チューバ5人飲み会

「久しぶりにみんなで集まろうか」


 彼の言葉をきっかけに、再びチューバ奏者五人が集まることになった。



 ###



 駅前の居酒屋に、十八時に集合。

 呼びかけられた集合時刻の少し前、湊鍵太郎みなとけんたろうは現地に向かっていた。

 なにしろ幹事だからだ。きっかけは他の者だったとはいえ、実際に店を予約し、全員に連絡を取ったのは彼である。

 遅れるわけにはいかない。他の面子が来る前に準備をしておかねば――そんな鍵太郎の目論見は、店の前にいた人物のおかげであっさり崩れることになる。


「あ、湊くん」

清住きよすみさん!」


 一足先にやってきていたのは、鍵太郎のひとつ年上のチューバ奏者、清住純壱きよすみじゅんいちだ。

 ふわふわとした髪に、色白で淡い印象を与える相貌そうぼう

 高校生のときとあまり変わらない、ただ少しだけ大人びた彼がそこにいた。


「久しぶり。元気そうでなによりだよ」

「清住さんこそ……!」


 手を振る清住に鍵太郎は駆け寄る。SNSで連絡を取り合っていたとはいえ、実際に会うのは久しぶりなのだ。

 懐かしさについ足が早まってしまった。こうして顔を合わせるのは選抜バンド以来。ゆうに数年ぶりのことだ。


「大学生になって、飲み屋で再会とはね。あのときは考えもしなかった」

「たった二日しか一緒にいなかった面子なのに、不思議ですね」


 お互いに高校生のとき、県の吹奏楽連盟主催で行われた選抜バンド。

 学校の垣根を超えた合同演奏にて、二人は出会うことになった。これから合流する三人もまた、そこで共に演奏した者たちである。

 同じ楽器同士、同じ釜の飯を食べた仲。

 たったそれだけだが、鍵太郎たちにとっては忘れようもない面々なのだ。

 だからこうして、また全員が集まることになった。


「今日は僕の呼びかけに応えてくれてありがとう。全員と連絡を取れるのは湊くんだけだったから、苦労を掛けたね。これ、会費に少し色をつけといたから、みんなで使って」

「そんな、ひとりだけ多くなんてもらえませんよ」

「いいからいいから。僕だけひとつお兄さんなんだから年上面させてよ」


 選抜バンドのチューバパート、唯一の三年生だった清住。彼は年長者ということでリーダーを任されてもいた。

 目端が利き、さりげない気配りもできた清住に、当時鍵太郎も助けられたものである。

 その関係性は今になっても変わらない。にこにこと封筒を差し出してくる清住の圧に負けて、鍵太郎は渋々多めの会費を受け取った。


「……わざわざ早く来たの、みんなに内緒でこれを渡すためですか」

「いやあ、それもあるけれど。なんか、楽しみで早く来ちゃってね?」

「そういえば、みなで集まろうって言い出したの清住さんですけど。何か心境の変化でもあったんですか?」


 少し前に清住の方からネット上で話しかけられたときは驚いたが、それでも全員で集まろうなどとは今回の一件まで彼も言い出さなかったのだ。

 ただ会って益体もない話をしたいだけなら、少々面子が不適切ではある。

 ライバルでもあり、同士でもあり、気の置けない友人でもある――時に剣呑な雰囲気になり、言い争いもしたことだってある仲なのだ。

 そんな連中で再び集まろうというからには、それなりの理由があるはずだった。

 それこそ選抜バンド当時、彼の頭の中を占めていた『思い』に関係した出来事があったとか。そう予測した鍵太郎が水を向ければ、清住は。


「うん」


 ひとつうなずいて、穏やかな顔で続けてきた。


「山本先輩がね。演奏会にいきたい、って言い出したんだよ」

「それって、清住さんの先輩の」

「そう。山本夏見なつみ先輩。きみの先輩の、友達」


『音楽を嫌いになった』と言っていた人。

 鍵太郎も連れられて行った演奏会で、見たことがある。疲れ切って楽器を手放し、舞台上から去った彼女。

 清住と鍵太郎の先輩の前から、姿を消したその人が。


「久しぶりに音楽を聴きたい、って言い出したんだ。いくら誘ってももう楽器は弾かないなんて言ってた人がさ。まあ、相変わらずOBOG会には寄り付きもしないけど。それでも僕、嬉しくなっちゃって」

「……俺も、嬉しいです」


 ほんの些細な変化を迎えたと知り、鍵太郎はわがことのようにうなずいた。

 同い年のトランペット吹きがそうなりかけていたから知っている。好きだったものを、様々な理由で手放してしまう人はいるのだ。

 音楽でつながっている自分たちにとって、楽器を放り出すということはイコール永久の断絶に等しい。

 けれども時を経て、戻ってくる人間だっている。


「そのことを、湊くんの先輩にも伝えてほしくて。ずいぶん心配をかけたみたいだから……もう大丈夫、とは言わないけれど、なんとか元気にやってますって。それだけ、言いたくて」

「十分です! 春日かすが先輩、喜ぶと思います」


 山本夏見の友人、鍵太郎と同じ楽器の先輩。

 彼女が驚く様を想像して、鍵太郎は声を上げた。当時の落ち込みっぷりが尋常でなかったがゆえに、今回の吉報にはあの先輩も諸手を挙げて喜ぶことだろう。

 だが、それだけではない。


「それと、湊くんにも言わなくちゃいけないことがあってさ」


 お互いの先輩同士の話だったら、直接会わなくともSNSだけで済んだ。

 なのに再会を望んだのは、清住自身が鍵太郎に用があったからだ。


「選抜バンドの最後で、僕はきみの道と僕の道は違うんだと言った。申し訳ないけれど、これについては未だにそうだと思っている。僕たちの目指すものは違うし、同じ船に乗ることはあり得ない」


 強豪校出身者として徹底的に結果にこだわった清住と、どこにでもある学校の一員として過程に重きを置いた鍵太郎。

 両者の主義主張は異なっている。立場が違い、観点が違う。だからこそ彼らはあのとき別々の航路へと散っていった。

 今もそうだ、と清住は言った。

 けれども。


「……けれど、山本先輩のことがあって思った。長い年月の間に、お互いに進んでいれば――少しだけ、道が交わることもあるのかもしれないって」

「……清住さん」

「僕はきみの目指していく先を横から見ていた。励まされた。影響を受けた――救われた。だから今度は、僕が何かの助けになれないかと思って」


 また同じ面子で集まれないかと、呼びかけた。

 あのときの選抜バンドのように、主義主張が違う者が集まって、お互いに影響し合えたら。

 その刺激で、またお互いの明日に何かが生まれたら――きっと自分が報われたことの、恩返しにはなる。


「ま、集まるのにきみの手を借りてるんだから世話はないけどね。それに関してはゴメンね。その申し訳なささの代金でもあるんだけど、さっきの会費」

「そんなの気にすることないですよ。こうしてみんなで集まろうって言ってくれただけで俺は嬉しいです」

「相変わらず天然でタラシなこと言うねえ、きみ」


 そういうところは変わらないねえ、と清住はからからと笑った。

 そんな年長者の笑い方は、高校生の頃とは少し変わったように見える。前はもっと、儚く繊細な雰囲気があった。

 その性格は音にも出ていた。選抜バンドではもっと強引になってもいいと、指揮者に指摘されていたくらいだ。

 どことなく吹っ切れたように見えるのは、ずっと気にしていた山本夏見のことが解決したからか。


「色々うだうだ言ってきたけどさ。結局のところまた僕は、馬鹿で楽しいことをやりたいだけなんだろうよ」


 屈託なく笑って、清住は集合場所の居酒屋に入っていく。


「本当にありがとう、湊くん。これからもよろしくね」


 彼が一番言いたかったのはその言葉なのだろうと、鍵太郎は清住の声音から感じ取っていた。



 ###



 が。


「で、最近どうなのみんな?」


 全員集合して乾杯してから、おもむろに清住の発したセリフにどこか雲行きが怪しくなってきた。


「どうって、それなりに大学生しながら楽器吹いてるが?」


 真っ先に清住の問いに答えたのは、選抜バンドで一緒だった池上俊正いけがみとしまさだ。

 清住と似て非なるしかし強豪校の出身で、鍵太郎にとっても因縁深い相手である。

 相変わらずツンツンとした雰囲気で、清住とは正反対のタイプ。しかし選抜バンドの面子には多少心を許しているようで、きょとんとした顔で彼はビールをあおっていた。

 実力を認めた者には素直に敬意を払う池上である。でなければそもそもこの場に参加しない。


「おれも大学の部活で楽器はやっているが」

「ぼくは社会人バンドですね。依頼演奏とか楽しいです」


 続いて答えたのは荒町鷹尾あらまちたかお入舟剛いりふねつよし

 二人とも選抜バンドで一緒だったチューバ吹きである。チューバ五人飲み会――それが今回の集まりの呼称だった。


 しかし。


「ノンノンノン。僕はきみたちの音楽事情を聞きたいのではありません。きみたちの恋愛事情を聞きたいのです」

「酔ってやがんなこいつ⁉」


 清住の投げ込んだ爆弾に、池上がビールを噴き出す。

 なんとなく嫌な予感がしていた鍵太郎は、沈痛な面持ちでカルピスサワーをテーブルに置いた。

 年長者の言葉に顔を覆って確信する。


 馬鹿で楽しいことをしたい。これからもよろしくね。

 最近どうよ――つまり。


 このパートリーダーおにいちゃん――自分の女関係がスッキリしたから、他の人間の世話を焼きたいだけなのだ!


「ねーどうなのみんなー。あれから何年も経ったけどさぁー。男子部屋ではぎゃあぎゃあやってたけどさー。楽しいことになってたりしないのぉー?」

「ケッ、くだらねえ」

「うーん、相変わらず対応が塩ー☆ お酒が進んじゃーう☆」

「こいつムカつく……」


 上機嫌にデキャンタからワインを注ぐ清住に、怒りで顔を引きつらせる池上。

「まあまあ」と入舟が仲裁に入るところまで、高校生のときと一緒である。そのやり取りに鍵太郎は思い出す。

 清住純壱――風体だけでいえば薄幸の王子様であるが、中身はしたたかで腹黒い黒幕系プリンスだということを。


「ねえー、そういえば湊くんは彼女いるんだっけ? 前に話してなかったっけ?」

「そっ、それは、その……!」


 そんな最年長に話を向けられ、鍵太郎は動揺する。この雰囲気の中で先陣を切って話すとか、どんな拷問だろうか。

 しかし酒が入っているせいか、清住はドンドングイグイきた。


「同い年のトランペットの子だっけ? 選抜バンドでは見なかったよねー?」

「いやあの、ちょ、清住さ……池上、顔が怖いって‼」


 その『トランペットの同い年』に関わりのある池上が、無言でこちらを見つめてくる。

 怒鳴るわけでもなく敵意をむき出しにするわけでもなく、ただ黒目を見開いた虚ろな表情をしているのは怖すぎた。

 虚無の視線を向けられ、焦って鍵太郎はいらぬことまで口にする。


「彼女といっても! ケンカばっかりしてますし! そのせいでくっついたり離れたりですし! あんまり付き合ってる感ないっていうか!」

「……ほぉう」

「好きだっていうわりに殴ってくるし! 照れにしては過激というか! もうちょっと甘めの愛情表現ないかなって思います!」

「コ〇ス」

「なんで⁉」


 自身の言っていることがただの惚気と気づかぬまま、鍵太郎は絶叫した。

 虚ろな顔つきから亡者の顔つきになった池上。実力行使に出られる前に、鍵太郎は切り札をきる。


「そういう池上だって! 例の後輩ちゃんはどうなったんだよ! バリトンサックスの川俣睦かわまたむつみさん!」

「あぁ……?」


 ふいに知っている名前を出され、池上の動きが止まった。

 川俣睦は鍵太郎が三年生のコンクールで出会った、誘導係の女の子だ。強豪校だからこそ大会の係員をやっていて、当時鍵太郎とは池上のことを話した。

 バリトンサックスはチューバと同じ低音楽器である。役割が近く、だからこそ話す機会は多い。

 卒業しても接点はあるようで、池上自身の口から川俣睦の名前が出たことはあるが――


「あいつとはそんなんじゃねえよ。なんでもかんでもそっち方面に結びつけんなボケ」

「そんなこと言って、なにかと構われてるの知ってるぞ! ていうかおまえ、卒業してからも高校に指導しに行ってるだろ!」

「OBが母校に顔を出すのは当たり前だろうが。まあその度にあいつ、犬みてーにくっついてきやがるが」

「ほれみろ鈍感!」


 鍵太郎にだけは絶対言われたくない一言に、池上はこの上ないしかめっ面になる。

 まあそういう池上も、似たり寄ったりの鈍感ではあるのだが。

 というかこの場にいるほぼ全員、救いようのない鈍感たちばかりなのだが――同じく後輩たちにきゃあきゃあ言われていたものの、目当ての先輩しか目に入っていなかった清住などは「うんうん。宮園みやぞのさんも楽しい学校になったんだねえ」などとのたまっている。


「池上くんにも春が来たようでなにより♪ (オイ待てテメエなに決めつけてやがるんだ!) なにか言ってる気もするけど聞こえなーい☆ じゃあ次は入舟くん! 最近楽しいこと、あったかなー?」

「あ、はい。ぼく彼女いるので」

『あ゛ぁ⁉』


 あっさりと答えた入舟に、この場にいる全員が度肝を抜かれた。

 気弱・ヘタレ・理想主義と三拍子そろった入舟である。まさかそんなにも当然のように「彼女います!」などと答えられるとは思わなかった。

 一体どこでどんな風に間違いがあったのか。失礼なことをみなが考えていると、入舟は照れ笑いをしつつ言う。


「同じ高校のサックス吹きなんですけどね。凛としてて。ちょっと強気で。かわいいですよ」

「ま、まあ確かに入舟くんて身長あるし穏やかだし、ぱっと見は優良物件だと思うけど……」

「ヘタレなところも人によっては母性本能をくすぐられる……のか?」

「そういえば選抜バンドのときも、楽器やってる子のがいいって言ってたけど……そういうこと?」


 口々にひどいことを囁き合う他の面々。あまりのショックに記憶が彼方へとすっ飛んでいたが、徐々に鍵太郎は選抜バンドでの入舟関連の出来事を思い出していた。

 ぽんと手を打つ。


「あー、なんかそういえば選抜バンドの帰りにおまえ女の子と話してたっけ。赤いリボンをした茶色い髪の子」

「あ、見てたんだ湊くん。そうそれ。その子」


 ということはその辺りからの付き合いなのか。あの時点では恋人というより、友達といった雰囲気の入舟たちだった。

 ひょっとしたら選抜バンドをきっかけに、彼らの仲も進展したのかもしれない。あの演奏をきっかけに少しだけ自信を持てるようになった入舟だ。

 自分たちが作り上げたものが、何かの力になれたら嬉しいな――ある意味清住と同じ思考で、鍵太郎がのんびりと笑っていると。

 入舟も同じくのほほんと笑いながら、彼女について口にしてくる。


「高二のコンクールで、彼女が闇落ちしかけたときにぼくがそれ以上にキレて怒鳴り散らして、それがきっかけで仲良くなったんだけど」

「えっ、やだ怖い」

「入舟くん、もしかしてこのメンバーで一番闇が深い?」

「ヘタレこそキレさせたら怖いってやつか……」


 にこやかに恐ろしいことを言う入舟に、またもや全員が引き気味につぶやく。このメンバーの中でもっとも未知の可能性にあふれ、もっとも得体の知れない情熱を秘めた昼行燈、入舟剛。

 アブない性格のチューバ吹きは、なんてことない顔でウイスキーのロックグラスを傾けていた。大学生のくせに飲んでるものがもうヤバい。

 そういえば選抜バンドのあの夜も、こいつ持ってた缶を握りつぶしかけたんだよな――と鍵太郎は入舟と話した夜を思い出す。

 見た目と中身がアンバランスで、どうにも放っておけない。

 彼女さんも、入舟のそういうところに惹かれたのかもしれない。まあ、にしても彼が行き過ぎないように歯止めをかけてもらいたいものだが――と。


『あの夜』のことを鍵太郎が思い出していると。


 選抜バンドの濃かったあの夜、もっとも輝いていた男が焼酎を飲んでいるのが目に入ってきた。


「……」


 無言でグラスを傾ける荒町鷹尾。

 外見は、あまり高校生の頃と変わらない。戦車のように剛健で、大木のように寡黙。

 柔道部にいてもおかしくない風体の彼は、今日も黙って鍵太郎たちのやり取りを見ていた。

 つまり。


「……なんだ」

「いや、この流れだとあんたにも彼女いるのかって訊くことになりそうなんだけど……」

「いるわけないだろう……! なんだ貴様ら、そろいもそろって羨ましいッ!」


 必要がない=しゃべる材料がないから黙っていた荒町は、ガンとテーブルを叩いて男泣きをする。

 高校も男子校で、選抜バンドでは出会いを求めて来た荒町である。しかしチューバはこのとおり男ばかり。ひとしきり暴れまわった後、彼は大人しく演奏に専念したわけで――


「気が付いたら大学も工学部で野郎ばっかりだ! ふざけるな! なんでおれの人生にはこうも女っ気がないんだ!」

「いやあ、それはもう天命としか……」

「工業大学とか理系の学校の演奏って、きっちりしてて頭いいんだな~って思うよねー」


 むせび泣く荒町に、清住がフォローになってないフォローをかましている。

 どんな状況になっても音楽と結び付けて考えてしまうのが、彼ら楽器吹きの宿命である。

 しかしだからこそ、言えることはあって。


「ていうか、さっき大学の吹奏楽部入ってるって言ってなかったっけ? さすがにこのご時世、工学部でも女子はいるんじゃないの?」


 素早く清住は軌道修正してきた。

 男子校育ちの荒町とは違って、他の面々は共学出身だ。むしろ吹奏楽部の男子は大勢の女子たちに囲まれている状態がデフォルトである。

 吹奏楽部にいながら女子がいないと言う感覚が分からない。不思議そうな顔をする周囲のメンバーに、荒町は苦い顔で答える。


「いないことはないが、既に彼氏がいたりだな。分野的に元々の絶対数が少ないから、必然的に部活でも少ない」

「さすがの荒町くんも、略奪愛には手を出さないってことだね~☆ お兄さん安心したよ☆」

「おい絶対面白がってるだろ、この腹黒悪魔」


 ボソリと池上がツッコミを入れるが、当人は完全にスルーした。

 というか池上自身も本気で止めようと発言しているわけではない。むしろこの流れに乗って、事の成り行きを見守っている感すらある。

 わりと幸せいっぱいなチューバパートの中で唯一、浮いた話のない荒町。

 彼に何かしてやれないかという空気が生まれてきていた。チューバという楽器は演奏の最底辺を支える低音楽器である。がゆえにこそ、『自分たちより損をしている』人間がいるときは過敏に反応する。

 要は、困っている者を放っておけない世話焼き集団なのだ。

 いよいよ、今回集まった目的が果たせそうである。チューバ吹き互助会。図らずしもその真価が発揮されようとしていた。


「部活でダメならバイトとかは? 誰かいないのかい?」

「コンビニの深夜だからなあ……なかなか」

「通学路の途中で気になる子がいるとか。親戚で急にかわいくなった子がいるとか」

「そんなもんあったらとっくに食いついとるわ」

「おまえ、呪われてんじゃねえか?」


 びっくりするほど発展する可能性ゼロの荒町の周囲に、呆れ気味の声が飛ぶ。

 いないいないとは言っていたが、冗談でなく本気で女っ気がない。そういう星の下生まれてきたとしか思えない環境である。

 前世で何かしましたか? という顔になるメンバーに、荒町は食ってかかる。


「ふざけるな持ってる者ども! 確かにおれが卒業した途端に久下田くげた高校は共学になったが‼ 女子みたいな後輩はいるが、やはりだが男なんだ‼」

『うわぁ……』

「引くんじゃない馬鹿共ー‼」


 女運に見放された荒町が荒ぶる。びしりと各面々を指差し、彼は続けた。


「というか! お・ま・え・ら、そう思うなら誰か周りの女子をおれに紹介しろ! 一番手っ取り早いのはそこだろうが!」

「えー。こんながっついてるヤツにウチの女子たちを紹介したくないなあ」

「なんか苦情がこっちに来そう」

「おれたちの男の友情は! こうも簡単に破壊される‼」


 結束力は染みついた女子からの圧政には無力だった。

 が、伊達に彼らも長年吹奏楽部にいるわけではない。ううむと考えた後、清住は現状打開のための案を繰り出す。


「そう、荒町くんはがっつきすぎなんだよ。だから、紹介するなら別の手を考えよう」

「別の手?」

「チューバが足りない他の部活や団体の、お手伝いに行くんだ」


 将を射んとする者はまず馬を射よ、だよと最年長はにっこり笑った。

 女子を射止めようとするならまずその前の段階から。

 下心はとりあえず脇に置いて、適切な関係を築くことから始めましょうというわけだ。

 幸いにして荒町の演奏能力は高く、どこに行っても吹き手として歓迎される。

 そこでいい人がいれば、発展する可能性もある。ゼロがイチになる。

 今までの絶無の状態からすれば格段の環境だ。本人もまんざらではないようで、「ふむ」とうなずいた。


「それはアリかもしれんな。実際に色々なところの演奏に混じってみたい気持ちはある」

「でしょー? みんな、チューバを募集してるとこ知らない? そこの演奏にもプラスになるし、荒町くんにもプラスになるしウィンウインだよ☆」

「この近辺でチューバが足りないところっていうと……」


 地元、または隣県ぐらいまで。

 大学生の行ける範囲でどこかないか。チューバパートの面々は記憶をひっくり返す。

 ここに集まるメンバーは同じ楽器といっても微妙に活動範囲が異なっており、人脈も各方面にある。自分の所属する部活や団、その他から得られる情報に――


「……あっ」


 ひとつ思い当たるところがあって、鍵太郎は声をあげた。

 そういえばひとつあった。女性が多く、チューバが足りず、鍵太郎が紹介できるほど親しい団体が。

 先日も「湊さんも今度の練習いかがですか⁉ らいじょぶれす、他の学校の人でも、男の人でも気にすることないれすから!」と言われたばかりである。

 鍵太郎自身は自分の団で忙しく、迷っていたところだったが――代わりに荒町を派遣すれば、双方にとって非常によいことになるのではないか。

 渡りに船というやつだ。その誘っていた本人は、実はのだが――彼にとっては知る由もない。

 善意の勘違い。

 高校生のときと変わらないスペックを発揮した鍵太郎は、「なんだ⁉ どこかあるのか⁉」と食いついてくる荒町に力強くうなずく。


「そうだ! 薗部そのべ高校ってところがあるんだけど。コントラバスもファゴットもいるんだけど、チューバがいなくてさ。困ってるみたいで」

「あれ? 湊くん、そこってぼくらが三年生のときのコンクールで会った、部長さんのとこじゃ」

「そうそう。川連二高うちの近くにある女子高な」

「女子高ぅッ⁉」


 荒町が俄然がぜん色めき立つ。

 薗部高校。鍵太郎が以前合同バンドを組んだところであり、かつての強豪校――そしてまた栄光への道を歩み始めた、再びの新星である。

 鍵太郎と同い年でそこの部長だった彼女は、今そこのOGを集めた卒業生バンドを作っていた。だが楽器にやはり偏りがあり、チューバが足りないということで鍵太郎に声をかけていたのだ。


「部長さんは知り合いだし、連絡も取れるから紹介するよ。ただしくれぐれも迷惑かけんなよ?」

「神様仏様みなと様! この恩は決して忘れません!」

「大げさだなあ」


 拝む荒町に苦笑する鍵太郎。その手はさっそく、他校のOGバンドの長に連絡を取るべく動いていた。

 鍵太郎から送られてきた文面を見た柳橋葵やなぎはしあおいは、「ふえ……? 頼れるチューバ戦車……?」と首を傾げることになるのだが、それはまた別の話である。


「ぐふふふふ……これで、これでおれも女子とお近づきになれるのだ……」

「オイてめえ迷惑かけるなって言ってんだろ」

「何はともあれ、一件落着だね☆」


 そんな風にひとつの話題に片が付いたところで、清住がぱんぱんと手を叩く。


「さぁて、話が決まったところでまた乾杯しようか。あ、おねえさーん! ワインのおかわりお願いしまーす!」

「まだ飲むのかよテメエ」


 喜ばしいことを改めて祝福するため、今回の集まりの首謀者が仕切り直しを提案した。

 池上も手厳しいことを言いつつ、口元はしょうがねえなあといった風に笑っている。鍵太郎も幹事として賛成し、入舟と荒町にメニューを渡した。


 全員が飲み物を注文し直し、新しいグラスが届く。


「再会に」


 そこで清住は会の始まりであった乾杯のセリフを、もう一度繰り返した。

 みながそれにならって『再会に』とそれぞれのグラスを掲げる。

 そんな中でパートリーダーは、さらに新しい言葉を付け加えてきた。


「そして新しい出会いに――乾杯!」

『乾杯!』


 交わされたグラスが、それぞれぶつかって音を立てる。

 違う学校で育ち、違う舞台にのぼってきた五人のチューバ奏者たち。

 掲げたグラスの形も中身も違う。

 そんな彼らが一堂に会した飲み会は、まだ始まったばかりだった。

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