第45話 母と子


いつの頃か日本社会に定着した〈♪ジングルベル〉であるが、すでに師走の風物詩になって久しく、十二月も半ばを過ぎるといよいよそのトーンが高くなる。街は歳末商戦たけなわで、商店のあちこちで、大小とりどりのきらびやかなクリスマスツリーが目を楽しませてくれるのだ。

「やっと今日で終わりね」

 集中講義を終えて、十一時過ぎに靖子が本多の部屋のドアを開けた。大学はすでに冬期休暇に入っているが、集中講義は二十日の今日まで、四日間打(ぶ)っ通しで続けられていた。

「ね。お昼、小林君にご馳走したいんだけど―――、代講のお礼を兼ねて」

 コートを脱いで、靖子は本多の向かいに腰を下ろした。四日連続の講義を終えて、肩の荷を下ろした気分で、少し解放感に浸りたいのだ。

「そうだな‥‥‥」

 本多は腕時計に目を落として思案顔だった。日曜の今日、小林は一時から明和法務教育出版京都校の百万遍サテライトクラスで司法試験の答案練習会に参加する。十一時二十分の今から食事に出たのでは、日答練(日曜答案練習会)に間に合うのだろうか。

「とりあえず、声をかけてみるわ」

 靖子が隣室のドアをノックして小林を誘うと、

「ええ、大丈夫です。ご馳走になります」

 彼は屈託ない笑顔で招待に応じた。スハルノは久子が東京から帰ると、喜び勇んで十九日にインドネシアへ帰国して不在だった。

「京都は寒いでしょう? でも京都の冬はまだまだこんなもんじゃないですよ。なんてったって、底冷えがして脚から凍ってきますからね」

 ダウンのブルゾンに、スキーウェアさながらの防寒パンツ。完全防備の小林が、白い息を吐いて靖子を脅(おど)かす。

「滑らないように、気をつけろよ」

 駐車場へ歩きながら、本多が靖子を気遣う。うっすらと雪が積もっていて、ローヒールの靴は滑らないかと冷や冷やするのだ。

「ちょっとの間、暖気運転だ」

 車に乗り込み、しばらくエンジンを吹かす。父の車と違い、今月購入した新しい四駆(四輪駆動車)なので、冬でもエンジンのかかりが良く、装備も万全だった。

「遅れるといけないから、百万遍で食事をしようか」

 車の賑わう今出川通りを東へ走りながら、後部座席の小林に声をかける。

「ええ、そうしてもらえると助かります」

「そうね、あの辺りはたくさん食堂があるから」

 助手席から靖子も相槌を打つ。明和法務教育出版の司法試験講座は彼女のお気に入りで、何度か日答練講師に招かれていて、百万遍界隈は結構詳しいのだ。

「中華料理でも食べよう」

 本多はチャリが並ぶパチンコ店横の路上に車を止めた。豪華な料理は後日に回して、今日はとりあえず簡単な食事で済ますことにしたのだ。

 学生の町と呼ばれるだけあって目につく者は大半が学生で、小林のように年末間際にようやく帰省する者が京都では数多く見られる。アルバイトにも事欠かず、学生にはその名の通り住みやすい町であるが、住みやすいから学生が多くなったのか、学生が多いから住みやすくなったのか、集団力学ともからむ興味深い問題で、この解釈手法を本多は最近、法学解釈にも取り入れることを試みていた。要は硬直的な手法ではなく、刑法でも柔軟に相乗効果を分析する、利益衡量論にもう一度光を当てて見ようという立場なのだ。

「ねぇ、折角ここまで来たんだから、吉田神社へお参りしない?」

 小林が店を出た後も、しばらく店内でくつろいで講義の疲れを癒していたが、幼い頃に父と訪れた神社を思いだし、靖子が本多の顔をのぞき込んで誘った。

「そうだな」

 京都へ来てから、本多は一度も吉田神社を訪れたことがなかった。

 鳥居近くの、京都大学に面した道路に車を止めて外へ出ると、

「あっ! 直則さん、雪! ほら、ほら! 見て。ねぇ、見て!」

 先に出た靖子が天を仰いで子供のようにはしゃいだ。

「うん」

 ひらひらと白い天使が本多のハーフコートの肩にも舞い降りてきた。

「寒いわ」

 震える真似をして、靖子は本多に体を寄せて彼の腕を抱いた。

「滑らないかしら」

 玉砂利を踏み、並んで石段を上ろうとすると、

「お姉ちゃーん!」

 突然、境内から声が降ってきた。

「え!?」

 見上げると、のぶ子だった。

「‥‥‥」

 靖子は思わず抱いている本多の左腕を離した。石段の上で、千津がのぶ子と貴志の手を引いて、気まずそうに立っていた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんでしょ! こないだウチへ来た」

 のぶ子は千津の手を離すと、石段を駆け下りてきた。

「そうよ、のぶ子ちゃん」

 靖子はしゃがんでのぶ子を抱き止めた。自分の横で、本多がじっと千津を見上げているのは分かっていた。

「お姉ちゃんと一緒に、少し歩こう。そこのお店で何か買ってあげてもいいわよ」

 姉を追って来た貴志とのぶ子の手を取って、靖子はことさら明るく二人に笑いかけた。千津には借りがあるような気がして、どうしてもこちらが引いてしまうのだ。

「二人の相手をしていますから」

 本多を振り向いて、無理に作った笑顔が寂しかった。

「‥‥‥うん」

 本多はゆっくりと石段を上がり、千津のところまで歩いた。

「‥‥‥久し振りだね」

「‥‥‥はい」

「少し歩こうか」

 ここに立っていると、参拝に訪れる人たちの通行の邪魔になる。並んで、黙って境内の奥へ歩く間、本多の胸にさまざまな思いが去来する。関係が途絶えて、すでに四カ月が経過していた。

「靖子さんとの婚約、―――平井先生から伺いました。おめでとうございます」

 千津は丁寧に頭を下げてから、時折見せた、あのけむるような目で本多を見上げた。

「‥‥‥うん」

 五年間抱き合って、自分のものとの揺るぎない確信に疑いを入れることがなかったのに‥‥‥。目の前の千津を見つめていると、本多は不思議な気持ちに襲われてしまう。千津との五年が、まるで夢のような、現実味のないものに感じてしまうのだ。

 ―――終わってしまったのか‥‥‥。

 千津を眺めながら、本多はそんな感慨が湧き上がるのを抑えることが出来なかった。


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