オーケストラ組
「けんたろうが必要だ」
ふいに幼女がつぶやいた。
小さな手足。短く切りそろえられた髪。
そしてくりりとした目つき――
「やはりけんたろうしかいない。あいつはわたしのために、どうしても必要なのだ――うん」
遠い目をした彼女は、やがて何かを決意するような眼差しをして歩き出す。
「れんらくを、とらなくては」
♪
「ねえ、
甘い口調で言ったのは、色気を振りまいた美女だった。
緩くウェーブのかかった髪に、豊満な体つき。
妖艶、という言葉を人の形にするとこうなるのかもしれない。見る人にそう思わせるほどの雰囲気を持った美女は、傍らにいる男に言う。
「次の本番、とっても楽しいことになる気がするわ。演奏も他のコトも……うふふ」
「だから、湊くんをおまえの欲求不満のはけ口にするなというに」
呆れた口調で答えたのは、美女とは対照的に熊のような風貌の男だ。
もみあげと髭がもっさりとした、中年の男。それだけでは無精者のようだが、シャツと眼鏡とスッと伸びた姿勢が、男をひとかどの人物に見せていた。
さもありなん、男はひとつのオーケストラの長である。
首席バイオリン、
そして妖艶な美女が、オーボエ奏者の
共に同じ舞台に乗る楽団員同士である。
今度の演奏会での曲は、何にしようか。
頭を悩ませていた桐生に、邑楽が放った一言が先ほどの「知り合いのチューバ吹きを呼ぼう」というものだった。
「オーケストラはなじみがなさそうだったけど。そういう初物をいただくのもいいかと思うわ」
「おまえが言うと別の意味に聞こえるのはなんでだろうな……」
「もちろん、そういう意味で言ってるからよ♪」
「分かった。おまえと湊くんは絶対同じステージには乗せん」
桐生相手なので遠慮することなく本性をぶちまける邑楽。対して桐生は半眼で邑楽のことをけん制した。
彼女の言っていることが冗談でなく本気なのは、幾度となくこの美女の起こしてきたトラブルを仲裁してきた桐生だからこそよく分かっている。
いい加減付き合いの長い二人だ。団とは違う舞台だとしても顔を合わせることすらある。
腐れ縁といってもいい。オーケストラの世界は広いようで狭いのだった。
「ああ……湊くんの可愛い顔を、【ピーーーーー】して【ブブブーーー】して【×××××(自主規制)】させてあげたぁい……きっともっと可愛いわよぉ?」
「伏せ字ばかりでなんだか分からんな……分からなくてもいいのか……」
「アンタ性格的には堕とし甲斐あるんだけど、外見が全っ然私好みじゃないのよねえ」
「ほっとけ」
整えられつつも豊かな髭ともみあげを、ごつりとした指で撫で付ける桐生。
熊のような桐生と美貌の邑楽は、傍から言わせれば美女と野獣といった様相だ。
もっとも、このとおり中身はまるで逆なのだが。今にも年下の少年を食い散らかしかねない淫獣(世に放ってはならない)をよそに、コンサートマスタは深々とため息をつく。
「まあ、実際チューバを入れる入れないは、ある意味曲の年代設定を決めることにもなるんだが」
楽器の歴史を見るとチューバという楽器は、実はそこまで古くない。
ベートーヴェンの頃には存在せず、したがってその時代より前の曲では楽譜上に存在しない。なのでチューバを使うということは、イコールそれなりに近代の曲をやるということでもある。
「古典をやるか、近現代をやるかという選択肢になるが……」
「どっちでも好きな方やればいいじゃない」
「まあ、そうなんだが」
「なによ、歯切れが悪いわね」
いつもなら団の代表者のひとりとして、あれをやりたいこれをやりたいと即答する桐生である。
彼が珍しく迷っていた。年代、という意味で言えば邑楽のオーボエも桐生のバイオリンもチューバよりはるかに前からある楽器なので、どの曲をやろうが特に支障はない。
なのに、彼が言い淀むのは何か別の理由が――
「なんというかな。何をやるかと言われて、古典か近現代か、しか選択肢がないことにどうかなと思ってしまったんだよ。私は」
数々の名曲スコアブックを前に、コンサートマスターはため息をもらす。
いまいちピンとこない、といった風に首を傾げる邑楽に、桐生は噛み砕きながら説明した。
「当たり前のように交響曲何番だ、協奏曲だ歌劇だとしか出てこない自分に、これでいいのかと思ったんだ。ひいては、そういう空気のクラシック界に関しても」
「うわ。なんか壮大なこと考えてるわね」
「考えもするさ。『彼ら』の演奏を聞きもすれば」
先日『彼ら』――話題にも出た湊鍵太郎もいる演奏会に行った桐生は、思ったのだ。
「こういうものもあるのだ」、と。
「……以前、オケに来たとき私は湊くんに言った。カルチャーショックを受けたかもしれないと。今度はこっちが受けた番だな」
「吹奏楽っていうとまあ小馬鹿にする連中もいるけどねえ。けれどもあの子たちの演奏、私は好きよ」
「ああ。それは他の観客もそうだったろう。でなければあんなに拍手はあがらない」
体育館いっぱいに入った客、一曲終わるごとにあがる拍手。
ここしばらく、まばらな客から雨だれのような拍手しかもらったことのない桐生としては、どうしても思ってしまったのだ。
「うらやましいな」、と。
「もちろん、別にクラシックがダメだと言うつもりはない。私は『運命』も『悲壮』も『ローエングリン』も好きだ。大好きだ。むしろ好きだからこそ、これから何をやっていいのか悩んでいる」
古きを捨て、新しいものを取らなければならないという焦り。
けれども元々持っているものは捨てられなくて、ただ現状を見るとそうも言っていられなさそうで、どっちにも行けなくなってしまった。
立往生してしまったのだ、進むべきか戻るべきかも分からず――途方に暮れ、楽譜の山に埋もれている。
「まあ、お堅いアンタにいきなりゲーム音楽やりましょうなんて言ってもハードル高すぎるものねえ」
「ああ、最近のクラシック業界は若いのがそれ系のコンサートをやっているよな……すごい人気らしいな」
「けれどアンタがゲーム音楽で頭張ってるの、どうしても想像できないわ」
最近はゲームもフルオーケストラ音源が当たり前になり、生演奏も増えてきた。
だが、邑楽にはこの真面目な熊さんがそういった舞台に立つのはどうしても想像できなかった。ましてや先頭に立って皆を引っ張っていく様など。
燕尾服でぎこちなく空中ブランコをするような違和感がある。
性根がクラシックなのだ、桐生嘉秀という男は――頭を抱えてうなるコンサートマスターに、今度は邑楽がやれやれとため息をつく。
「いいじゃない。無理矢理ガラじゃないことやろうとしなくたって。なんでもやりたいことやればいいのよ。そうすりゃ勝手に好きな人は付いてくる」
「邑楽……」
「じゃなくちゃアンタの周りにこんなに人が集まるわけないじゃない」
オーケストラというものは、もちろんのこと一人では成り立たない。
桐生、邑楽の他にももちろん、大勢の人間が関わっている。バイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス――弦楽器だけでもステージの前半分を埋めるほど人が集まる。
様々な思惑が絡むのが集団というものではあるが、ここは総じて桐生のやり方に納得して従っている者が多い。
「ま、かく言う私も一応ね。じゃなきゃとっくにいなくなってるわよ、窮屈なだけの楽団なんて。だからアンタは、気にせず好きなことやってればいいの」
「し、しかし」
「ああもう、本っ当頑固なのね。そんなに言うなら今度他のみんなに聞いてみればいいじゃない。なにやってもいいかって。もしくは今度なにをやればいいかって意見でも募れば? 案外、いい話が出てくるかもしれないわよ」
古典か近現代か。
それ以外の選択肢が出てくるかもしれないわよ――と、オーボエ吹きの美女は気楽に言う。
「それでいつものクラシックの曲が出てきてもそれはそれでよし。大事なのは好きなものを好きなだけやるっていうこと。どんな時代もそれだけは変わらないでしょう」
「そう……そうか。そうかもしれんな」
「なら、やっぱり近現代にしましょう。チューバを入れて。湊くん呼んできて。とことんまで搾り取ってあげるの」
「少しでもおまえを見直した俺が馬鹿だった」
やっぱり享楽的だった。欲望に忠実なだけだった。
享楽的にすぎる邑楽を
近現代で。クラシカルながらもこれまでとは違う路線で。
演奏側も観客側も楽しめそうなものがいいのだが――。
「『ゴジラ』などどうだ。きりゅう」
「なるほど映画音楽――って、つばさちゃん⁉」
そこでひょっこり顔を出した幼女に、桐生は驚きの声をあげた。
渋川つばさ。楽団指揮者の孫娘である。
小学生だ。そんな彼女が今までの会話を、どこまで。
「つ、つばさちゃん。一体いつからそこに?」
「『しぼりとってあげる』のすこし前からだな」
「邑楽ァァァァァ‼」
他に誰もいないからと、遠慮なくアダルトな会話をしていたことが仇になった。
教育上悪すぎる単語を連発しまくる美女に詰め寄ると、彼女は気まずそうに視線を逸らして口笛を吹いた。一応指揮者の孫娘に対して配慮する心はあるらしい。
「よくわからんが、きりゅう。そんなときはかいじゅうだぞ。ふるいものもあたらしいものも、全部ぶちこわしてさらちにしてくれる」
「そ、そうだねつばさちゃん。ところで、難しいこと知ってるね?」
「ジジイがそう言ってた」
「一番教育に悪いのは渋川先生だったか!」
つばさが年の割に妙にませているのは、かの指揮者の影響かもしれない。
八十を超えてなおロックな精神を持つクラシックの指揮者である。そんな祖父を持つつばさは、腰に手を当ててふんすと鼻から息をついた。
「クラシックはじょうひんに見えて、じつははかいとさいせいのくり返しなのだと言っていた。いまに合わなくなったものをとりかえて、よいと思ったものをとり入れていくものだと」
「確かにまあ、時代と共にオーケストラに入る楽器は変わっていったものだが」
というか、先ほどまで話題にしていたチューバという楽器がまさにそうなのだが。
それまであった価値観を塗り替え、数々の作曲家が楽譜を書き換え、新しい音楽を作るに至った。
多くの人に時代に、影響を与えた楽器。
その姿が、『彼』と重なる。
「何かをやりたいということをどんよくにもとめ、ものおじせずえらび、これがよいと何はばかることなくつたえる。それが音楽であり、そのかがやきこそ好きなのだと言っていたぞ」
そこまで来ると桐生にも難しい話になってくるが。
論より証拠と、つばさは部屋のテレビを点けた。
そこには
「渋川先生も元気よねえ。若い子見た途端張り切っちゃって」
画面の中の鬼気迫る指揮者を、邑楽はまぶしげに見つめた。
そこには普段の好々爺などどこにもいない。獲物を食いちぎる猛獣のごとき目をした、炎の塊がそこにいた。
先日の高校生の演奏会に触発され、最近断っていた出演を受けた途端これである。
高齢ということもあって周囲はヒヤヒヤしているが、本人は至って楽しそうだった。
渋川
彼が知る人ぞ知るクラシック界の名指揮者といったら、あの高校生のたちはどんな顔をするだろうか。
「……好きなことやってるなあ、渋川先生」
優しく厳しく、このごろは間近で見ていた指揮者が生き生きしているのを見て、桐生は呆れながらも笑う。
降られる棒は音楽だけでなく、聞く者見る者の心も呼び起こす。
「破壊と再生を繰り返す、か。温故知新派の私としてはなかなか過激だが……まあ四の五のせず、なにかやってみるか」
「かいじゅうだかいじゅう。がおー」
「『幻想交響曲』をやりましょう! チューバの目立つ恋のストーカー曲!」
「それだけ聞くとチューバへの風評被害も甚だしいな……」
だが結局のところ、どちらを選んでも曲想としてはわりと破滅的だ。
どれだけオブラートに包んでも、音楽というのはどうにも破壊と再生と無縁ではいられないらしい。先生の言うことにもなるほど、納得するものがあると桐生はうなずく。
「幻想もいいなあ。まあ確かにチューバは大活躍だが……湊くんがストーカーというタマかね?」
「分かってないわねえ桐生。ああいう子は暗くて重い愛情を秘めてるわよ。初恋の人を未練がましくずっと追いかけてるような」
遠くで当の高校生チューバ吹きがくしゃみをした。
「そういうものか? まあ、彼の吹く幻想も聞いてみたいな。修行というか、いい勉強になるだろうし。そう考えると呼んでみたくあるが――」
「だめだきりゅう。けんたろうはわたしがツバをつけるのだ」
またしても大人が「どこでそんな言葉覚えてきたの?」と言いたくなるセリフをつばさが吐く。
難しい顔で黙り込む桐生に、幼女は胸を張って言う。
「ブラスバンドの吹き手がたりない。けんたろうにはぜひチューバできてもらいたい」
「ああ、なるほど……一瞬湊くんがロリコンになったのかと思ってしまった。邑楽の毒にあたってしまったな、申し訳ない」
「人を毒扱いしないでくれる?」
要はつばさは、自身の所属する金管バンドに
なのでオーケストラには呼ばないでほしい――ということのようだが、金管バンドといえば、楽譜は。
「これがチューバのふめんなのだが、だれも吹きたがらない」
吹奏楽も真っ青の吹きっぱなしの譜面で、桐生と邑楽はうねる黒いおたまじゃくしにちょっと引いた。
「……オケの譜面と金管バンドの譜面は違うと分かっていたが、これほどとは」
「おたまじゃくしを通り越して龍よね、これ……」
「うむ。そんなわけでけんたろうをよび出すがゆえ、れんらくさきをおしえろ。きりゅう」
えへんと偉そうに楽譜を掲げるつばさに、祖父を同じ輝きを見て桐生はため息をつく。
貪欲に求め、物おじせず選び、これがよいと何はばかることなく伝える。
その音楽が、輝きこそが好きなのだ、と――。
「……ま、彼にとってはこちらの方が修行になるか」
破壊と再生を。
そのサイクルの中で、より良いものが生まれることもあるだろう。
つばさの勢いに根負けして、桐生は苦笑と共にあのチューバ吹きをより
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます