海道由貴

 色とりどりの旗と摩天楼に囲まれ、宝木咲耶たからぎさくやは緊張していた。


 ニューヨークの日差しは日本よりきつく、ビルの窓に反射してまぶしい。

 空気もカラリと乾いていて、住み慣れた日本とは呼吸の仕方すら違いそうだった。

 フィールドワークに出るようになってからも、日本との違いはしょっちゅう戸惑う。


 行き交う人々を眺めつつ、咲耶は待ち合わせの人物のことを思った。

 この空気のように爽やかで、凛としたあのホルン吹きを――。


「ハイ、待った?」


 かくして、『彼女』はひときわ目立つビルから現れる。

 動きやすそうなTシャツにジーンズ。肩より上で切りそろえられた黒髪。

 高校時代と変わらない、メガネ姿――さすがに形は変わっていたけれども。


海道かいどう先輩」


 そう、咲耶の二つ上の先輩、海道由貴かいどうゆき

 久しぶりに会う彼女が、そこにいた。数年ぶり直接見てさえ、由貴は背筋を正させる凛々しさがある。

 気安く手を振ってくる先輩に、咲耶はにこやかに言った。


「特に待ってないです。ここは周りを見てるだけで飽きませんし」

「そう」


 社交辞令ではない。実際にアメリカ、特にこの辺りは特別な区域だ。

 張りのある表情の人々。川のそばのビル。白亜の壁。照り付ける日差し――厳重な警備。

 先輩ごしにガードマンの視線を感じつつ、咲耶は由貴が出てきたビルを見上げる。


 ――『Headquarters of the United Nations』


 またの名を『国際連合本部ビル』。

 テレビでしか見たのことのなかった、正真正銘、国連の本部を。



 ###



 同い年たちから「どうやって就職するのか見当もつかない」「いつかやるような気がしていた」「才媛といっても限度がある」などなど、散々な賛辞を受けつつ。

 海道由貴は国連職員として活動していた。由貴と同じくホルン奏者であり、先輩を敬愛しているはずの咲耶の同い年の弁護士でさえも、この職業を聞いたときは「……は?」と眉を寄せたものだ。


 国連職員の主な活動は、環境・難民の保護、災害救助やテロ対策など多岐に渡る。

 ざっくりといえば『世界平和のための組織』だ。規模が大きすぎて首を傾げざるを得ないが、ともあれ咲耶の目の前の先輩はそんな団体の一員なのだった。


「いやー悪いわね。わざわざアメリカこっちまで来てもらっちゃって」


 まあ本人は、至ってあっけらかんとしているのだが。

 雰囲気が高校のときとほとんど変わらない。まるで自動販売機でジュースを買ってきてくれてありがとう、といった気安さで由貴は言う。


「現地集合でもよかったかもしれないけどさ。やっぱりしっかりと打ち合わせしておきたいなと思って」

「お仕事なのですから、当然だと思います」

「宝木もそうでしょ? お互い海外が仕事場だものね」

「先生はやめてください……」


 先輩に先生と呼ばれる居心地の悪さに、咲耶は身じろぎする。

 咲耶も咲耶で、この頃は海外文化の研究を生業なりわいとするようになっていた。それだけでは心もとないので、通訳などの仕事もしている。

 今回の案件は、その両方に関するものであった。

 国連職員現地派遣に伴う、通訳兼アドバイザー。高校時代の同じ部活の先輩に呼び出されたのは、そういった理由だった。

 もっとも、その高校時代あまりこの二人は関わりがなかったのだが。


「いいじゃない。先生は先生なんだし。あ、コーヒー飲む? 紅茶にする?」

「紅茶でお願いします」


 だが、先輩は昔の関わりの薄さなど気にもせず接してくる。

 あくまで現在の関係のみが重要ということか。またはもっと違う理由があるのか――。

 ぶっ飛んだ先輩すぎて咲耶には考えが読み切れない。まあ、仕事を頼んできたくらいなので敵意はないはずだけれども。

 だったら特に構える必要もないだろう。由貴の前にフルーツビネガー、咲耶の前に紅茶が運ばれてきたところで、グラスに手を伸ばしつつ先輩の方が口を開いた。


「なんで自分に? って顔してるね」

「ええ、まあ、はい」

「まあ、ホルンとクラリネットはあんまり一緒に練習はしなかったもんね」


 由貴がホルン、咲耶がクラリネット。

 曲の役割としてあまり被らない組み合わせだ。まして三年生と一年生。なかなか話す機会はない。

 というかほとんどしゃべったことがない。由貴自身がなかなか目立つ存在だっただけに咲耶は一方的に見知っているが、由貴の方がこちらを認識していること自体が、咲耶にとっては驚きだった。

 気高く、強く、正しい先輩。


 あまりのまぶしさに尻込みしていたのはある。由貴の音を克明に覚えているのは、咲耶の同い年の『彼』だけではない。

 突き刺すように吹き抜けていく彼女のホルンは、今思い出しても目が覚めるものだった。

 後輩の悩み相談に乗ってシャンとさせたというのも、いかにも彼女らしい。


「悩みを言ってくる子なら相談に乗れるんだけどねえ。みなとくんは未熟だったけど、意外と話してくれる子だったからなんとかなった」

「ですね」

「でもあなたは、そうじゃなかったよね?」


 返す刀でバッサリと斬られて、咲耶の動きが止まる。

 カップを傾ける手が静止した後、ゆっくりと下ろされた。


「そう、その顔よ。完全に心のシャッター下ろしてる顔だもん」

「……本当に容赦なく突き刺してきますね」

「一年生の頃は、ほぼずっとそんな感じだったでしょう。無理矢理いってもかえって悪化するかなって、そっとしておいたけど」


 やはり気安く、由貴は言う。

 からかっているわけでもなく、ただ単に事実を言っている、といった口調だった。プラスもマイナスの感情も込められていない。

 ただのフラットな観察。ひとつ上のバスクラリネットの先輩ともまた違う、鏡のようなつるりとした眼。

 ここでようやく咲耶は理解した。

 由貴が自分をこちらに呼び寄せたのは、出発前に相棒たる資格があるかどうか、確かめるためであると。


「『人間をあきらめていた』んでしょ。そういう子と一緒に仕事をすることはできないよ。こういう任務だもの、ともすれば危険な場所に向かうことだってある。最低限、背中を合わせられるかどうかの確認はしておきたいもの」

「……確かに、そういう時期もありました」


 真っすぐに訊いてくる先輩に、咲耶は誤魔化すことなくうなずいた。

 石を投げられ、指をさされ、人の輪から外れたこともあった。

 かといって逃れられるわけもなく、溶け込める術を探し、身につけたのがにこやかな笑顔という仮面だった。

 けれども、それだけではないのだ。


「……怒ってもいいのだと学びました。信じてよいのだと学びました。思ったことを言っても奇異な顔をされず、お菓子を分ければ笑ってありがとうと言ってくれる人がいると、分かりました」


 初めて家に同い年たちを招いたときの、彼ら彼女らの反応は咲耶の予想と少し違っていた。

 驚いた顔をされたものの、特に忌避もされなかった。むしろ違いを楽しまれ、練習場を貸してくれてありがとうとも言われた。

 家で余っていたお菓子を出したら、この世の春のように喜ばれた。その顔をもっと見たくて、彼らが家に来るたびに出すようになった。

 とても難しい話をしても、真剣に意味を考えて投げ返そうとしてくれる人がいると、知った。


「もちろん、絶対に通じ合えない人がいるのは分かっています。けれどそれだけじゃない。『伝わる人』がいるのも分かりました。それが意外と、近くにいることも」


『彼』についていった先で、拍手をもらった。

 演奏で。パフォーマンスで。『そういう反応をもらったら嬉しそうなリアクションをすること』という処世術抜きで、自分が何かをやって喜んでもらえるのが嬉しかった。

 心のままに振る舞ってもいい時間があると、知った。


「全部伝わるなんて思ってません。けれど何か言ってもいいんじゃないかって思いました。伝え方を工夫してもいいんじゃないかと思いました。環境や育った土壌によって考え方が違う人だっている。だから今、文化人類学こんなことをやっているんですけども」

「オーケイオーケイ。ありがとう。満点の答えよ」


 逃げることなく答えると、先輩は屈託なく笑う。

 高校時代からあった宿題。

 それに、何年か越しに解答をもらった。そんな晴れやかな笑顔だった。


「うんうん。世界中に見聞を広める、旅をする職に就いたっていうからもしやと思ったけど。これは大当たりだったわね」

「……ちなみに、人を試すような真似をした先輩には、ちょっと怒ってます」

「ごめんて」


 少し頬を膨らませた咲耶に、びっくりするほど軽く謝る由貴。

 けれども後輩がこんな風に素直に心情を吐露したのが、先輩としては嬉しかったらしい。その表情に免じて、今回は許してあげることにする。

 命がけの任地なのだ。信用できる人間を選びたい気持ちは咲耶にも分かった。

 多少乱暴ではあるけれども。利益と面子と心情と。他にも色々なものが絡む異国に行くのである。生半可な神経ではやっていられない。


「困ったときには困ったって言える人間と組みたいからね。よかった、楽しかった、だけじゃなくて目的のために必要なことは言えるように。お互いに」

「先輩はなんだか、ひとりでもやってけそうですが」

「そんなことないわよ。こういう性格だから揉め事になることだってあるし、調整役は必要」


 本当は湊くん呼びたかったけど、さすがに仕事ほっぽり出しては来られないもんねえ、と先輩は本命の『彼』のことを口にする。

 ワールドワイドな調整役は、さすがの彼も骨が折れそうだ。


「教職は教職で大変そうですし。勘弁してあげてください」

「おや? 私と湊くんが二人きりになるのは不満かな?」

「そんなんじゃないですけども」


 とはいえ、その図を想像したときに、奥底でわずかにモヤっとしたものが湧き出るのを感じなくもない。

 彼が先輩に振り回されることが嫌なのか、咲耶自身の個人的な感情が絡んでいるのか。どうにも判断がつかないが。

 言語化が難しい。他の同い年たちと違って、それほどまでに咲耶の欲求は小さい。

 どうなのだろう、と彼女が首を傾げていると、テーブルの向こうから先輩が手を差し出してくる。


「それじゃあ、これからよろしく。


 どことなく懐かしい呼び方に。

 咲耶は反射的に由貴の手を握り返した。

 自分でも驚いて目を見開く後輩に、先輩は嬉しそうに笑って言う。


 経緯はどうあれ、やっと伝わった――近くに寄れたと。

 その証である手を握りしめながら。


「それじゃあ一緒に、世界を平和にしに行きますか」

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