Epilogue.



Side.K


「蛍はね、どこか儚げな雰囲気があるけれど、実は肉食なんだよ」

 久しぶりに雨の無い夜。かといって、晴れというわけでもない。空にはびっしり雲がしきつめられている。曇りの夜だ。

 私たちは、下鴨神社の糺の森にいた。

 三宅さんと、父と、私と。それから、ももさんとおくさん。近所だからと、慶之助さんと三浦さんも来てくれた。一朗さんは、お師匠さんと先約があり来られなかった。マルさんも急用が入ってしまい、来られず。二人とも、とても残念そうにしていたので「今度、貴船に一緒に行こうよ」と三宅さんが慰めた。

 杖をつく慶之助さんに合わせて、私たちはゆっくりと歩いた。

 夜の森は、お昼間よりも緑の匂いと土の匂いに満ち満ちている。小川のせせらぎと、水の匂いも。お昼間よりも、ぐっと濃い。

 蛍は、たくさんではないけれど、あちらでキラリ、こちらでキラリと、静かに瞬いていた。

「他の虫を食べるんですか?」

「幼虫のころにね。マイマイ……かたつむりとかを食べるのさ」

「かたつむり……」

「その代わり、成虫になったら食べなくなりますよ。だから、成虫になってからが短命なんです」

 ふわ、と緑の光が目の前をよぎった。

 思わず目で追うと、その光は三浦さんの手に呼ばれるようにそっと止まる。

「長く生きられないの?」

「ええ。一、二週間ほどと言われていますね」

 三浦さんは、優しい眼差しで蛍を見下ろすと、柔らかな動きで草むらの方へ行くよう促した。

 光は、またふっと浮かび上がると、そのままゆらゆら草の方へ飛んでいく。

「大人になってからのイメージと淡い光で、儚いと言われているんだろうねぇ」

 慶之助さんは、別の蛍を視線で追っていた。

「儚いだけの生き物なんて、実はそういないんでしょうね」

「そうだねぇ。この雑多な世界で生き残ってるんだ。今ここに生きてるってだけで、なかなかどうして、みんなしぶといよねぇ」

 ふっふふ、と慶之助さんが愉快そうに笑った。

 慶之助さんの笑いに答えるように、蛍が何匹か、ちかちかと強く瞬いた。

「……しぶといのは、いいこと?」

 私の問いに、慶之助さんは「ふふふふふ」と本当に楽しげに笑って言う。

「もちろん!」

 頭に、乾いた温かな手が置かれてぽんぽんと撫でられた。


 *


Side.C


「そーんなことが起こってたとはねぇ」

 三宅さんは、後ろの方にいるコトリたちを見ながら言った。

「俺もその場に居たかったなー。コトリちゃんのピンチに駆けつけるカッコいいおじさんになりたかった」

「いや……そんなええもんとちゃいますからね」

 一日、二日とはいえ、なかなか体力気力を削られた。

「でも、そのあとコトリちゃんのおかーさんは音沙汰無し?」

「それが」

 奥さんが、コトリたちの方へ歩いていく。

 それを見ながら、百さんが言った。

「うちのが、メールを送ってるみたいだ」

「奥さんが?」

 そうなのだ。

 あのあと、奥さんは猫山経由であの母親にメールを送り、その返信が直接奥さんのスマホに届いたそうだ。そしてそこから二日に一度くらいの頻度で、奥さんは母親にメールを送っているという。

「主にコトリちゃんの様子を報告しているそうだ。返信は来ないそうだけど」

 まあ、受信拒否されてないみたいだから、読んではいるんじゃない。

 と、百さんが肩を竦めた。

「へえぇ。奥さんらしいというか、何というか」

 それで? と三宅さんが何故か僕を見た。

「それに対して、その猫山さんとやらはどんな反応なの?」

 面白がるような口調に、僕はため息を吐く。

「別に、特にどうも。というか、あの日以来会ってへんから知りませんし」

 あの日。

 猫山は、釈然としない顔をしていた。

 自分が言い負かしてやろうと思っていたのだろうが、その気概を思い切りそがれた形になって、肩透かしを食らったのだろう。

『なーんか、やっつける間もなく、帰っちゃったッスね』

 僕とコトリが玄関でぼうっとしているとき、猫山はそんなことを言ったという。つまらなそうな顔で。

 それを奥さんが少々窘めて、半ば無理矢理、自分のメールを母親へと送らせたのだ。

 そして、何が変わったわけでもなく、コトリはそのまま僕たちのもとに居られることになり。母親も猫山に何か言うことなく、契約は続行されることとなった。

 平穏とは言いづらいものの、そこまで不穏でもない。この流れが、猫山にとっては少々納得のいかないものなのだろう。百さんは、そう推測した。

 もろもろ無事に終わったこともあって、それを表に出すことは憚られる。だから、あの釈然としない顔になったのではないか、と。

「やっぱりその人、復讐したい気持ちもあったのかな」

 三宅さんが言った。

 さあ、と百さんは首を振り、僕も、何も答えなかった。

「でも、いい結果だと俺は思うよ。だってコトリちゃんがここに居てくれるし、お母さんにも、コトリちゃんの様子を奥さんがお話してあげているんでしょ?」

「まあ、そうだね」

「そっちの方が、いいよね。何か」

 三宅さんは、んーっと伸びをしてから、彼もまたコトリたちの方へ行く。

「……どない思います?」

「わからないよ、そんなの」

 百さんは、にべもなくきっぱりそう言った。

「本当に、うちにいることがあの子のためになるかはわからないし。あいつが母親にメールを送っているのも、ただの自己満足だろうし。それに逆に腹を立てられて、厄介なことになるとも知れない」

 百さんの眉が顰められ、僕は苦笑する。

「そこまで悲観せんでも」

「でも、ありうることではあるよ。……でも、もろもろひっくるめて」

 ふう、と百さんは息を吐いた。

「今は今で、やっていくしかないんじゃない。なら、あれやこれや悩んでもしょうがないよ」

「それもそうですねぇ」

「そうだよ。……子どもが巣立つまでなんて、あっという間なんだから。悩んでたってその日はいつの間にか来てしまうんだよ。いい加減のところでやめとかないと、ばかばかしいよ」

「……そうか」

 僕は、ぽかんと口を開ける。

「コトリも、いつか巣立つんやなあ」

 あの母親は、僕らのところにコトリが残ること自体を『巣立ち』と呼んだけれど。

 そんな僕らの……僕の元からも、彼女はいつか巣立つのだ。

「当たり前じゃないか」

 何を言っているの、と言いたげに、呆れた声で百さんが言った。

「子どもって、そういうものだよ」

 そう言って、百さんは歩き始めた。

 コトリたちとは反対方向、進路の通りに。

 それでも、その足取りはゆっくりだった。

 きっと、どこかで追いつけるだろう。

 僕は、コトリの方へ行くか百さんとこのまま並んで歩くか迷って。

「いつか離れてまうなら、そら、悩んでる暇は無いわなあ」

 何となく、どっちつかずで、立ち止まっていた。

 そんな僕のTシャツの裾に、ふぅわりと蛍が止まる。

 意外だ。人懐こいのか、何なのか。

 不思議に思いながらも、考える。これをそのままにして、コトリに見せたら喜ばれるだろうか。それとも、やはり虫(しかもそれなりに大きいもの)だから嫌がられるか。しかし、ちょうちょには触れていたし……わからんな。

 僕は悩んで、思わず苦笑を零した。


 *


Side.K


 慶之助さんと三浦さんと別れて、駅まで歩く。

 ももさんたちは、私と父より十メートルくらい先にいる。

「はぐれたアカンから」

 と、父は私の手を取った。

 父の手は大きくて、温かかった。守られている感じがして、心もぽかぽかする。

 手を繋いで、夜の道を歩く。

 しっとりとして、水の匂いがした。

「蛍、綺麗きれかったなぁ」

 しみじみと父が言った。

「うん。とっても」

 暗い夜道に、ふわ、ふわ、ちか、ちか、と蛍の光が走る。

 その様子は、まるで夢みたいな美しさがあった。

 妖精が見えたら、あんな感じなのだろうか。

「また見に行こかぁ」

 また。

 それは、次の約束だ。未来も、一緒にいることを前提にした。

 胸に、ぽっと蛍の光みたいな明かりが灯った気がする。

 淡くて、でも確かで、夜の道を照らしてくれる美しい光。

「……うん」

 嬉しい。

 嬉しい。

 この嬉しさを、何か返せないものだろうか。

「あの」

「うん?」

「私は、何をすればいいですか?」

 父が、首を傾げた。

「何を?」

「えっと……何かした方がいいこととか……こうなって欲しいとか……」

 居場所をくれたこの人に。何かを返したかった。

 私が出来ることで、何か。

 父は、少しのあいだ宙を見つめて。

「せやなあ……うーん……」

 それから、うん、と一つうなずいて言った。

「一等、倖せになってくれ」

 はみ出し者でも良い。

 父は言った。

「ただ、一等、いっとう倖せになるんや。それでええ」

 一等? と私が問い返すと、「せや、一等や」とまた父は言った。

「今が自分の人生の中で一等倖せやって、ずっと思えるように生きたらほんでええ」

 私の手を握る力を強めて。

「わかったか? わかったな、コトリ?」

 笑顔だったけれど、その眼が痛いほどに真剣で、私は何故か泣きそうな気持ちになりながらもしっかり頷いた。

「うん。わかった」

 私は父みたいに笑うのが得意じゃなかったけど、何とか口角を上げて言った。

「そうするよ、お父ちゃん」

 父は、ぱちくりと瞬きをしたあと、笑った。


 あまりに美しい、無邪気な笑顔で。


「おーい! 二人とも、早くー! そろそろ電車出ちゃうよー」

 三宅さんが、先で大きく手を振っている。

「はあい!」

 返事は、二人同時だった。

 顔を見合わせ、ふふっと笑う。

「ちょっと走るで」

「うん!」

 ぎゅっと父がもう一度強く私の手を握り締めた。

 それから。

 二人で走り出す。

 何処までも柔らかく、水と緑の甘い匂いが漂うこの夜道を。

 笑い出したい気持ちを抱えて。

 二人で一緒に、走っていく。


 END.

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死んだ嫁が黙って養子を引き取ろうとしていたのでとりあえず僕が引き取ることにした 飛鳥井 作太 @cr_joker

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