第49話 さらば母校よ我が青春の日々


 父の三十五日は身内だけで、簡素にこぢんまりと執り行なうつもりだった。葬儀は致し方なかったとしても、三十五日はひっそりと身内だけで故人を偲びたかった。それに、葬儀時の辛さを考えると、靖子は浩子にもう一度同じ苦労を味わわせるのは忍びなかったのに、東京へ戻って早々、認識の甘さを思い知らされてしまった。

「靖子さん。邦子奥様と相談して、お呼びするお客様の名前をまとめましたが、もし漏れている方がいらっしゃれば、ご指摘ください」

 久子と自宅の玄関をくぐると、応接間から筒井浩子が駆けて来て、靖子に名簿のリストを手渡した。

「えっ! こんなにいらっしゃるんですか!」

 藤野の一族が百三十六人、本多一族は何と! 二百八十三人もいるではないか。ここに父の学友や先輩・後輩を入れると、総勢は五百六十八人にも及ぶのだ。葬儀の時と同じく、隣家の隠居宅と歩いて五分ほどの従姉宅も借りねば収容不能な人員であった。

「靖子さん。藤野先生だったら、此れ位は集まっていただかないと。箔ですよ、箔」

 久子はケロッとして、数字を見ても驚くどころか我がことのように胸を張るのだった。

 当日は三時からの法要だったが、正午過ぎから、藤野家は人、人、人で埋まってしまった。しかも法要が終わっても、故人を偲んでお参りに訪れる人々が後を立たないのである。

「あー、忙し! 忙し!」

 滅多に弱音を吐かない久子も、この日ばかりは余りの忙しさに音を上げてしまった。

 法要が終わり一段落付くと、故人の生前と徳に、ひとしきり花が咲く。涙を流す人もいるが、葬儀時のような深刻な暗さはもはやなくなっていた。

「本日はお忙しい中をお運びくださり、誠に有り難うございます。お口に合うかどうか分かりませんが食事を用意しましたので、お召し上がりください」

 靖子の言葉を合図に、婦人たちが各人の席へ膳部を運ぶ。仕出しサービスの店員たちも手伝ってくれるが、離れの人たちに行き渡るまでには小一時間もかかってしまった。

「靖子ちゃん。ちょっといいかな」

 一郎が広間へ入って来て、分家の幸治と龍一郎に酌をする靖子に声をかけた。

「はい」

 二人に断わりを入れ、靖子は居並ぶ親族たちの前を、一郎に付いて中庭に面した応接間まで歩く。

「やあ。忙しいところ、わざわざ呼び出したりして済まないね」

 法学部長の奥山が相好を崩し、ソファーから右手を上げた。応接間には日本の法学界を代表する錚々(そうそう)たる面々が控えていた。

「そこへ掛けて、奥山君の話を聞いてみないか」

 一郎に促されて、

「‥‥‥はい」

 靖子はドア横の椅子に腰を下ろして畏(かしこ)まる。

「―――実は近々開かれる教授会の議題のことなんだけどね、あらかじめ君の考えを聞いておきたいと思ってお呼びだてした次第なんだが」

 おもむろに口を開くと温厚な笑顔にふさわしく、奥山教授はゆっくりと穏やかな口調で話し始めた。

「お父さんの後任に、我々は直則君を推すつもりだったんだが、一郎先生のお話ではどうやら無理らしいんだね」

「‥‥‥はい」

 直則の意思は靖子にもよく分かっている。

「そこでね、我々は君を助教授として迎えたいんだが、どうだろう」

 奥山教授は靖子の顔をのぞき込んだ。室内全員の視線が自分に注がれていて、靖子は縮み上がる思いである。

「―――私のような未熟者を買っていただいて、本当に恐れ多いことです」

 取り敢えず無難な言葉を口にして、礼を述べる。

「いやぁ、そうへりくだる必要はないよ。君の能力は皆、高く買ってんだし、それに昨年末に発表した学内論文。あの、お父さんの追悼記念と銘打った、〈違法性阻却事由としての正当行為の位置づけ〉。あれは良かったよ。お父上に対する思いが、文字の一つ一つからほとばしってくるんだ。僕なんか読んでいて、紙面がかすんで仕方なかったよ。刑法三十五条に関する藤野理論の集大成だって、学界の評価は想像を絶するもんなんだ。さすが藤野先生の娘さんだなって、みんな感心しきりだよ。すでに君の耳にも入っているだろうけど、藤野教授の正統後継出現! って、学内外で大変な騒ぎだよ。〈藤野教授追悼(ついとう)記念論文集〉の編者を仰せつかった僕としては、冒頭論文選考の必要がなくなって、本当に有り難かったよ。もちろん君のを掲載させてもらうよ。―――君に異論がなければの話なんだが」

 父の後輩の板橋教授が、右手のソファーから笑いながら靖子を煽てる。

「どうかね。受けてみる気はあるのかね」

 四十後半の若手だが、将来を属望されている石山教授まで正面ソファーから身を乗り出してくる。

「はい。私の一存では‥‥‥。直則と相談してから返事を差し上げたいと思うんですが‥‥‥」

 靖子が恐る恐る顔を上げて口を開くと、

「靖子ちゃん、直則に相談することなんかないよ。これは君の助教授就任の打診であって、直則のじゃないんだから」

 一郎が腕を組んで、憮然とした面持ちで釘を刺した。

「ええ、でも‥‥‥」

 何と答えようか迷っていると、

「母校で教鞭を取るのが君の小さい頃からの夢だったんじゃないのか。直則なんかに振り回されて、京都で一生を棒に振るつもりなのか。英さんが悲しむぞ!」

 一郎がきつい言葉を投げてきた。

「おじ様! 私の小さい頃からの一番の夢は、本多直則の妻になることだったんです。そして、それが本多を出された父の夢でもあったんです。だから直則と京都で暮らすことには何の躊躇(ためら)いもないんです。ただ‥‥‥」

 ムキになって反論したものの、最後は口ごもってしまった。やはり学者としての欲は、捨て切れていないのだ。

「‥‥‥まあ、今日すぐに返事をもらわねばならないことじゃないんだから。ともかく、我々の意向はよく知っておいてもらいたいんだ」

 気まずいムードが漂う二人の間へ、奥山教授が遠慮がちに割って入る。

「はい。どうも有り難うございました。出来るだけ早い機会に返事を差し上げますから―――。今日はどうも有り難うございました」

 部屋を出るとき、靖子はもう一度、深々と頭を下げた。先送り出来るものなら先送りしたいのに、早急に返答せねばならない難題を与えられてしまった。ノブを持つ手が滑るほど、靖子は緊張で体から汗がにじみ出ていたのだった。

 翌日、本多の車に乗せてもらい、靖子は久方ぶりに母校を訪れた。今日は成人式。祝日のため、キャンパスに人影はまばらだった。

「ね、直則さん。私の成人式の日に、こうして大学へ連れて来てくれたでしょう。覚えていらっしゃる?」

 時計台の前で、靖子は本多を振り向いて意味あり気に笑った。

「あれからすぐ京都へ行ってしまって。お別れのつもりだったのね」

 当時を思い出して、靖子は笑いながら本多をにらみつけた。

「ね。少し歩きましょう。今日は一大決心をしてきたんだから」

 コートの襟を立て枯れ葉を踏み締めながら、靖子はさり気無く本多の左腕に右手を通した。

「昨日、一郎おじ様に食ってかかっちゃったわ。―――だって、直則さんに怒っているようだったもの‥‥‥。でもあの時よく分かったの。一郎おじ様にとって、大学というのはここだけなのね。ここしかないのね」

 立ち止まって、靖子は時計台を仰ぎ見た。

「私もそうだったのよ。少し前までは大学はここだけで、ここへ入るために、それこそ死に物狂いで勉強して、青春の全てを捧げてきたように思ってたの―――。でも、そうじゃなかった。そうじゃ、なかったのよ。ここにあなたがいたからなのよ。私にとって大学はどこでもいいの。あなたがいるとこだったら、どこでも。―――主体性がないでしょう」

 靖子は本多にもたれて、甘えるように彼を見上げた。

「さあ、どうかな‥‥‥」

 時計台を仰いで、本多は苦笑いを浮かべた。主体性を欠くのは他ならぬ我が身なのだ。

「さらば、‥‥‥わが母校」

 小さくつぶやくと、靖子は本多の腕を両手で抱いて、グレーのコートの胸に顔を埋めた。一つの夢が成り、そしてもう一つの夢は、自らの意志で消し去ってしまった。

 ―――古都にくちづけ、さよなら吾妻都(あづまみやこ)‥‥‥。

 母校のキャンパスで、靖子は古都に根を下ろし、新たなる遙かな夢の邁進を誓ったのだった。




♪1 燃える思いの我が恋心 熱き血潮に身を委ね 君住まう京に駆けて 若葉のキャンパス 華やぐ加茂の岸辺 雅(みや)ぶ都に 愛する君 満ちたるはずの我が胸 ああ くちづけ京に マイスィートハート ♪


♪2 なぜにむなしい我が恋心 君を慕いて古都に住む 初恋は結ばれぬと 枯葉のささやき 霜降る八瀬の小路(こみち) 夜寒(よさむ)の都(みやこ) 揺れる心 君呼ぶ声も 消えゆく ああ くちづけ 古都に マイスィートハート ♪


♪3 花の簪(かんざし)そろいの浴衣(ゆかた) 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の音 山鉾(ぼこ)に君と見とれ はるかなふるさと帰らぬ東都(あずまみやこ) さらば母校よ 我が青春 悔いなき決意 とこしえ ああ くちづけ 古都に マイスィートハート ♪


      




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古都にくちづけ、さよなら吾妻都(刑法学者と売れない作家が、大学病院と出版社のミスと不正に迫る) 南埜純一 @jun1southfield

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