第47話 嫁と姑
今年の一年も後二日で終わり、日本列島に間もなく新しい年が訪れようとしている。エルニーニョだかラニーニョなのか、都は難しい言葉は苦手であまり覚える気もないのだが、異常気象の原因が新聞でも取り沙汰されていて、新年間近というのに天候は相変わらず不順だった。暖かいと思えば急に寒波が襲ってきて、猫の目のようにころころと空模様が変わるのだ。
こんな不順な天候にもかかわらず、古賀都―――戸籍上はすでに北原都になっているが―――のお腹の胎児は、すくすくと順調に育っていた。婚姻届を出してしまうと、生まれてくる子は嫡出子であり、当然、北原の両親の相続人(代襲相続人)たる身分を取得する。北原の両親にも影響が及ぶことなので、本多が彼らに了解を求めると、
「そういうことでしたら、喜んでお願いします。あの子の自殺には、私たちも責任があるって、主人とも話していたんですよ。‥‥‥本多さん、都さんに私たちと一緒に住んでくれないかって、頼んでもらえませんか。一緒にこの家で育てたいんですよ」
母の春子に涙声で迫られ、
「本多君! 何とかお願いするよ。私たちを助けると思って、都さんに頼んでくれないか!」
父の雄一にまで手を握って、懇請される有り様だった。彼は息子の死後、校長職はもちろんのこと公務員も辞職し、春子と二人だけの家で気の抜けた、廃人さながらの日々を送っていたのだ。
「一度頼んでみましょう」
二人を安心させ、都の説得は靖子に引き受けてもらった。彼女が連絡を取ると、
「お母さんが取っ付きにくそうな方で苦手なタイプだと思ってたんだけど、そうおっしゃってくださるんだったら、お言葉に甘えようかな。だって、何かと助かるんだもの。それに私、こんな性格だから余りお金を貯めてなかったの」
都は仕事の都合がつき次第、北原家の嫁として同居することに同意したのだった。
「こんにちは、お邪魔します」
十一月一杯で仕事を辞めて、手提げ鞄一つの身軽さで北原家の門をくぐった都の第一声だった。普段の生活の延長のつもりで東京からやって来たのに、義父母の余りの歓待は都を呆れさせてしまった。まるで御姫様のような扱いで、上げ膳据え膳なのだ。
「まだまだ動けますから―――。それにナースの仕事ってきつかったのに、急に動かなくなったら肥えちゃって、お腹の赤ちゃんに悪影響が及ぶから」
二人に何度も説明するのだが、なかなか納得してもらえない。大晦日前日の今日も、作業場だった北原の部屋を片付けていると、
「都さん、余り無理しないでくださいね。暖房入れなくて寒くありませんか」
義母が入ってきて心配顔で尋ねる。
「大丈夫です。私、寒いのは慣れてますから。それに今日は暖かいから」
ガラスサッシから暖かい日差しが差し込んでいて、部屋の中はぽかぽかと暖かった。
「お義父さんは?」
「さっき、自転車に乗って、駅前へお餅を買いに」
雄一は正月用の餅と、多分、子供のおもちゃを買いに行ったのだろう。都が越して来てから、義父はよく動く。息子の自殺以来、家に閉じ籠もり切りだったが、都が来てからというもの、まるで別人のように朗らかで活発になった。人間、特に老人には心の張りが必要なのだろう。病院での経験でよく分かっていたつもりだったが、義父の変化を目の当たりにすると、やはり新鮮な驚きと、ちょっぴり自惚れが湧く。
「お義母さん、紅茶を入れますから」
北原が原稿書きに使っていた、彼製作の大きな一枚板の机に春子と並んで座る。
「‥‥‥都さん。私は母親失格だったんですよ。雄治の気持ちを理解する努力もしなかったんだから。あの子が生まれたのが、私が教育大の学生だった三回生のときで、両親とも未熟でした。忙しくて、子供の頃から叱ってばかりいたんですよ。ボクシングを始めたのも、きっと親に対する反抗の捌け口だったと思うんですよ。高校のとき、喧嘩で相手に怪我をさせたときだって、教師としての世間体ばかり考えて、あの子の気持ちをちっとも思い遣らなかった。相手が悪かったのに、『オリンッピクに出られなくなって、いったい何のために朝から晩までボクシングなんかしてたのよ!』って、責めるばっかりで。〈銀座の事件〉の時だって同じだったんですよ。藤野先生や本多さんがあんなに一生懸命、雄治を弁護してくれたのに、私たちはマスコミが恐くて逃げてばかりで、‥‥‥本当に恥ずかしい親ですよ。幾代さんとのことだって、無理に私たちが結婚させたようなもんなんですよ。早く結婚させたら世間体もいいし、雄治も落ち着くんじゃないかって。でも、結局ダメでした。あの子は私たちが選んだものを、悉く拒絶してきたんですよ。自殺されてよく分かったんですよ。雄治は私たちの子供であることを、ずっと、ずっと、拒み続けてきたんだなって。あのときは、主人も私も応えましたよ」
春子はティーカップを両手で抱きながら、涙ぐんだ。
「お義母さん。余り深く考えない方がいいですよ。余り深く考えたり思い込んだりすると、何も出来なくなるでしょう」
過剰な期待は失望を生むだけだ、と言おうとしたが、止めた。言うか言うまいか、するかするまいか、と悩むことは、たいてい止めたほうが良いし、二十歳の頃からそう決めて実践してきたのだ。
「雄治さんが、お義母さんとお義父さんを拒んできたかどうか私には分かりませんけど、何か屈折したものを持っていたのは感じていました。でもそのことも含めて、私は彼が好きだったんです。初めてでした、こんな気持ちになったのは。だから本多先生に、手術を受けるよう説得してほしいって頼みに行ったんです。でも本多先生の態度を見て、ダメだなと思いました。あの時は、説得する気がないんだなと考えましたが、そうじゃなかったんです。本多先生は説得しても無駄だって、直感的に感じたんですね。凄いなって思いました、二人の友情が。ベタベタせずにサラッとしているんですが、分かるんですね。お互いの考えていることが。靖子さんも言ってました。あの二人には叶わないって。とても叶わないことが、よく分かったって」
春子の手をそっと握って、都は彼女に微笑みかけたのだった。
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