第43話 巨星落つ
正統派ジャーナリストを自認する楠岡には悪いが、最近のマスコミ、特に一部マスコミの行き方には相当問題があり、その存在意義さえ疑いたくなるものがある。事件の真相や事実を追求するのでなく、十分な裏づけなしにプライバシーの曝露にひたすらそのエネルギーを注ぐのだ。
いわゆる下ネタを求めたがる読者も良くないが、それを差し引いても少々行き過ぎの感があり、近書院の事件が正にそうだった。出版社の不正を暴きあるべき方向への指針とすべきなのに、社長の井埜上と深谷の関係が大々的に報じられ、それがメインの様相を帯び出したのだ。かつて付き合っていた者まで新聞に証言を載せ、二人との関係を赤面するほど事細かに述べる。果ては井埜上を性的倒錯者で傷害罪で断罪すると息巻く男まで出現する有り様で、事件の本質を完全に見誤らせていた。
「ひどいわね。二人が気の毒になってくるわ。罪を憎んで人を憎まずって、諺があるのに‥‥‥」
本多の部屋で彼と一緒に昼食をとりながら、靖子は溜め息を吐いた。一週間前の今日、自分が受け取った情報がかくも大きな波紋をもたらすとは想像も出来なかった。
「しかしね、誰かがやらなければ明るみには出なかったんだよ。そうでなければ、彼らは永久に不正を繰り返していただろう。ある意味で、ほっとしているんじゃないか、二人は。いつかはバレるのは目に見えていたんだから」
湯飲み茶碗をテーブルに戻して、本多は靖子を慰めた。人間なんて弱いもので、誰もが悪事を働いたり罪を犯す可能性を持っている。だから、犯罪者の逮捕や責任追求に心のどこかで躊躇いを覚える。が、躊躇いが勝ると、極論すれば警察組織や裁判制度まで無用の長物となりかねず、結果的に弱者保護が等閑になってしまう恐れがある。だから本多としては制度の存在を是認しつつ、そこから外れるごく例外的な事件で、しかも自分の価値体系から見て〈受けるべき〉だと思うものだけを引き受けてきた。この観点からは、近書院のそれは全く問題なく受けてよい事件だった。
確かにここまで騒がれると、加害者に気の毒な面もあるが、それはもっぱらマスコミの在り方に関わるもので、マスコミ自体の自浄作用に待つしかないのではなかろうか。
「報道の自由とか編集権を振りかざしよるけど、そんな次元の高い問題ちゃうで。職業倫理の観点からも、人倫の観点からも無茶苦茶なことしてやがるくせに、人のこと志が低いやなんてよう言えると思うで。ホンマ頭にくるで。あいつらに自浄作用なんか期待できへん、できへん」
ある全国紙にプライバシーを曝露され、北原が苦り切っていたが、本多はそこまで捨てたものではないと思っている。もちろん被害者の立場からはまた別の視点があろう。いずれにしても、近書院の事件はマスコミの負の部分が顕著に現れた事件で、学者が難題に遭遇した場合の手法を借りれば、「マスコミ界の今後の検討課題であろう」と、逃げることになろうか。
「ところで、明日は午前中、集中講義が入っていたんじゃないか。俺も特別講義があるので、お互い準備をしないと。帰って講義案をまとめよう」
しょげ返った靖子を、本多は集中講義を持ち出して、励ましを兼ね話題の転換を図る。年末の休み前になると、「集中」や「特別」名義の講座がよく組まれる。学外から有名講師を招き学生の知的興味に応える意図のものが大半だが、単位不足を補う意図のものも少なからずあって、本多と靖子のそれは後者であった。単位不足者に単位を与え、留年を避けさせるのだ。
「そうね、忘れていたわ。早く帰ってまとめないと」
集中講義を思い出して、靖子は慌てて自室へ戻った。
帰り支度をととのえ、大学を出て夕闇迫る師走の街へチャリを漕ぎ出す。沿道には枯れ葉がカサカサと忙しなく舞い、冷気が手と顔に痛いほど突き刺さる。
「ね、直則さん。ほら、雪」
今出川通りを走りながら、靖子が白い息を弾ませ嬉しそうに振り向く。この寒さだと今夜は積もるのを覚悟せねばならないだろう。
「さよなら」
「うん。さよなら」
平井宅前で靖子に別れを告げたが、すぐ、
「直則さーん!」
彼女の叫びにも似た、本多を呼ぶ声が追って来た。
「どうしたんだ!?」
「あー! お父さんが‥‥‥」
つい今し方、平井家に藤野の訃報が届いたのだ。
「気を落とすんじゃないぞ!」
「はい‥‥‥」
靖子は涙を流していたが、それなりの覚悟は形成されていて取り乱すことはなかった。
「急に容態が悪化したんですって。‥‥‥筒井さんの手を握って、安らかな死に顔だったって」
玄関先で本多に伝えると、靖子は彼の胸に顔を埋めた。
享年五十六歳。学者としてはまだ壮年で、余りにも惜しまれる早世だった。
その夜遅く東京へ帰った二人は、渋る浩子を無理に自分たちの間に座らせ、通夜の訪問客に彼女の存在を認知し、藤野の意向を汲んだ。
―――さよなら、お父さん。どうぞ見守っていてください。
〈お悔み〉に深々と返礼しながら、靖子は何度も何度も父に別れを告げ、その業績を継ぐ決意を確認したのだった。
葬儀はこんこんと雪の降り頻(しき)る、平日の寒い月曜に執り行なわれたが、焼香の列が延々と屋敷を囲み、長い間、途絶えることがなかった。
大学の自治を巡る―――本多一郎との世論を分かつ激しい論争の後、まるで彗星の如くに日本の刑法学界に頭角を現し、特に企業過失と刑法における違法性論に輝かしい業績を残しながら、ヴェルツェル一派が主流といってよいドイツ刑法理論に決しておもねることのなかった風雲児は、多くの人たちに惜しまれつつ、真っ白い雪の空へ旅立って行ったのだった。
―――合掌‥‥‥。
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