第2話 26歳、家電販売員の恋<下>
俺の想像はビンゴだった。由衣に声をかけてきたその男は、長年付き合った本命のいる32歳営業マンだった。
電話でやり取りをしていた時から、由衣の落ち着いた態度と正確な仕事の姿勢に興味が沸き、魔がさして食事に誘ったことが始まりだったらしい。
当初、男に恋人がいるなんて知りもしない由衣は、男の醸し出す大人の余裕に徐々に惹かれていったそうだ。そして、何回かのデートの末、交際を申し出たのは男の方からだった。気持ちが通じ合ったことに喜びを感じだ由衣は、男と過ごす時間を何よりも大切にし、心底心が満たされる瞬間だったと話した。
しかし、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。男に別の女の影がある…そう勘繰り始めたのは、付き合って半年ほど経過したころだったと由衣は言う。
「お家デートはいつも私の家ばかりだったの。最初は気にしてなかったんだけど、一人暮らしの彼の家に一度も招待されたことはなくって。急に会いたいって言ってもいつも仕事を理由に断られてたし、夜電話しても繋がらないことも多くて…。デートの約束は決まって3日以上先じゃないとダメだったの」
ポツリポツリと、その時の状況を噛み締めるかのように話してくれた由衣は、ひどく寂しそうな顔をしていた。
「へぇ…、本命がいることを徹底的に隠してたんだ。遊び慣れしてんね、その男」
ビールが空き、追加で注文した白のグラスワインに口を付けながら、由衣の反応を見る。
「うん…、まったく気づかなかった」
由衣もまた、新たに注文したグラスビールを口に含み、指先でグラスの飲み口をツツッとなぞった。
「なんで本命のことバレたの? そんだけ用意周到の男なら、絶対バレないようい注意払うだろし」
俺の言葉を聞いた由衣が、一瞬、ほんの一瞬顔を歪め、そして心もとない笑みを作って、精一杯の掠れた声を絞り出した。
「はは…、子どもができたって、言われたの」
「えっ、そいつが言ったの? 由衣に向かって? 直接? 目の前で?」
自分が本命の彼女だと思っていた女に、なんて残酷な台詞をかけられるんだ。そのヤローの神経、死んでんじゃないのか。マジで血の通った人間かよ。
女を貢がせる対象としか思っていない俺も大概最低ヤローだと自負しているが、由衣の昔の男の話を聞くと、自分がまだかわいいと思える。俺もずいぶん頭の沸いた身勝手な男だ。
「そう、だから別れてほしいって言われると思ってた。でも、彼は結婚しても愛人としてこのまま付き合い続けたいって言ってきて…。もう何が何だか訳わかんなくて、私から別れを切り出したの」
この男との出来事は、由衣の心に多大なる影響を与えたのだろう。それから2年、由衣は男性を避け、誰にも心を開かずに過ごしてきたと続けた。
それほど、心に傷を負わせ強烈なトラウマとなる経験をさせたのだ。
これまで俺は、ヒモ女の男性遍歴を聞いても一切関心がなかった。逆に女どもが付き合ってきた過去の男の雰囲気を匂わせ、重なるような心情にさせて落としてきたようなもんだ。
でも由衣に対しては、なぜだろう。そういう気持ちになれなかった。
もともと恋愛に関しては淡白で、深入りしない性格に思えた由衣が、夢中になり恋愛をした、トラウマになるほど愛した男。こんな塩対応の女でも、恋愛にのめり込むことあんだなと、少し嫉妬心すら感じられた。
これ以上、その男に関しては聞いてはいけない。そんな気がして…、というよりは、俺が聞きたくないと思った。なぜだかわからないが、由衣の傷ついた顔を見ていたくはなかったのだ。
それからは、俺の仕事の話、由衣の大学時代の話し、タクや真由美の話しなど当たり障りのない会話をして、その日はそのまま駅まで見送った。
いつもなら強引にでもホテルに誘って、身体の関係をもって、付き合うまでもっていくのに、なぜだかこの日はそんな気分になれなかった。
由衣との初デートから、何かがおかしい。
俺の中のヒモ女獲得大作戦が、うまく始動しなくなっていた。俺の中でどんどん由衣の存在が変わり始めたていた。もう俺の中では、由衣はヒモ女ではなく、一人の女性として位置づいていたのだ。
そんな気持ちは、絶対に認めたくない、目を背けていたかった。恋愛なんて、絶対にしないと決めていたのに。
俺にとっては女は貢がせる存在、彼女なんてめんどくさくて厄介なだけだ。その気持ちには変わりはないのだけど、ただ由衣に対しての感情だけが、今まで感じたことのない掴みどころのない感覚だった。
これまでの俺ならば、初デートで「ヒモ女」認定されない女とは、さりげなくフェードアウトして自然消滅をはかっていた。由衣もその対象にぴったりだ。
でも、なぜだろう。気が付けば由衣にメッセを送っている。毎日、毎日、他愛もない、特に必要な話をする訳でもない、何気ないメッセを送り続けていた。
「ねぇ、楓太。由衣とはどうなってんの?」
久しぶりに向かった先輩の店には、先に来ていた真由美がいた。カウンターに隣あって座り、いつもの芋焼酎ロックをチビチビと飲んでいる俺に、真由美は思い出したかのように聞いてきた。
「えっ、どうって…何が?」
そう答えることしか出来ない。だって、どうもこうも俺と由衣との間には、まだ何もないのだから。由衣に恋愛感情が芽生えた痕跡もなければ、距離を取られているわけでもない。相変わらず一定の距離感をキープしたままだ。
「何がって(笑) あの合コンからもう1か月半以上経ってんのよ。まだ付き合ってないの?」
信じらんないっといわんばかりの顔をした真由美は、先輩の作るホカホカのだし巻きたまごを一口含み、立て続けに声を発した。
「由衣だってあんただって、悪い気はしないんでしょ。とりあえず付き合ってみたらいいじゃん。お互いに長いこと恋人いないんだしさ」
…、真由美は由衣の昔の男のことを知っているらしい。当然だ、大学時代からの友人、社会人になってもなお交流があるということは、親友の域であってもおかしくない。
「そうだな…」
歯切れの悪い俺の返事に、カウンタ―越しに話を聞いていた先輩が口を挟んだ。
「おっと、楓太にしては珍しく慎重だな。いつもなら出会ってすぐにでも付き合を迫って、3か月後にはあっさりポイ捨てするようなヤツなのに。そんなにその子に本気なのか」
からかい混じりの先輩の言葉は、なぜか俺の心の核心を見透かしたように感じた。
本気? 俺が? 恋愛に? …本気? 嘘だろ、あり得ないだろ。
完全に思考回路が停止した俺の頭には、壊れたレコードのように同じ事がぐるぐると反復し、軽いパニックを起こしていた。
受け入れたくない感情、でもまざまざと突き付けられる心の葛藤。これまでの人生において、こんなにも心をかき乱す女に出会ったことがない。由衣は確実に俺の中に侵食し、心を蝕んでいた。
「今度の日曜、映画観に行かないか?」
初デートから2週間が経ったころ、何度も入力しては直し、自然に2回目のデートに誘う文章を試行している俺がいた。
この誘い文句で由衣は引かないだろうか、ちょっと軽すぎるかな、いや、映画なんて
スマホを握りしめ、自分と葛藤すること30分。えい、どうにでもなれ!と勢いに任せて送信ボタンをタップした。
すぐに既読はつかない、由衣はいつもそうだ。これまでの女どもに比べると恐ろしくレスポンスが悪い。下手したら翌日に返信が来ることもしばしばだ。
しかし、この日に限ってはすぐに返信が来た。
「いいよ。何観るの?」
初デートを終えてから、確実に変わったものがある。それは由衣の警戒心のハードルの高さ。以前は飛び越えるのが一苦労するほど他人行儀だったメッセのやり取りも、最近では砕けた表現に変わってきていた。
「由衣が好きだって言ってた俳優の新作が上映中みたいなんだ、それでどう?」
まさかこんなに早く返信が来るなんて思ってもみない、まったくの無防備だった俺はあからさまに動揺し、そして少し舞い上がっていた。
「覚えててくれたんだ」
なんてことない由衣の返信に、こんなにも心躍っている自分に、思わず赤面してしまう。ヒモ女を作る当初の目的はどこに行ったんだ。
…いつの間にか、こんなにも由衣にのめり込んでいたのか、俺は…。
映画の前にランチを取る約束をし、3日後に控えた2回目のデートを待ちわびながら俺はベッドに入った。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。何が原因なんだ? どこで歯車が狂った? 納得のいく原因が見当たらない。
待ちに待ったデートだっていうのに、何でだろう、こんなに心がモヤモヤしてるのは。
俺は一人、車窓から見える暮れ往く街並みをぼーっと眺めながら帰路についていた。
当初の予定通り、女性に話題のカフェでランチを取り、由衣が好きな俳優の映画を見た。
この後は軽く街ブラして、そして酒でも飲みながらうまい飯を食うつもりだったんだ―、あの男に会うまでは。
映画館から出た瞬間、由衣は小さな男の子とぶつかった。人混みの多い中、目線に入らない子どもに気をつけるのは難しいだろう、誰でもそうだ。
でも、まさかたまたまぶつかったその子が、あの男の息子だったなんて。そんなドラマのような、映画のような、小説のような偶然って現実で起こり得ることなのか…?
「…由衣」
男は自分の子どもとぶつかった相手が、まさか由衣とは思いもしなかったのだろう。他人の俺から見てもわかるほど、あからさまに動揺していた。
「…お久しぶりです」
うつむいたまま、返事をする由衣。男は息子を抱きかかえたまま、まっすぐに由衣を見つめていた。
「ああ、まさかこんなところで会うなんて。映画観てたの? この俳優、由衣好きだったもんな」
由衣が手に持っていたパンフレットに目をやり、男は何かを想い出すかのように懐かしそうに言葉を繋げた。
「そうですね…」
由衣もまた、困惑しながらも返事をする。二人の間には、まるで周りから切り離されたかのような空間が広がっていた。はたから見ていた俺でも分かるくらい、二人だけの時間が流れていた。
「パパ~、ママあっち~」
覚えたての言葉をたどたどしく口にする息子は、グイグイっと引っ張りながら男の妻のいる方向を指さす。
「そうだな…。ちょっと待って…」
後ろ髪惹かれる思いが強いのだろう。由衣を見たまま目線を外さない男は、息子の問いかけにカラ返事をした。
「由衣?」
俺は由衣の肩に手を置き、顔を覗き込む。この時やっと二人の空間に俺という存在が認識されたように感じた。
「あ…、ごめんなさい。行こっか」
軽く笑顔を作った由衣の顏は、心ここにあらずが張り付いたような表情だった。きっと、もっと一緒に居たい相手は…この目の前にいる息子を抱いた男なのだろうなとはっきりと分かる、そんな「恋をするオンナ」の表情だ。
「呼び止めて悪かったね。では、…また仕事で」
男は名残惜しそうにそう言い残し、息子の手を取り歩き出した。この先に待っているであろう妻のもとに。
「えーっと…どうする? ちょっと歩く?」
空気を換えようと、へらっと笑って由衣を見た。
「そうだね…」
硬い表情を張り付けた由衣は、うつむいたまま俺の隣を歩き出した。
何を考えているのか…、想像はつく。今由衣の心の中にも、頭の中にも居座っているのは、間違いなくあの男だ。
上の空で返事をしたであろう由衣の手を握り、俺はとにかくこの場から一刻も早く立ち去りたかった。
「なんか…ごめんなさい」
しばらく歩いて、由衣の第一声はひどく暗くて深い、悲しい声だった。
「何が?」
勤めて明るく振る舞う俺に、由衣はいたたまれなかったのだろう。握っていた手をスッと引き、立ち止まった。
「あの…、今日はやっぱり帰るね」
あの時からうつむいたままの由衣は、俺を見ようとしなかった。それが歯がゆくて、俺の中で何かがはじけたように感じた。
「さっきの人…、もしかして前の二股彼氏?」
茶化すわけではない、自分でもびっくりするくらい真剣な声が出た。そのことにはっと気づいた俺は、今の自分の感情をごまかすことよりも、この瞬間に由衣が何を考え、何を感じているのかの方が気がかりだった。
「…うん。顔見るのは久しぶりだったから、なんか変な感じで」
動揺が全く隠せていない表情と少し震えた声。別れて2年以上経った今でも、由衣の心にいるのはあの男なのだと、痛感せざるを得ない感覚だった。
「…まだ、あいつの事好きなの?」
こんなことを聞きたいわけじゃない。あの男とのことはとっくの昔に終わってるじゃないか。こんなこと聞いたら、俺が蒸し返しているみたいで胸くそが悪い。
「…」
由衣は答えなかった。俺は何を期待してこんなバカみたいな質問をしたんだろう。
そうじゃないって言ってほしかった? もう関係ないって言ってほしかった? 今は…俺を見てるって言ってほしかった?
自問自答が繰り返される。でも、もう後に引けない。言葉にした瞬間に分かっていたことだったから。
「ごめん、帰るね」
由衣は一度も振り返ることはなく、夕日に染まった街中に消えていった。俺はその後ろ姿が見えなくなった後もずっと見つめていた。もしかしたら振り向いてくれるんじゃないかという、淡い期待を胸にしたまま。
あれから、由衣に送ったメッセに既読がつくことはなくなった。
最後に由衣に会ったのは2週間前、悶々とした日々を過ごした。
何通かメッセを送るが、一度も既読はつかない。
今由衣は何を考えているんだろう。また傷ついて殻に閉じこもってしまったのか? それとも、あの男と連絡を取り合うようになってしまったのか…。
本人に聞くことも許されない疑問は、俺の心の中に蓄積され出口を見失っていた。
「楓太、最近元気ねぇな、どうした?」
カウンター越しに芋焼酎ロックを手渡しながら、先輩が声をかける。
「…そおっすか? そんなことないですよ」
カラ元気を振り絞って目いっぱいの笑顔を作ってみせた。
「あの…由衣ちゃんだっけ? 最近話題にでねぇけど」
先輩はそこまで言って、言葉を止めた。俺の態度を見て察してくれたのだろう。他人から見てもわかるほど、傷心しきっている俺自身に自分でも戸惑っている。初めての経験だ。
恋愛にマジになることなんて、一生ないと思っていた。
恋愛なんて馬鹿のすることじゃなかったのか。
女は貢がせる存在、彼女なんて必要なかったんだ…由衣に会うまでは。
それから半年が経って、由衣が転職したと真由美から聞かされた。誰にも相談せず突然の退職だったらしい。
由衣は今、どこにいるんだろう。また泣いているのか? あの男のことを想って。
俺にはもうどうすることも出来ない。傍にいて抱きしめて、癒してやりたい。由衣の美しい黒髪をなでながら俺がいるから安心しろって言って、力いっぱい抱きしめてやりたい。
あいつの涙が止まるまで、いつまでも胸の中に閉じ込めて、一生離したくない。
今となっては、叶わない夢物語。
俺が今まで貢がせたヒモ女どもも、もしかしたらこんな気持ちだったのか。
心が引き裂かれ、何も手がつかな。
恋焦がれては一目会いたいと、偶然を装い改札の前で待ち伏せてはみるが、一度も会うことはなかった。
合コンで知り合った26歳のやせ型で色白の黒髪女。ヒモ女にするために近づき、たった2ヶ月程度しか一緒に居なかった女。笑顔を見ることはもちろん、俺に対して恋愛感情を芽生えさせる事も出来なかった女。
唯一俺の心を蝕み葛藤させた、初めて恋をした忘れられない女―。
今でも俺の心には由衣がいる。新しいヒモ女に目がいかないくらい、俺の心の中は由衣でいっぱいいっぱいだ。
こんな感情、いつまで抱え続けるんだろう。叶いもしない恋心を、俺はいつまで持て余すのだろう。
俺の中の由衣は、一生悲しい面影をしているんだろうな。
たった一度でいい。
俺に向かって笑顔を見せてくれる由衣に会ってみたかったな。
≪完≫
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