第44話 遺産整理
遺族にとって一番応えるのが葬儀が終わってからで、喪失による虚無感に襲われ息をするのさえ辛くなる。これまでピーンと張りつめていた緊張の糸が、まるでプツンと音を立てて切れてしまい、精神が弛緩して体にどっと疲れが押し寄せるのだ。故人への思慕が強ければ強いほど、葬儀の規模には関係なく、残された者の悲しみは深く、気力・体力の消耗が著しい。靖子も浩子共々、霊場から帰ると、玄関に座ったまま腰を上げることが出来なかった。
「いいから、いいから、後のことは私に任せて、ゆっくり休みなさい。私も安夫が亡くなったときは、一週間以上立てなかったんだから」
久子の好意に甘え、二人は離れの書斎に蒲団を敷いて横になった。不思議なもので、暗い部屋に浩子と一緒に寝ていると、彼女になんとも言えない親近感が湧いてくる。父の城で、うずたかく積まれた本に囲まれ、靖子は浩子へのわだかまりが体から、まるで本が吸い上げてくれるかのように部屋の空間へ消えて行くのを感じていた。
「筒井さん、ご免なさいね。これまで不愉快な思いをさせて、―――我侭(わがまま)な娘だと思ったでしょう」
暗闇で横になったものの、二人とも眠れなかった。
「いいえ、とんでもないです。私の方こそ‥‥‥」
浩子は、陽子が亡くなってから藤野と親密な関係になったと言おうとしたが、言葉を呑んだ。言い訳に聞こえるし、故人に対し済まないと思ったのだ。
「お嬢さんが一人、いらっしゃったでしょう?」
「‥‥‥はい。義母と一緒に―――。先生はここへ連れて来ていいっておっしゃってくださったんですが、とても‥‥‥」
「今、おいくつに?」
「十四歳で、中二です。‥‥‥ひどい母親だとお思いになるでしょう―――」
浩子は天井を見上げ、激しい感情を必死に抑えていたが、とうとう堪え切れずに激情に身を委ねてしまった。
「‥‥‥ああ! 藤野先生が好きだったんです! 事務員に採用されたときから、ずっと、‥‥‥ずっと、好きだったんです。もう、どうしようもないほどに‥‥‥。ああ!」
浩子は体を起こすと、両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。
「‥‥‥」
浩子を慰めようと靖子も体を起こしたが、かける言葉が思いつかなかった。こんなにも取り乱す浩子は、これまでの彼女からは想像も出来なかった。
「ああ! 代わって、あげたかったー!」
喉の奥から絞り出す、呻き声だった。
「くー!」
靖子も堪え切れずに両手で顔を覆ってしまった。父の整髪料が微かに香る部屋で、靖子は長い間、筒井浩子を抱いて父の思い出に浸っていたのだった。
三日後の水曜日には少しは落ち着きを取り戻したのか、本多が京都から電話をかけると、家の片付けもだいぶ進んだと声に明るさが戻っていた。
「後は少しずつ、年末から年始にかけて片付けようと思っているの。ちゃんとしようとすると切りがないから。―――ね、直則さん。明日、京都へ帰るからって、平井先生にお伝えしてくださいな。久子おば様をお返しするって」
安政の不自由を思い浮かべ、靖子はくすっと笑った。
「そりゃあ、平井教授も大助かりだろう」
本多も靖子に合わせ、受話器に軽口を漏らした。一人では安政は何もできない有り様で、男の本多が見ても呆れるほどなのだ。よくぞこれで山岳部に所属できたものだと名状しがたい、恐るべき有り様であるが、
「男所帯は山岳部でやり尽くしてしまって、もうとっくに忘れてしまったよ。俺は久子なしでは一日もやっていけないダメ人間なんだ」
安政は平然と真顔でのろける特技を持っていて、久子の帰りを待ちわびていた。彼女の不在中、スハルノが泊まり込んで平井の世話をしているが、破れ鍋に綴じ蓋なのか、
「あら、残念だね。本多先生とウチの人が一緒に暮らしてくれると有り難いのに。ちっとは二人して、女の気持ちを考えてくれればいいんだよ」
この亭主にしてこの女房ありで、久子はいつもの減らず口をたたいて、動ずる気配もなかった。
「ね、直則さん。筒井さんに、この家をもらってもらおうと思うんだけど」
靖子は急に改まって声を落とした。受話器の奥から、久子と浩子の声が微かに耳に入ってくる。
「ほう!」
あまりの気前の良さに、さすがの本多も軽い驚きを隠さなかった。英則の相続人は靖子一人で、筒井浩子には相続権はないのだが、靖子は広大な屋敷を浩子に与えようと言うのだ。
「気持ちは分かるが、税金を考えると、あまり得策ではないな。それに管理も難しいだろう」
本多は難色を示した。土地と家屋は陽子名義だったが、彼女が亡くなって英則と靖子の共有になっていた。英則の死亡により、彼の持ち分二分の一も靖子のものになるが、その分の相続税も億単位で馬鹿にならない。おまけに筒井浩子への贈与となると、税率が遙かに高く、税金は目が飛び出るほどなのだ。固定資産税のことも考えると、浩子には金か、金に換えやすい株券等の有価証券の方がいいだろう。
「そうね、筒井さんにはお金を受け取ってもらって、もし必要があるならそれでマンションでも買ってもらう方がいいわね」
本多の提案に、靖子は素直にうなずいた。
「―――はい、良く分かりました。名義は私のままで、筒井さんにはこの家の管理を兼ねて、出来るだけ長く住んでもらうことにするわ。それじゃ、おやすみなさい」
最良の選択を確認して、靖子は電話を切ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます