山さんの声から、いきなり温度がなくなる。

「コトリちゃんとの面会は、まだ先ッスよね。何勝手に会いに来てるッスか? 先にこちらに声をかけて頂かないと」

「何してるは、こっちの科白よ。一体どんな家に小鳥を預けたの? 偶然その子を見かけた人から聞いて、慌てて帰って来てみれば」

 おかあさんの話を遮るように、ハーッと猫山さんがわざとらしくおおげさなため息を吐いた。

「そういうことッスか。やれ、面倒くさいッスね」

「っ! あなたね……っ」

 おかあさんが何か言おうとするのを、スッと上げた手で止める。

「これから、コトリちゃんが今暮らしているお家に訪問するところッスから、良ければどうぞ。詳しい話はそちらでしましょう」

 猫山さんは、私に傘を一度預けてから、落ちた私の傘を拾い上げた。

「あちゃあ、中にもけっこう雨入っちゃってるッスね。逆に濡れちゃいそうッスから、家まで私と相合傘しましょ」

 そう言って傘をたたんで、私の手を取る。

「じゃ、行きましょっか」

 おかあさんの意見は聞かず、歩き出す。

 不安げに見上げる私に、声を低めて猫山さんは言った。

「大丈夫ッス。……私が絶対、守ってみせるッスから」

 私は、自分がどうするべきなのかさっぱりわからないまま、こくんと何とかうなずいた。


 *


Side.C


 居間。

 濡れ鼠だったコトリは、奥さんに風呂場へ連れて行かれた。あのままでは風邪をひいてしまう。

 だから今ここに、コトリは居ない。

 コトリの母親と、猫山と、僕と百さんがいる。

 コトリの母親は、口を開かなかった。

(似とると言えば似とるけど……)

 似てないと言えば、似てないな。

 つり目の、気の強そうな女性。見た目は僕の少し上……三十代後半くらいか。身に着けているのは、ごく一般的なダークグレーのパンツスーツだが、パッと華やかな雰囲気がある。

 遊んでいるという意味ではなく、バリバリに仕事をこなす出来る女としての華やかさとでも言うのだろうか。

 ただ険のある目付きでそれも台無しになっているように思われた。

 とにかくコトリの、良く言えば優しく柔らかな、悪く言えば頼り無げで影の薄い様子とは正反対の人だ。

「すみません。遅くなりましたが、お茶です」

 コトリを風呂場へ連れて行ってそのまま台所で用意して来たのだろう。人数分のお茶をお盆に載せて、奥さんがやって来た。

「……小鳥は」

「はい。お風呂に入ってもらってます。あったかいシャワーで、身体を温めてから来るように言ったのでもう少しかかるかと」

「すみません。娘がご迷惑をおかけして」

「いえいえ。夏風邪はひくと辛いですから」

 小鳥の母親は、その会話をきっかけに、じろりと僕らを見回すと、ため息を吐いた。

「……娘は、学校へ行っていないのですか」

 そりゃ行っていない。何しろ、彼女の希望優先度第一位が、『無理に学校へ行かせないこと』だったのだから。

 しかし、この母親の様子を見るに、それは聞かされていなかったらしい。

 何と言ったらよいものか、と奥さんと百さんを見るが、二人も同じく迷っているようで、結局三人の間に戸惑いの視線が交わされただけだった。

 そんな僕らとは対照的に、

「ええ。行ってないッスよ。それが、コトリちゃんの『本当の望み』ッスから。私の方からもこの人たちにお願いして、行かなくて済むようにしてもらってるッス」

 何の躊躇いも無く猫山は言う。

「! あなたね!」

 バンッと母親が机を叩いた。

 湯呑が、震える。

「何を考えてるの!? あんな年で不登校になって、ただでさえ精神的にも肉体的にも弱いのに、より弱くなってしまうのがわからないの!? 私が頼んだのは、『ちゃんとした教育環境を与えられる人材』だったはずでしょう!?」

「ええ。だから、『ちゃんとした教育環境を与えられる人材』のところにコトリちゃんをお連れしたんスよ?」

 怒鳴られても、猫山はどこ吹く風。悠々と茶を啜って、「あ、奥さん。このお茶美味しいッスね。どこのッスか?」などと言っている。

「ふざけないで!」

「いや、ふざけてないッスけど?」

 猫山は、冷たい眼で母親を見た。

「私、まず言ったッスよね? 『うちの会社の第一のお客様は、お子さんです』って。なら、お子さんの望みが優先順位第一位になるに決まってるじゃないッスか」

「この……っ」

「その上で、ちゃーんとコトリちゃんに『良い教育』を与えられる人たちを、あなたの遠縁の中から選んで、こうしてお連れしたんッスよ。ここでコトリちゃんは、文系科目をぜんぶ教えてもらえますし、何となれば学校より深い知識を得られる。理系科目も、ここらじゃ有名な、頭の良いお人のお家で学んでるッス。このあいだコトリちゃん、『算数と理科が好きになって来た』って嬉しそうに言ってたッス」

 学校ばかりが教育じゃないんスよ?

 猫山が、ふんと鼻で笑って言った。

「あなた方はそれでいいと思っているんですか!?」

 母親の矛先がこちらへ向く。何と答えたらいいものか、とまごついていたら。

「……一般的に見れば、まあ良くないんだろうね」

 何でもない風に百さんが言った。

「でも、あの子の性質上、どう見たって学校教育が合っているようには見えないのもまた事実だしね」

 さらっとした、「そりゃ洗濯物は外で干す方がいいだろうけど、明日も天気は雨だし中で干すしかないよね」くらいの物言いだった。

「それを鍛えなきゃいけないのが大人の」

「鍛える前にぽしゃったら意味がないと思うのだけど」

 百さんが、不思議そうに首を傾げる。

 心底きょとんとした様子に、相手を馬鹿にする気配は無い。無いのだが、それは付き合いが長いからわかることであって、初対面の人間からしたら大体馬鹿にしているように捉えられる。

「この……っ、馬鹿にして……っ」

 案の定、母親は頬を引き攣らせて怒りのボルテージを上げている。

 見知らぬおっさんに馬鹿にされたとなったら、そりゃ怒るだろう。

 そして困ったことに百さんは何故相手が怒り出すのかよくわかっていない。

「……?」

 不思議に思ったことをそのまま口に出しただけなのに、どうしてそんなに怒るのだろう? と言いたげに眉を顰める。……この人のこういう子どもっぽい正直さはいいところでもあり、慣れぬ人相手には悪いところでもある。

(まあ、物書きって人種はたいていこんな人らばっかりですけどねー)

 自分も含め。

 と僕が傍観していると。

「あなた、あなたね! こんないい加減な人たちに娘を預けたの!」

 あ、これは勘違いされているな、と思ったが、この勘違いの方がまだマシだろうと思い黙っていた。

 しかし。

「ああ、私じゃないよ」

 百さんが首を振る。

「コトリちゃんの育ての親は、彼だよ」

 そして、手のひらで僕を示した。

「……」

 百さん。出来れば空気を読んで欲しかった。……いや、百さんの場合は、読んでいたとしても「知らんがな」と本当のことを言う。決して場を荒らしたいとかそういうつもりではない。ひたすらに「嘘を吐くのが下手だから、まあ吐かないでおこう」と思っているだけなのだ。

 母親が、僕を見て目を剥く。

「こんな、いい加減そうな若い人が?」

 うん、いい加減なところは否定できないけれど。

「……もう三十三、今年四になるんで、そんなに変わりない思いますけど」

「失礼ですが、ご職業は?」

「はあ。童話作家です」

 作家……と言って、訝しげに僕を見た。

「僕、というより、この春に亡くなった僕の妻が、コトリちゃんを引き取る予定だったんです。でも妻が亡くなったさかい、代わりに僕が今面倒見させてもろてます」

「この蝶之助さんの奥さんの一花さんが、コトリちゃんの遠縁、つまり不知火さんの遠縁になるってことッスね」

 不知火さんの父方のひいおじいさんの妹さんの娘さんが嫁いだ先が一花さんのご実家ッス。

 と猫山は流れるように言った。

 ……よくわからないが、それはほとんど他人ではないかとこの場にいる全員が思ったに違いなかった。

「……ということは、別にあなたが引き取りたくてあの子を引き取ったわけじゃないのね?」

 母親に問われ、僕は、ぐっと黙る。確かに、それはある意味で事実だったからだ。

「それなら、なおのこと、こんな人に任せておけません。あなただって嫌でしょう。あんな手のかかる厄介な子は」

「! ちょお待って下さい。コトリは厄介な子なんかじゃ」

「あ……」

 そのとき。部屋にコトリが入って来た。

 急いでシャワーを浴びて、慌てて髪を乾かしたのだろう。まだ髪に水気がだいぶん残っている。

「まあ、コトリちゃん。そんな濡れて……」

「小鳥!」

「っ」

 奥さんがコトリを心配して立ち上がるより先に、母親が鋭い声を上げた。びくっとコトリが震える。眼には、隠しきれないほどの怯えた色。「コトリ」と僕も彼女を呼んで手を伸ばすが、コトリはこちらを見ずに、母親を凝視している。

「何でそんなトロくさいの! さっさと上がって来なさい! 他人様の家のお風呂なのに!」

「ご……ごめんなさい……」

「まあまあ、そんなことはいいんですよ。それよりコトリちゃん、ちゃんと乾かしていらっしゃいな。そんな急がなくても大丈夫だから」

「いいえ、結構です。……小鳥」

 自分の荷物をまとめて来なさい。

 母親の言葉に、僕とコトリが、

「え?」

 と同時に声を上げた。

「ここにあんたがいたらご迷惑だから、連れて帰ります。そういう話になったから」

「ちょ、ちょお待てや! そんな話、してへんやろ!」

 僕を見て、母親は何故か心外そうな顔になる。

「亡くなった奥さんが話を進めていたのであって、あなたではないのでしょう? なら、先ほども言った通りご厄介をおかけしまして、本当に申し訳ありませんでした。小鳥は今日連れて帰ります」

 話が通じへん。ぞっとした。

 何より、小鳥が現れた瞬間に、何故この人はこうも勝ち誇ったかのようにふるまうのか。

「小鳥、何ボサッとしてるの! 早くしなさい!」

「わた、私……ごめんなさい……迷惑を……」

 蒼い顔のコトリに、僕は慌てて首を横へ振る。

「ちゃう、ちゃうでコトリ」

「わかってたことでしょう、何べんも言わせないで、さっさと用意してきて!」

 僕を遮って、母親は強くコトリを叱りつけた。

 勝手に決めつけんなや。

 いい加減、腹が立って口を開こうとしたが。

「……スカマル・ブランさん」

 猫山が廊下に向けて、静かにそう声をかけたことで、それは叶わなかった。

「そこにいらっしゃるッスね?」

「……よくお気づきで」

 廊下から、ひょっこりとマルさんが現れた。どうやら、ずっと聞き耳を立てていたらしい。

 ……そうか。マルさんは、今日休みか。確か創立記念日だったか。

「申し訳ないんスけど、コトリちゃんをちょっとの間、ブランさんの部屋で預かってくれないッスかね? くわしくはあとでお話しますんで」

 マルさんは、ふむ、と頷くとにっこり笑って、

「あいわかりました。……コトリさん」

 私のおへやで、おはなししましょう。

 そう言って、マルさんはコトリの小さな手をそっと取って、この場から連れ出した。ちらと僕を見たので、僕は、お願いしますの意味をこめて微かに頭を下げた。

「ちょ、ちょっと……!」

「今からする話は、コトリちゃんに聞かれたくないだろうと思ったから、出てもらったんスよ?」

 追おうとする母親を制して、猫山は言う。

「……あんた、コトリちゃんを虐待していた疑惑がかかってるの、知らないんスか?」

「!」

 ぎくっと母親の動きが止まった。

「前に住んでいたアパートの住人に聞き取り調査を行ったら、上下左右、どの住人さんも『コトリちゃんの泣き声をよく聞いた。虐待を少し疑った』とか『閉めだされて泣いているコトリちゃんを何度か目撃したことがある』とか『手を上げてるのを何度か見た』とか、みーんな言ってるんスよね」

 猫山が、ニイィ、と笑みを深める。

「そうそう、聞こえて来る言葉もなかなか酷いって話でしたねぇ。コトリちゃんを否定するようなことしか言わないとか」

「何が言いたいの」

「このままコトリちゃんを連れて帰ったら、しかるべきところに訴えようかなあと」

 ぶるぶると母親が震えた。怒りと恥ずかしさで顔が真っ赤になっている。

「あんた……あんた……何を勝手に」

「勝手に? ご冗談を。ちゃーんとコトリちゃんには許可をもらってるッスよ。顧客のことを調べるのは、当社のモットーッスから。より安全に、よりお子さんに合ったご家庭を提供するために、ね」

「何言って、客は私……っ」

 はあ、と猫山がわざとらしくため息を吐いた。

「何度言ったらわかるッスか。最初から言ってるッスよね。『当社のお客様はお子さん』だって。あんたは金を出してるだけ。そこんとこ、間違ってもらっちゃ困るッス」

「金を受け取っておきながら!」

「いいッスか? あんたが払った金は、ある意味で口止め料ッス。あんたがコトリちゃんにやって来たことを黙っている代わりに、コトリちゃんがより良い家庭に出会うためのお金を払う。……そういう契約ッスから。これ」

 それに、と猫山は微笑んだ。

「あんただって最初は大喜びだったでしょう? 私が営業に来たとき。『実家には預けられないから助かる』って、喜んでコトリちゃんを手放して、海外に飛んだじゃないッスか」

「この……っ」

 ニヤニヤと笑う猫山を見て、なるほどと思う。

 本当の顧客が『子ども』で、金を支払うのが『親』というシステムは、どういうものかと思えば、そういうことか。

 営業に、などと言っているが、そちらが先か怪しいものだ。何なら、コトリへの接触の方が先である可能性が高い。

 そうして『顧客』を見付けて、その『顧客』の『親』からは口止め料的に金を貰うというシステムなのか。

『お子さんからご不満が来たことは無い』

 たぶん、そこは本当にそうなのだろう。確実に、その子どもに合った安全で安心な家を見付けてくるのだろう。その子を本当に必要として、大事に育ててくれる『家庭』を。だが、金の払い手である親からは、もちろん不満が来る。だが、それすらもこのようにして封じているのだろう。

 ……『虐待』を訴えるぞという形で。

(いやこれ、ほとんど脅しやない……?)

 大丈夫か、これ。

「なに……何なの……ぜんぶ、私が悪いって言うの?」

 母親が苛々と言う。

「違うでしょ!? あの子が! 普通の子じゃないから! 普通の子が出来ることを出来ないから、駄目な子だから……っ!」

 ヒステリックに、

「あの子がどうしようもない人間だから、悪いんでしょ……っ!」

 そう、叫んだ。


 *


Side.K


『あの子が! 普通の子じゃないから! 普通の子が出来ることを出来ないから、駄目な子だから……っ!』 

 階下から、おかあさんの悲痛な叫びが聞こえる。

 そうだ。

 その通りだ。

 私が、私が、

『どうしようもない人間だから──』

 ぜんぶ悪いから……──

 ぎゅっと目を瞑るのと、両耳が塞がれるのは、同時だった。

「……え」

「聞いちゃ、だめです」

 マルさんが、静かに、しかし、きっぱりと言った。

「あのことば、コトリさんは聞いてはいけません」

 ここは、マルさんの部屋の部屋だ。猫山さんに言われて、私はここへ連れられて来た。

 下では、私のことをどうするか話し合っているのだろうけれど。

 おかあさんの激しい声は、恐ろしさと同時に申し訳なさを私に叩きつけた。

「でも、でも、本当なんです……」

「──いいえ」

「私は、ダメな子なんです。悪い子なんです。何にも出来ない、どうしようもない人間だって……」

「いいえ」

「みんながそう、言うんです……」

「いいえ。いいえ、コトリさん。私は、そうは思いません」

 マルさんが言った。そして、私の耳から手を放し、今度は肩をそっと包んだ。

「コトリさんは、やさしい人。勤勉な人です。それは、だめなことですか? ……ちがいます。コトリさんは、いい人です。どうしようもないなんてことは、ありません」

 私に言い聞かせるように、ゆっくりとマルさんは言った。でも、私は首を振る。

 横へ。

「でも、ダメなんです。だって、目が悪くて、光にも、人の視線にも弱くて、学校になじめなくて、いろいろ完ぺきにこなせないのも……そういうのはぜんぶダメなことだって」

 弱いことは、人に迷惑をかける。

 おかあさんは何度も私にそう言った。

『あんたが身体弱いせいで、どれだけ苦労したと思ってるの』

 本当に申し訳なかった。

『光に弱いなんて、みっともない』

 おかあさんに一緒に歩きたくないと思わせてしまう、自分が嫌いだった。

『良かったわ。エマちゃんたちと友だちになってくれて。前の学校のあの子たち、陰気臭くて嫌いだったのよね』

 静かに一緒に本を読んで、感想を言い合ったり、お花の名前を覚えたりしていた、二人の友だち。前の学校で出来た、私の大好きな友だちたち。けれど、おかあさんは嫌っていた。

 今の学校の『エマちゃん』たちは、おかあさんのお気に入りだったけれど、私には辛いお友だちだった。

『何それ、変なのー』

『小鳥ちゃんっておかしいよね。かわいそう』

『まちがってるから、なおしてあげるね!』

『だいじょうぶ! 私たちにまかせてくれればぜんぶ上手くいくから!』

 転校生の私に話しかけてくれて、仲間に入れてくれるとてもいい人たちだった。周りの人も『明るくて可愛いいい子たち』と褒めるような人たちだった。

 お洒落で、いつもきれいなことや可愛いことに目を向けていて、男の子たちの注意をたくさんひいていた、魅力的な人たちだった。

 でも。

 私の好きなものや興味のあるもの……いろいろな本や、古い歴史のこと、死んでしまった動物たちに対する気持ち……を否定されること。

 私がみんなの好きなものを同じように好きになれないこと……それは間違いだと正されること。

 それらぜんぶが、私にとって辛いことだった。

 みんなみんな、親切でやってくれていたのに。

「だから、がんばったんです。なんとか、『普通の子』になれるように……そうじゃなきゃ、ダメだから。だから、何とかがんばっていたんです」

 去年までは、何とかがんばれていた。

 体育は得意でないから(それも、本当はとても情けないことでいけないことなのだと知っている)勉強を完ぺきに、ぜんぶ百点を取れるように。

 みんなが好きなものを同じように好きになれるように、みんなが教えてくれた通りの女の子に少しでもなれるように。

 何とかがんばっていたけれど。

「でも、冬に、熱を出して……それもとてもいけないことだってわかってるけど……出してしまって、それから、どうしても、どうしてもがんばれなくて……」

 がんばっても、テストでミスが出てしまう。

 百点じゃないと叩かれる。当たり前だ、だって悪いのはミスをしてしまう私だ。

 どうしても、道端で亡くなっている猫や鳥を見ると、手を出してしまう。気持ち悪がらせてしまうとわかっているのに、やってしまう。

 みんなと同じように、はしゃげない。だって、本当は好きではないから。みんながおかしい私を正そうとしてくれるのに、私はずっと、間違ったままだ。

 ──そんなすべてに疲れてしまって、私は「もう無理だ」と思ってしまった。息が、出来なくなる感覚。

 息が出来ない。

 おかあさんに泣きながら訴えたら、怒られた。部屋を閉め出された。

 そんなことを言うのは、どうしようもない人間だと。

「だから、私は、厄介で、迷惑ばかりかける子で……」

『あなただって嫌でしょう。あんな手のかかる厄介な子は』

「──……」

 父も。

 父も、そう思っていたのだろうか。本当は。

 みんな、やっぱり私のことを迷惑で厄介な子どもだと。

「! コトリさん……?」

「ごめ、ごめん、なさい……っ」

 ぱた、ぱたた。

 そう思ったら、急に涙がこみ上げて来て、止める間もなくあふれ出た。

「わた、私、みなさんに、めいわくを……っ」

 わかっていたのに。自分が、どういう人間かわかっていたのに。

『ご迷惑だから』

 母に言われるまで、見て見ぬふりをしていた。

 ここにいる人たちはみんな、優しいから。その優しさに甘えていただけなのに。

 いざ、それを突きつけられると、こんなにも胸が苦しい。

「ほんとうに、ほんとうに、ごめ」


 ぱんっ


 目の前で、破裂音がした。

 違う。

 手を叩く音。神社でするような。柏手の、音。

 目の前に、マルさんの手があった。お祈りの形に合わさった手。

 その手が、音の正体だった。

「……コトリさん。Stop、stopです」

「マルさ……」

「息を、大きくすって」

 私は目を丸くしたまま、とりあえず言われたまま息を大きく吸った。

「はい、はいて」

 それを三回くりかえしたあと。

「……おちつきましたか?」

 マルさんが言った。

 涙も、気付けば止まっていた。私はうなずいた。

「コトリさん。さっき、コトリさんが言っていたのは、おかあさんや、他のだれかがあなたに言った、だれかの感想だったり、おねがいだったりで、『ほんとうのあなた』のことでは、ありません」

 マルさんは、私の目をじっと見つめて言う。

「暴力をふるったり、だましたわけでもなく、ただ『だれかの言うとおり、望むとおり』のことをしないから悪い人だなんてことは……ぜったいに、ぜったいにありません」

「でも……」

「もし、それでも何かを悪いというなら、それは」

 マルさんの手が、ぽんぽんと私の肩を優しくたたいた。

「相性です」

「……相性?」

「そう。あなたのおかあさんや今までいたまわりの人たちと、あなたとの相性が悪かった。単に、それだけのことです」

 あなたは、なにも悪くありません。

 マルさんが、断言した。

「なんどでも、言いましょう。……あなたは、やさしくて、勤勉な人。いい人です。今まであなたのまわりの人がそう言わなかったとしても、私は言いましょう」

 あなたは、いい人です。

 マルさんの目を見た。

 深い色をした目だった。嘘のない、目をしていた。

「どうしたって、相手を悪くしかとらえられない、相手を自分の都合のいいように変えてしまいたいとしか思えないあいしょうというのは、あります。それは、ペンギンが空をとべないくらい、すずめが海のなかをおよげないくらい、変えられないこと。自分にはどうすることもできないこと」

 だから、とマルさんは言った。

「そういう相手とは、距離をおきましょう。はなれましょう。……それがたとえ、家族であったとしても。クラスメイトであったとしても」

 ふと、思い出す。

 三浦さんの言っていたこと。

『距離をおけばよいと思います。どちらか一方が、あるいは両方が嫌な思いをするなら、それは距離を置けば、たいてい解決します。それでいいんですよ』

「はなれたって、いいんですよ」

「……三浦さんも、言ってました。どっちもが嫌な思いをするなら、距離を置けばいいって……」

 マルさんは、にっこり微笑んだ。

「ええ。そのとおりです。それが、一番いいこと。『三十六計逃げるに如かず』です」

「さん……?」

「逃げるが勝ち、ってことです」

 マルさんの温かな手が、そっと私の手を取る。

「逃げる先は、あなたが『ここに居たい』と心からおもうところ。あなたがいっしょにいたいと心からねがう人のところです」

 ねえ、コトリさん。

 マルさんが問うた。

「あなたは、だれといっしょにいたいですか?」


 *


Side.C


「とにかく! 明日にでもまた小鳥を連れ戻しに来ますから……っ」

 そう言って、母親は出て行った。

 嵐が過ぎ去ったような疲れが、どっと溢れた。

「……何やねんな、もう」

 僕は後ろに手をつき、ため息を吐く。

「何なん? あんだけコトリのことけなすなら、逆に何で連れて帰ろうとするんや? 意味わからん」

 僕のぼやきに、猫山が皮肉気に口元を歪めた。

「『世間体』ッスよ。親戚に預けてる自分の子どもが不登校になってる、なんて周りに知られたら厄介くらいに思ってるんじゃないッスかね?」

 まあよくある話です、と猫山は言う。

「あの手の親は、子どもは自分の所有物みたいに思ってる節があるッスから。自分の思う通りじゃないと嫌だって、ただそれだけじゃないッスか」

「……確かに、問題がありそうな人ではあるけれど」

 奥さんが、頬に手を当て、思案気に口を開いた。

「でも、あの人の言うことも少し、わかる気がするのよ」

「わかる……?」

「あの人、言っていたじゃない?」

『どうせ私が全部悪いんでしょ、みんな私のせいにして、いい加減にして……っ』

 奥さんの言った通り、確かにそんなことも吐き捨てていた。

「どうしても、子育てをしているとぜんぶ母親に責任を負わされてしまうでしょう?」

「……いや、父親も負わされるよ」

 百さんが、眉を寄せ言う。

「当たり前です。子どものことは、二人のことなんですから。……でも、世間はやっぱり、母親の方に多く責任を求めている気がするの。あの人は離婚しているから、よりそうなってしまうわよね」

「……」

 言われてみれば、そうかも知れない。

「そんな中でずっと子育てをしてきたら、切羽詰まってしまうのもわからないではないの」

「ははっ」

 奥さんの言葉を、猫山が嗤った。

「なるほどなるほど。……よく聞く言い訳ッスね」

 むっと奥さんは眉を顰める。

「……言い訳ってあなたね。本当に辛いのよ。誰にも頼れない子育てって。その上でお仕事まで完璧にこなしてって。子どもがいない人には、ぴんと来ないかも知れないけど」

 珍しく、奥さんが刺々しい口調で言った。

 だが、猫山は怯むことなく、むしろより可笑しそうにくつくつと笑い出す。

「ふっ、ふふふっ、ほんと、はははっ、あははははは! あはははははははははは!」

「な、何なの……」

 奥さんが引いた。僕と、百さんも当然引いている。

 壊れたんか?

「はーっ、何なんッスかね。みーんな同じこと言うもんッスから、何かおかしくって」

 それから、ふっと表情を消した。

「……確かに。確かにそのことは問題ではあるッス。『おかあさん』の肩にのしかかる責任や仕事量の多さについては、私も『こりゃあ、世の中無理させすぎ』とは了解しているッス。もちろん、『おとうさん』の場合もあって、そっちも同じように思うッス。……でも、ですね」

 とん、と机を一つ、指で叩いた。

? ……子どもの立場からしたら、その一言ッス。その辛さは、理解はするッス。けど、? 『だからしょうがないんだ』と子どもに諦めるように求めるッスか? それを押し付ける先は世間やら国やら周りやらであるべきなのに、って周りの人間も当たり前に考えてるッスか?」

「!」

「もし、結婚して子どもを作ることによって、今のこの『それがどうした?』を言えなくなるって言うなら」

 猫山は、凄まじい笑みを浮かべ、高らかに断言する。

「喜んで! 喜んで私は、結婚だの子作りだのを放棄する! ……一生、その気持ちはわからなくていい!」

「……」

 僕らは、その笑みに何も言えなくなる。

 人を黙らせる迫力に満ちた笑顔に、僕らは圧倒されていた。

 そして、僕らの心に斬り込んできた猫山の言葉にも。

 特に、奥さんはショックが深いようだった。

「別に、誰が何をどう思っていようが、構いやしないッスけど」

 猫山が、獰猛に目を細め、言う。

「けど、その考えを……子どもに諦めを強要するような心持ちを持っていることは、もはや災害の種を持ってるようなもんだってことは、どっかでわかってて欲しいもんッスね」

 その言葉に、僕はハッとなった。

「……あんた、もしかして」

「ん?」

 猫山の、深い深い闇の底みたいな瞳が僕を見る。僕は、一瞬ためらったが、

「弟さんを、虐待で亡くしてるんとちゃうか? あんたも、虐待を受けてたんじゃ」

 問うた。

 猫山は、目を丸くする。ぱしぱし、と音が聞こえてきそうなほど瞬きをして。

「よく、わかったッスね」

「いや……前に、コトリにあんた言うたやろ? 弟さんを災害で亡くしとるって。で、今、災害の種って」

「それでもッス。普通、虐待を災害とは結び付けられないッス」

 にこ、と猫山が笑った。

「何でッスかねぇ。あんなの、どう考えても災害なのに。人災ッスよ。子どもにとっちゃ、本当、災害でしかない。避けようのない、無慈悲な、どうしようもない」

「……復讐かい?」

 百さんが、首を傾げる。

「前に、君は言っていた。『この仕事は儲からない』って。それなのにこんな風に続けている。……虐待をしている、あるいは虐待になりかけている親に対しての、復讐かい?」

「まさか!」

 猫山は、吃驚したように言った。

「心外ッス。あんなやつら、復讐する価値もない!」

 それに、と猫山が言う。

「私は、被害者じゃない。……どちらかと言えば、加害者ッス」

「加害者……?」

「……優しい弟に甘えて。私一人だけで、家を出た。私が家を出たらどうなるか……どこかでわかっていたくせに。二人に分散されていた暴力が、弟たった一人に、あの抵抗もしない優しい弟だけに向かうって、どう考えてもわかっていたことなのに。『必ず迎えに来る』って言って。それは、もちろん本気だったッスけど。でも、そんなの言い訳だ」

 真っ暗な笑顔で、彼女は続けた。

「そんな、誰かを待つ猶予もないくらいだったのに。それをどこかでわかってたから、自分は飛び出したっていうのに。……だから」

 復讐じゃあないッスね。

 猫山は淡々と言う。

「強いて言うなら、贖罪ッス」

 そう言って肩をすくめた彼女の眼には、確かに憎しみよりももっと深く、強い意志がギラギラしているように見えた。


 *


「……で、君、どうするの」

 猫山が帰って、奥さんも買い物に出かけた。

 猫山の言葉が相当なショックだったのだろう。気持ちを落ち着けさせる意味合いもあったかも知れない。蒼い顔をして出て行った。

「どう、って……」

 百さんの問いに、僕は戸惑う。

「コトリちゃんのこと。君は、どうしたいんだい」

「……そりゃ」

 僕は、がしがしと頭を掻いた。

「あんな人のところに、コトリが戻ってええとは思いませんよ。それに」

「それに?」

「コトリを引き取って育てるのは、一花の望みやったわけやし……」

 一花が望んでいたこと。最期の望みに、なってしまったけど。

「ふむ」

 百さんは思案気に俯くと、言った。

「私は、君のことを聞いているのだけど」

「僕……?」

 百さんが首を傾げる。

「今、君の言ったことは、コトリちゃんや一花さんが思うことについてだ。そうじゃなくて、『君がどうしたいか』だよ」

 僕は、百さんの問いにドキリとして口を噤んだ。

「『コトリちゃんが可哀想だから』、『一花さんが望んだから』。そんな他人の気持ちに流されて引き取りたいと言うのは、たぶん今は良くてもこれから何かよくない風になるような気がするよ。……あの母親を退かせることは出来ても、猫山さんは説得出来ないだろうね」

「……」

「君がどうしたいか、今一度ちゃんと考えて答えを出しておいた方がいいんじゃないかな。今まで流されてきてしまって、それでもそれなりに楽しく過ごしていたと思うし、私も他の人もまあ楽しんでいたように思うけど。でも、やっぱりちゃんと考えておきなよ」

 君のためにも、あの子のためにも。

 そう言って、百さんは立ち上がった。

「私も、散歩に行って来るよ」

 僕は、その後ろ姿を見送ったあと、ふらふらと自室へ戻った。

 ごろんと畳に寝そべって、天井を見上げる。

 途端に、気怠さが僕をどっと襲った。

 雨音がひっきりなしに聞こえて、湿気がまとわりつく。

 頭が重たくなって、目を瞑った。

 ぐるんぐるんと、先ほどまでの光景が頭を回る。

 コトリの母親、そのヒステリックな声。猫山の嗤い。百さんと奥さんの心配げな顔。

 コトリ。

 泣きそうな顔をした、怯えた顔をした、一花の引き取った子ども。

(僕は)

 手の甲で目を覆った。瞑った上にそれをやると、より濃厚な闇になる。

(どうしたいんやろか)

 このままやったら、コトリは連れて行かれてしまうのか。あの母親に。

 それは、いけないと思う。よろしくないと思う。

 だってコトリは怯えていて、そしてコトリを引き取ることは一花の最期の望みで。

 でも。

『君は、どうしたいの?』

 それだけじゃ駄目だと、百さんは言う。

 僕の望みは、と彼が聞いた。

(一花の望みを叶えてやりたいだけじゃ、あかんのか?)

 僕は、僕自身は、どうしたいんやろか──……。

 ざあああああああああああああああああああああああ。

 身体が、意識が、雨音の底に沈み込む感覚。

 あ、寝てまうな、と思ったけれど、雨音と身体のだるさが勝って、目は開けられなかった。

 もう、ええか。

 そのまま、ぐらぐらと揺れるような心地にはまりこんでいった。


 *


「ちょっと。何寝てんの。起きてよ?」

 声がして、ハッと思わず目を開ける。僕の目に飛び込んで来たのは、呆れた顔をした一花だった。その首元には、マルさんに貰ったヴェネチアングラスのペンダント・トップがきらりと清潔に輝いている。

「いち、か……?」

「もう、いろいろ一大事なんだから。寝てちゃ駄目」

 がばっと起き上がると、ぐわんと視界が揺れた。

「一花……なんで……」

「どうしたの? 大丈夫?」

 僕は、信じられない気持ちで彼女を見て……そして、気が付いた。部屋にあの黄色のカラーボックスが無い。一花の仏壇が。

「……変な、夢みた」

「んん?」

「一花が……事故で。それで、その代わりみたいにコトリが……」

 僕がうわ言のように言うと、はあ? と一花が声を上げた。

「何、縁起でもない夢見てんのん。吃驚するし」

「せやんな。僕も、吃驚やわ……」

 僕は口元を手で押さえてから、ふと、そのまま手を伸ばして一花に触れる。

 温かな頬。唇へ触れた親指に、感じる吐息。

 生きている。

 やっと、ほっと息を吐いた。

「……本当に、怖かったんだね」

「そら、そやわ」

 一花は、僕の様子に「仕方ないなあ」と笑い、僕の頭をぽんぽんと優しく撫でた。

「大丈夫。もう、怖いことは無いよ」

 その笑顔と言葉と温もりに、緊張や不安や……嫌なことはすべてほぐれて溶けていった。

 ふー……と大きな息が自然と漏れる。

「……落ち着いた?」

「うん」

 すり、と一花の手に懐くと、くふくふと可笑しそうに一花が笑った。

「落ち着いたなら、考えないと」

「? 何を?」

「コトリのこと」

「コトリ……」

 あれ、夢ちゃうかったんと言いそうになって慌てて口を閉じたが、一花に伝わったらしい。

「もう。まだ目ぇ覚めてなかったん? コトリまで夢にせんといてよ?」

 と怒られた。

 そうだ。……そう。コトリは、一花が引き取った子ども。

 この四月に、一花から「話がある」と言って引き合わされ、今一緒に暮らしているのだ。これは夢じゃない。

 親子三人、この狭い部屋でわちゃわちゃと暮らしている。

「してへん、してへん。大丈夫」

「そう? ならいいけど」

 コトリ。

 大人しくて、本が好きで、亡くなった動物を放っておけなくて、勉強もお手伝いもまじめにこなす子ども。

 いつも何かに怯えている子ども。

 いつでも、一花はコトリを抱き締めていた。

 こっそり動物を埋葬していることがバレたときも。理系科目が進んでいないことが発覚した時も。

 怯えるコトリを一花は抱き締めて言っていた。

『そんなんで、お母ちゃんがコトリを見捨てるもんか』

 そんな風に。

『せっかく、猫山さんっていうコウノトリが運んできてくれた可愛い娘なのに』

 そうだ、そう。

『でも、猫なのにコウノトリって、何やおかしいな。ふはははっ』

 思い出して来た。

「どうすんの。あのおかーさん、また来るって言ってはるよ」

「せやなあ……」

 僕は、手で口を覆い思案する。

「……コトリは、一花にも、百さんたちにも懐いとるし。一花も、コトリと離れたないやろ?」

 僕がそう言えば、一花は首を振った。

「その通りやけど。……でも、違うよ」

「違う?」

「ちぃちゃんが、どう思ってるか。それが、知りたいの」

「僕……?」

 僕は、だから、一花がコトリと離れたくないなら。コトリがこの家に居たいと言うのなら……

 そう言いかけた僕の唇に、一花は人差し指を当て止める。

「駄目。駄目だよ、ちぃちゃん。私は……」

 ううん、と一花が首を横へ振った。

「コトリは、ちぃちゃんの気持ちが知りたいんだよ」

 私がどうとか、コトリがどうとか、そういうのを超えて。

 きっぱりと一花が言う。そこには、力強い響きがあって、僕は何も言えない。

「例えそれが、私やコトリの気持ちと反することであったとしても。ちぃちゃん自身の気持ちが知りたいの」

「何で……」

 一花が、にっこりと笑った。

 懐かしく、慕わしく、僕がずっと見ていたいと、その笑顔が歳を重ねて深まっていく様をいちばん傍で見ていたいと、願った笑顔。

「それが、きっとちぃちゃんやコトリのためになるから」

 ねえ、ちぃちゃん。

 一花の手が、そっと僕の手に重なった。

「ちぃちゃんは、どうしたい?」

「僕は……」

 温かな手を感じながら、僕は思う。

 コトリ。

 僕らが引き取った、僕らの娘。

 怯えがちで、真面目な、優しい子ども。

 彼女が、本当は何を思って埋葬をしているのか。僕は知らない。彼女とあの母親との間に何があったのか。僕は知らない。彼女の眼に世界はどんな風に映っているのか、僕はまだほとんど知らない。

 僕は。

「知りたい」

 あの子どものことを。

 静かに僕のそばにいてくれた、僕に「痛いの痛いの飛んでいけ」をしてくれたあの子のことを。

「どうやって、あの子のお父ちゃんになったらええのんか、まだわからへんけど。でも、僕は」

「うん」

「コトリのことを知りたい」

 一花が、ふふふ、と本当に心から楽しそうに笑って言った。

「それで、いいんじゃないかな」

 ぎゅっと、手に力が込められる。

「それが、いいと思う。だって、『知りたい』は」


 ちぃちゃんの『好き』だものね!


 一花の、嬉しそうな声が響いた。胸元のヴェネチアングラスが、星のように瞬き美しい。

 そう思ったとき、

「……え」

 ぱち、と目が開いた。

 視界に飛び込んで来たのは、心配そうにこちらを覗き込むコトリの顔と天井だった。

「大丈夫……?」

「コトリ……」

 一花が居ない。

 先ほどまで居たのに。

 僕は混乱して、コトリに問うた。

「いちかは……お母ちゃんは?」

「!」

 コトリは目を丸くして、少しためらったあと。

「……ちょっと、おでかけ」

 と言った。

「さよか……」

 僕は、頭を押さえて起き上がる。ぼうっと部屋を見回して、あ、と気が付いた。

 そこには、黄色のカラーボックス。一瞬、きらっと光った気がするヴェネチアングラス。……ああ、そうか。

「……せや。せやったなあ」

 一花は、居ないのだ。

 さっきまでのが夢で、これが現実。

 ……これが。

 改めて突きつけられた一花の不在に、心がごおっと嵐に呑み込まれそうになる。

 けれど、

「あの……」

 そっと横から重ねられた手に、はっと意識がすくわれる。

 おずおずと、遠慮がちに重ねられた小さな手は、ほの温かかった。

「お水とか……いり、ますか……?」

 心配そうな表情に、ふっと力が抜ける。

 ぽんぽん、とその頭を優しく撫でた。

『ちょっと、おでかけ』

 死んだ人だ、なんて言わず、寝惚けた僕の言葉に合わせてくれた、その優しさがじんわりと僕の心を温める。

 ちょっと、おでかけ。

 その響きの柔らかさが、いいなと思った。

「大丈夫。平気やで」

 それから、僕は居ずまいを正す。コトリも、急いでそれに合わせた。

「コトリ」

「はい」

「お前の『おかあさん』は、お前を連れ戻すて言うてるけど」

「……」

「コトリは、どうしたい?」

 僕の問いに、コトリがぎゅっと唇を引き結び、少し俯く。

 懸命に、何かを考え、迷い、言葉を探している様子に、

(あ、ちゃうな)

 と僕は、気が付いた。

 一花の言っていたことを思い出す。

『私は……コトリは、ちぃちゃんの気持ちが』

「コトリ」

 改めて、彼女を呼ぶ。

 コトリが、僕を見た。

「僕は……」

 僕は、ひとつうなずく。

「お父ちゃんは、コトリとこのままここで暮らしたいって思う」

「!」

「まだ全然、コトリのことをわかってやれてへんと思うけど、それをこれから知りたいって僕は思う」

 此処で。この家で。

「百さんたちや、……一花と、コトリと、暮らせたらええなって思っとるよ」

 僕の言葉に、コトリは吃驚したような顔をしてから。

「……うん」

 はにかんだ。つぼみが、今か今かと花開くのを待ち侘びているような、それはそんな表情だった。

「私も」

 ぎゅっとコトリは両手を握り締めて、言った。

「私も、ここで、暮らしたいです……っ」

 僕は、自分がにっこりと笑ったのがわかった。

「ほな、暮らそか」

 ここで。

 僕とコトリと……一花と、三人で。改めて。


 *


Side.K


 次の日。

 昨日と同じ人たちが、昨日と同じく居間にそろった。

 時間まで、ほぼ同じ。

 違うのは、私が初めから父の隣に座っていること。

 私は、お気に入りのエプロンを身に着けていた。胸元には、マルさんから貰った小鳥のブローチ。今日も、つるりと触り心地よく、白く輝いていて、私を勇気づけてくれる。

 めがねはかけるか迷って……やっぱりかけた。

 パチンとサングラス部分を下げて。

「コトリの安心する方を選び。勇気の出せる方を」

 父が、そう言ってくれたから。

 視界が優しくなるのはもちろん、これは父からの……ある意味では一花お母ちゃんからの……初めてのプレゼントだから。

 おかあさんは、私のめがねを見て眉をしかめたけれど、特に何も言わずに話を切り出した。

「小鳥は、一度引き取ります。その上で、猫山さんにもう一度、ちゃんとしたご家庭を探してもらえるようお願いするということでよろしいでしょうか」

 おかあさんが、ギッと猫山さんを見る。私の心臓は、ドキドキと嫌な感じで鳴ったけれど、そっと胸に手を置いてそれをなだめた。

 大丈夫。きっと、大丈夫だから。

「あの」

 猫山さんが何か言おうとしたけれど、それより前に父が話し始めた。

「不知火さんにとったら、僕は頼りない若輩モンで、至らないところも多いと思いますが」

「……」

 おかあさんが、探るような目で父を見る。

「けど、一花がコトリを……コトリさんを引き取って育てたいと願ったように……僕も、コトリさんと一緒に暮らしたいと思います。一花は、もうおらへんけど、でも、一花と三人で。いや、ここの人らと一緒に、みんなでコトリさんの成長を見守りたいんです」

 父の言葉は、昨日と同じだ。

 でも、嬉しかった。

 何度聞いても、きっと嬉しいと思う。

 誰かが、自分といたいと思ってくれているのは。

「子どもを育てるのを甘く見ないで! 童話作家だからって子どものことがわかるなんて思ったら大間違いなんだから!」

 おかあさんが、バンッと机を叩いて言った。びくりと、どうしても身体が震えてしまう。

「そら、もちろん。今やって、百さんや、ここにいる人たちに助けてもろてやってますから、それは、わかってます」

「いつまでも助けがあるなんてそんな甘っちょろいことを」

「わたし……っ」

 思わず、声が出た。おかあさんが、すごい形相で私を見る。

 私の心臓は一度止まったのではないかと思うくらい、ぎゅうっと痛んだ。

 それでも。

「私……ここで、暮らしたい……っ」

 私は言った。

 声は掠れてしまったけれど、それでも言った。

「おかあさんが、引き取りたいって言ってくれるの、うれしい」

 誰かが自分と一緒にいたいと言ってくれることは、嬉しいこと。

 だから、今回のことも少し嬉しかった。

 例え、私を学校に行かせるためでも、もっと『ちゃんとした』人間にするためでも、おかあさんが私を一度引き取ると言ってくれて。

 怖いけど、悲しいけど、苦しいけど、……私は不出来で、おかあさんの理想の子どもにはなれなかったけど、でもやっぱり、

「おかあさんのこと、大好きだから」

 どうしたって、そうだから。

 でも、苦しいのも、本当だから。

「けど、ここにいる人たちも、みんな、みんな好き。みんな、いい人たちで、たくさん、知らなかったことを知れて楽しい。ぜんぶ、すてきで、好きで、だから、だから……」

 私は、もう一つの、私が好きだと思う、私といたいと思ってくれる人たちと暮らしたい。

 決して、おかあさんが嫌いなわけじゃない。

 両方好きで、ただ私が息のしやすい場所にいたい。

 それだけなんだって。

 どうか、伝わって欲しい。

 どうか。

「──甘やかしてくれるからでしょ」

 おかあさんの声が、冷たく私の想いを両断した。

「甘やかされて、好き勝手出来るから、そう思ってるだけでしょうが。でも、そんなの、ここの人たちはあんたに責任がないから出来るのよ。あんたがどうだっていいから、あんたがこれからどうなってもいいから、そんな勝手にさせてるだけ」

「ち、ちが……」

 私は慌てて否定した。

『未来のコトリちゃんが困らないため』

 ここの人たちが、悩んでくれたことを私は知っている。

「ちがうよ、おかあさん。だって」

 けれど。

「だってじゃない! あんたは、楽な方に流れていってるだけなんだから! あんた、そのまま行ったら駄目になるよ」

 ぴしゃりと言葉で打たれて、私は何も言えなくなる。

 駄目になる、そう言うおかあさんの眼は本気だった。

 ──届かない。

 手が空を掴む感触。底へ落ちていっているのに、何処にも手が引っかからない感じ。

 私は、もう何も言えなくなって……たくさんの優しさをここの人たちからもらっているのに、それを説明することさえ出来なくて、そんな自分が嫌で、俯いてしまう。

 ハア、とおかあさんの大きなため息が聞こえた。

「あんたがちゃんとした人間になれるように、一人前の人間になれるように、私は厳しく言ってるのに。それなのに、あんたは、そうやって楽な方に行こうとする。私を悪者にして」

 そうじゃない、と言うように首を横へ振っても、おかあさんは続けて言う。

「そうだよね。いつもそうやって私ばかり悪者にして。私の気持ちも知らないで。……本当はおかあさんなんか嫌いなんでしょ。いらないんでしょ。そうやって突き放して、もう二度と会えなくなっても知らないからね」

「っ」

 違う、ちがうの、おかあさん!

 私はもう、言ってしまおうかと思った。

 わかった、ぜんぶおかあさんの言う通りにする。もうわがままは言わない。苦しいのもがまんする。次こそ、次こそちゃんと上手くやるから……。

 お願いだから、そんなこと言わないで。

 けれど。

「……それは、言うたあきません」

 ぐっと私の肩を押さえる温かな手があった。

 言おうとしていた言葉が、すっと押し戻される。

「そんなん言うたら、どんな子どもでも、自分の望みや願いを捨てておかあさんの方に行ってまいます。それが、どんなに辛いことでも選んでまいます。……ましてや、コトリは」

 父が、おかあさんを真っ直ぐに見て言う。

「優しい子です。まじめな子です。おかあさんにそんなん言われたら、何でも我慢します、言うこと聞きますって……なってまうやないですか」

 それはあかんでしょう、と静かに言った父を見上げて、私は目を瞬いた。

 ……どうして、私の思っていることがわかったのだろう。どうして。

「どこに出しても恥ずかしくないように育てたつもりなのに。何を間違えたのかしら……」

 そんな私を見て、おかあさんが苦々しげに、そう言った。

 やっぱり、私はダメなんだ。

 わかりきっていたことなのに、私の胸はまたずきんと痛んだ。

 と。

「……ずっと気になっていたのだけれど」

 そこへ、何でも無いような口調で、ももさんが割って入った。すぅっと。

 それは、ぼこぼこと湧き上がったお湯に水を差すような感じだった。

 この部屋の空気が、しんと一旦リセットされる。

「あなたの言う『どこに出しても恥ずかしくないように』とか、『ちゃんとした人間』とか、それは『誰』の、『どこ』の基準なのだろう?」

 心から不思議そうに、ももさんが問う。

 空気を変えようとか、話題を変えようとか、そういうものではない。

 たぶん、本当にももさんは不思議に思った。だから、今聞いた。そんな感じだった。

 それは、授業中、不機嫌な先生がお説教していても、疑問に思ったことはつい聞いてしまうクラスの男子のようだった。

 きょとんとした顔で。

「そんなの、世間一般的に当たり前のことで」

「うん。だから」

 ももさんが、小首を傾げる。

「どこの『世間』のことを言っているんだいって聞いたのだけど」

 父も、猫山さんも、みんながももさんを「え?」という視線で見つめていた。

「『世間』なんて、自分がいる場所によって違うものだろう? 国や、地域でも違うように。もっと言えば、会社や、それこそ『家』単位でも違う」

 じ、とももさんがおかあさんを見る。

 何かを透かして見るように。

「……ねえ、あなたは『誰』にコトリちゃんを見せて、『恥ずかしくない』って言ってもらいたいんだい?」

「……!」

 おかあさんが、目を見開いた。


 *


Side.C


 百さんが、淡々と続ける。

「コトリちゃんみたいな子を、私は職業柄、何人か知っているよ。……ここは古いまちだから、旧家名家、あるいはそれに並ぼうとするそれなりの家ってのがごろごろある。それで、そういう家に話を聞きに行ったりすることも多くてね。よく見るんだ」

 母親が、訝しげに百さんを見た。猫山が説明を添える。

「ここにいる鳥田百太さんは、古都に関するエッセイスト、けっこう有名な人ッスよ」

 知ってる、と母親の口が声には出さずそう言った。

「年の割に、いい子で大人しい。いい子過ぎるほどに。何か、抑圧的な感じで。……いい家に生まれて、その家が出して来る条件、例えば、いい学校に行けだとか、良いお友だち……ま、お家柄の『良い』お友だちだね……を作れだとか、そういうものを満たさなくちゃ、そこで生きていくこともままならない子どもたち。そういう子に、コトリちゃんはよく似てる」

「……」

 百さんは「言っておくけど」と前置きする。

「私はそれを悪いとは思ってないよ。良いとも思ってないけど。それは、それぞれの家のものだから、勝手にしてというところかな。はたが口を出すことじゃあない。でも」

 百さんの眉が寄せられた。

「人によって向き不向きがあるな、とは思っている。そして、不向きな人は、そこを出てもいいのではないかと正直、私は思っている。その方が、すべてうまく回る気がする。本人も、その家も。……そういう関係もまた、あるものだと」

 奥さんが、思案気にうなずく。

「勝手な想像で悪いと思うし、それこそ人の家の事情に口を突っ込むみたいで嫌なのだけど、あなたが嫁いで離れた家、コトリちゃんのお父さんのお家は、そういうお家だったんじゃないのかい」

「……」

 ふい、と母親が顔を逸らした。ビンゴだな、とたぶんみんなが思った。

「そういうお家のあれそれは、きっとコトリちゃんには不向きだろう。恐ろしい中で、よく彼女はがんばったと思う」

 コトリが、吃驚したように百さんを見る。

 ……せやな。自分のことを言い当てられたら、誰でも吃驚するわな。わかるよ。

「もちろん、お母さんもね」

 奥さんが、優しく言い添えた。母親が、ぱっと奥さんを見る。

 その仕種は、先ほどのコトリの仕種と似ていて、やはり親子なのだなと思った。

「だから、その家を出たんだろう? あなたの為に、コトリちゃんの為に。……それは、私はとても正解だと思う。それなのに、何故だろう」

 百さんは心底不思議そうに言った。

「あなたは、まだその家の基準でコトリちゃんを見ているような気がする。その家の基準でコトリちゃんが育たなければいけないような、そんな強迫観念で動いているように見えるけれど」

「……」

 母親は息を呑み、反論しようと顔を上げ、しかし言うべき言葉を見付けられなかったのか、また俯く。

 ぐっと手を強く握り締めたのが、わかった。

「……あなたたちに、何がわかるというの」

 母親の、地を這うような声。

「そう育てなきゃ、あの人たちは小鳥を認めないの……っ。小鳥の個性がどうあろうが関係ないの、そうじゃなきゃ、私が小鳥をちゃんと育てていっていると認められないの。そんなこと、どうせわからないでしょう……!」

「うん、だから」

 百さんが、首を傾げる。

「どうして、もう離れた人たちの言うことを気にするんだろう? もう、終わったことじゃないか」

「!」

「せっかく、離れたんだから、別にかまやしないと思うんだけどね」

「それは……!」

 母親は声を上げたが、そのまま、唇を噛んだ。

 ……何となく、わかった気がする。

 確かにその家から離れた。けれど、その家に対する鬱屈は、まだ何処かに燻っているのだろう。

 けれどもし。もしコトリを、自分一人の手だけで、あの家が求めたような完璧な人間に育てられたとしたら? 誰も文句を言わないような……いや、むしろ誰もが褒めそやすような、わかりやすく典型的な才女としてコトリが成長を遂げたら?

 しかも、その間に自分は自分で、ずっとやりたかった仕事上の成功も手に入れる。

 それはとても、とても溜飲の下がる素敵なことではなかろうか。

 母親が、そう思ってしまったとしても不思議は無いな、と思った。

 でもそれは、コトリの個性からはかけ離れた夢だ。

 母親が叶えられるのは、自分の仕事で、自分の望むような成功を手に入れる、その一点だけなのだ。

「……なまじ、コトリちゃんがいい子で聞き分けのいい子だから……ギリギリまで我慢出来てしまう子だから、夢を見続けてしまったのかも知れませんね」

 奥さんが、ぽつんと言った。

 コトリが、困った顔になる。それを見て、慌てて奥さんが言い足した。

「違うの。コトリちゃんが悪いわけではないの。もちろんお母さんもね」

「へえ」

 何か言いたそうな猫山を視線で黙らせて、奥さんは言う。

「でもコトリちゃんはきっと限界で、がんばりすぎて今は休みたいときだと思うんですよ」

「……休む?」

「そうです。お母さんも、きっとコトリちゃんを見ると、コトリちゃんが無理してがんばってくれていた頃を思い出して、もう一度そうなってくれたらと、願ってしまうと思うんです。悪いことでは無くて。人間って、きっと、みんなそうだと思うから。誰でも、そんなことがあるでしょう?」

 母親は、奥さんの言葉に黙って耳を傾けている。

「だから、距離を置いてみるのがいいんじゃないかしら。距離を置いて、『こうあるべき親子』を休むんです。それぞれが、それぞれのやり方で生きられるように。そばにいて、個性を潰してしまったり、悔しい思いに駆られたりするよりは、そっちの方がよっぽど穏やかに、温かに『親子』を感じられるだろうから」

 その方が、お互い倖せなんじゃないでしょうか。

 奥さんが言って、母親に笑いかけた。

「そりゃ、子どもを自分の手元ではないところに預ける不安は大きいと思います。……私も、二番目の子はそうしたものだから、わかるつもりです」

「ならどうして、そんな、距離を置くなんて」

「けどね。離れた方が、あの子も、うちの人も、みんな……ぎくしゃくしなくなったんです」

 百さんが、そっぽを向いて眉を顰める。

 ……二番目の息子さんは、そんな経緯があったのか。早くから家を出たことは知っていたけれど。

「あの子が、生き生きした顔になって、望んだところで生きているのを見たら、『ああ、良かったな』って素直に思えたんです。寂しさよりも、いつの間にか」

 ねえ、お母さん。

 奥さんの語りかけ方は、優しかった。

「別のところで……子どもさんが望んだところで生きるのを、ちょうどよい距離で見守るのも、いいんじゃないでしょうか」

「でも、世間は」

「……『世間』がどう言おうと」

 百さんが、そっぽを向いたまま言った。

「例えば、カッコウやホトトギスは、誰が何と言おうと托卵をするだろう。体温の変動が激しい自分よりも、絶対に卵を孵化させて育ててくれる他の鳥の巣へ。……我が子のために」

 淡々と。訴えかけるでもなく。ただ事実をそのまま読み上げるような、そんな口調で。

「確実に我が子が成長するために。それが、カッコウやホトトギス、托卵する生き物の『子育て』だよ。これも立派な『子育て』だと、私は思うよ」

 ちなみに、と百さんは付け加える。

「元の巣の雛を追い出す種が有名だけど、一緒に育つ種もあるから、一概に卑怯だの残忍だの言えないところもあるからね」

 どう思おうと自由だけど、一応言っておくと締めくくった。

 それはもしかしたら、二番目のお子さんを預けたことに対する葛藤の末、導き出された百さんの答えなのかも知れない。

 家を早くに出ることによって、自分の倖せと成長を得たお子さんを見ていて、思ったことなのかも知れなかった。

 勝手な推測だけれど。

「……帰ります」

 母親は、立ち上がって、こちらを見ずに……コトリを見ずに部屋を出た。

「おかあさん!」

 コトリが、まろぶように立ち上がって、それを追う。

 僕も慌ててそれに倣った。

 母親は立ち止まらず、振り向くこともなく、玄関へ真っ直ぐ進んで、靴を履いた。

「おかあさん……」

「小鳥」

 母親が、扉に手を掛ける。

「あんたは、もう家を出たの。あんたが望んで、私のところから今日巣立って、もう独立したの」

「おかあさ」

「帰る家は、もう無いと思いなさい」

 ガラガラガラガラ

 引き戸が開き、

 ざああああああああああああああああ、と雨の音がより大きく耳を打つ。

「あんたが選んだんだからね。……それを忘れないで」

 ガラガラガラガラ……ピシャン

 雨音が、また少し遠くなる。

 それに混じって遠ざかる靴音は、すぐ聞こえなくなった。

「おかあさん……」

 コトリの眼から、ぼたぼたと涙が落ちた。

 いくつも、いくつも、涙は零れた。

「おかあ、さん……」

 僕は、コトリの頭を優しくぽんぽんと叩く。

「あの……」

「うん。わかっとる。わかっとるから……」

 僕と暮らすのがやっぱり嫌になったとか、ここよりも母のもとが良いとか、そういうことではないこと。

「今は、泣きたいだけ泣いとき」

 ただ寂しくて、悲しくて、やるせないのだということ。

 大人の僕ではなく、子どもの僕がそれを知っている。

「うん……」

 泣きじゃくるコトリと並んで、ずっと玄関で、閉まったままの扉を見ていた。

 雨音が、ざあざあ響いていた。

 ひっきりなしに、ずっとずっと。

 響いていた。


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