終章 桜
青くけぶるような空に、桜の花びらが舞っていた。
そよ風はあたたかく、土と草の甘い息吹を含んでいる。頬を撫でるその優しさに、濃姫はしばし立ち止まった。京に、春が来たのだ。
(ほんに京の桜は見事じゃ)
目を細めていると、石段の上方から活気をはらんだ若者の声が濃姫を呼んだ。
「
からかいと気遣いを同時にこめて言いながら、十五、六歳ほどの青年が下りてきて濃姫に手を差し出した。濃姫は微笑みながら有難くその手をとる。以前より息が切れやすくなったと感じる。
「私なら大丈夫じゃ。早く行かぬと、日が暮れてしまうものな、
新しい名前を呼ぶと、先日元服したばかりの若者は照れくさそうな顔になった。二人はゆっくりと石段を上り始める。長次は、義母の速度に合わせて歩幅を小さくする。その凛々しい横顔を見つめる濃姫の口から、思わずというように呟きが漏れた。
「京の景色はほとんど変わっておらぬというのに。早いな…あれからもう十五年か。そなたはますます母上に似てきた」
「まことですか」
振り向き、長次が晴れ晴れと笑った。睫毛の長い大きなひとみは、ささにそっくりだ。微笑み返す濃姫の眼差しからは険がだいぶ薄れ、落ち着きが深みを増している。豊かな長い髪には、白いものが混じり始めていた。
本能寺の変で、信長とささが命を落としてから、十五年の月日が流れた。
その歳月のほとんどを、濃姫は故郷の美濃国で、二人の忘れ形見である縁を育てて過ごした。濃姫の正式な養子となった縁は、義母や美濃の人々の愛情に包まれてすくすくと成長し、両親の十五回忌である今年、元服して『長次』と名乗るようになった。今は、信長の野心と勢力をほぼそのまま受け継いだ羽柴秀吉、改め豊臣秀吉の家臣である。
時間をかけて石段を上りきると、広い空き地に出た。草がぼうぼうと茂り、桜や松の木が何本か生え、そこここに菜の花が固まって咲いている。だが今でも、草花の間には崩れた石塀や焼け落ちた柱の名残がわずかに顔を見せていた。
「…ここにございますか」
「ああ。そなたの父上、母上は、ここにあった本能寺という寺で、亡くなられた」
長次は神妙な面持ちで、半ば野原と化した寺の跡に近づく。考え深げな眼差しは、寺のかつての壮健な姿と、その中に立つ両親の姿を探すかのようだった。
生後わずか八か月で両親と死に別れた長次は、二人の顔を覚えていない。だが濃姫が、長次の母の形見の和琴を奏でながら、しょっちゅう二人の話をしてくれた。父は勇猛で誇り高く、この国の誰より強かったという。母は物静かで優しく、琴を弾くのがたいそう上手かったという。二人は心から愛しあっており、長次のことも目に入れても痛くないほど可愛がっていたのだと、濃姫は優しい眼差しで語った。だから長次は幼い頃から父母の話を聞くのが大好きで、父母が大好きだった。だから、元服したあかつきには必ず、二人に報告に来たいと思っていた。
長次と濃姫は、並んで手を合わせ、目を閉じてしばし信長とささの冥福を祈った。濃姫は、心の中で静かにささに語りかけた。
(笹、ようやくそなたの子を連れてきたぞ。大きゅうなったであろう。そなたと殿の良い所ばかりを受け継いだ、ほんに優しい子じゃ)
それに応えるように、またそよ風が吹き抜けて空き地に桜の花びらを散らしていく。濃姫は、ささがここに来ているような気がしてならなかった。春風の優しく軽やかな雰囲気が、ささを思わせたのだ。
美濃国へ無事おちのびた後、濃姫はほうぼうに手をうち、信長とささの最後の消息を出来るだけ知ろうとつとめた。始めのうちは何の手ごたえもなかったが、本能寺での動乱からひと月、ふた月が経ち、明智光秀が秀吉に討たれて死に、天下がまた少しずつ平定に向かって動き出してから、本能寺からおちのびた者達がぽつぽつと美濃へ現れるようになった。信長と共に戦った百名足らずの兵のうち、十名ほどが捕虜になるなどして何とか生き延びており、彼らは濃姫に、信長の放つ矢が最後まで敵を威嚇しほとんど近寄らせなかったこと、森三兄弟がささを守って必死に戦い抜いたことなどを語った。
火薬や爆薬を貯蓄していたためか、焼け跡から信長とささの骨は不思議なことに見つからなかった。二人の生きた姿を最後に見たと言ったのは、年老いた鉄炮衆の男だった。濃姫もよく知っている、二十年以上信長に仕えてきたその老人は、ささが二発の銃弾を胸に受けて倒れたこと、その彼女を、全身を己の血と敵のそれで真っ赤に染めた信長が抱え上げ、燃えさかる寺の奥へ入って行ったことを話してくれた。
ならばささは、命が消える最後の瞬間を、彼女の最も愛した人と二人で過ごすことができたのだ。
濃姫はそう思った。既にその時、二人の死から二年が経過していたためか、もう真っ暗闇に突き落とされるような悲しみは感じなかった。ただ、ひたひたとおし寄せる水のように、切ない痛みを胸に覚えた。
(あのようなことが、ここであったなど、夢のようじゃな)
目を開き、濃姫は思った。長次は、鳥がさえずる木々の奥をじっと見つめていた。その目に浮かぶ複雑な感情を、濃姫は読み取ることができなかった。
「…母上と、父上は、私が来たことをご存じでしょうか」
長次は、小さく呟いた。濃姫は彼の腕に手を置き、力強く明るい声で言った。
「ああ、きっとな。きっと、二人とも喜んでおいでじゃ」
その言葉に、長次はやっと安堵の笑みを浮かべた。
濃姫は懐から小さな包みを取り出し、長次の手に握らせた。
「元服の祝いじゃ。開けてみよ」
「はい」
怪訝そうな顔で、ごつごつした手触りの包みを長次が開く。すると中から、白い巻貝が出てきた。
「そなたの父上、信長殿が、そなたの母上、お笹に贈られた物じゃ。笹はそれを、何より大事にして、いつも持ち歩いておった。これをそなたのお守りにするがよい」
長次は何度も貝を撫でた。言葉も出ない様子だったが、やがて輝くような笑みを浮かべて、嬉しそうに頷いた。
「はい。ありがとうございます、義母上。生涯の宝にいたします」
「よいか、長次」
濃姫は、長次の肩を両手でつかみ、その目をひたと見据えて強く言った。
「そなたは、織田信長と安土御前の子じゃ。これより先、決して忘れるでないぞ。織田家の誇りを。…笹の、心を」
長次は、濃姫を見つめ返した。ささ譲りのひとみに、信長と同じ意志の炎が灯っていた。
「はい。私はそれを抱いて、生きてまいります」
長次は澄んだ声で言った。天にいるであろう両親にも聞こえるよう、大きな声で、誓った。
やがて二人は、石段に再び足をかけた。ゆっくりと下りる義母に手を貸しながら、長次は振り返って、最後にもう一度、かつて寺であった花咲く野原を見た。
「父上、母上。また、参ります」
小さな声で、約束する。
すると、優しい春風が吹き、ささの笑いのように白い桜の花びらをちらちらと踊らせた。我が子を見送るように、包み込むように、新たな門出を祝福するように――。
青空に、桜の花びらがどこまでも高く、舞い上がった。
<完>
ささ 野原 杏 @annenohara
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