第48話 日本海


 取り敢えず婚約発表はしたが、本多には結婚に向けての青写真がまだ出来ておらず、また早急に作成する気もなかった。ただ、非公式とはいえ外部に発表してしまったので、本多一族の者は本多と靖子の結婚に向けて動き出していた。特に母や祖母、それに妹たちは式の日取りを早く決めろと、うるさくせっつく。京都にいてこの有り様なのだ。東京へ帰れば推して知る可(べ)しで、本多は例年通り年末年始も帰郷を果たさず京都で過ごした。

 例年と違って、今年は靖子が京都にいることから、本多は正月三が日を平井家の客人として身に余るもてなしを受けたのだった。まるで平井家の婿としての扱いなのだ。

 藤野が亡くなってからというもの、靖子は事実上、平井家の娘のような存在で、久子などは、

「靖子さん。本多先生とうちで暮らせばいいのよ。どうせ私たちには子供がいないんだから、私たちが死んだら、この家は自由にしてもらっていいんだから」

 などと公言する有り様なのだ。平井も満更でない様子で、

「何だったら、庭に離れでも建てようか。広くもないが、それくらいの余裕はあるだろう」

 久子に同調して、彼女をけしかける。

 十日の今日も朝から平井宅を訪れ、本多は安政と差し向かいで酒を飲んでいた。

「あら、殿方はいいご身分だね。うらやましいよ。でも、それも今日で終わりだから」

 久子が忙(せわ)しなく動きながら、いつもの減らず口をたたく。十四日が藤野の三十五日なので、今日の午後から靖子と東京へ出かけることにしていて、その準備に追われているのだ。

「君たちがいない間、本多君にここへ泊まってもらおうと思ってるんだ」

 ウイスキーに日本酒、朝からチャンポンで、安政は上機嫌であった。急の思い付きが余程気に入ったのか、本多に銚子を向けてニヤッと笑いかけた。

「えっ! いや、それはちょっと」

 慌てて猪口を置いて、本多が異議をはさむ。久子のいないときの安政の世話や相手など、ご免被りたいのだ。酒が入ったりすれば尚更だった。

「何か、用事でも?」

 本人はまったく応えておらず、というか、例のポーカーフェイスなのか、酒が入っているので判読はすこぶる困難だが、いちおう怪訝顔を浮かべ本多に酒を勧める。

「ええ、明日晴れていれば、富山へ行こうと思っているので」

 無難な断わりを口にして、本多は苦笑いを浮かべながら猪口を差し出した。

「明日、雪が降ったら中止してくださいね。いくら四WDだからって、雪道は危険だから」

 耳に入ったのか、靖子が奥のキッチンから本多に釘を刺す。着物姿で久子と二人、甲斐甲斐しく動き回っている。

「うん、分かっている。雪道を富山まで走るほど、無謀じゃないよ」

 苦笑いのまま、本多は軽くキッチンへ視線を送った。桜田となお子の喫茶店は今日が開店初日だった。世話になったことでもあり、礼を兼ねて開店祝いを明日、持参するつもりなのだ。それに、北原が親友付き合いしていた桜田とは一度、ゆっくり話をしたかった。

「桜田さんに宜しくおっしゃってくださいね」

 酒の肴に数の子と煮豆を居間のテーブルへ運んできて、靖子が本多に念を押した。

 翌朝八時に、本多は自宅を出て黒部へ向かった。平井宅へ立ち寄って、靖子と久子を京都駅まで送ろうかとも考えたが、十時過ぎののぞみに乗ると言っていたので二時間近く間があり、その間、安政に酒の相手をさせられそうで思い止まった。十八日まで講義がないので、彼はアルコール漬けの毎日を送っているのだ。今夜から、小林が平井家の食客になるが、司法試験の指導とは名ばかりで、酒の相手をさせられるのが落ちだろう。

「小林君。司法試験なんて受けなさんな。大学で教鞭を取るのが希望だったら、あんなもん、受けたって意味ないじゃないか」

 平井の口癖で、今夜からうんざりするほど、小林は耳に放り込まれることになるのだ。

 ―――ひどい状態だろうな‥‥‥。

 困り果てた小林の顔が浮かんできて、何とも言いようがない。本多は苦笑しながら高速へ向かったのだった。

 事前情報や予測に反し、関ヶ原に差しかかるとチェーン装着の表示が目に入ってくる。雪は降っていないのだが、道路に一部、凍結カ所がありスリップ事故の危険があるのだ。パーキングエリアへ入って取り敢えず前輪のタイヤにだけチェーンを巻いた。黒部へ着いたのは一時過ぎだった。

 さすがに冬の日本海は厳しく、風は唸り、道の両側には積み上げられた雪塊が高低まちまちの壁を作って延々と続いていた。カーナビを頼りに海岸通りに入ると、ドドドーッ! と荒波が激しく堤防に襲いかかっていた。

 ―――採算が取れるのだろうか‥‥‥。

 こんなところで喫茶店をして、やっていけるのか他人事ながら心配になるが、まさに桜田となお子には余計なお世話であろう。一般道へ入り低速で走っていると、チェーンがシートとハンドルに送るゴツゴツと不快な違和感に気づく余裕も生まれ、いらぬ気遣いまで湧いてくるのだ。本多が苦笑いを浮かべながら前方に目をやると、目当てのカフェー〈海岸通り〉が視界に入ってきた。カーナビに住所を打ち込んであるが、道に並ぶ花輪が真っ先に所在を教えてくれたのだった。一本道の道路沿いに、開店祝いの色とりどりの花輪が鉛色の空に挑むように立ち並んでいるのだ。

 店の山側には駐車場が広がり、ワゴン車からジープ・乗用車に至るまでカラフルでバラエティーに富む車が二十台近く駐まっているが、大半がスキーを積んでいた。ジャリジャリッとワイドタイヤで雪氷を踏み、本多も車を駐車場に入れる。車内でキャラバンシューズに履き替え、ハーフコートを羽織って車から降りると、

「おうっ!」

 思わず声が漏れる寒さで、潮の匂いを含む寒風が顔に突き刺さって来た。手摺りまでカチカチに凍った階段を上がり店内へ入る。採光の良いライトフルな店で、若者がセーターや軽快なスキーウェアに身を包み、活気溢れる声が店内を飛び交っていた。

「いらっしゃい」

 マスターがカウンターの中から本多を迎える。蝶ネクタイにチェックのベスト、くわえパイプが様になるロマンスグレーだった。

 カウンター内にはもう一人、ジーンズに黒いセーターというラフな格好だが、はっと引きつけられる色白の女性がいて、かいがいしく注文をこなしていた。

 本多がどのテーブルに着こうか迷っていると、

「どうぞ、そちらへ」

 マスターがカウンターから出てきて、一番奥のテーブルへ案内する。

「失礼ですが、ひょっとして、本多さんではないですか」

 桜田の東京弁に、

「ええ、初めまして」

 本多は笑顔で右手を差し出した。

「背が高いんですね。北原さんからよく伺ってましたので、初対面の気がしないですね」

 本多を見上げ、桜田は上機嫌だった。

 なお子が運んできたコーヒーを飲みながら、しばらく雑談を楽しんでいたが、

「どうです。少し外へ出てみませんか。日本海の荒波を見ながらお話したいんですが」

 桜田は頬を紅潮させ、若やいだ仕草で本多を誘った。

「ええ、いいですね」

 本多が笑顔を返すと、桜田はカウンター内から長いブーツを二足運んで来た。

「滑らないよう、注意してくださいよ」

 ブルゾンを着た桜田の後に付いて店を出た。並んで道路を横切り、防波堤の階段を上る。革手袋の手が凍えるように冷たい。

「凄いエネルギーを感じるでしょう」

 波がうねりを上げて押し寄せ、テトラポットを運び去らんばかりの勢いなのだ。黙って本多が、暗く荒れ狂う日本海を眺めていると、

「来て良かったと思ってます。これからの人生を、黒部でやり直そうと―――、どこまでやれるか分かりませんが‥‥‥」

 桜田は苦笑しながら頭を掻いた。

 本多が微笑むと、

「藤野さんに会わなければ、こんな決心は出来なかったでしょう。藤野さんにお礼を申し上げといてください」

「いや、こちらこそ、桜田さんには随分お世話になって」

 暗に経理帳簿のことを言う。

「いいえ、こちらの方こそ助かりました。新聞記者の楠岡さんがヤクザ者を追い払ってくれましたし」

 ヤクザが押しかけて来たとき、楠岡の友人たちが一斉にフラッシュを焚いて追い返してくれたのだ。

「それに退社するまで、空手部の学生さんを僕のボディガードに付けてくれたんで、助かりました。こっちの方はからっきしダメだから」

 桜田は右手を上げて、笑いながら拳を作った。ハンサムな癖のない笑顔を見ていると、本多は北原にも匹敵する親友が出来た、そんな実感が湧いて来て、今日初めて会った現実など何処かへ消えてしまうのだった 。

「それはそうと、北原さんが追ってた浪速帝大病院の医療ミス。あれはどうなりました? 原稿が出来上がったら検討してくれって頼まれてたんですけど、拝読する機会をなくしちゃったから」

 桜田も北原を思い出して、しんみりとした面持ちで横に並ぶ本多の顔をのぞき込んだ。

「ええ、相当進んでます、―――我々の調査ではなく、ライバルたちの」

 本多は苦笑いを浮かべ楠岡からの情報を桜田に説明した。本多も都の協力を得て、小児外科の人事面の疑問を調べようとしていた矢先に、楠岡に告げられてしまった。

「小児外科の助教授に青谷氏が就任したんだが、彼は一般外科専門なんだ。小児外科の助教授就任は、それほどすんなりと納得できる事態ではないんだ。それに小児外科の助教授だった、高林助教授の退任も不透明な点があって、彼が執刀医ないし責任者だった場合、詰め腹を切らされたという可能性無きにしも非ずなんだ。ところがな、例の予備校講師たちはその点も含め、徹底的に調べ上げているんだ。驚いてしまったよ」

 前戸達夫と城野健、この二人が協力し合って調査に携わり、前戸の婚約者で女医の熊谷遼子と城野の恋人で元ジャーナリストの鈴木操が彼らをサポートしているのだ。城野というのは北原を瞬時に倒した例の中背の男で、予備校で物理を教えながら、法華流体術という理論格闘技を確立し実践していることが本多の調べから分かっている。

「ミスは十年以上前に行なわれた恐れがあって、その場合、診療契約に基づく損害賠償請求権は時効で消滅しているんだが、不法行為に基づくそれは、ミスが行なわれた時から二十年まで可能らしいから、―――おっと、これはお前には釈迦に説法だな」

 楠岡は苦笑しながら、興味深い今後の展望を語ってくれたのだった。

「鈴木操が医療ミスを題材とする小説を執筆しているんだ。俺もジャーナリストの端くれとして彼女に協力することになったんだが、先日ゲラの一部を渡されて読んでみたんだ。非常に評価できる内容で感心してしまったよ。‥‥‥それにな、小説の中で、情報の提供呼びかけを検討しているんだ。一千万円の懸賞を掛けてな。弁護士が被害者勝訴に直結すると判断すれば、提供者に一千万円を供与し、複数の提供者があれば頭数で割るんだ。勝訴に直結するに至らない情報の場合は五百万、三百万というランクで懸賞金を付けるという内容なんだ。金は彼ら四人が負担するらしい。本の内容といい、懸賞金といい、ミスを明るみに出すには相当有効な手法ではないか。―――ま、そんなわけで本多よ、お前の出番はどうやらなさそうだぞ。彼らと、俺らジャーナリストに任せろ!」

 楠岡は自信あり気に胸を張って、元詩吟部員に相応しく肥満気味の体を揺すりながら哄笑したのだった。

「そうですか。そりゃあ良かった。雄ちゃんも心置きなく永眠できるでしょう。僕も気が晴れますよ。以前、ジャーナリストとして新聞社に身を置いた者だから。北朝鮮による拉致疑惑のように、声が大きくなれば、浪速帝大病院もミスを認めざるを得なくなるんじゃないかな。そうなれば最高なんだけど―――。それに、もしその人たちが浪速帝大病院を追い詰められなかったら、本多さんと藤野さんがやられるんでしょう。北原さんのために、‥‥‥多分、職を賭してでも」

 不敵な笑みを浮かべると、

「さあ、体が冷えてきましたね。店へ戻りましょう」

 桜田は北原の仕草を真似て、本多の肩をはにかみながらポンとたたいたのだった。


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