第3話 22歳、新米理科教師の男

「…あなたは誰ですか?」

見たことのない制服、サラサラの髪、そしてまっすぐに見つめる濁りのない瞳。

人懐っこい笑顔と、それにそぐわない影のある横顔、そして俺を呼ぶ掠れた声が印象的な、それはとても魅力的な女の子だった。



新任としてこの中学に赴任してから約半月、「先生」と呼ばれる気恥ずかしさにはまだ慣れない生活を送っていた。

「せんせー、さようならー!」

4月に入学したばかりの初々しい制服に身を包んだ女子生徒が、廊下の先から声をかける。

「はい、さようなら。気をつけて帰れよ」

にこやかに返事をし、別棟にある理科準備室の扉に手をかけた。

本棟に比べ、人通りはほとんどない。校庭から生徒たちの下校の声と部活動の声、そして、吹奏楽部が練習する楽器の音がわずかに聞こえる程度だ。ここにある「理科準備室」が、俺の理科教師としての人生初めての学校での居場所で、落ち着ける唯一の場所となっている。

そんな場所に誰かがいるなんて、想像もしなかった。扉を開けた時の衝撃は、これまで体験したことのないほど強烈さを俺の中に刻み込んだ。

「…あなたは誰?」

俺の椅子に腰をおろし、背もたれに身を沈める見知らぬ女子生徒が開口一番に声を発する。

(誰だ? 見たことない…、って、うちの制服じゃない…!?)

あまりの突然さに、頭がついてこない。意識がついてこない。何よりも、言葉が出ないなんてシチュエーションが実際にあることに驚いてしまった。

「えっと…、君は誰かな? 僕のところに何か用?」

出来るだけ平然を装って、引きつりながらも笑顔を作る。そんな俺の顔をまじまじと見つめ、彼女はニコっと笑ってみせた。

「先生、新しい先生? そっか…坂下先生移動しちゃったもんね」

屈託のない、物怖じしない彼女の態度に、なぜか引き寄せられた。

「坂下先生…、あぁ、以前いらした先生だよね。うん、4月から新任で赴任した小野っていいます。もしかして卒業生なか?」

テーブルに参考資料を置きながら、動揺している心を精一杯かくし軽く自己紹介をする。

「はい、3月に卒業しました。今はピッチピチのJKです!」

人懐っこいというのは、この子のような人のことをいうのだろうな。俺のように人見知りする人間には、これまでの人生であまり関わりのないタイプだった。

「へぇ…、っで、ここで何してるのかな?」

極めて平然に落ち着いた声で状況を確認する。そうだ、この子はなぜここにいる?

「先生に会いにきたの」

(…え? 俺に?)

一瞬、ドキリとした。冷静になれば何の勘違いもするはずもない言葉なのに、突然の出来事が重なり過ぎて色々とテンパっていたのだろう。

「私、卒業するまでずっと理科係として坂下先生のお手伝いしてたんです。だから、ここに来るのがつい癖になってるっていうか」

(…あぁ、前いた先生に会いに来たってことね。当たり前か、何勘違いしてんだよ、俺)

ニコニコと笑う彼女からは悪びれた様子はみじんも感じられない。本心でそう思い、ここにいるのだろう。

「そうだったんだね、…」

だからと言って、知りもしない卒業生の子と会話を続けられるほどのコミュ力は、残念ながら持ち合わせていない。

(うぅ、事情が分かったんなら、早く出てってくれないかなぁ)

これまでの人生、決して華やかなものではなかった。中高、大学と女性と接点のあることも全くなかったし、むしろ「女性に免疫がない」といった手っ取り早く説明がつく。

「えっと…、そこどいてもらっていいかな。僕のデスクだから」

一向に腰を上げようとしない彼女に、さりげなく退室を促してみる。

「ごめんなさい。そうですね」

わぉと声を上げて、パッと両手を上げながら席を立ち、どうぞ、椅子に誘導される。

「先生、新任ってことはこの春に先生になったばったりなの?」

彼女は退室するどころか、デスクに手をつき興味津々といった態度で俺に話しかけてきた。

「そうだよ、その点では先生もピッチピチだ」

彼女の質問をさらりと返し、明日の授業で使う教材の下準備に取り掛かった。

「じゃ、一緒ですね!」

彼女の笑顔には、何か惹きつけられるものがある。6つも年下の、しかもJK(女子高校生)にドキリとしてしまうなんて、俺もそうとうヤキが回ったものだ。

ふぅっと静かに深呼吸をし、冷静になれと自分に言い聞かせながら口を開いた。

「そうだね。…申し訳ないんだが、明日の授業の準備をしたいから、用がなければ…」

そこまで口にすると、彼女は空気を察したように俺にニコっと笑いかけた。

「ハイ、お仕事の邪魔はしません! 帰ります」

鞄を持って扉に手をかけた彼女が、そうだ! と思いついたように振り返った。

「私、奈南ななっていいます。斎藤、奈南です」

扉から差し込むオレンジに染まった光を背に笑う彼女は、今まで目にしたことのないほどの美しさを纏っていた。



それから、奈南はちょくちょくと準備室に顔を出すようになった。奈南は何か目的があってここに来るわけではない。この中学校から3駅離れた進学校に通っていること、祖父母と3人で暮らしていて両親は遠方にいるということ、中学では吹奏楽部でパーカッションをしていたこと、中学からの親友ユキナとは高校は別だがしょっちゅうメッセージアプリで会話していること、など他愛のない話をしては嵐のように帰っていく。

そんななんてことない放課後の風景が、いつしか俺の楽しみになっていた。

「ねぇ小野っち。今日ね物理の宿題出たんだけどイマイチよくわかんなくって、教えて」

テスト前ということもあり、奈南は準備台の上に教科書と参考書を広げ、うんうんとうなっていた。

「あのな、小野っちはやめろって言っただろ。他の生徒が聞いたら示しがつかないし。ただでさえ卒業生の女生徒をここに入れてるだけでも問題なのに…」

そんな俺の抗議を、奈南の耳はいつも完全にスルーする。聞いているが、右から左へといった感じだろう。

「もー、物理ってなんでこんなに数式多いの?! 実験はすっごく面白いのに。計算とか計算機に任せればいいじゃんね」

ブツブツと文句を言いながらも、教えたところは完璧に習得するのが奈南のすごいところだ。さすが、地元で名高い進学校で優秀な成績を誇るだけあり、勉強に対するセンスはかなりいいなといつも感心させられる。

「まぁ、社会に出たらこんな数式使うのなんて学者くらいなもんだよ。今だけでも体感できるって考えたら、ちょっと優越感にならないか」

ふっと笑みをこぼした俺を見た奈南は、姿勢を正してシャープペンを持ち直した。

「分かってるけど…、ちょっと愚痴りたかったの。小野っちってホント真面目だよね」

ぶぅっと唇を尖らせ、教科書に目を落とす奈南。この子がつい半年前まで中学生だったなんて、信じられないな。

「理科の範囲なら僕でも教えることできるから、わかんない問題あったら聞きなよ」

ふと気を抜くと、彼女に見とれてしまう自分がいる。そんな自分の感情を押し込めるように、「教師」の仮面を被り直した。

「はーい、頼れる先生が側にいてくれて、斎藤はとっても幸せです」

おどけた調子でニコっと笑い、また教科書に戻る奈南の横顔をそっと見つめた。絶対に、知られてはいけない俺の想いをぶつけるように。

「そろそろ暗くなってきたな。今日はもう帰りなさい。おうちの人も心配するよ」

日が陰りだした空はピンクと群青色とが混ざり合う時間帯。俺は勉強に集中していた奈南に声をかけた。

「あ、もうこんな時間なんだ…。ここに来ると時間が経つのが早いからつい長居しちゃう」

道具を鞄にしまいながら、奈南はもうちょっといてもいい?と控えめに聞いてきた。…最近はいつもこうだ。家に帰りたくない理由でもあるのか? 祖父母と暮らしているとは聞いていたが、奈南は自分のこととなると話しをはぐらかし詳しく話そうとはしなかった。

「うーん、お年頃の女子高校生に暗い夜道を歩かせるわけにはいかないからな。またおいで」

帰り渋る奈南をやんわりと説得し、一緒に準備室を出た。誰もいない廊下に俺と奈南だけの足音が響く。

「そういえば、お前の担任だった米先生、年末ごろに結婚するんだってよ」

美術の米先生は俺の5つ上の「はつらつ美人」で人気の、明るくて容姿端麗、その上生徒の心をつかむのがとてもうまい。本校でも1、2を競う人気の先生だ。彼女の結婚が決まってからというもの、男子生徒はもちろん、一部の男性教師の間でもしばらくはがっかりムードが蔓延した。

「そっかぁ…、米っちとうとう結婚するんだね。大学時代から付き合ってる画家さんでしょ旦那さんになる人。なんだかんだ言ってすぐノロケるんだよねー、米っちって(笑)」

セーターの袖をぎゅっと握り、うらやましいなぁと声を上げる。米先生は吹奏楽の顧問をしていたからか、担任として以上に奈南に懐かれていたようだ。

「知ってる? 美術準備室に行くとね、先生の彼氏さんの作品が飾ってあるんだよ。油絵のでっかいヤツ。色使いがすっごくきれいって米っちいっつも見とれてたんだよね…」

思い出にふけるように遠くを見つめた奈南の顔に、優しい笑顔がこぼれた。そして、それを見た俺はなぜか違和感を覚えてしまった。ほん少しだけ悲しさがにじみ出ていように感じたから。

「お前、美術準備室にも入り浸ってたのか? ホントに「先生」マニアだな」

奈南は以前、自分は「先生」マニアだと語った。同年代の友達といることはもちろん楽しいが、歳の離れた「先生」の話しを聞くことがとても好きだと。俺の元へ通うようになった理由のひとつでもある。

「うん! 「先生」大好き。自分の好きなことを職業にして、好きなことを生徒に教えて、そして好きなことの魅力を一番身近で感じられる仕事でしょ。憧れるよ~

へらっと笑った奈南の顔には、さっき感じた違和感はもうなかった。

「じゃ、たまには米先生のとこ行ったらどうだ? 最近は理科準備室ばっかりに顔だしてるんだろ? 他の先生方もお前に会いたがってたぞ」

「う~ん、米っちんとこはそのうち行くよ。今はラブラブモード全開だろうし、またノロケられてもウザいしね」

タンタンッと軽快に階段を降り、昇降口前で奈南が振り返った。

「じゃね、先生。また来ますー!」

満面の笑みでそう言い残し踵を返す奈南に、気をつけろよと声をかけた。

その時の奈南の本当の気持ちには、まったく気づかないままに。



それから数か月、奈南は準備室にまったく顔を出さなくなった。というより、中学校に来なくなっていたというほうが正しい。

あんなに頻繁に顔を出していたのに、急にどうしたのだろう。彼氏でもできたか? バイトでも初めた? それとも、もう俺のところに来ることに飽きたのか? 思い当たる節もなく、かと言って連絡先を知っているわけでもないから直接聞くことも出来ない。俺は答えのでない疑問を胸に悶々とした毎日を送っていた。

「小野先生! 荷物の整理ですか?」

両手いっぱいに実験用具の入った箱を持ち、よろよろと歩いていたところを米先生に声を掛けられた。

「米先生。明日発火実感するので、その道具の準備をしていまして…」

顔だけで振り返った俺の隣に並び、大変ですねーと声を上げる米先生。相変わらず「マドンナ」感を彷彿させる笑顔。一見幼く見える笑顔の下には、大人の色気も垣間見え、それは世の男どもがほっとくわけがない完璧な「美人」だ。

「そういえば、最近斎藤って学校に顔出してますか? 急に来なくなったらちょっと心配してて…」

元担任の米先生なら、何か知っているかもしれない。ただそう思っただけの軽い質問だった。米先生は一瞬フリーズし、目線を俺から外した。

「斎藤さん…、見てませんね。卒業式以来会ってないので。学校に来ているっていうのは吹奏楽部の子たちからは聞いていたんですが…」

髪を耳にかけながら、ははっと乾いた笑い声がこぼれる。あれ? 何か聞いてはいけないことを聞いたように感じた。

「そうなんですか…。理科準備室に顔を出す時は、いつも米先生の話題が出てたんですがね」

「…私に会いづらいんでしょうね」

何か含みのある言い方が気になった。何がどうあればただの元担任と元生徒が気まずくなるんだ。特別な理由があるわけではないが、俺は無性にその理由が知りたかった。

「会いづらい、といいますと?」

こんな意地悪な質問、女性にする時点で嫌われるかもしれない。でも、そんなことよりもなによりも、知りたいという好奇心の方が勝っていた。

「卒業式の時にちょっと…。まぁ、若いうちは憧れが勘違いを生むってことが多々ありますからね」

濁した言い方を残し、米先生はではここでっと職員室に入っていった。

憧れが勘違いを生む…? 米先生は見かけはとても美人で話してみるとサバサバしていて、それでいて話し易い。男女関係なく人気の教師だ。そんな先生に奈南が憧れることは納得できる。でも、気まずくなるような勘違いって…なんだ?

答えの出ない疑問が、また俺の中にうごめいた。でも、本当は知っている、答えは出ている。ただ俺がその答えを認めたくないと強く思っていること自体に、蓋をして隠しているからだ。気づきたくないと目を背けるために。



12月にしてはホカホカと温かい日差しの中に時折吹く冷たい風が頬に心地いい。久々に買い物に出かけた街中は、クリスマスだのイルミネーションだので浮き立っている。もう2年近く恋人のいない生活になれた俺には、無縁の光景だ。

「そういえば、米先生の結婚式、もうすぐだったな。…ネクタイでも新調すっか」

教師の戦闘服であるネクタイとスーツは、毎日着てはいるが、「結婚式」のような華やかな場所ともなると少しくらいは小綺麗にしていくのがマナーだろう。そう思った俺は、学生時代から好きだったブランドの店に行ってみようと足を速めた。

世の中、浮足立ったカップルばかり。手をつなぎ、腕を組み、腰を持って歩く。昼間っから見せつけてくれるね…、少しの羨ましさと嫉妬心がにじみ出た視線の先に、見覚えのある黒髪の女性が目に留まった。

街路樹の縁に座り、行きかう人々を見つめている…ようで、心はここにいない。そんな寂しい目をした女性—奈南だった。

上の空でただそこに座っているだけの彼女に、以前感じた違和感がちらついた。

そう、米先生の話をしたときと同じように、彼女の隠した寂しさが表れていたから。

「斎藤」

自然と声をかけていた。本当はスルーして見なかったことにするつもりだった。しかし、奈南のあの表情の意味を知りたいと、俺の中の隠していたスイッチがオンになってしまったのだ。

「あ…、小野っち。何してるの? デート?(笑)」

へらっと笑った顔は、いつもの奈南だった。

「いや、ちょっと買い物に。お前こそこんなところで何やってんだ。風冷たいだろ」

弱い北風になびく奈南の美しい黒髪が、太陽の光を反射してキラキラと輝きを放っていた。

「ん…、そうだね。意外とぽかぽかしててあったかいよ?」

耳に髪をかけて軽く笑った奈南は、これからどこ行くの?と首を傾げた。

「あぁ、もうすぐ米先生の結婚式だからね、ネクタイでも新調しようかと思ってたとこ」

奈南の横に腰をおろし、行きかう人々に目を向ける。同じ景色を見れば奈南の心の中が少しでも覗けそうな気がしたからだ。

「で、お前は何してるんだ? 人間観察の趣味もあったのか?」

しばらくの沈黙の後、会話のきっかけになればと思い口をついた質問だった。

「人間観察…そんなとこかなぁ。みんな幸せそうに見えて、心の中はどうなんだろうなって思って見てただけだよ」

奈南は目線を上げ、行きかう人々の顔を当てもなく眺める。ほらまた、隠し悲しい顔が出てきた…。お前にそんな顔をさせる原因って、何なんだ?

奈南の心の中を、知りたい。俺の好奇心は最高潮に達していた。

「小野っちも…、米っちの結婚式出るんだ。ネクタイ新しく買うの? 私が選んであげよっか?」

奈南はクルっと勢いよく体勢を俺に向け、いつものようにニコっと笑ってみせた。

「お前の趣味のネクタイ? 派手過ぎて俺の歳では浮くんじゃないのか?」

憎まれ口でも叩いておかなければ、絶対にニヤけ顔が奈南にバレる。必死で感情を押し殺し、奈南の額をグイっと押した。

「そんなことないよ! 私が絶対いいやつ見つけたげるから。米っちの結婚式で一番かっこいいネクタイ選んであげる!」

さ、行こっ、と腕を引っ張る奈南に、あの時感じた違和感はすっかり影をひそめていた。



思いのほか奈南のセンスはよかった。深いブルーにシルバーの透かし柄が上品にあしらわれたシックなデザイン。時と場所を選ばない無難なネクタイ。正直意外だった。

「へぇ、お前ってセンスいいんだな」

ポロッと出た俺の本音を、奈南は聞き漏らさなかった。

「でしょ。…米っちはあんまり派手なのは好きじゃないんだよ。あの人の絵っていつも寒色系の、青みが多い色使いが多いからね」

両脇に手を置き、エッヘンを胸を張って見せる奈南。

(米先生の好みに合わせたチョイスってことだったのか…)

なぜか、少しがっかりしてしまう自分に戸惑った。当たり前じゃないか、米先生の結婚式だぞ。彼女が喜ぶ服装で祝ってやるのも心遣いというものだろう。がっかり感で充満する俺の心の中で言い訳を重ねる自分を奈南に悟られないよう、隠すように前髪をガシガシッとかき上げた。

「お前、本当に米先生の事よく見てんな。そんなに大好きなのか。さすが「先生」マニアだな」

「うん…。大好き、かな」

何気ない一言だった。この会話の流れからするとおかしなことではない話題のはずだ。なのになぜ…、奈南、なんでそんなに悲しい顔で笑顔を見せるんだ? 何度か感じていた違和感が、またここで顔を出した。

「…選んでくれたお礼に、なんかおごるよ。何か食べたいものとかあるか?」

何となくこのままの雰囲気じゃまずい気がして、気分を変えるために近くの公園にある人気のキッチンワゴンに奈南を誘う。

数件あるキッチンワゴンの中から、奈南はたっぷりのクリームがのったアイスカフェラテを、俺はホットコーヒーをオーダーした。

「ねぇ小野っち。初めて人を好きになったのって幾つの時だった?」

唐突の質問に、思わず口に付けたコーヒーを吐き出してしまいそうだった。

「え! はっ? 何?! 何言ってんだ?」

明らかな動揺具合の俺をみて、奈南はぶはっと笑いストローに口をつけた。

「小野っちって今23歳くらいだよね? 初恋って中学生だった? 高校生だった?」

グイグイと聞いてくる奈南に戸惑いながら、ゴホンと一息深呼吸をつく。

「俺は、中学の頃だったかな。同じクラスの女の子だったよ、小さくってかわいくって。でもあの頃は恋なんていうレベルじゃなかったな、何となく…かわいい女の子への憧れ心が勝ってたように感じる」

淡い、甘酸っぱい初恋。これまで当時を思い出すことは全くなかったが、いざ聞かれてみるとなんだかこそばゆい感覚になる。

「その人に、告白とかしたの?」

「いいや、だから、憧れだっただけだって。付き合いたいとかは雲の上の感情だったんだろうな」

あの頃の自分が懐かしい。毎日彼女を見つけては、可愛いなと思うだけで満足していた。付き合いたいとか、彼女になってほしいとか、告白したいとか、そんな感情みじんもなかった。

「そっか…。初恋って、そんなもんなのかな」

空を見上げ、奈南はストローからチョビチョビとカフェラテをすする。

「なんか…あれか? 恋愛関係で悩んでるとかか?」

この流れでこの質問はセーフだろう。決して俺個人の好奇心で知りたいと思っているわけじゃない、そう、これは話しの流れの延長だ。

「…。悩んでるっていうか、後悔してるっていうか。勢いで押し切ろうとしちゃうと、いい結果にはならないんだなって、反省中」

へらっと笑った奈南の顏は、その感情の通り後悔と悲しさ、そして苦しさがにじみ出ていた。笑っているはずなのに、それすら幼気いたいけに感じさせてしまうほど、後悔している初恋。奈南は、どんな気持ちで今、その時の感情を受け止めているのだろう。

「…でも、後悔してでも相手に気持ちを伝えたかったんだろう? そこに気持ちのブレはなかったんだろう?」

俺自身の未熟な恋愛経験からは、アドバイスなんて到底できない。しかし、これだけは分かる。伝えないで後悔するよりも、伝えて後悔するほうが何倍も自分の糧になるってこと。

「うん…、気持ちを伝えたことは後悔してるわけじゃないけど、恋だったかって言われたら、それは違ったのかもしれないなっていう後悔、かな」

ぽかぽかの陽気が降り注ぐ12月の公園のベンチには、冷たくてそれでいて切ない風が吹いていた。



米先生が3月で退職すると聞いたのは、披露宴の最後のスピーチでのことだった。画家の旦那さんについて、世界を放浪するのだという。何年も迷った末の決断だと話していた。教師になるのは長年の夢で、それを叶えた自分も好きだったと。しかし、旦那さんと遠距離になるたびに「別れ」がよぎる不安と、第二の夢であった「彼についていく」という夢を叶える度胸のなさを、ずっと苦しみ後悔していたと語ってくれた。結婚を機に、今度は第二の夢を二人の現実にするんだと、最高の笑顔で締めくくっていた。

「米先生、キレイだったぞ」

年が明けた2月、テストも落ち着いた頃に久々に奈南が理科準備室に顔を出した。

「だろうね、米っち美人だもん」

回転式の椅子に腰かけくるくると回ってみせた奈南は、ネクタイどうだった?と質問してきた。

「米先生にも、旦那さんにも好評だったぞ。あの色は米先生が一番好きな組み合わせだって」

俺の返答に、奈南は嬉しそうに顔をほころばせ、またくるくると椅子を回転させた。

「米っち、退職したらすぐにイタリア行くんだってね。グループトークで回ってきた。みんなでなんかお祝いできないかって」

そう話す奈南の顏に、12月の公園で感じた違和感はもうなかった。笑顔に隠した悲しい顔の奈南は、もういなかった。

奈南のあの表情の理由は、鈍感な俺にも何となく察しがついていた。でも、それを認めたくない…というか、受け入れたくないという自分勝手な気持ちで未だに蓋をしたままだ。

「そっか、米先生喜ぶだろうな。いい生徒たちをもって先生は幸せだな」

俺の言葉に、奈南は心底嬉しそうに笑ってみせた。何かが吹っ切れたような、とてもいい笑顔。自分の感情を乗り越えた者だけが手にすることのできる、強くて儚い、とても美しい笑顔。

初めて会った時から一回り大人びた奈南は、これからどんどん美しい女性になるのだろう。

「小野っち。私ね、教師になろうかな。小野っちとか米っちとかみたいに、生徒に頼りにされる教師になりたい!」

奈南の瞳は、もう未来を見つめていた。初恋から得た大切な「夢」、そして「希望」。奈南は確実に人間として成長している。そんな姿がとても眩しく、そして愛おしく思えた。

「そうか、お前ならいい先生になれるだろな」

俺の言葉に、嬉しそうにはにかんだ奈南は、これからいろんな出会いを経験し、大切な人と出会い、そして幸せを手にするのだろう。それが、たとえ同性に向けられる感情だとしても、俺は今奈南に向けているこの想いを後悔する日は絶対に来ない、そう確信した。

この気持ちは、奈南がもう少し大人になってから伝える機会があればいい。例え奈南に伝わらなくても今はまだ「いい先生の小野っち」として、奈南の傍に居たい。ずるい大人だと奈南は思うかもしれない。それでもいい、この恋を傍観だけでは終わらせたくないから。

今はまだ奈南の傍に居るだけで幸せだから、この気持ちを悟られないようにしよう。

いつかきっと、奈南に届く日が来る未来を夢見て。



恋愛には、男とか女とか、年上とか年下とか、そんなこと一切理由にならない感情が付き纏う。奈南はきっと、自分でもかみ砕けない感情を持て余し、暴走し後悔する初恋に身を焦がしていたんだろう。同性だから、人一倍悩み苦しみ、憧れの人を愛しく思う、叶うはずのない恋心を抱いた自分を悔いたのかもしれない。

そして、そんな奈南の傍で奈南のことを見つめていた俺自身も、同じように言葉にできない恋心を患ってしまったのだ。簡単に叶わないと知りながらも、それでも求めてしまうのは、恋煩いと言わずしてなんといおう。

それでもいい、そう思える相手だからこそ、俺は恋を経験したんだ。


≪完≫


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そして、男は恋を経験する matsumo @matsumot

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