第12話 ささ③

 天正十年五月上旬より、ささは濃姫に薙刀なぎなたと懐剣の使い方を習い始めた。濃姫はかなりの薙刀の遣い手で、その流れるような刃先の動きは美しくさえあった。ささも真似をして、濃姫に手を添えられながら懸命に腕を振るのだが、こちらはお世辞にも美しいとは言えなかった。むしろ危なっかしく、時折自らの頭を薙刀の柄で引っ叩きそうになっていた。懐剣の扱いも似たようなもので、傍に控えている菊は何度も肝が冷えた。はっきり言ってささには天性の運動音痴の素質があり、濃姫は久々に頭をおさえてため息をついた。

「そなたにも不得手があるのじゃな…」

「…申し訳ありませぬ」

 ささは汗びっしょりになって、ひたすら頭を下げた。

 側室としての他の教養は既に身についていたため、二人はかなりの時間を庭での鍛錬に費やした。それだけみっちり練習すれば、否が応でも腕は上がる。ひと月もすると、ささも刃のついたものを持たせても何とか転ばずにいられるようになってきたので、濃姫は胸を撫で下ろした。ささも、ほっとした。




 天正十年五月二十八日。

「では明日、そなたも発つのじゃな」

 楽しそうに縁をあやしながら、濃姫が言った。ささは微笑みながら頷いた。

「はい。京までは、信長さまとご一緒させて頂きます」

「おおかた、本能寺での茶会にそなたも出席させるおつもりなのであろう。それにしても、ようお市殿が…」

 濃姫はまだ信じられないというように呟いている。ささも、口にこそ出さないが同じ気持ちだ。

 翌日の五月二十九日にささは安土城を発ち、近江国の上野城へ身を寄せている市に会いに行くことになっていた。縁も連れてゆくつもりだ。

「そなた、馬揃えのおりにお市殿と会っておったな。お市殿はそなたをよほど気に入られたのじゃなあ」

「有難きことにございます」

 ささは嬉しそうに言う。訪問したいという突然のふみに、市がたいそう丁寧な色よい返事をくれたのが、とても嬉しかったのだ。

 信長も明日、安土城を発つ。行く先は九州であり、毛利を攻める羽柴秀吉の援軍を率いてゆく。

(また、戦になる)

 それを思うと、ささの胸は今も痛む。愛する人が遠くへ行ってしまうのなら、いっそ己もこの地を離れたいと、苦し紛れに思いついた訪問であったことは、濃姫には秘密だ。

 そんなささの思いを知らない濃姫は、愛おしげにもう一度縁の頬をつついている。

「この子ともしばらくお別れかと思うと、寂しい。安土、なるべく早く帰ってくるのじゃぞ」

「縁だけですか?」

「ばかを申すな、もちろんそなたもじゃ。鍛錬の続きをしなくてはな」

 ささの顔が引きつるのを見て、濃姫が笑う。

「お市殿は、私の義妹。くれぐれも粗相無きようにな」

「はい。…お市さまに、何かお伝えすることは」

 ささが尋ねると、濃姫は一瞬哀しげに目を伏せた。

「そうじゃな…すまぬ、と。そして、たまには私に顔を見せに来てほしい、と」

 夫を亡ぼした兄の居城に市が来るはずのないことは、ささにも想像できた。けれど彼女はただ、静かに頷いた。

「しかと承りましてございます」

「うむ。…では、私はそろそろ帰るとしよう。安土、達者でな」

「はい。濃姫さまも、お身体をお大事になされますよう」

 ささの声を背に聞きながら、濃姫は打掛の裾を引いて立ち上がった。ささをはじめ、乳母や侍女達も一斉に平伏して彼女を送り出した。

 部屋を出る所で、濃姫は何気なく振り返った。

 ささは身体を起こし、濃姫を見送っていた。腕には彼女の子を、縁を抱いている。濃姫と目が合うと、ささはにっこりと微笑んだ。透きとおるような笑みだった。

 軽く頷き返し、濃姫は部屋を出た。ふと覚えた胸騒ぎは、すぐに消えてしまった。

 そしてそれが、二人の会った最後になった。




 天正十年五月二十九日。

 信長はわずか百名ほどの手勢を連れて安土城を発った。森蘭丸、弟の坊丸と力丸りきまるが、その傍らに付き従っていた。力丸は、まだわらべのように初々しい紅い頬をした少年だ。兄二人に似て美しい顔立ちの少年は、信長に仕えることを心底誇らしく思っている様子を隠そうともしなかった。

 隊列の後方に、十名ほどの侍女達に付き添われた小さな輿があった。その中ではささが、市に再会するのを楽しみに乗っていた。

(小姫さま達にもお会いしたい。縁を見せたら、きっとお喜びになるわ)

 ささはそのことを、一人楽しく夢見ていた。




 天正十年五月三十一日。

 一行は京に到着し、宿所である本能寺ほんのうじに入った。ささは本能寺を訪れるのは初めてであったので、その広さ、守りの強固さに素直に感じ入った。気持ちのよい、過ごしやすい寺だと思ったが、信長によれば万が一敵襲にあった場合に備えて、武器庫もあるのだという。だが、京には信忠も護衛のため訪れているため、心配はないとのことだった。

 天正十年六月一日。

 濃姫の言っていたとおり、信長は京の公家達を呼び集め、本能寺にて茶会を催した。そこで持ち出された、選りすぐりの名人の手による茶器も客人の目を惹いたが、それ以上に彼らが魅了されたのは、信長のすぐ傍らにつつましやかに座す側室・安土御前の姿だった。

 金襴の衣装をまとった信長とは対照的に、ささは白と赤を基調にした地味な模様の打掛をまとっていた。だがそれが返って、ささの華奢な身体の線や大きなひとみを引き立てており、ささはさながら清流のほとりに咲く一輪の花のようだった。

 茶器を、寺を、安土城を、ささを、信長の栄華を口々に誉めそやす人々の声を聞きながら、信長はささに小さな笑みを向けた。いかにも満足げなその笑みに、ささは穏やかなひとみで応えた。

 そして、天正十年六月二日の夜。




 ささは目を閉じたまま、信長の腕の中で、闇と静けさを呼吸していた。広々としているだけあり、本能寺の夜はとても閑静だ。時折、鳥の鳴く声や葉のざわめきが部屋を通り過ぎていく。縁は、向こうの部屋でぐっすり眠っている。

 信長が身じろぐ気配に、ささは目を開いた。

「ささ。何を考えておった」

「何も。ただ、夢を見ておりました」

 夫と愛しあった後の気だるさにぼんやりとしながら、ささは微かな声で答える。

「何の夢じゃ」

「海の夢です」

「海じゃと?」

「縁を寝かしつけてからしばらく、あの貝に耳を傾けていたからかもしれませぬ」

「そうか。…本物の海が、見たいか」

「え…?」

「見たいか」

「はい、見られるものなら。…でも」

「ならば、みんへ行く船に、そちを乗せてやろう」

「みん、へ?」

「日本は既にこの信長の手中に納めた。この国を平定したのちは、海を越えて明を服属させる。どうじゃ、わしと共に異国へ行かぬか」

 夜の闇の中でも、ささの目がきらきらと輝くのが、信長には分かった。顔中を輝かせて、ささは囁いた。

「はい。共に参ります」

 信長の顔に笑みが浮かんだ。ささは、信長の胸に再度頬をおしあて、幸福な気持ちで目を閉じた。すると、瞼の裏いっぱいに、まだ見ぬ海の光景が広がり、波の音が響きわたった。心に海を抱えた娘を、信長は再び抱きよせる。

 静かな会話も途絶え、後には再び闇と鳥の声と風の音だけが残った。




 そして、それからどれ程の時が過ぎただろうか。

 うなされるようにして、ささは目を覚ました。異様な気配を感じる。もがくように身体を起こすと、信長は既に床を離れ、大弓と矢筒を手にしていた。ささの目が、瞬時に冴えた。

「信長さま。いかがされたのですか」

「聞こえるか」

 信長が短く言い、顎をしゃくった。ささは息を止め、耳をすませる。微かに、人の声のようなものが遠くから響いている。闇がざわめいている。

「あれは、一体…?」

「蘭丸を偵察にやった。そちはここにおれ」

 言い置き、信長が部屋を出て行く。ささはしばし呆然としていたが、すぐに床を脱け出し、手早く身なりを整えた。枕元の懐剣を帯に差す。いつもの習慣で、袖もとに貝を滑り込ませる。

 小走りにささが廊下へ出た時、蘭丸が荒々しい足音と共に信長の元へ駆け寄るのが見えた。

「お屋方さま。兵が、本能寺に押し寄せております!」

 ささの足が、ぴたりと止まった。

 信長は落ち着き払って矢をしごきながら問うた。

「いかなる者の企てじゃ」

「…明智あけち勢と、見受けられます…!」

 信長は手をとめ、底光りのする目で宙を見据えた。そして、唸るように呟いた。

「明智…」

「いかがいたしましょう」

 訊ねる蘭丸の、これほど血の気の失せた顔を、ささは初めて目にした。信長は彼に視線を戻し、短く言った。

「是非に及ばず」

「されど!」

 憤りと焦燥に、蘭丸は声を震わせる。信長は、初めて笑みらしきものを浮かべた。

「今更騒いでも、どうしようもあるまい」

 いっそ快活とさえ言える声だった。蘭丸はきりりと唇を噛み、顎を引くように頷いた。

 と、その目が信長の背後に逸れ、びくりと見開かれた。その視線を追って振り向いた信長は、そこに佇む白い人影に気づき、笑みを消した。

 ささの頬は、まとっている白無垢の夜着におとらぬほど白かった。見開かれたひとみには、何も映っていなかった。信長が近づき、ぐいと肩を掴むと、初めて怯えた色がそこに浮かんだ。

「蘭丸。笹を裏門へ連れてゆけ。急げば間に合うかもしれん。笹と侍女達、それに小者こものは逃がせ」

「承知つかまつりました」

 そのやりとりを耳にしたささは、ふらふらと首を横に振った。信長に近づこうとするささを、信長の手が無情に突き飛ばす。蘭丸が、よろめいたささの手を掴み、引っ張る。

「安土さま、御免。く、こちらへ!」

 蘭丸に引きずられるように走りながら、ささは幾度も振り返る。信長はささに背を向け、大股に歩み去っていく。手には弓矢を携え、大きな背中に闘志が燃えていた。

「信長さま…!」

 ささの振り絞るような叫びに、答えはなかった。

「どうされるおつもりなのですか。明智軍と戦っても、勝ち目などないでしょう」

 ささは細く高い声で蘭丸に訊ねた。蘭丸の背は、震えていた。

「重々ご承知のうえです。こちらには百名の兵が、あちらには一万の軍勢がいる」

「ならば、何故?!」

「あの方が敵を前に敗走されるうつわだとお思いか!」

 振り向き、蘭丸が怒鳴った。ささは、頬を打たれたような思いがした。

(そうだ、信長さまが、お逃げになるなど考えるはずもない。あの方なら、戦うだろう。最後まで、誰より果敢に戦い抜かれるだろう。そして…そして…)

 ささの胸を、暗い予感が満たす。二人は廊下を走る。人のわめき声、軍の鬨の声が、波のように小さくなり大きくなる。

(明智さま。なぜ、何故裏切ったのですか)

 ささは、胸中で繰り返し呟いた。決して届くことはないと知りながらも、嘆かずにはいられなかった。





天正十年六月二日、深夜。

「敵は本能寺にあり」

 そう叫び、明智光秀は主君・織田信長に反旗を翻したのだった。




十数人の侍女達が集まり、震えながらささを待っていた。乳母の浅葱あさぎは大きな身体を縮めるようにして、しっかりと縁を抱いている。縁だけが周囲の異変に気づかず、すやすやと眠っている。その姿を見た瞬間、ささの胸を鋭い痛みが貫いた。

 ささの背を、蘭丸がそっと押すようにして誘導する。侍女達を守るように立っていた坊丸と力丸が進み出てきた。

「そなた達は、いかがする。この者達を守り、共におちのびる道もあるのだぞ」

 蘭丸が問うと、二人はきっぱりと首を振った。

「我らはお屋方さまに従います。兄上と、共に参ります」

 坊丸が言い、力丸も頷いた。蘭丸は、泣き笑いのように顔を歪めた。

「…そうか。そなたらの兄であること…誇りに思うぞ。共に…参ろう」

「はい、兄上」

 二人は頷き、兄の傍らに並び立った。

 三人の兄弟のやりとりを、ささは水の中にいるように遠く聴いていた。彼女のひとみに映っているのは、縁だけだった。

 初めて縁を抱いた時の喜びが甦った。それから、信長の不在で心細かった時、我が子の存在がどれほど支えとなったか。信長との愛の証である縁が、どんなに大切だったことだろう。

(縁。この子は、私の喜び。私の、生命いのち。…だけど…だからこそ…)

 ゆっくりと、一歩ずつ浅葱に近づきながら、ささの心は再び琵琶湖のほとりに佇んでいた。ささはもう、決意していた。

 ささは手を伸ばし、そっと縁を抱きとった。そのままきつく抱きしめ、頬に頬をおしあてた。そうして、縁の温もりと重みの全てを、全身で感じていた。

 やがて顔を上げた時、こらえきれなかった涙がささの頬を伝った。びくりと肩を振る焦る浅葱の腕に縁を抱かせ――ささは、後ろへ離れた。

「安土さま!」

 最初に叫んだのは、菊だった。恐怖と悲嘆のざわめきが侍女達の間を駆け巡る中、ささは震える声で、けれど凛として言った。

「皆、行きなさい。縁を守って、生き延びなさい。――私は、残ります」

 ささがそう言いきった瞬間、数人の侍女達が声を上げて泣き崩れた。浅葱は目をいっぱいに見開き、何も言えずにただ震えていた。その腕の中の縁を見つめるささのひとみからまた涙が零れたが、彼女は嗚咽をこらえた。

「浅葱。そなたは縁の乳母。誰より、縁の傍にいる者。何があっても、たとえ私がいなくても、縁を守り、最後まで生き延びなさい。あとはお前に任せます」

 浅葱は堰を切ったようにぼろぼろと泣き出し、何度も何度も頷いた。

 ささは、菊の方を向いた。侍女の中で最もささの傍に寄り添い、良き相談相手、姉妹とも友人ともなってくれた彼女は、ただもう子供のように激しく首を振り続けていた。

「菊。あなたには、本当に…世話になりました。いつも私を支えてくれて…本当に、ありがとう。どうか、生きて。生きて、幸せになって。私の分まで、あなたは、長く…」

「安土さま」

 菊の顔がくしゃりと歪み、滂沱の涙が溢れだした。ささは菊を力一杯抱きしめた。菊はささにすがりつき、激しく泣きじゃくる合間に訴えた。

「どうか、どうか、共にいらしてくださいませ。縁さまを…私達を、置いていかないで…!」

 ささの頬は、涙で濡れていた。それでも、ささは突き潰されるような胸の痛みに耐えながら、囁いた。

「菊、ごめんなさい。それは、できないの。縁が愛おしい…共に生きたい。でも…私は、誓ったの。あの方のお傍に最後までいると。私は、あの方が…信長さまがいないと、生きられないから…」

 菊は慟哭した。ささは唇を噛みしめ、菊をそっと離して後ずさった。

「坊丸殿、力丸殿。門まで護衛を」

 悲痛な叫びに、二人は黙ってすぐに従った。安土さま、安土さまと叫びながら、侍女達が連れられて行く。菊が、数人の侍女達に抱きかかえられるようにして背を向ける。浅葱が最後に、丸めた背を向けた。縁の姿が、ささの視界から消える。ささが最後に目にした我が子の姿は、幸せに眠る、あどけない顔をしていた。

 その瞬間、ささの中から大切なものが千切れていった。

「――!」

 ささは手を伸ばし、よろりと足を踏み出す。走っていって縁をもぎとり、かき抱きたいのを、全力でこらえる。今それをしたら、もう手放すことなどできなくなる。それが分かっていた。

 身体を折り曲げ、ささが息を止めている間に、侍女達の姿は見えなくなり、その泣く声も遠ざかっていった。

「…安土さま」

 彼女達の別れの間、一言も言わずに脇へ退いていた蘭丸が、ささの肩に手を置いた。それが皮切りとなった。

 ささは崩れおち、蘭丸にすがりついてわっと泣き出した。このひと時だけ、ささにはどうしてもすがるものが必要だった。目の前の信頼する人に、すがらずにはいられなかった。何度も、何度も我が子を呼ぶささを、蘭丸は沈痛な面持ちで抱えていた。

(縁、縁、えにし…!母をゆるして。どうか、どうかゆるして…!生きて、幸せになって…)

 涙が枯れるまで、ささは激しく泣き続けた。




 戻ってきた二人を見て、信長は信じられないというように目を見開いた。蘭丸の傍らに、いるはずのないささがいる。

 逃がしてやりたくても、遅すぎた。

 戦のにわか支度を整えていた、僅かな数の兵達が、一人、また一人とささに気づき、愕然として凍りついた。驚きから怒りへ、燃え上がるような信長の眼差しを、ささは静かに受けとめた。

「…何故、残った」

 信長は低い声を押し出した。

「そちは安土であり、縁の母であろうが。何故、あれと共に行かなかった」

 縁の名を信長が口にした時、ささの細い肩は震えた。だが、その目はやはり、ひたと信長のみを見ていた。

「私は、安土です」

 澄んだ柔らかな声が、響く。

「私は、縁の母です。けれど、それよりも前に、笹はあなたさまの妻にございます」

 信長の眼差しがわずかに揺らいだ。ささの目は赤かったが、そこにはもはや一欠片の迷いもなかった。穏やかな眼差しは、信長への想いをたたえて美しく輝いていた。白無垢の薄衣一枚をまとい、帯に懐剣をさしただけの姿で、ささは信長に歩み寄り、告げた。

「私は、お誓い申し上げました。永遠とわに、お傍を離れないと。その誓いを、笹は守りとうございます」

 敵に包囲された寺の中で、二人は見つめあった。信長は瞬きすらせずにささを見つめていた。やがてその表情から、苛立ちと怒りが消え、ささの中にあるのと同じ愛おしさに変わっていった。

 信長は手を持ち上げ、ささの頬に触れて静かに撫でた。

「…それが、そちの意志か」

「はい」

「今少し、生きながらえたいとは思わなかったか」

「あなたさまと共に生きられるのなら、思ったかもしれません…されど」

 ささは信長の手に己の手を重ね、囁いた。

「笹の心は、あの時のままにございます。私は、身も心も信長さまにお捧げいたしました。最後まで…何があろうとも、どこへいようとも、そうありたいのです。…誓いを…守らせて、くださいますか」

 切なる訴えに返されたのは言葉ではなく、触れあう手にこめられた確かな力だった。信長の目に、今は微かな笑みがあった。ささを包み込む、あの温かな微笑だった。信長は一つ息をつき、その場の全ての者にも聞こえるよう声に出して告げた。

「そちの好きにせよ」




 重く鈍い音が繰り返される。明智勢が、門を破ろうとしているのだ。蘭丸は、信長の傍らに並び立つささを見つめていた。あまりに細く白いその後ろ姿に、一つの問いが心から消えなかった。

(本当に、これでよかったのだろうか)

 ささは、ただ真っ直ぐ前を向いていた。右の手で何度も、耳の下からあごの辺りまでをなぞるという、不思議な仕草を繰り返していた。

 ささは、ぽつりと思う。

(死ぬのは、痛いだろうか。…苦しいだろうか)

 この身に刃を受け、銃弾がめりこんでから、魂が現身うつしみを離れるまで、どれほどかかるのだろう。どれほど長く、苦しまなければならないだろう。

 ささの身体が、冷たく震える。死にたくなかった。死ぬのが恐かった。

(もし、こうなると分かっていたら。私はあの時、信長さまの側室となることを、拒んでいただろうか)

 ほんの一瞬、ささはそんなことを思った。けれどささの心は、考えるより先に、答えを出していた。

 色褪せたささの唇に、笑みらしきものがのぼった。

(いいえ、それだけはあり得ない。たとえ百回生まれ直しても、千回生まれ直しても、私は信長さまを選んだ。信長さまを愛することを、選んだわ…)

 ささは、強くそう思った。すると、死の恐怖がほんの少し、薄らいだ気がした。

(もしかしたら母さまも、私を捨てた時、こんな気持ちだったのかもしれない。私も結局、信長さまと共に死ぬことを選び、縁を捨てた…母さまと同じことをした。それでも母さまは、私をきっと愛してくれていた…私が、縁を心から愛していたように…)

 もうすぐ、ささは母に会いに行ける。そうしたら、訊いてみよう。

「安土さま」

 蘭丸の声に、ささは束の間の物思いを破られた。

「戦が始まったら、私と弟達が前へ出ます。我らの命ある限り、全力でお守りします故、決して我らの前へはおいでになりませぬよう」

 深く俯いたまま、蘭丸は早口に言った。もし顔を上げれば、その目に光るものにささは気づいたかもしれない。けれど蘭丸は決して顔を上げなかったから、ささはただ頷き、優しい声で言っただけだった。

「分かりました。…蘭丸殿、今まで本当にありがとう」

 兄を慕うような敬愛の情を、いつしか抱いていた人に、ささは心を込めて告げた。蘭丸は一度だけ肩を震わせ、それから深く深く頭を下げた。

 爆発するような音が響き、鬨の声が境内に溢れた。ついに門が破られたのだ。弓の弦に手をかけ、信長は最後まで己を守らんと戦いに臨んだ者達をぐるりと一瞥した。

「皆々、己のことのみ考えよ。…笹」

 名を呼ばれ、首筋にぎゅっと爪をたてていたささが振り向く。最後に一目、その顔を脳裏に焼きつけ、信長はささの手首を掴んで自らの背後へ押しやった。目を合わせると、ささは不安そうに見返してきた。

「そなたの命を、あやつらに渡しはせぬ。死ぬ時はわしが、必ずこの手で殺してやる」

 ささの目が潤む。けれどそれはもう、哀しみの涙ではない。信長はささに微笑みかけた。

「それと、もう一つの約束だが」

「え…?」

「共に海を渡る。…違えはせぬぞ」

 その言葉に、ささは微笑みを浮かべた。安らかに透きとおった、信長の最も愛するささの笑顔だった。

「はい」

 明るくその返事が囁かれたのと同時に、おびただしい数の兵達が刀を振りかざしなだれこんできた。





 その時、ささの心には、寄り添い微笑みあう三人の姿が映っていた。信長と、ささと、縁。

(濃姫さま…先に逝くことを、どうかお許し下さい…でも今、笹は幸せです…)

 震えは収まっていた。胸の奥に灯る温もりを感じながら、ささは深く息を吸い込み、そうして懐剣を抜き放った。




 







 濃姫は、身じろぎもせずに座していた。瞬きもせず、息をしているのかどうかも定かでない。彼女の前に打ち伏している菊は、何度も声を途切れさせ、とうに枯れ果てたはずの涙を再び流しながら、どうにか全てを語り終えた。

 ようやく口を開いた時、濃姫の声は乾いていた。

「安土城はもう、おしまいじゃな…」

 濃姫はうつろな目で、広い豪奢な部屋を見渡した。馴染んだ場所のはずなのに、ひどく寂しく、寒々しい光景に映った。

(殿が…信長公が、亡くなられた。安土も、死んだ…)

 現実のこととは思えない。つい数日前まで当たり前のように話し、笑っていた、濃姫がこの世で最も愛していた者達が、二人とも死んだ。涙すら出ないほどの恐ろしい虚無が、ぽっかりと心に空いていた。

 濃姫の口は淡々と動いた。

「急いで城の者達に告げ、おちのびる支度をさせねば。本能寺でのことから二日も経っておる。じきにここにも、明智の者達が攻めこんでくるじゃろう。…そなたらも、大儀であった。休ませてやれずすまぬが、すぐに身の回りの物をまとめるのじゃ」

「どうなさるのですか」

 菊は微かな声で言った。濃姫は、手にしていた扇を重くてたまらないというように下ろしてしまった。

「私は、この城へ残りたい。安土城と運命を共にしたい。…が、そうすると、あの世で殿と安土にさぞや叱られるであろうな…それに、縁もおる。故郷くにの美濃に、戻るしかなかろう。そなたらも、行くあてがないのなら私と共に来るがよい」

 菊は感謝を述べようとしたが、どうしても声が出てこなかった。はらはらと畳に涙が落ちる。それは菊自身の深い悲哀と、ささを悼む想いと、濃姫の心中を慮る気持ちが混ざり合った涙だ。優しかった女主人を喪って、菊も息ができないほど苦しかったが、誰より衝撃を受けたのは、夫と愛弟子を一度に亡くした濃姫に違いなかった。

 菊は懐から小さな包みを取り出し、濃姫に差し出した。

「これを、北の方さまにと…安土さまより、お預かりしております」

 濃姫が、はっと顔を上げる。受け取り、幾重にも包まれた布をもどかしくほどくと、白い貝が出てきた。それには、見覚えがあった。

「この貝は…安土が何より大切にしていた物ではないか」

「はい。お別れする時、それを私に託されました。その際に、北の方さまにお伝えしてほしいと、頼まれたことがございます」

 濃姫が、食い入るように菊を見つめる。菊は、本能寺での悪夢のような夜を思い出していた。あの時、ささは菊をしっかりと抱きしめてその袂に貝を押し込み、耳元に囁いた。

 その言葉を、菊は一言一句違えまいと、ゆっくりと口にした。

「『濃姫さま、申し訳ありません。縁を、どうかお願いします』」

 濃姫の顔が歪んだ。ささがいつも、大切そうに耳にあてていた貝を胸に抱き、濃姫は何度も頷いた。

「しかと…しかと、承った。礼を言うぞ、菊」

 やっとのことで言うと、濃姫は立ち上がって逃げるように部屋を出た。菊の嗚咽が、廊下まで追ってきた。

 城内は悲嘆と恐怖のざわめきで満ちていた。濃姫は、ささの部屋へ入った。主の永遠に消えた部屋に、赤い和琴がぽつんと置かれている。弦を張り直され、磨き上げられて戻ってきた琴を嬉しそうに撫でていたささは、それを奏でることなく逝ってしまった。

「…笹。早すぎたぞ」

 つまびく細い手がまだそこに見えるかのように、濃姫は膝を折って琴に話しかけた。

「そなたは、何より大事な宝を、私に託したのじゃな。…されど、私は、誰よりもそなたに生きていてほしかった…!」

 運動音痴で、やっと懐剣の扱い方を覚えたばかりだったささ。小さな手に重すぎる懐剣をかざして、あの娘はどれだけ必死に戦ったことだろうと思うと、濃姫は耐えられない思いだった。

 涙で霞んだ視界に、ささの笑顔が揺れている。鈴を振るように澄んだ声が、聴こえる。

――濃姫さまが、どうか縁のもう一人の母になってくだされませ

 濃姫は、片方の手で貝をきつく握りしめ、もう片方の手で優しくそうっと琴を撫でた。

「案ずるな。縁は、私が必ず守ってみせる。だからそなたは、殿のお傍で、ゆっくりと休むがよいぞ…」

 幻のささが、溢れるような笑顔で頷く。琴に覆いかぶさり、濃姫は血を吐くように慟哭した。強く逞しく、大樹のようだった夫を、彼女は喪った。これからは独りきりで、侍女や家臣達を守らなければならない。それがどんなに苦しい道のりになろうとも、濃姫はもう決して逃げるつもりはなかった。

(笹…私は、生きるぞ。生きて、そなたと殿の菩提を弔おうぞ…)

 泣きながら、それでも歯を食いしばって、濃姫は心に誓っていた。





 織田信長、家臣・明智光秀の謀反により、嫡男・信忠ともども本能寺にて死せり。

 その報せはあっという間に広がり、全国を震撼させた。破天荒ではあっても、高い理想と信念を抱き、天を翔けた龍のようであった信長の死に、多くの人が哀しみ、憤った。だが、信長の血縁者たちは、明智勢が織田家を根絶やしにせんと襲ってくることを恐れて、そうそうにおちのびていかなければならなかった。

織田信包おだのぶかねの居城である上野城も例外ではなく、まさに上を下への大騒ぎになっていた。信包は、疲労困憊した顔にそれでも険しさを湛え、気丈にあれこれと指示を出している。信長の姪である三人の少女達は、訳も分からず心細げに、母にすがりついてそれを見つめていた。

 だが市は、娘達を抱きしめることも忘れ、呆然と座したままだった。美しい顔は凍りつき、涙を流すことも忘れ果てたかのようだった。

(兄上が…死んだ?)

 強く気高く、何者も倒すことなど不可能であるかのように見えた信長が。敵の家から出戻った市と娘達を再び織田家に迎えいれ、手厚く保護していた、あの兄が。

(私は…私は、最後まで兄上と、打ち解けられぬままだった…)

 失って初めて、市は理解した。兄を激しく憎む心の奥底で、本当は兄をまだ愛していたことを。

(笹殿も…あの、お笹殿までもが、亡くなられたなんて)

 市の胸に、後悔の念が溢れる。ささは、市を訪ねようとしていたのだ。

(来てほしいなどと、私が返事を出さなければ。せめてお笹殿は、生き延びられたかもしれぬ)

 そう思うと、己の行為が悔やまれてならなかった。ささの産んだ子であり、信長の最後の実子となった縁は、侍女達に守られて無事におちのびたと聞いている。ささはどれほど我が子を案じ、無念であったことだろう。

(お笹殿。すまぬ。すまぬ…)

 不安そうにしゃくりあげだした娘達をようやく抱きよせ、市は目を閉じ詫びた。

 けれど、それなのに――市の脳裏に浮かぶささは、笑っている。京で、あの光と緑に溢れる庭で会った時と同じ、花のような風のような笑顔を浮かべている。まるで、市を慰めるように。

(私はあなたを、生涯忘れない)

 娘達を強く引き寄せ、守るように抱きながら、市は心に誓っていた。




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