残り香

真花

残り香

 死んでくれないかな。

 もう五年になる。仕事を始めてからと同じだけの時間。人生には間違いなく濃淡があって、女には売れる時期があって、その一番濃くて美味しいところが終わろうとしている。

 次に私に来る季節がどんなものなのかは分からないし、それを誰かが教えてくれたとしても腑に落ちることはないだろう。事実として重要なのは今居るフェーズがまだ終わってはおらず、私の「若い女」単独の賞味期限がまだ残っていること。

 それが過ぎ去れば私はそれ以外のもので勝負しなくてはならない。

 誰でもそうだ。

 若いと言うだけで許されることの最大のものは、学ぶまでの、成長するまでの、猶予だ。

 私達が可能性を消費して過去と作品と自らの力を生み出すように、若さを費やした分の何かを身に付けていなければそれは単純にマイナスになる。過去と作品だけでは未来を切り拓くには足りない。私が何者かになっていないといけない。

 仕事ならそれだけでよい。

 時間と労力の切り売りに終始するのでなければ、その意志があるのならば、年というスパンでは育たないことの方が異常だ。

 しかし恋愛は違う。

 肌の張りも髪の艶も、生殖能力だって劣化しかしない。恋心が情に変質してそのうち、習慣へ惰性へ変わる周知のことと同じで、恋は下降曲線の集合体だ。ただ二つの特例を除いて。

 一つは愛が育つこと。きっと本当は努力なんかなくても育つのだろうけど、彼に対して私は散々努力をしたけれどもそれは育たなかった。育ったのは彼に貸しているお金の額だけで、二百万になる。最初は少額のやり取りで、ちゃんと返金されていたのが、徐々に返すよりも次に貸す方が増えて行き、その累積がこの額だ。

 もう一つが匂いだ。最初は特に何も感じなかった彼の匂い、甘い中に一抹の油分を含む、少しパサパサしながらも嗅げば胸の奥にダイレクトに届いてそこを瑞々しく震わせる匂い、それを次第に渇望するようになった。期待通りに育たなかった愛よりも、予想外に膨れあがった貸金よりも、唯一着実に育っていったのが彼の匂いへの希求だ。

 他には何も彼から得られるものはない。

「で?」

 絵里はアイスコーヒーの氷をカランと鳴らす。

「それで?」

「私はまだ間に合うと思う。彼から離れることが出来れば、次の恋はきっとすぐに手に入ると思う」

「じゃあさっさと別れればいいじゃない」

 それはそうなんだけど。

「郁美は女から別れ話をしてはいけないと思ってるの?」

「そんなことはない……んだけど」

 軽いため息、絵里はその流れのまま鋭い目つきになる。

「情が移ったんでしょ」

「使用済みのティッシュに対してと同じくらいしか情はないよ」

「それはそれで酷いね、分かった、貸したお金が問題なんじゃない?」

 私は首を振る。

「もうそのお金で手切れ金になるなら安いと思う。未来を買う訳だから」

「実はまだ好きなんじゃないの?」

 顔にゲロを投げ付けられたような気持ち。そのままの表情をしていたのだろう。

「ごめん、なさそうね」

 苦々しく頷く。

「両親に対しての想いがあるとか?」

「がっかりはさせたくないけど、まだそこまで期待してもいないと思う」

「自分の周囲の人に対しての体面が悪い、とか」

「それはある」

 絵里以外の友人達は私が彼と結婚するかを密かに予想し合っている。結婚せずに別れた場合にはその予想会に参加した全員が、どっちに張っていようと、蔑む目で嘲笑のため息をつくだろう。口では何て言っても「かわいそう」と優越に浸るのだ。それは何があっても避けなければならない。嘲りの鞭の強さは身に染みている、女子ならみんなそうだと思う。

「でも多分一番は匂いから離れられないからだと思う」

「次の恋人が出来ればその人の匂いがよくなるよ、きっと」

「そう言う条件付けのレベルじゃないんだよ。酒好きが酒を求めるように、ギャンブラーがギャンブルを求めるように、依存をしているんだと思う」

 絵里は肩を竦める。そんなことってあり得ない。

「じゃあ、匂いを嗅ぐためにお金貸して、セックスして、女の若い時代を捧げてるってこと?」

「自分でもどうかしてると思うけど、そう考える以外自分の行動を説明出来るものがない」

「それじゃあ、もし別れても追いかけることになるよ」

 そうなのだ。そこまでは自分でも到達している。その一歩先まで行き着いている。

 でもそれは人に言っていいことではないようにも思う。でも、絵里には理解して欲しい気持ちもある。

「あのさ」

 絵里がことさらに秘密の共有を求める顔を近づけてくる。

「うん」

 私も耳を近づける。

「完全に消えちゃえばいいんじゃない、彼が」

 同じゴール。表現が少し違うだけ。言われたなら、喋っていいだろう。

「私も、死んでくれないかなって思ってる」

「殺しちゃダメだよ」

「それは困難過ぎる」

 ククク、絵里が潜め笑う。

「シミュレートしたでしょ」

「実はした」

 小声の応酬が続く。

「彼が死ねば全て解決する、ってことよね」

「そうなの。私は体面上は悲劇のヒロインになって、関係の解消に何の責任も負わずに、しかも冷め切っているから特にトラウマにもならずに、前に進める。何よりも匂いの元を断つ訳で、もうそれに囚われることはなくなる。貸したお金は流れるけど、それはもういい」

「すごいね。きっと彼も望まれて生まれただろうに、今は死ぬのを望まれているなんて」

 彼が生きることを望んでいる人も居るのかも知れない。でも恋人以上にそれを想うのは親族ぐらいだろう。

 絵里はこの秘密のおぞましさに酔っている。私はそんなことはない。親友と言ったって、当事者と傍観者じゃリアリティーが全然違う。傍観者の方が手に汗握ると言うことは幾らでもあるのだ。私は当事者だからこそ、どこか冷めている。このコーヒーよりも彼への気持ちよりも、冷めている。

「そんな訳で今は、死ぬの待ち、みたいな状態」

「待ち切れるの? 郁美、私達二十七だよ、真剣に結婚を考えるからこそ彼氏と別れる年齢だよ」

「でもね、匂いが、すごくいいんだ」

 思い出すだにうっとりしてしまう。

「嗜癖に人生を全投入するのも生き方だけど、それじゃない方に向きたいって言っているのも郁美なんだよ、目を覚ましなよ、人生に何を置きたいかちゃんと決めないと」

「うん。でも、死んで貰う以外に匂いが断てないんだ」

「私は殺さないよ。郁美も殺しちゃだめ。他の方法を考えないと」

「そうだよね」

 だが、私達は彼が死ぬと言うことの他に事態を解決する術を思い付かぬまま、次の話題に移った。


 実家暮らしの私が部屋で隠し持っているのは、彼のシャツだ。汗が出た後のは熟成すると最低の匂いに進化するので持たないが、半日くらい着て汗の出ていないシャツはあの匂いがよく染み付いている。三日くらいは匂いが持つ。

 帰宅して何より先にするのがそのシャツを、くんかくんかと嗅ぐこと。

 いかなるストレス発散よりも効果がある。

 性的な興奮は最初はあったが最近はあまりなく、リラックス効果が高い。

 食事を摂って風呂に入った後、寝る前にも、嗅ぐ。良眠が得られる、気がする。

 このシャツの提供には協力してくれているのだから、彼は私を愛しているのかも知れないが、どれだけ彼がそうだったとしても、私は彼を愛していない。欲しいのは匂いだ。

 週末になればデートをするので、匂いシャツの効力は木曜日くらいに消える。金土と飢餓状態になってから会うから、たまらない。

 だからデートの待ち合わせ場所にはいつだって私が早く着く。今日もそうだ。

 朝の弱い彼のために、十一時待ち合わせ。

 鼻腔をひくつかせて人を待つのは人間よりも犬に近いような気がする。

「遅い」

 既に十一時半。カップは空になって久しい。コーヒーは他の匂いの印象をリセットするのに最適だから飲みながら待っているのに、これでは雑臭が混じって来てしまう。

「もうだめ。帰るわ」

 十二時になった時計に呟いて店を出る。

 来ない彼に多少のいらつきはあったものの、それよりも匂いが手に入らないことの方が焦燥感を生む。

 視線は落ち着かず、焦ったようにイライラと動く。

 自分の様子が手に取るように分かったので、昇華のためにとカラオケに行き、三時間汗だくになりながら歌ったら少しすっきりした。

 そのまま彼からは連絡はなく、メールにも返信がないままに週末が終わり、匂いが欲しい、だけど平日は始まる。

 月曜日、夕刻。

 電話がやっと鳴る。この遅さ、別れたい理由が一つ増えた。

「もしもし、香山郁美さんですか。息子とお付き合いをされていたと伺いました」

 予感がする。最悪の予感と最高の予感が一致している。

「息子が昨日、車に撥ねられました。即死でした。今夜、通夜をするのですが、来てやってくれませんでしょうか」

 彼の母親は、きっといい人なのだろう。もし彼に嫁いでいたら、良好な嫁姑関係が築けた気がする。

 私は泣いたりせずに、淡々と通夜の場所を訊いて、喪服に着替えることもせぬままに会場に向かった。


 小さな会場だった。

 それは悲しみの大きさを閉じ込めるために空間の密度を上げているよう。

 参列は私以外居なくて、と言うより恐らく呼ばれるどころか伝えられてもいなくて、それなのに私に連絡が来たと言うことは彼は私を親に話していたのだ。もしかしたら結婚するつもりがあったのかも知れない。

 もう五年になる。何だかんだ言って一緒に過ごして来た時間。私は本当に匂いのためだけに彼と一緒に居たのだろうか。絵里と話したように別れたかったのだろうか。空想していた彼の死を本当に求めていたのだろうか。

 全てもう分からない、彼を絶たれて、彼が居る方の未来が消滅して、過去に考えたたらればまでが全て凍り付いてしまった。

 私は今泣くべき立場にある。

 彼の両親も妹も、お坊さんだって私が泣くことを予定している。

 そう思ったら意地でも泣きたくないと思う。

 線香の匂いと言うのは支配的であるようでいて、脇役のままで居られるものなので、この空間の中にどれだけその匂いが充満したとしても私は彼の匂いを嗅ぎ別け、嗅ぎ取る自信がある。

 焼香を一度した後、私はいったん席に着いた。

 棺桶の顔の部分は開いていたから、嗅ぐことは出来るだろう。

 それでも一回は引いた。それはポーズでも何でもなく、彼の顔がそこにあることが、それを空想しただけで、目眩がしたのだ。

 この期に及んで私はまだ彼の死を認めていない。次の週末にはまたその匂いが嗅げると思っている。平常にずっと回っていた週のループが急に途切れることに、付いて行けていない。

 しかし、顔を見れば現在は不確かな状態に留め置かれている事実が、ナイフでとめるように固定される。

 死が固定される。

 私はそのことにこそ抗っていた。

 それは匂いの供給源が消えると言うことと独立した、彼の喪失への抵抗だ。

 そのような抵抗が自分の中に発生していることにもまた、抗う。そんなこころの動きがあることはおかしい。私は彼を捨てたがっていた、死んで欲しがっていたのだから。

 私が望んだから死んだのだろうか。

 どこにもそんなことは書き残していないし、絵里が彼に伝える方法はない。

 そもそも絵里に話す以前に誰かに話したことはない。そして、絵里と会ってから一回も彼と会っていない。

 混乱はしていないけど、結論が出ない。私は頭を抱えた。

 ポン、と肩を叩かれる。

「息子の顔を、見てやってくれませんか」

 言っているお母さんがもう泣いている。貰い泣きが目頭に来る。

 何だか、彼のためでも自分のためでもなくて、このお母さんのために彼の死に顔を見ようと思った。

 頷き、お母さんを残して棺桶に向かう。

 脳が痺れる。覚悟なんて決まってない。現実が先に来る、それでいい。

 確かに、彼が居る。

 青白くて、所々縫い目のようなものがある。

 痛かったね。

 大変だったね。

 自分がそんなことを思うことに、涙が後押しされる。

 何で死んじゃったの?

 事故って、不注意かよ。

 悪態の中に、最近ずっと感じてなかった彼への慈しみを見る。

 でも、本当に、死んじゃったんだね。

 匂い、好きだったよ。

 顔を近付けて、最後の匂いを嗅ごうと思ったが、死に化粧とドライアイスの匂いしかしない。

 もう少し顔を近付けてもよかったけど、無駄だと分かったから、しない。

 匂いは、最後の匂いは、それが最後だと分かる前に記憶したもの、先週の彼の匂いになる。

 それでいい。

 今日の匂いを持ち歩くことはしたくない。

 生きていた匂いを、携えて行こう。

 涙がぼたぼた出る。

 彼のためにこんなに泣く予定はなかった。

 分け合った時間の分だけ涙がチャージされるのだろうか。

 その全てを今日ここで出し切るのが、いいと思う。

 私は席に戻り、泣き、顔を見ては泣き、を繰り返す。

 段々、涙の出が悪くなり、やっと、泣かずに彼の顔を見られるようになるのに六時間かかった。

 通夜なのでずっと誰かは居るのだが、泣かなくなるのを見付けたお母さんが、そろそろ帰っても大丈夫よ、と言ってくれた。

「あと、一回だけ、顔を見て帰ります」

「そう、ありがとうね」

 彼は相変わらず死んでいる。同じ顔をしている。私の知っている彼はもっと表情が豊かだ。

 焼香は最後でもしない。

 彼の近くまで顔を寄せる。キスはしない。

 匂いを嗅ぐ。

 予想通り、彼の匂いはしなかった。

 でも、最後に別れる前に、きっとしなくてはならない、私達がいつもしていたこと。

 私はいつだって彼の匂いを求めてまとわりついていた。

 彼はそれを分かって、嗅がせてくれていた。

 二人が会えない時間を繋ぐものとして、匂いシャツを渡してくれた。

「ありがとう。じゃあね」

 彼の耳元で、彼にだけ聞こえる声で囁く。

 私の涙はもう枯れて、彼の両親にもう一度挨拶をして、帰った。

 家に着いたらもう一時だった。

 部屋に隠していたシャツは、じっくり嗅いだらまだ、彼の生きている匂いがした。



(了)

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残り香 真花 @kawapsyc

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