第11話 ささ②

 天正十年四月下旬、織田家の宿敵であった武田たけだ氏征伐の祝いの宴が安土城にて催された。信長の主な家臣達をはじめ、共に戦った同盟国の大名達をも招いた盛大な宴であった。

 その宴にささも同席するよう、信長は命じた。先頃男子を産んだ、安土と呼ばれる側室を、皆にしかと認めさせるのがその目的であった。ささの与り知らぬ所で、その名はいつしか強大な栄華の象徴となっていたのである。

 日の高いうちから始まった祝宴のさなかに、目の覚めるように鮮やかなかさねの打掛をまとったささの姿があった。ささは、四方から注がれる視線を受けとめながら、信長の傍らに静かに座している。内心の緊張があらわれているのは、血の気が失せ透きとおるような質感を帯びた白い肌のみだった。

「安土、徳川とくがわ殿の酌をつとめよ。こたびも大いに力を尽くしてくだされたお人じゃ」

 信長が言った。ささを安土と呼んだのは、これが初めてであった。ささは立ち上がり、打掛を軽やかにさばいて、ためらうことなく徳川家康とくがわいえやすの前に進む。その一挙手一投足を見守っていた一同から、微かな感嘆のため息が漏れる。

 家康は、一見するとどこにでもいるような中肉中背の初老の男だった。いかにも好々爺といった風情だが、眠たげにたれた目から時折発せられる鋭い光に、ささは身がすくむ思いがした。

安土御前あづちごぜんでございますな」

 ささが酌を終え、会釈して下がろうとした瞬間、家康が口を開いた。ささは一瞬息をとめ、それから家康を真っ直ぐに見返した。

「はい。徳川さまのご活躍、ご功労は聞き及んでおります。こたびの戦、ご苦労さまにございました」

 細いがよくとおる、澄んだ声が、震えも途切れもしなかった。桜色の唇をすっと結び、臆することなくその大きな目で己を見つめてくる若い娘に、家康は目じりに皺を寄せて笑いかけた。

「いやいや、こちらこそ御前さまに拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じまする。御前のつがれる酒は、亡き妻の酌より美味い」

 笑いが沸き起こり、ささも強張った頬に何とか笑みらしきものを浮かべた。家康はささに対し終始丁寧であり、敬意のこもった態度を崩さなかったが、ようやく家康の傍を離れた時、ささの足は安堵のあまり細かく震えた。

 大名達への酌を終え、家臣達の間を廻る頃には、ささもだいぶ落ち着きを取り戻していた。大名と違い、家臣達は恐縮しきってささの目をほとんど見ようともしなかったので、ささはいくらか余裕をもって接することができた。

(この人達が見ているのは、私なのか。それとも私を召し上げた、信長さまなのか)

 どちらでもよいと、ささは冷静に考える。

(私は、『鏡』なのだから)

 ただ一人、ささに対して大げさにかしこまることをしない家臣がいた。

明智あけちさま。どうぞ」

 ささが呼びかけると、その男は我に返ったように顔を上げた。まさか名をとり違えたかと、ささは一瞬肝を冷やしたが、相手はすぐに笑みを作った。

「これは、恐れ入りまする」

 ささはほっとして、差し出された盃に酒をついだ。そうしながらも、なぜか目の前の男が気になり、記憶をたどった。

明智光秀あけちみつひでさまは確か、この近江の国の滋賀郡を治めておられるのだった。信長さまに十年近く仕えておいでで、たいそう機知に富んだお方だとか)

 以上は全て、濃姫の話である。ささが宴に出されると聞きつけた濃姫は、すぐにささの部屋を訪れた。そして、その日招かれている者達全員の名前と座る席、戦歴と領地を、ささの頭に叩き込んだのだった。

 その濃姫が、明智光秀のことを敬意のこもった声で話していたのを、ささは思い出していた。

(濃姫さまは己にも他人にも厳しいお方だけれど、いつも正しい評価をなさる)

 ささは、改めて光秀を見つめた。

 穏やかで真面目な顔つきをした男だった。伏せた目は厳しく冷たそうだが、微笑むとその印象が驚くほど和らぐ。さらにささは、光秀があの馬揃えの総奉行をつとめていたこと、娘のたまがささの向かいの座敷に姿を見せていたことを思いだした。

「こたびの戦、ご苦労さまにございました」

 ささが言うと、光秀は軽く頭を下げた。

「有難きお言葉にございます。安土御前も、先日縁さまをご出産されたそうで、まことにおめでとうございます」

 そう言った時の光秀の声に、わずかな苦痛が滲んでいた。めでたい祝いの宴において、彼だけがひどく強張った、考え込むような顔をしているのに、ささはようやく気づいた。

(誇らしくは、ないのだろうか。ご自分のご功労が。信長さまの、勝利が)

 奇妙な胸騒ぎを覚え、ささはとりなすように言葉をついだ。

「天下統一、泰平の世をお屋方さまがもたらされるまで、いっそうのご活躍を期待申し上げております」

「泰平、にございますか?」

 光秀は驚いたような声を上げ、初めてまともにささを見た。ささはたじろぎながら頷いた。

「はい。お屋方さまが私に、そう仰せになりました」

 光秀は、ひどく複雑な表情を浮かべた。驚き、哀しみ、苛立ちがそこには入り混じっていた。

「もしそうなったあかつきには、我ら一同、骨を折った甲斐があったというものです」

 そして放たれた言葉には、ささでさえ感じとれるほどのあからさまな疲弊と皮肉が色濃く滲んでいたのだった。その冷たい響きに、ささは思わず身がすくみ、反応が遅れた。

 次の瞬間、光秀の額で水が弾けた。

 真っ二つに割れた杯が、乾いた音を立てて転がる。酒が血のように光秀の顔を伝い落ちるのを、ささは凍りついて見つめる。座敷はたちまち水を打ったように静まり返った。

 杯を投げつけたその手で小刀を鞘ごと抜き放ち、信長が荒々しい足音を立てて光秀に近寄る。その形相を見た瞬間、ささは反射的に後ずさり、震える袖で口元を覆っていた。

「ぬけぬけと言いおって」

 信長が、口を開いた。その声は、刃の冷たさと危険さをはらんでいた。

「申してみよ、光秀。おぬしがいつ、どこで骨を折った」

 光秀の表情が凍りついた。

 織田家の重臣として、光秀は今まで誰より身を粉にして働いてきたつもりだった。信長を信じ、彼に逆らった以前の君主・足利義昭あしかがよしあきを見限った。比叡山焼き討ちの際には、多大な恩賞を賜るほどの働きを遂げた。また、馬揃えの総奉行を命ぜられた際には、寝食を削ってまで必死に励んだのである。

 信長の無情な言葉は、その中で積み上げられてきた光秀の自信と誇りを打ち砕いたのだった。

 光秀の、きつく握りしめられた拳がひきつったように震えだす。だがそれでも、その手をなんとか膝に置き、己の失言を詫びんとした光秀の首元を、信長がひっつかんだ。そのまま座敷の外に引きずりだされ、螺鈿で飾りたてられた欄干にぎりぎりと頭を押しつけられ、光秀はたまらず悲鳴を上げた。

「お許しくださいませ、何卒お許しを」

 立ちつくすささに、信長の表情は見えない。だからこそ、ささは恐ろしくてたまらない。かつて信長に抱いていた葛藤が、再びささの中に甦る。

(でも、それでも、今の私は、あの頃の小娘ではない。私の名は、安土だ…この場での私は、安土御前だ)

 ささは、打掛の裾が乱れるのも構わず、信長と光秀に駆け寄った。

「お屋方さま、おやめくださいませ!」

「黙れ、安土。女子おなごの分際で口を出すでないぞ」

「いいえ、出しまする。明智さまに、これではむごすぎます」

「黙れと言うておろうが!」

 信長が怒鳴り、その雷のような一喝に打たれて硬直したささを、腰の刀に手をかけながら振り向いた。

 と、そこに、温厚な声が割って入った。

「まあまあお屋方さま。本日はおめでたい日にございます。この家康に免じて、今日の所はそれくらいで」

 家康が、ささと信長の間にさりげなく身体を滑り込ませ、うやうやしく頭を下げる。信長の目に燃えていた赤い怒気が、和らいだ。鋭く息を吐き、光秀をぼろきれのように放り出し、信長はそのまま歩み去った。

「大丈夫ですかな」

 家康が光秀を助け起こし、訊ねる。途切れがちの声で光秀が何か答えているが、ささはそれにも気づかず、震えながら立ちつくしていた。耳鳴りがする。

「安土御前さま?」

 気遣わしげに、家康が名を呼んだ。その時ようやく、ささはその場にいる者達の視線を一身に集めていることに気づいた。恐れと呆れと好奇の混じった視線が、動揺しきったささの心に針のように突き刺さる。

(どう…すれば、いいの…)

 この場に残るべきか。退席してしまった主君を追うべきか。ささは今、栄華を映し出す『鏡』から、途方に暮れた一人の娘に戻ってしまっていた。

 迷い、怯えながら、よろりと一歩踏み出したささの脇を、急ぎ足で蘭丸が通り過ぎた。主君を追って座敷を出る寸前、ささの耳元に素早く囁く。

「安土さまは、どうかここに」

 その一言で、ささの心が瞬時に冷静さを取り戻した。そうだ、ここで側室の己までもが、客人を放り出して退席するわけにはいかない。ささには、安土としてまだ果たすべき役割がある。

 ささは静かに一つ呼吸をした。そして、家康に向き直った時、ささの黒く美しいひとみは穏やかに落ち着き払っていた。

「お見苦しい所をお見せいたしました」

 よくとおる声で言い、頭を下げる。上席に戻ったささに気圧されたかのように、大名達もまた鎮まり、そして宴のざわめきが再開された。




 その後、どうやってその場を切り抜けたのか、ささは記憶にない。疲れ果てて自室に戻り、ぐったりと畳に伏した時、閉じた瞼の裏に浮かんでいたのは、光秀の目だった。ぽっかりと虚ろにひらいた穴の奥底に、ちろちろと昏く燃えているものがある。あの後、長くは続かなかった宴の最中、光秀だけが一言も喋らず、どこか遠くを見つめていた。

(明智さまはきっと、深く傷つかれたのだ。それも無理はない)

 ささはそう考えようとした。が、どこか落ち着かない。あの時の光秀の眼差しは、明らかに尋常ではなかった。

(まさか…明智さまは、信長さまを…恨んで、おられる…?)

 ふっと浮かんだ考えに、さあっと血の気が引いた。ささは冷たい手を握りしめ、無理やりにその恐ろしい言葉を追い払った。

(ありえない。それだけは、あってはいけない。信長さまは天下を統一されるお方、そして明智さまは、そのご家来なのだから)

 弱肉強食、下克上の時代とは言え、主君と家臣の絆はいまだ非常に強いものとして残っていた。だからこそ、流石のささも、光秀の信長に対する複雑な感情を察知することができなかったのである。

 それに、今のささには、光秀のことよりもっと深く心を乱されることがあった。

(信長さまが、私に刀を抜こうとなさった。…なんのためらいもなく)

 ささは、打掛の衿をきつく描き合わせた。冷え冷えとした恐怖と悲しみが、ささの心をひたひたと満たしていく。

 あの時家康が仲裁に入ってくれなければ、信長は間違いなくささを斬っていただろう。信長の憤怒の形相に、ささは己の死を視たのだった。

(信長さまと縁への愛情が、私の全て。けれど信長さまには、そうではない。武士としてのあの方にとっては、私という側室など、簡単に斬り捨てられる存在なのだ)

 ささは、袖のたもとをそっとおさえる。そこには、大切な白い貝が入っていた。お守りとしてこっそり隠し持っていたのだ。

(濃姫さまには、『これしきのことで狼狽えるなど情けない』と叱られてしまうのだろうな)

 ふと思い、ささは苦笑した。情けないと自分でも思うのに、ひどく胸が寒くて、哀しい。それでもささは、賢明に己に言い聞かせた。

(ありがたく思わなければ。今、このお城で、お傍にいさせて頂くだけでありがたいのだと。たとえ想いが途絶えても…たとえ、愛情だけで越えられないものがあっても…)

 続きの部屋で縁が目を覚まし、むずかる声がした。ささは、こらえきれずに立ち上がり、戸惑う乳母の手から縁を奪い、ひしとかき抱いた。その温もりと重み、甘い匂いが、ささの心を慰めてくれた。ささの目から涙が一粒こぼれた。

(縁。えにし。愛しい愛しい、私の子。どうか、よすがとなっておくれ。お前の父上と、弱い母との…。あの方なくして、私はもう生きられない…)

 縁は両手を高く上げ、無邪気にきゃっきゃと笑っている。




 羽柴秀吉をはじめとする家臣達の九州攻めがいよいよ大詰めに入ったゆえか、はたまた信長の方でも流石に思うところのあった故か、信長は宴での一件以来、一度もささを訪れなかった。常より心の不満や愚痴を表に出すことのないささの、落胆と動揺を察するのは、彼女に仕える侍女達だけだった。特に菊は、ささを深く案じる様子を隠さなかったが、彼女にはどうにもならないことだった。

「安土さま。お屋方さまは今、九州攻めのことで大変お忙しいのでございますよ。あまり気を揉んではお身体に障りますわ」

「分かっているわ。私なら大丈夫よ、菊」

「ならばもう少しお食事を召し上がってくださいませ」

 きっぱりと言われて、ささは手つかずの膳にしぶしぶ箸をつけた。彼女が少しずつ食事を口に運ぶのを、菊はじっと見守る。心の動揺がすぐ身体に表れてしまう女主人の気質を、菊は誰より理解していた。

「…菊。九州攻めは、どうなっていて?」

 ささが、ぽつりと呟いた。

「もちろん、織田家が圧倒的に優勢とのことでございます。毛利もうりさまはいまだ抗戦の姿勢をとっておられますが、羽柴さまは軍師としては大変優れておいでです。…お屋方さまが自ら援軍へ出向かれる必要はないはずなのですが」

「なんですって?」

 ささの声が、ここ数日で初めて熱を帯びた。菊は口を滑らせたことを悟り、真っ青になってひれ伏した。

「お許しくださいませ、余計なことを」

「もう一度言って。信長さまが…九州攻めに、自ら加わられるというの?」

「は、はい…ただの噂でございますが…」

「詳しく教えなさい!」

 菊は、屈した。ささの声は、命令というにはあまりに切羽詰まった悲壮な響きを帯びていたからだった。

五月さつきの末には、お屋方さまは羽柴さまの援軍を率いて出兵されるそうにございます」

「…三週間後には、ご出立される…ということね」

「はい」

 ささは、血の気の引いた顔を手で覆った。くぐもった嘆きがこぼれる。

「戦は、いやよ。どうして男のかたは、ああも戦を好まれるの。私達には、待つことしかできないというのに」

「落ち着かれませ、安土さま。ご出兵までには、お屋方さまは必ず安土さまを訪れてくださいます」

「本当にそう思う?」

 ささは小さな声で訊ねた。菊は大きく頷いた。ため息をつき、ささは立ち上がって窓に近づく。菊は後を追い、そっと傍に立った。このような思いを抱くのは、本当は不謹慎なのかもしれない。けれど菊は、少女のように華奢で繊細な面持ちの女主人を、姉妹のように大切に思っていた。ささの方でも、そうした女性の支えを必要としているように見えた。

「安土さま。お屋方さまは、安土さまをたいそう大切に思っていらっしゃいます。どうかお屋方さまを信じて、いつもの安土さまのように笑ってくださいませ。そうでないと、この部屋も暗くなりまする」

 ささは、答えなかった。ぼんやりと外を見つめ、佇んでいた。それから、呟いた。

「お屋方さまは、まだ私のことを、怒っておいでなのではないかしら」

「さあ、そこまでは存じ上げませぬ。お二人の間のことは、菊は口を出しかねます」

「お前はさっきまで、あんなに自信ありげに話していたくせに」

「申し訳ありませぬ。夫婦喧嘩を邪魔する者は、馬に蹴られて死んでしまえ、と古いことわざにございますゆえ」

 明るい菊の言い方に、ささはようやく小さく笑った。その笑みを口元に残したまま、空から菊へと視線を移す。

「これでよくって?」

「はい」

 菊はにっこりと頷いた。彼女の温かな気遣いに触れ、ささの心にもようやく光が差した。

「菊。あなたがいてくれて、よかったわ」

 心をこめて素直にささが言うと、菊の頬が真っ赤に染まった。感極まって何も言えないでいる菊を見つめ、ささは静かに微笑んだ。

「今日は、琴を弾くわ。用意をして」




 川のうねりのように、じょうじょうと、和琴がうたう。聴く者の心を素手で撫でるような、見事で、美しく、甘やかな、けれど哀切のこもった激しい音色だった。ささが琴を奏でる時、そこには言葉にできない想いが深くこめられていた。

 弦と一緒に、ささの身も心も震える。ひたすらに集中し、のめりこむようにささは細い指を走らせる。そうしている間は、何も考えずにいられた。ただ一つの名前、ただ一人の顔が、ささの心を占めていた。祈りと、苦痛と、思慕が絡み合い、ついに炸裂した。

(信長さま)

 ささが心の中で叫んだ瞬間、琴の弦が弾けてとんだ。




 鷹狩りから帰還し、馬を下りようとしていた信長は、ふと琴の音を聴いた気がして動きをとめた。

「殿、いかがされましたか?」

 蘭丸が訝しげに訊ねる。

「そちにはあれが聴こえたか」

「はっ?」

「…いや、いい」

 信長は軽く首を振った。が、鋭く激しい音色は妙に耳にこびりついて離れなかった。

(あれは、笹の音じゃ)

 天守閣へ向かう途中も、信長は確信していた。ささは、生まれつきの才を持つ琴の名手だ。先日信長が濃姫に、あの音色はそちが教えたのか、と訊ねた時、濃姫は笑って否定した。

『指使いを教えたのは私ですが、心までは教えられませぬ。がくは人の心のあらわれにございます』

 そう言った濃姫の声は、幾分冷ややかだった。せんだっての宴において、正室の己ではなく側室のささが酌をつとめたことに、彼女は気を悪くしていたのだった。それを指摘すると、濃姫は堂々と認めた。

『きゃつらの中には、笹の顔をまだ知らぬ者もおる。笹は子をもうけた。それも男子おのこじゃ。いた仕方あるまい』

『もちろん存じておりまする』

 濃姫は跳ねつけるように言った。が、すぐに疲れたように笑った。

『全く、安土のこととなると、私は常の己を見失いそうになります。あの者に嫉妬したところでどうにもなるまいと、承知しておりますのに。あれの琴は、私をかき乱します』

『それは何ゆえじゃ』

 信長が尋ねると、濃姫はわざとらしく目を丸くして、まだお気づきでなかったのですかと聞き返した。

『あなた様ならお分かりになるはず。あれのがくが、安土の心が、どなたに向いているのか。深く、強く、真っ直ぐに…。だからこそ、あれの音は誰の心をも震わせます。もっとも、あなた様は近頃、安土を避けておいでのようですが』

 信長はささの部屋へ向かった。

 襖をからりと開け放つと、縫物をしていた侍女達が仰天してかしこまった。その中には縁の乳母もおり、縁は寝床で楽しそうに一人遊びをしていた。

 信長は、座敷の中央へ足を進める。信長が訪れれば、ささは必ずそこにいて、彼を待っていた。澄んだ光をたたえるひとみに見つめられる時、長年張りついたままだった心を覆う鎧が緩む。しかし今、ささの姿はそこにはなく、信長が贈った琴がぽつんと置かれているだけだった。琴の弦が、一本切れてねじれていた。

 それを目にした時、信長が感じたのは、怒りではなく強い焦燥だった。

「笹はどこにおる」

 厳しい声で問うと、侍女の一人が蚊の鳴くような声で答えた。

「お菊さまと一緒に、裏山へ散歩に行かれました」

 それを聞くなり、信長は踵を返した。嵐のように訪れて去ってゆく信長に、侍女達がひれ伏しているのも、もはや視界には入らなかった。




 五月の山は、眩しいほどの緑で満ちていた。日の光は葉を透かしてちらちらと土の上に踊り、草いきれがむせかえるようだ。

 安土城の裏山の中腹には泉が湧き出しており、小さいながら清水をたっぷりとたたえている。整備された道からは少し外れないと辿り着けないが、その静けさに惹かれ、ささはよく菊だけを伴って心と身体を休めに訪れた。

 信長がささを探し出した時、ささは裾を軽くたくし上げ、岸から身を乗り出している所だった。少し離れた木陰から、菊がそれを心配そうに見守っていた。ささの長い黒髪は、日光を照り返してくらいみどりに光り、まだらな木漏れ日が小袖をまとう華奢な身体を包んでいた。森の精のように、ささは泉の景色に調和しており、そのほっそりとした手が今しもゆっくりと水の中に沈んでゆこうとしていた。

 信長が荒々しく茂みをかき分けて岸辺に足を踏み出すと、ささは心底驚いたように顔を上げて信長を見た。勢いよく上半身を立て直したので、とっさに身体の均衡が保てず、濡れた石の上で足が滑った。

「あっ…!」

 水の中に倒れこみそうになったささを、飛び出した信長の腕が抱きとめた。

 温かい。最初にささが思ったのは、そのことだった。あまりに懐かしい、温かく逞しい腕に包まれている。その腕に手を添えながら体勢を立て直そうとした瞬間、活きもできないほどきつく抱きしめられた。

 少しでもささが動くと、信長は腕に力をこめ、ますます強くささの髪に顔を埋める。痛みに顔を歪めながら、ささはそれでもなんとか腕を動かし、信長にすがりついた。ささが信長を全身で感じようとする、それと同じことを信長もしているように思えた。

 世界が、切り離される。ささは目を閉じ、強く願う。

(このまま時が止まってしまえばいいのに)

 この泉の水のように、二人が溶けあって一つになってしまえばいいのに―。




 その日二人は、安土城へは戻らなかった。菊だけを帰し、山を下る時も馬に乗る時も、駆けに駆けて琵琶湖のほとりの小さな屋敷へたどり着くまでも、信長は一言も喋らなかった。ささも、黙っていた。口を開いたら、二人の間に流れる空気を壊してしまいそうな気がした。けれど、心臓はうるさいほどに高鳴っていた。今日は蘭丸さえついてきていない。ほぼ完全に、二人きりである。

(源氏物語の『夕顔の巻』みたい。ああでも、あの時でさえ衛士や侍女はいたのだっけ…)

 もちろん、信長が馬をとめた屋敷は幽霊屋敷ではなく、ささが縁を産んだ馴染み深い屋敷だった。今でもささの持ち物ということになっており、最低限の物は揃っているし手入れをする者達が住んでいる。初老の夫婦はさして慌てるでもなく二人を迎えいれ、かいがいしく世話を焼いてくれた。主君とその側室がいきなり訪れるのは当然のこと、と言わんばかりの態度だった。

 夫婦が用意してくれた夕餉は、質素ながら心づくしのものだったが、ささの喉をろくにとおってくれなかった。安土御前でも縁の母でもない、ささという一人の女子おなごに戻ったのは久しぶりだという気がして、それがささをひどく心細くさせていた。信長の寝所に初めて上がった夜の方が、無知な分だけ落ち着いていられた気がする。

(大丈夫。これでいい…)

 ようやく一人になると、ささは何度も深呼吸をして心を静めようとした。袂から白い貝を取り出し、膝の上に置く。そうして、目を閉じた。




 湯あみを済ませた信長が寝所に戻ると、既に床がのべられており、その傍らにささが座していた。

 ささは信長を見ていなかった。目を閉じ、貝の音を聴いていた。両手で耳元に貝をささげ持ち、少し首を傾げているので、頬にさらさらと黒髪がこぼれる。一心に耳を傾ける、その表情は童女のようにひたむきで無防備だった。

 信長があぐらをかいて座ると、ささは静かに目を開け、貝を小箱にしまった。慣れた動作を見ていると、それが彼女にとって何度も繰り返してきた当たり前の習慣であろうことが伺えた。それほどまでに、彼女が貝を大切にしているとは予想していなかった。

「琴の弦が切れておったな」

 開口一番、信長は言った。ささは両手をつき、深々と頭を下げた。

「申し訳もございませぬ。あれはあなたさまより賜りし貴重な琴でございますのに」

「何故切れた」

「…私が、あまりに強く奏でたからにございましょう」

 そう言ったささの息がわずかに乱れたのを、信長は聞き逃さなかった。そうして信長がそれに気づいたことを、ささもまた鋭敏に感じとり、素早く言葉をついだ。

「信長さまに謝らねばならぬことがもう一つございます」

「何じゃ」

「宴での一件にございます」

 ささはひれ伏したまま、ひと息に言った。

「信長さまの仰せになったとおり、女子おなごの分際でさしでがましいことをいたしました。まことに申し訳ありませぬ」

 外の浜で、かわせみが甲高く鳴いた。びくりと肩を震わせたささの耳を、信長の声が打った。

「謝ればそれで気が済むのか」

「いいえ。信長さまにお許しいただけるまで、私の心が休まることはありませぬ」

 信長は沈黙した。ささは、待った。その時間は永遠にも思われた。ささの心は張りつめ、今にも琴の弦のように切れてしまいそうだった。

「面を上げよ」

 ようやく信長が言った。ささは、おそるおそる身体を起こした。

 突然信長が手を伸ばし、ささの腕を痛いほどの力でつかみ強く引いた。思わず声を上げたささの身体が、簡素な床の上に倒れこみ、その上に信長が覆い被さる。何が何だか分からぬうちに動きを封じられ、反転した世界を見上げたささの目に映ったのは、信長の手に握られた懐剣だった。

 刃がひらめき、一筋の白い光となって真っ直ぐにささ目がけ走り下りてくる。

 恐いと思う前に、ささは見とれた。きれい、と思った瞬間、首筋にひやりと冷たいものが触れた。

 ささのうなじに、白い刃が喰いこんでいた。ささの目が大きく見開かれ、その身体は凍りついたように動かなくなった。

「許さぬ。そう言うたら、そちはいかがする」

 信長は、扇のように広がったささの長い髪を片手につかみ、低く問いかけた。

 ささは、じっとしている。その見開かれたひとみに、恐怖の色はない。やがてその小さな面から驚きが消え、ついで戸惑いと混乱が消えた。

「殺すなら…あなたさまの手で、じかに…できれば苦しまぬように、殺していただきたいと…そう、お答えします」

 うなじの痛みが強くなった。ささは顔をわずかに歪めたが、抗うそぶりは見せなった。

 冷たい刃が、ささの耳の下からあごの辺りまでをつつっとなぞった。その道筋はささに火の感触を与えたが、それだけだった。信長は、刃を返してささの首にあてていた。

 信長は、刃を離した。

「そちが自ら死を選ばねばならぬ時が来たら、ここを深く刺せ。さすれば、苦しまずあの世へ行ける」

 ささは、いましがた赤い痕を刻まれた部分を、指でなぞった。信長は懐剣を黒いさやにおさめ、ささの胸の上に置いた。ささはそれを持ち上げ、灯にかざす。金箔で描かれた揚羽蝶が、きらりと光った。五つの外郭を有する木瓜の中央に、蝶が舞っている。

 ささの声は静かだったが、ひどくか細く揺れていた。

「これは…織田家の家紋にございますか」

 その重みに、手が震え、滑り落ちかけた所を信長の手がとらえ、強く握りこんだ。

「なぜ。なぜ、これを私に」

「そちは以前、言うたはずじゃ。永遠とわに我がものとなる、と」

 ささの心にきらめく水が広がり、衝撃に折れそうな心を支えた。こくりと息を飲み、ささは囁いた。

「はい。申しました」

「ならばこれを、その証とせよ」

「証…?」

「常に織田の家紋を身につけ、安土としてふるまい、我が側室として生きよ。織田信長のものとして生き、信長のものとして死ね」

 ささの湖のようなひとみを見据え、信長は言った。ささの頬を、涙が一筋伝い落ちる。それは、哀しみの涙ではない。懐剣をしっかりと胸に抱き、ささは微笑みを浮かべて一つ頷いた。

「謹んで、お受けいたします」

 さほど大きくない刀が、ささにはずしりと重い。だがその重みを受け入れようと、ささは思った。

(受け入れよう…何もかもをこの身に受けとめて、私はこのお方と共に生きよう。この命が終わるまで。たとえ、この方に終わらされることになっても…己の手で断つことになっても。私はそれを、貫こう)

 賜ったばかりの懐剣を腰帯に差すささを、信長は見つめながら、春の日の琵琶湖を思い起こしていた。はるかな水の景色そのもののように、ささのひとみは穏やかに澄んでいた。死への恐怖も、大名の家紋への怖れも、おそらくは水の底に沈められているのだろう。だが湖水にたとえるには、ささの微笑みはあまりに無垢で重みを感じさせなかった。

「そちは、風じゃ」

 信長は呟いた。ささは、小首を傾げた。

「風…?」

「言葉ではいくら申しても、そちの心が自由を求めぬことはない。常に山々を巡り、空の動きを追っておる。それらと共に、思うまま生きたい、とな」

 ささは、はっとした。とっさに返事のできないその様子に、信長は口の端にちらと笑みを浮かべた。

 ごまかすことはできないと悟ったのは、その時だった。ささは信長の目を見返した。

「はい。私は鏡であり、以前は風でした」

「されど、我が傍にいることを選んだ」

「はい」

 ずっとささの髪に触れていた信長の手が、ささの頬に触れ、唇をなぞり、うなじの痕を辿った。信長の囁きを、ささは直接身体の中に注ぎ込まれるように聞いた。

「どこへも行くな」

「行きませぬ。笹はもう、風ではありませぬゆえ…」

 信長の唇を、ささはその言葉を紡いだ唇で受けた。安土城と違い、ここには侍女も小姓もいない。もう少し経てば、護衛の武士たちが彼らを伴って到着し、屋敷を囲むだろう。だがそれまでは、二人だけだ。無人の沈黙を味わうかのように、信長はささの黒髪を梳き、さらさらと音を立てさせる。ささの身体は、信長の身体の温もりに包まれたままだ。その心地よさに目を細めながら、ささは静かにじっとして、信長のされるがままになっていた。

「そちが部屋におらぬと知った時、わしは焦った。笹が風に戻り、安土を捨てる決意を固めたのかと思うてな」

「安土城は、私のさとです。そして笹の居場所は、あなたさまのお傍にございます。…琵琶のうみを間近に眺めるのも、泉の水を手ですくって飲むのも好きです。されどそれは、笹があなたさまのお傍で心満たされているからこそにございます」

 ささにしては熱っぽく素直な言葉だった。彼女がこれほど心をさらけ出して長く語るのは、珍しかった。腕に閉じ込めたささの身体の細さと頼りなさを、信長は感じていた。子を産み、母になったというのに、ささは相も変わらず少女のような容姿をしている。だからこそ、ときに現実の存在とは思えなくなる。誰の意にも染まらぬしなやかな心のままに、ふうわりと風に溶けてしまいそうな気がする。

「それでも信じてもらえぬのでしたら…」

 その時、ささが囁いた。

「どうか名を呼んでくださいませ。笹、と」

「笹」

「もう一度」

「笹」

「もう一度」

「笹」

 せがまれるままに、信長はささを抱いて繰り返し名を呼んだ。彼女の居城の名ではなく、ただ、ささ、と。溺れる者が岸にしがみつくように、ささの腕が信長の背に回った。

 信長がささを呼び、求め続ける限り、彼女はここにいるのだと、その時信長は悟った。ささにはそれが、全てなのだと。

「…琴の、弦を」

「すぐに張替えさせよう。また、そちの琴が聴きたい」

「はい…」

 ささは頷き、礼を述べようとしたが、胸が詰まって何も言えなかった。懐剣を懐に得て、信長の腕に優しくだかれながら、ささの心は一人の女性として愛し愛される喜びに満たされていた。

 ささの上気した頬を信長の手がもう一度優しく撫で、唇が重なった。互いを求めあい、確かめあい、灯火に揺らめく二つの影は完全なる一つに溶けあった。




 翌朝、ささが安土城へ戻った時、その帯には黒く輝く懐剣がささっていた。部屋を訪ねてきた濃姫は、それを見て絶句した。ささは辛かったが、真っ直ぐ顔を上げていた。

「そちはもはや、私を追い越しつつあるのやもしれぬのう…」

 濃姫は、ぽつりと言った。ささの目が潤んだ。微かに、ささは首を横に振った。弁解や世辞めいたことは一切言わなかった。

 名実共に信長の物として生きる決意をしたささだったが、濃姫との間にこのような亀裂が生じるとは予想もしていなかった。それは、胸が引き裂かれるような苦しみをささに与えた。濃姫が導いてくれなければ、安土御前は存在すらしていなかったのだ。

 ささにできることは、いっそう心を込めて濃姫に接し、そうして安土として堂々とふるまうことだけだった。織田家の家紋を帯びたささは、今や揺るぎない権力の持ち主だった。それと同時に、己に全てを教えてくれた濃姫に決して恥じぬ者でありたかった。

 濃姫は二週間ほど、そんなささと顔を合せなかった。廊下で行き違っても知らぬふりをし、ささを拒んだ。ささの心は痛んだが、いた仕方のないことと承知していた。ささが葛藤したように、濃姫にも濃姫の苦しみがあった。

 だが、一度乗り越えてしまうと、濃姫は二度とそのようなふるまいはしなかった。屈託なくささの懐剣についても話題にし、その使い方を覚えるべきであると主張した。

 濃姫は、ささが懐剣の扱いを進んで学びたがるとは露ほども考えなかった。信長が延暦寺を焼き払ったという話に露骨な嫌悪を見せていた娘である。争いに加わり、己の手を汚すことなど、考えたくもないだろう。

 ところがささは、あっさりと頷いた。

「そういうことでしたら、ぜひ濃姫さまにご教示願います。何卒よろしゅうお頼み申し上げます」

 そう言って三つ指をつき、深々と頭を下げた。

 濃姫は拍子抜けしてささを見つめた。

「よくぞ申した、と言いたい所じゃが、そなたらしくもない。あれ程に戦を嫌がっていたそなたが、一体どうした心変わりじゃ」

「そんな、大仰にございます」

 ささは顔を上げて苦笑する。それから、ふっと静かな表情になり、呟いた。

「この剣をくださった時、信長さまは仰せになりました。私が安土として死なねばならぬ時が来たら、これを使えと」

「…安土」

「戦は嫌にございます。されど、信長さまほどのお人でも、自害という未来をどこかで見ておいでなのだと知って…私も、受けとめねばと思ったのです」

 濃姫は、言葉を失ってささを見つめた。ささは、手が白くなるほど強く懐剣を握りしめていた。

「そなたは…そのために、戦うというのか。分かっておるのか、己の命のみならず、人の命まで傷つけ、奪うことになるやもしれぬぞ」

「覚悟の上にございます」

 ささは、囁いた。言いつのろうとした濃姫は、ささの目を見て口をつぐんだ。

「私は、誓いました。たとえ何があろうとも、あの方のお傍を離れない。そのためなら、何をもいとわぬと」

 涼やかに、強く、ささは言いきった。

「…そうか。いとわぬか」

 やがて濃姫は、静かに繰り返し、微笑んだ。柔らかな笑みだった。

「安土。そなたは以前、己が弱くなったと申しておったな。それは、間違いぞ」

「え…?」

「そなたは強い。この私よりもな」

「また、そのような。過ぎたお言葉にございます」

「私は本気ぞ」

 濃姫は小さく声を立てて笑った。そして、優しい声で言った。

「そなたは、強い。殿を想う、その心がな」

 その声にいささかの険もないことに、ささは驚いて目を見張った。けれどそれから、恥ずかしそうに、嬉しそうに、微笑んだのだった。

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