さんらん!

エノコモモ

さんらん!


ゼーテ暦1037年。瑠璃茉莉るりまつりの月、中心から数えて20枝目。温い空気が宙を満たし、空にかかる分厚い雲からは大粒の雨が落ちてくる、そんな日だった。


『もし!』


傘に覆われた人垣の中で、一際小さな手が上がる。小さな影はそのまま、国の中心部、トネリコの木の下で待つ彼の元まで駆け寄る。朱色の傘の下から、鮮やかな群青の瞳が現れた。


『ツェーザル様でいらっしゃいますか…?』

『あ、ああ…』


戸惑いながらもツェーザルは頷く。彼女の手元で大切そうに抱えられた手紙は、間違いなくツェーザルが綴ったものだ。彼もまた、目の前の少女から贈られた封書を胸元に挿してその場所に立っていた。


『君が、イルゼか…』


困惑に満ちた声で、呆然と呟く。相対する彼女も、こちらを見上げぱちりと目を丸くしていた。


(…無理もない)


驚いているのだろう。事実、ツェーザル自身もまた、彼女がだとは予想外だった。文字のやりとりだけでは分からなかった相手の容姿は自身とあまりにもかけ離れていて、悲鳴をあげて逃げ帰られる未来までも想像した。


『お手紙の通りの方ですのね』


けれど開口一番、イルゼはそう言った。ツェーザルが驚いている間に先の言葉を口にする。


『ただ…ひとつだけ、』


続く言葉を予想しどきりと心臓を鳴らす。そんな彼に対し、イルゼは目を細めて笑う。


『わたくしの想像より、大きな方でしたわ』


屈託のないその笑顔に呆気に取られた。やがてツェーザルの口元からも笑みがこぼれる。


『…君は想像より、小さいな』


石畳に落ちた雫が跳ねる。雲の隙間から陽射しが届いて、辺りが一斉に光り輝いた。


これがふたりが初めて出会った時の話。イルゼが言った挨拶はまるで彼女の人柄を表すように、天真爛漫で茶目っ気に溢れた、そんな言葉だった。






ゼーテ暦1042年、金伽羅きんきゃらの月、中心から数えて8枝目の日。降り積もっていた雪が溶け、新しい命が芽吹く季節。


国の名前は黎明樹れいめいじゅ。種族ごとに居住を分かつこの国の中心部には、大きなトネリコの木が鎮座する。その下で、ブライテンバッハ家の長子ツェーザルと、ローマイアー家の次女イルゼは婚姻をした。


黎明樹の長い歴史を鑑みても、驚くべき事柄だった。ツェーザルは竜の魔族、イルゼは人間の血筋に生まれた。ふたりはこの国で初めて、異種族間婚姻を結んだ夫婦だった。


「ツェーザル様。この日をずっと、心待ちにしておりました」

「ああ。イルゼ、俺もだ…」


夫婦の寝室にふたりきり。新妻は、愛する夫の全身を包む鱗に小さな顔を埋める。飴色の髪に優しく添えられたのは、爪の生えた大きな手。


最初の内はこうして触れることさえも儘ならなかった。彼のような魔族からして見れば人間のイルゼはずっと脆い。実際に傷付けてしまったことも、全く無かったと言えば嘘になる。


竜族と人間との結婚は、史上初の試みだ。婚姻に至るまでは当然、多くの苦労を重ね、反対も受けた。それでも一途なふたりの愛情は周囲の目を変え、異種族間婚姻条例が施行されるまでに至った。


「わたくし達のお子はきっと、可愛らしいのでしょうね…。きっと幸せな10ヶ月間となりますわ」

「ああ…」


そして今日、ツェーザルとイルゼは結ばれる――


「ん?」


しかしながら口付けをする途中で、ツェーザルが顔を上げた。今しがた聞かせられた妻の一言に、違和感を覚えたのだ。


「10ヶ月…?」

「え…?ええと、妊娠期間ですわ。厳密にはあと10ありますけれど。お腹の中で育つ期間は大体そのぐらいだと聞いております」

「……?」


イルゼの補足にも、より意味が分からないといった表情を返す。頭の上に疑問符を浮かべながら、ツェーザルは口を開く。


「腹の下で温める、の間違いでは…?」

「……?」


今度はイルゼが首を傾げる番だった。


「温めるとは、何をですか…?」


当然、母体も赤子も冷えすぎないよう手厚く保護するべきだが、彼が今疑問を抱えている部分はそこではない気がしたのだ。腹のと言う表現も、どうにも気になる。


そう聞くと、ツェーザルの深紅の瞳は戸惑ったように揺れる。


「何を…?それは、卵だが」

「…たまご?」


ぽかんと口を開ける。ふたりを包む認識の違い。その全貌を掴んだのは、彼の方が早かった。


「!!」


何かに気が付いたツェーザルが立ち上がった。重量のある彼が居なくなった反動で、寝台がぼんと跳ね、イルゼがひっくり返る。彼女を慌てて助け起こしながら、彼は呆然と呟いた。


「人間は卵からは生まれないのか…!?」


今しがた知ってしまった衝撃の事実に、驚愕の表情で息を呑む。


「ならば何で増えるんだ…?ま、まさか…分裂か…!?」


動物界脊索動物門脊椎動物亜門爬虫網竜鱗目ドラゴニュート科。ツェーザルを含めた竜人の正式な分類である。魔族の中でも特に純血の血統を受け継ぐ彼らは、人よりも竜の要素が強い。


ツェーザル・ブライテンバッハは、卵生だった。






動物界脊索動物門脊椎動物亜門哺乳網霊長目ヒト科。イルゼを含めた人間の正式な分類である。そしてこれはカモノハシ目を除いた哺乳類の至極当たり前の繁殖方法。


イルゼ・ローマイヤーは、胎生だった。


「これまで…数多くの困難を乗り越えて来たつもりだ」


ブライテンバッハ家の屋敷。その客間にて、顔を抑えたツェーザルは呻くように呟く。


「俺が人間の居住に行けば子供は泣き年寄りは腰を抜かし、この世の終わりだと通報される。イルゼがこちらに来れば必ずと言って良いほど拐かしに遭うし、連れ歩くと餌だとさえ囁かれた」

「君たちよく結婚できたね」

「ただでさえ体格にも体重にも差がありすぎる…慎重に事を進めるつもりではあったが…」


そこで言葉を切って、ツェーザルが震える拳を机上へと叩きつける。頑丈な木製の机に、びしりと亀裂が入った。


「だがしかしこれは…一体どうしたら良いんだ…!」


致命的な種族の違いが明らかになった初夜から一夜。ツェーザルは思い悩んでいた。


「まさか、人間が胎生だとは…!1年近くかけて腹の中で育てるだなんて、そんな恐ろしいことがあってたまるか!」


胎生とは当然、雌の体内で孵化させた子をそのまま母体から栄養を与え育て、ある程度発育してから体外に放出する繁殖形態だ。純血の竜族である彼からすれば全く理解できない性質であった。


「ツェーザル」


そしてそんな彼と向かい合う影がひとつ。


「悩んでるところ悪いけど、そもそも、今の君達じゃ子供は作れないよ」


ヤン・ジーメンス。ツェーザルとは違う種類の龍人である。東洋系の線の細い顔立ち、黒髪の隙間からは変わった形の角が覗く。

そんなヤンは生命科学の研究者であり、竜族専門の医師である。が、その知識は遺伝子工学や生物工学方面にも幅広い。


「世の中、簡単に妊娠できる男女ばかりじゃないだろう?同族内でもそうなんだ。異種族同士なんて不可能に等しい」

「そうか…」

「でも手がないわけじゃない」


ヤンはぴんと指を立てた。糸目を更に細める。


「手段はひとつ、彼女の体を竜族に近付けることだ」


それを受けて、ツェーザルの耳がぴくりと動いた。眉間に皺を寄せ、不満げな声を返す。


「…俺の体を人間に近付けるのはどうだろうか」

「無理だ」


人間の体を竜族へと変化させる。それができるのならば、その逆もできる筈。そう思い言った言葉だったが、すぐさま否定される。


「知ってるかい?精子の形は生物によって多少の違いこそあれど、その機能は殆ど変わらない。即ち遺伝子情報を運ぶ細胞であること」

「……」

「半分の遺伝子情報さえ渡せば子供ができるんだよ?それほど卵細胞が持つ役割は大きい。女性側を変えなくては生殖は無理だ。まあそれでも、あくまで確率が上がる程度の話だけど」


鞄を取り出しながら、どこか嬉しそうにヤンは続けた。


「他ならぬ友人の頼みだ。全身全霊で引き受けさせてもらう。大丈夫、僕の最新の研究を以てすれば、安心安全に実験を進められると思うよ」


現状、唯一取れる手段だ。けれどその提案に対し、ツェーザルは首を横に振った。


「彼女は人間だ。違う種族になってくれなどと、頼める訳がない」






「相分かりました!わたくしが旦那様との卵を産めば良いのですね!」


それから数時間後。屋敷を後にするヤンを見送ってすぐ。哺乳類としては決して言ってはいけない一言を口にしたイルゼを、ツェーザルは苦い顔で見つめる。


「…駄目だ」


彼の口から飛び出したのは有無を言わさぬ否定だった。イルゼは慌てて夫の衣服を掴む。


「何故ですか!ツェーザル様!」


(さては聞いていたな…)


しがみつく彼女をずるずると引きずりながら、ツェーザルは頭を抱える。遺伝子操作の案件は、断った上に口外すらしていない。けれど少々お転婆な気質のある彼女のことだ。天井裏や窓からこっそり聞いていたとしても不思議ではない。


「イルゼ。これは慎重に決めねばならないことだ。ヤンからは第一段階として竜性ホルモン剤の摂取を薦められたが、それも断って…」


言いながら視線を下げたツェーザルの声が尻すぼみになる。こちらを見上げるイルゼと、空中でぱちんと視線がかち合う。その瞬間とても、とても嫌な予感がしたのだ。


「それならばもう飲みました」

「は!?!?」


驚くツェーザルに対し、彼女はけろっと涼しい表情で先を続ける。


「ヤン様に直接お話しして薬を頂きました。あの方は新しい実験ができる!とそれはもうお喜びで」

「あ、あの男は…!」


ツェーザルは頭を抱える。既に10年以上の付き合いになる彼は優秀な研究者で、信頼のおける友人で、少しだけマッドサイエンティストの気質があった。


「何をしてるんだ!吐き出しなさい!!」

「嫌です!」


今度ツェーザルがイルゼを追いかける番だった。風向きが変わったことを察した彼女は、すたこらと中庭へ逃げる。彼が追いかけるとスカートの裾を翻し素早く木に登った。


(そ、育ちはかなり良い筈なのに、何故木登りに手慣れているんだ…)


太い枝の上で夫を警戒する妻を見上げ、ツェーザルは口を開く。


「イルゼ!一度身体を変質させれば元には戻れない!そこまでしても、無事に子供ができる保証もない!」

「やってみなければ分かりません!駄目なら駄目で良いです!わたくし、後悔はしたくないのです!」

「今なら間に合うんだ!子供がほしいのならば、他の男と結婚し直す道もある!」

「嫌です!」


彼の提案をぴしゃりと跳ね除けて、イルゼは木の上で胸を張る。


「怖がる近隣住民を安心させる為に、何度も何度も好奇の目に曝される人間の居住に通って。誘拐に遭う度にわたくしを守ってくださったのはツェーザル様で、陰口を叩く者達を辛抱強く説き伏せてくださったのも貴方様です」


彼に向かって手を伸ばした。


「結婚も、お子も、ツェーザル様以外に考えられません。どんな苦労もどんな手段も厭いません」


小さな彼女の体を、ツェーザルが2本の腕で受け止める。顔の前でイルゼはにっこり微笑んだ。


「私は貴方と生きたい」


そう言って、こんと額を合わせる。形も大きさも色も違う皮膚が、ぴたりとくっ付いた。


「…そうか。そうだったな」


ツェーザルの顔からも笑みが零れる。彼女を抱えて、慎重に地面に下ろした。手を取って、優しく言い聞かせる。


「だがしかし、次は黙ってやるな。実験は入念な準備と下調べをしてから行うべきだ。中には竜鱗を生やす働きをする恐ろしい注射もあるらしいからな…」

「それなら既に打って頂きました」

「は!?」






『この4年間、ずっと考えていたことだった』


真っ白な景色を月の明かりだけが照らす。凍てつく寒さが足元から這い寄る。ツェーザルとイルゼ、ふたりが出会ってから4度目の雲南月光うんなんげっこうの月での出来事だった。


『どれだけ考えても答えはひとつきりだ』


梣の木の下で、ツェーザルは呟く。彼とイルゼは長椅子に腰掛けていた。ふたりの間にあるのは人間と魔族の居住を分ける境目。


『俺は…イルゼ。君を幸せにはできない』


隣に座っていた彼女は視線を落とし、腿に置いた手元を見る。震える口を開けた。


『わ、わたくしは…』

『互いの幸せを願うならば』


彼がイルゼの言葉を遮るなど、初めてのことだった。それほどに強い口調で、彼は続ける。


『俺達は、同種族と結婚するべきだ』

『っ…!』


イルゼの指先にぎゅうと力が入ったせいで、手元の塊がひしゃげた。至極大切にしてきた便箋の束。ツェーザルとずっと行って来た文通だった。何千回と周囲から言われ続けた台詞なのに、彼の口から聞くのはとても辛かった。


ツェーザルが息を吐く。真っ白な蒸気が宙へと消える。静かに続けた。


『誰の反対も受けない。要らぬ苦労もしない。皆に祝福され、子供を作り、平和に歳を取って同じ墓に入る。絵に描いたような素晴らしい人生だ』


現実は残酷だ。どれだけツェーザルが試行錯誤しようと、どれだけふたりの愛が本物だろうと、世界には勝てない。


『君にとっても、俺にとっても、“普通”の道がいちばん幸せである事実は生涯、変わることはない。そうして互いの為にはならない現実を突き付けられ、自分の幸福な未来を想像してもまだ、』


ツェーザルがこちらを見た。月明かりの中、赤い瞳がこちらを射抜く。


『俺は君と生きたい』


音の掻き消された空間に、一言が落ちる。イルゼが目を見開いて彼を見つめる。


『つ、ツェーザル、さま…』

『イルゼ』


彼は名前を呼んだ。心の内を、ひとつひとつゆっくりと言葉に変える。


『今言った通り、普通ではない道だ。誰も理解し得ぬ苦難を、一生抱えることなる。けれど、それでもこの手を取ってくれるのならば、俺は誓う。生涯、君を離さない』


軽々と境界線を超えた手は、イルゼへと差し伸べられる。そうして彼は口を開いた。


『俺と、結婚して欲しい』

『っ…!』


イルゼの頬を涙がぼろぼろと伝う。ツェーザルの大きな手は少しだけ迷った後に、彼女の頬に近付けられた。恐る恐ると言った様子で寄せる途中で、イルゼの両手が伸び掴む。そして一言、呟いた。


『っ、はい…!』


固まった雪が月明かりを反射する。ツェーザルの鱗がより一層神秘的に煌めいた。


これがふたりが婚約をした時の話。ツェーザルが言った求婚の台詞はまるで彼の人柄を表すように、誠実でとても優しい言葉だった。






ゼーテ暦1045年。花珊瑚はなさんごの月。中心から数えて15枝目。


「残念です…」


明かりの下、イルゼは腕を翳す。群青の瞳に映るのは、白く柔らかな人間の皮膚。以前と全く変わらないそれを見ながら、イルゼは口を尖らせる。


「臨床試験を進めていけば、ツェーザル様のような素敵な鱗がわたくしの体にも生えるものかと思っておりましたのに」


イルゼの体を竜族の子が妊娠可能なまでに変化させる治療を開始してから、約1年が経過した。


「ああ。竜化が表に出ないよう、細心の注意を払ったからな。ヤンから目を離さないようにするのが大変だった…」

「ツェーザル様と一緒になることができるのなら、わたくしは別に良かったのですけれど…」


イルゼは不満そうに自分の体のあちこちを見やる。目に見える大きな変化は無かったが、時間を掛けて転換させたその体は既に、ツェーザルの子を迎える準備ができている。

母体と赤ん坊への負担を鑑みて、卵胎生と呼ばれる卵生と胎生の間の妊娠形態に落ち着いた。


「ツェーザル様。この日をずっと、心待ちにしておりました」

「ああ。イルゼ、俺もだ…」


そして婚姻から1年近くの時を経てやっと。今日、ツェーザルとイルゼは結ばれる――


「あの、ツェーザル様」


目の前の光景に、イルゼはぱちぱちと瞬きをする。


「わたくし、目がおかしくなってしまったのかもしれません」

「……?」


夜は深まり、事は進む。ツェーザルがいよいよイルゼの衣服へと手を伸ばしかけた時の話である。一糸纏わぬ生まれたままの夫の姿に、彼女はまん丸の瞳を向けた。


「ツェーザル様のツェーザル様が、その、2本あるように見えるのですが」


動物界脊索動物門脊椎動物亜門爬虫網竜鱗目ドラゴニュート科。ツェーザルを含めた竜人の正式な分類である。爬虫類の多くに見られる特徴が、半陰茎。


ツェーザル・ブライテンバッハの陰茎は、2本あった。


「人間の陰茎は2本ではないのか…!?」


今しがた知ってしまった衝撃の事実に、彼は驚愕の表情で息を呑む。


「ならば何本だ?ま、まさか…3本か…!?」



この日からおおよそ2年後。ゼーテ暦1045年、南天燭なんてんしょくの月、中心から数えて26枝目。多くの生き物が活気付く初夏のみぎり。


父から受け継いだ見事な鱗と母に似た群青色の瞳を持つ、それはそれは可愛らしい赤ん坊が元気な産声を上げることになるのだが、それをまだ、ふたりは知らない。

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