本町瑞枝、親から結婚を勧められるのこと

「おまえも三十五を超えたんだから、そろそろ結婚しろ」という親からのメールを見て、本町瑞枝ほんまちみずえは舌打ちした。


「ちっ」

「そういうところだと思いますよ、先輩」


 同じく音楽準備室にいた城山匠しろやまたくみが、そんな本町に飄々ひょうひょうと言う。

 大学時代の先輩後輩の、学生時代から続くやり取りである。もっとも、本町は昔よりだいぶ丸くなった方ではあるが。


「学校の壁にヒールで穴を開けたことを思い出しますねえ。気に食わないことがあるとすぐ足が出るんだから」

「うるせえ。その先輩に初対面でビビってたのはどこのどいつだ」


 楽譜をめくりつつ苦笑する城山に、本町は半眼で言う。

 ちなみにデスクの下の彼女の足は、所在なさげに揺れていた。教師になってだいぶ経つが、一皮めくればそこに学生と変わらぬ心根がある。

 昔のことを蒸し返されて、拗ね気味の先輩だった。

 対して後輩は聞き捨てならぬといった風に、楽譜から顔をあげる。


「オレンジの髪でヤニ吸ってる目つきの悪い人にガンつけられたら、そりゃビビるのでは?」

「いいじゃんオレンジの髪。その当時一番イケてると思ったんだよ」

「そういう人が教師を目指していると知ったときの衝撃といったら」


 外見と中身のギャップでダブルパンチを食らった、と城山は楽譜に手を置きため息をつく。

 とんでもない落差があったが、本町はちゃんと教師になった。影響を受けたのか、城山も演奏者兼、指導者になった。


 現在は黒髪ボブでスーツといった格好の本町である。

 それはそれで『あねさん』ともいうべき凄みがにじみ出ているが――そんな女傑は親からのメールを再度読み返していた。


「『三十五を超えたら何か問題がある人なんじゃないかと思われるから、結婚するなら早めにした方がいい』だってよこのクソが」

「うーん、まあ分からなくもないですけど。というか結婚とか、身につまされる話ですねえ」


 音楽教師、音楽家。

 両者とも若干浮世離れしている職なだけに、どうにもいいご縁がない。

 教師は安定していると思われるも、忙しすぎる上に限定した場所でしか活動しないから出会いがない。

 音楽家はいわずもがなである。歩いている世界が世間とはちょっと違うし、収入もなかなか安定しない。

 結婚、などと言われるとうっと言葉に詰まってしまう両名であった。


 本町も親の意見は聞きたくないようだが、年齢のことを考えたのか携帯を見る目が少し泳ぎ気味だ。


「嘘だろ親戚のばあちゃんにお見合いしないかとか言われてんのうちの親。どんだけ結婚させたいの」

「まあ娘のことが心配なんでしょうけどね。余計なお世話感もありますけど……にしても先輩がお見合いって。お見合いって。ウケる」

「うっせえ、どつかれたいのかおまえ」


 本気で肩を震わせる城山、拳を上げる本町。

 傍から見ればこの二人こそお似合いである。しかし二人とも全くその気はなく、先日バリトンサックスの部長に「本町先生と城山先生は付き合ってるんですか?」と訊かれたとき本気で嫌な顔をしていた。

 恋になるには幻滅しすぎているし、家族になるには気心が知れすぎている。

 友達にしか話せない悩みがあるように、人間というのは役割と距離感が大事な生き物だ。このくらいがお互いのベストだということを、二人は理解していた。


 ひとしきりふざけた後、城山は笑いをかみ殺しつつ本町に訊く。


「で? 受けるんですか? お見合い」

「ああ? ンなもん断るに決まってんだろ」

「そうですか。ちょっと残念」

「ネタにしてからかえなくなったことがか?」


 皮肉げに吐き捨て、本町は携帯をデスクに放り出す。

 それを目で追って、城山はいたって真面目な調子で言った。


「でなくて、これって普通に出会いのチャンスなんじゃないかなあと思って」

「血迷ったか匠⁉ このアタシにまともな結婚ができるとでも⁉」

「いやそこで開き直られても困るんですが」


 首を傾げる城山に本気で目を見張る本町。

 変人なことは変人だが、教師をやっているだけあって本町は肝心なところでしっかりしている。

 誰かいい人がいれば家庭を持つのもよいのではないか。そう言う後輩に先輩は渋面になった。


「まあそりゃ、結婚だけが幸せってわけじゃないですよ? けど会ってみたらいい人だったってこともあるんじゃないかって」

「教師は出会いが少ないからな。先生同士の職場結婚が多いのがその証拠だぜ」


 でもなー、結婚なー、と本町は天を仰ぐ。

 いまいちピンとこないというか、気乗りしないリアクションだった。

 もっと他に大事なものがあるといった、この業界にありがちな反応だ。家庭を築くより自らの成すことに興味がある。優先順位が一般的な人生とは少し違っている。

 別に今でも十分に楽しいしなあ、と首を傾げる本町に、城山が言った。


「先輩、どんなタイプが好みなんですか? そういえばあんまりそういうの聞いたことなかったですけど」

「なんか今日はやけに絡むな匠⁉ 別にいいだろ⁉ アタシは仕事が恋人で生徒ガキめらが子どもって感じだよ⁉」


 いつになく突撃してくる後輩。驚きと焦り混じりに本町はデスクを叩く。


「急かさなくてもいいヤツいればアタシだってきっと結婚するよ! なんだおまえは⁉ 親か⁉ ウチの親か⁉」

「きっと、とかそのうち、とか、本人が言うと途端に信用できないですよね」

「うっせえわ! ていうか匠、そういうおまえはどうなんだよ⁉」


 妙に食い下がってくる城山に、本町はびっと人差し指を向けた。

 城山匠。口を開けば残念が顔を出すが、外見はすこぶるイケメンである。

 おまけに演奏技術は超一流で、その価値観が大きな比重を占めていた音大時代は大変なモテようだった。

 というか今だってそれなりにモテる。彼の失恋のヤケ酒に付き合ったのは一度や二度ではない。


「おまえだって年齢的には結婚を考えたって不思議じゃないじゃん! なんだよコレ⁉ なんでアタシだけこんな恥ずかしいことになってんの⁉」

「いやあ、僕もチラチラ家族とか結婚とか気になってきちゃって。いい機会だから、先輩のを参考にさせていただこうかなって」

「先輩をダシにするとはいい度胸だなコラ⁉」


 後ろ頭をかきつつ笑って言う後輩に、本町は掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。

 城山の不届きな態度に憤慨しつつ、まったく、と腕を組んだときには既に本町は教師モードになっている。


 基本的には姉御肌な本町なのだ。

 自分のことはさて置いて、彼女は城山にいくつか尋ねてみることにした。


「ていうか、本当に結婚したいのおまえ?」

「いきなりどストレート投げ込んできますね先輩……。まあ確かに、自分自身が家庭を持ちたいっていうより、結婚して親を安心させてやりたいって気持ちの方が大きいですけれども」

「あー。まあおまえ、わりと親孝行だもんな」


 アタシと違って、とぼそっと付け加える本町。

 だが城山のこの考え方にはうなずけるものがある。なにかと金のかかる音楽大学に、城山の親は苦心して息子を通わせていたのだ。

 その恩を返したい、と思うのは当然の流れである。

 だが一方で、他の人間に対しては。


「かといって、親を安心させるために結婚するっていうのも違う気がしますね。ある意味お嫁さんを親を安心させる道具にするわけですし」

「目的と手段が入れ替わってるってやつだなあ。まあなんにせよ、そこに愛があればいいんだろ。愛が」


 本当に好きなヤツと一緒になれば、親御さんだって勝手に安心するさ――と、考え込む城山に、本町は肩をすくめる。

 演奏関係はパーフェクトなくせに、人間関係になると妙に不器用なのが城山だ。

 大切にしようとするとかえって関係がこじれる。これまで散々彼の過去を知らされてきて、本人以上に本町の方がそれを分かっていた。

 なんとかこいつには幸せになってもらいたいんだがなあ、とそこれこそ親のようなことを考えつつ、本町が言う。


「ていうかおまえの好みこそどういうタイプなんだよ。いっつも言い寄られる側だったから、おまえからいったことあんまりねえだろ」

「えっ?」


 虚を突かれた、といった風に城山が顔を上げる。

 本町が覚えている限り、城山の女性遍歴にあまり共通性はない。

 来るもの拒まず、話してみれば大体の相手には愛着がわく。なのでそれなりに仲はよくなるものの、相手の方が「何か違う」と感じて去る。その繰り返しである。

 美人、可愛い、色々いたが共通項は総じて城山に愛想を尽かしたということだけだった。

 本町に訊かれた城山は、真剣な口調で言う。


「確かに……これまでたくさんの人に声を掛けられすぎて、そこまで考えてませんでした」

「それ他の野郎の前で言うなよ匠。場合によっては殺されるぞ。特に滝田たきたとか」

「優しい人がいいですね」


 真面目に考えこんだ挙げ句、城山の口から出てきたのはそんな万国共通の条件だった。

 世の中の大抵の人間は優しいぞ、と苦笑いしながら本町が突っ込もうとすると、後輩はさらに続けてくる。


「あんまりガツガツ来ない人がいいです。僕を外見で判断せず、中身を見てくれる人がいいです」

「乙女みたいなこと言うなおまえ」

「だってしょうがないじゃないですか。この顔のおかげでどれだけ苦労したと思ってるんですか」


 勝手に言い寄られる勝手に振られる。因縁を付けられる美人局つつもたせにあう。

 得をしたこともあれども同じくらい大変な目にもあっている。川連二高ここに来るまでは髭と髪で顔を隠していたこともある城山だ。


「本質を見てくれる子がいいです。楽器は……やっていてもいなくても、どちらでも。ちゃんと会話ができて、気遣いができて、それから」

「分かった分かった。もうちょっと具体的に考えよう。というかおまえの条件それって、マジで今までどんだけひどい目にあってきたんだよ」


 城山匠の本命になるには、人間としての最低条件を備えていることが必要である――などと聞いたら、これまで彼に焦がれてきた人間は卒倒するかもしれない。

 しかしさすがにそれだけではなく、彼なりの嗜好というか、惹かれやすい属性はあるはずだった。

 簡単な二択を出して、ぼんやりしていた範囲を徐々に絞っていく。


「髪は長い方、短い方?」

「長い方、ですかね」

「活発な方と大人しい方」

「元気な子がいいですね」

「胸は大きい方、小さい方」

「……別にどっちでも構わないです」


 ときに首を傾げる選択肢もあるものの、おおむね滞りなく質問は進んでいった。

 しかし『ある選択』を前に城山は口をつぐむ。


「年齢は自分より上、下」

「……」

「ん? どうした?」


 明らかに眉を寄せて押し黙った後輩に、本町は声をかけた。

 ややあって城山は、渋々といった調子で返答する。


「……歳はやや上か、下ならわりと下まで」

「てことは城山先生、わりと自分の生徒も守備範囲か」

「そうですよ悪かったですね。けど僕、教え子には絶対手を出さないって決めてるんで」


 観念したように吐き捨てる城山に、本町は「ははあ」とうなる。

 彼が自らにそういった取り決めを課したことに、心当たりがあった。


谷田貝慊人やたがいあきと


 城山の同業者、大学の先輩。

 つまり本町と同い年。彼の真っ黒い笑顔を思い出し、音楽教師は困ったように笑う。


「まあ確かにアイツは自分の教え子に手を出してたらしいけどさ。おまえは関係なくね? ていうかアイツ、愛とかじゃなくただ打算で未成年略取してたんだろ」

「そうなんですけど。もうトラウマで……生徒をそういう対象にしない、ってあの一件以来マインドセットがかかったというか」

「でも、おまえは谷田貝アイツじゃないだろ。いい加減呪縛から解き放たれたらどうよ」


 以前、昔のことは乗り越えたと言っていた城山だったが、こうした枝葉の部分では未だ抜け切れてないらしい。

 後輩がどんな人間を好きになって、どんな人間と一緒になるかは彼自身が決めていいのだ。

 それが結果として自分の生徒であったとしても、当人同士が幸せならば構わない。


「ベートーヴェンだってドビュッシーだって生徒のことは好きになってんぞ。まあドビュッシーはだいぶヤバイけど」

「出会う人がスポンサーと生徒ばっかりだった時代と比べないでください」

「つっても、今のおまえだって似たようなもんじゃねえか」


 仕事で演奏しに行って、仕事で指導しにいって、終わったら帰って酒を飲む。

 基本的にやっていることは昔と変わらない。音楽家という人種の生活ルーティーンだ。


「先生っていう職種は職場結婚が多いんだよ。さっき言ったろ?」

「それは先生同士の結婚っていうことで、先生と生徒のことを言ってるわけではないと思うのですが」

「いーじゃん別に。現役の頃なら問題になりそうだが、卒業した後のことまでとやかく言うやつは少ないだろ」


 歳の差婚だって今のご時世全然アリさ、と本町はノリノリでウインクする。

 完全に面白がられていると悟って、城山は半眼で先輩を見た。これは先ほど先輩をいじったお返しだ。

 けれども冗談でからかっているわけではない。本音も混ぜて話している。それだけに反論の余地がない。

 むしろ心のどこかでは納得している自分がいるのを、城山は自覚していた。もちろん、戸惑っている自分だって同居しているのも感じているが。


「……まあ確かに、知ってますけど。知り合いのトランペット吹きで、一回り下の自分の生徒と結婚した人」

「だろ? それだってお互い大人になってからじゃなかったっけ。だから言ったじゃねえか、夫婦で幸せならそれでって――」

「でも先輩、先輩はみなとくんを結婚対象とみなせますか?」


 得意顔の本町を、城山は返す刀でバッサリ切りつけた。

 上機嫌で笑っていた本町がピタリと止まる。しばらくの後、固まった指が震えだし、口元がひくひくと引きつる。

 やがて音楽教師は、身体をのけぞらせて大爆笑した。


「いや厳しいな! あいつだいぶ成長したけど、まだまだだわ!」

「でしょう?」

「いやでもおまえより可能性あるぞ」

「はあ⁉」


 先輩の衝撃発言に城山が驚愕の声をあげた。

 対して本町は、今度こそ本気か冗談か分からない口調で言う。


「おまえは可能性絶無だけど、湊ならワンチャンあるかもな。あいつがこの先どれだけカッコよくなれるかによるが」

「え? どうしたんですか先輩?」


 やっぱり三十五過ぎると結婚に焦るもんなんですか、と大失礼な発言を城山がかます。本町は「そういうとこだぞ」と後輩を軽く小突き、しかしニヤリと笑った。


「『三十五過ぎると問題があるように思われる』ねえ。上等じゃねえか。こちとらもとより問題児なんだ。とことんまでやってやろうじゃねえか」

「あ、あの、先輩? それはヤケクソというやつでは……」

「その代わり、おまえも絶対に幸せになるんだぞ」


 大学生のようなノリで、本町は軽く重く、後輩に向かって言った。

 あるいはその微妙な揺れこそが、彼女が年齢を重ねた証かもしれないが。


「好きなヤツと好き合って、結婚でも同棲でもしろ。まあしなくてもいいけど。離婚したっていいさ。ま、どうあろうがおまえが思ったように生きろ」

「先輩」

「親も同業者も考えなくていい。おまえがやりたいと思ったようにやれ。変に他人に気を遣う必要はねえ」


 いい加減、谷田貝の顔を思い浮かべんのも飽きたしな――と本町は肩をすくめる。

 その顔は先生らしくなのか先輩らしくなのか。

 それとも彼女らしくなのか――いろんなものが混じった表情だった。


「乗り越えなくてもいいから好きなように生きろよ。おまえの親もアタシも、結局それだけで満足だよ」

「……だとしたら先輩は、これからどうするんですか?」


 さっき、とことんまでやってやるなんて不吉なこと言ってましたけど――と、恐る恐る問う城山に、本町は分かってんじゃねえかと笑う。

 長年の付き合いで彼も今先輩が何を企んでいるか、多少は分かるようだった。

 やりたいことをやりって、知り合ってきた者たち。

 後輩と教え子たちの驚く表情を思い、音楽教師は言う。


「なあに。オレンジの髪とジャージも、久々に悪くないと思ってな」


 また今度、好きなことを好きなようにやってみようか。

 デスクの下の足をぶらつかせ、本町は学生のときのように屈託なく笑った。

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