第46話 坊ちゃんの町
運命というのは便利な言葉で、全ての難題がこの言葉一つで片付くが、いかなる法則をも生み出さないという意味では、虚無と言ってよいだろう。虚無の器にいかに豪華な中身を盛り込もうと、それは所詮仮想の域を出ず、むなしい試みに終わるだけではないか。桜田はそう考えて、必然を正当化する宗教を嫌ってきた。
闘う文学を標榜し、哲学と同じく文学も科学の前衛たる役割を担うべきだとする考えからは、科学性に目をつぶることは許されなかった。そしてここにいう科学とは、検証可能な法則の定立、つまり経験的事実を仮説法則に当てはめ、修正を繰り返して仮説を普遍法則にまで高めるもので、合理経験主義ともいえる立場に与(くみ)するものである。彼の小説の評価基準も概ねこのような手法で得られたものであるが、現実に当てはまるものはこれまで皆無に等しかった。
いつか自分の基準に則ったものを書こう、そう考えてきたが、書けなかった。書こうとしても、余りに基準が厳格すぎて筆が進まないのである。ところが不思議なことに、中沢なお子に会って急に筆が走り出した。書きたくて、居ても立ってもいられないのだ。
結局、自分がこれまで拠り所としていたのは評論家としての基準であり、それはそれで間違っていないのだが、これでは小説は書けないと分かった。当たり前のことだが、創作と評論は違うのである。このことを、桜田はなお子に会って知った。敬虔なクリスチャンの彼女に教えられたのである。
黒部から帰っても、二階の自室にこもって小説を書いていると、
「徹ちゃん、とうとう自分の作品を書く気になったんやね」
美佐子は手放しで喜んだ。
「美佐ちゃん、僕、十二月で近書院を辞めようと思うんだ。いま書いてるのをライフワークにしようと思ってるんだ。そのために、黒部である女性と人生をやり直したいと考えてるんだ」
美佐子になお子のことを打ち明けると、
「めでたいことやんか。やっと好い人に巡り会えたんやね。―――分かった、それくらいのお金やったら、何とか都合つくさかい、徹ちゃんの出世払いにして貸したるわ」
彼女は資金援助まで申し出てくれた。これで、喫茶店のマスター兼作家、夢世界へのレールが繋がったのだ。
近書院のゴタゴタが解消するまで、過渡的に桜田を社長に推す声もあるにはあったが、彼は固辞して二十一日付で退社した。今後の人生はすでに設計図が出来上がっていて、また、惜しまれながら去る、これも彼の美学に叶うものだった。
「それじゃ、色々ありがとうございました」
荷物を整理して、三時過ぎに近書院を後にした。なお子が四時前、黒部から大阪に着くので、これから大阪駅へ迎えに行くのだ。新しい門出を祝う意味を込め、二人で今夜、四国松山へ旅立つ予定だった。新婚旅行の真似事も兼ねていた。
入場券を買って、三番線のプラットホームで待っていると、三時五十一分着の雷鳥三十号が滑り込んで来た。ホームに降り立つ乗客の人込みに目を凝らすが、見つからなかった。
「‥‥‥あのう」
普段のラフな格好からは想像もできなかったが、白いスーツに白いオーバー姿のなお子が、はにかみながら後ろから桜田を呼んだ。結婚式をあげないので、せめて旅行着だけは白にしたかったのだろう。長身に白が似合って見栄えがする。
「大阪は初めてだから、こんな服で来たんですが‥‥‥」
あまり見とれられると、なお子は恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
「僕が持つから」
彼女の手からボストンバッグを受け取り、
「空港へ行く前に、ちょっと家に寄りたいんだ。いいね」
並んで階段を下りながら、桜田はもう一度、昨夜電話で話したことを告げる。
「はい」
美佐子に会うことを考えて、なお子は神妙になる。人見知りする性格で、初対面の人と話すのは苦手だった。
「どう? 一年振りに、大都会へ出てきた感想は。東京に次ぐ、第二の都市だよ」
緊張を和らげようと、桜田は京阪京橋(駅)の改札を入って、なお子に軽口をたたいた。
「ええ、本当に大きな駅ですね」
なお子は軽口を素直に受け取り、感心しながら、ホームへ上がる延々と長いエスカレーターを見上げた。
「鯱張らなくていいんだよ。ざっくばらんな人だから。さあ、肩の力を抜いて」
駅を降りて家に着くまでなお子は神妙な面持ちを崩さなかったが、玄関へ入ると彼女の杞憂は雲散してしまった。
「今晩は。いやぁ、ホンマに綺麗な人やないの! おとなしそうで、―――徹ちゃんのお嫁さんに、ピッタリやわ!」
美佐子の地そのままの飾らない出迎えに、
「いえ、恥ずかしいです。私のような者が」
なお子は挨拶も忘れてはにかんだ。
「な、徹ちゃんもなお子さんも、もっとゆっくりしていったらエエのに。晩ご飯ぐらい食べていって欲しかったのに」
すぐ出かけようとする二人に、美佐子は不満顔を向けて未練たっぷりだった。
「悪いけど、飛行機に遅れちゃうから」
大阪空港へ急がないと、本当に乗り遅れてしまうのだ。
その夜、八時過ぎに松山へ降り立った二人は、タクシーで松山駅前のホテルへ向かった。
「松山に決めたのは、いま書いてられる本と関係があるんですか?」
なお子は珍しそうに車窓から夜の町を眺めていたが、信号で止まると、思い出したように桜田に視線を移した。
「いや、まったく関係ないよ。ただ、新しく出直すためにも、坊ちゃんの町をゆっくり見ておきたいと思ってさ」
漱石縁(ゆかり)りの町を訪れて、桜田は上機嫌だった。
二人は二泊三日の四国の旅を、松山から道後、それに小豆島まで足を伸ばし、心行くまで堪能したのだった。
「私一人、いつも取り残されて、‥‥‥本当に辛い思いをしてきましたけど―――。でも良かったです、あなたに巡り会えて」
帰りの機中で、なお子は桜田にもたれてしんみりとつぶやいた。
「さあ、どうかな。とんでもない男に巡り会ったのかも知れないよ。いずれにしても、間もなくメッキが剥げちゃうんじゃないかな」
年が明ければ、喫茶店のマスターと作家。二足のわらじを履かねばならない桜田には、旅情に浸りっぱなしという、心底楽しい新婚旅行というわけには行かなかった。
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