第10話 ささ①
天正十年三月、ささは赤子を連れて安土城へ戻った。
「まずは祝いを述べる。そなたが殿のお子を産んだこと、心から嬉しく思うぞ」
「ありがとうございます。濃姫さまよりそのようなお言葉を賜り、恐悦至極に存じます」
新しい部屋で、濃姫とささが向かい合う。深々と頭を下げたささに、濃姫はいかにも嬉しげに笑いかけた。
「元気な
「はい」
ささは大きく頷き、すぐに浅葱を呼んだ。乳を飲んだばかりの縁は、ごきげんで母の腕に抱かれ、濃姫に渡された。濃姫は上手に赤子を抱き、優しく揺すった。縁はむずむずと手足を動かし、濃姫を見上げ、喉を鳴らした。驚くほど大きな、深く黒い目をした子だった。
「…この子は殿によく似ておる。しかし目は、そなた譲りじゃの」
「信長さまも同じことを仰せでした」
ささは目元を和ませ、縁を抱きとった。しっかりとした重みが、たまらなく愛しい。日に日に成長していくのが感じとれる。
縁を抱きしめ、小さな顔にこのうえなく優しく微笑みかけるささを、濃姫は見つめていた。信長に与えられた屋敷で静養し、見違えるほど美しくなって戻ってきたささと、彼女が産んだ信長の子を見ているうちに、小さな呟きが口からこぼれた。
「…私も、産むことができればよかったのう」
ささが顔を上げ、ふっと真面目な顔になった。濃姫は急いで取り繕った笑みを浮かべた。
「いや、気にせずともよい。私の子はおらずとも、殿のお子は大勢おる。それで充分じゃ」
「濃姫さま…」
ささは、小首を傾げて少し考えるそぶりを見せる。それから、水のように澄んだ声で言った。
「縁は、私の子です。けれど、この子の母は二人おります。濃姫さまが、どうか縁のもう一人の母になってくだされませ」
「…安土」
「私に、子を持てと最初に言ってくださったのは濃姫さまにございます。それまで私は、我が子がかように愛おしいものとは思ってもみませんでした。ですから」
訴えるささの腕の中で、縁が無邪気な笑い声をあげる。光のように明るい、幸せそうな笑い声だ。小さな手が宙をかき、濃姫へ伸ばされる。濃姫はその様子を、食い入るように見つめる。
「ありがとう」
濃姫はやがて、囁いた。常日頃、きつい光を放つ目が潤んでいた。ささが初めて見る、濃姫の涙だった。
「お久しゅうございます、お笹殿。このたびはご出産、まことにおめでとうございます」
「ありがとうございます、信忠さま。信雄さまも」
ささは応じ、二人を順繰りに見つめて微笑んだ。信忠は目を見張った。
(この
相変わらず少女のように華奢で、いくらか内気そうな色が残っているが、その表情は見違えるほどに輝き、落ち着いていた。肌にもひとみにもかつてはなかった艶がある。何より、ささは幸福そうだった。温かな微笑みを絶やさず、柔らかな声は鈴のように響き、その眼差しは何ものにも遮られることなく真っ直ぐにただ一人の人を追っていた。そのような目をした女性を、信忠は過去に一人だけ知っていた。
(母上を思い出す)
信忠は静かな微笑を浮かべた。不思議と、穏やかな気持ちだった。
だが信雄は、兄ほど気持ちの整理をつけられていないようだった。複雑な表情を浮かべている信雄に、ささが目をとめた。そして、花のようににこりと笑い、縁を抱いて立ち上がった。
「抱いてくだされませ、信雄さま」
「はっ?」
小さなおくるみを差し出され、信雄が反射的にのけぞった。だがささは構わず、信雄の手に我が子を半ば強引に押しつけた。
「抱いてくだされませ。あなたさまの、弟にございます」
「弟…?」
信雄が、はっとしたような顔になった。ささは大きく頷き、信雄の目を真っ直ぐ見つめてから信長の隣に戻った。
縁を抱く信雄の手はぎこちない。いかにもおそるおそるといった風情の弟を見かね、信忠は口を出した。
「信雄、もっと腕の力を抱いてみよ。右の腕も添えてやるのじゃ。ほれ、それでは縁が落ちてしまう」
一児の父である信忠は、我慢できなくなったのか口だけでなく手も出している。赤子を相手に、ああだこうだと苦戦している兄弟を見て、ささと信長が笑みを交わす。
かなり不安定な格好で揺らされながらも、周囲の温かな雰囲気を感じとったのか、縁はむずからなかった。首を傾げ、大きな黒目で無心に空を仰ぎ、くうくうと喉を鳴らした。ようやく赤子を己の腕の中に落ち着かせた信雄は、その様子をひどく不思議そうに眺めていた。
「この子が、私の新しい弟にございますか」
「ええ、そうですよ」
「私の弟は、お笹殿と父上の子なのですね」
「ええ」
「ではお笹殿は、私の義母ということになるのでしょうか」
率直すぎる問いかけに、信忠は思わずむせそうになった。が、信雄は大真面目である。
(信雄、そなた、お笹殿がそなたより二つ、私より三つ年下であることを、忘れてはおらぬだろうな…)
いくらささが大人びて美しくなったとはいえ、彼女を義母と思うにはかなり無理がある。信雄がささに心を開き始めている良い兆候ではあるのだろうが、それは勘弁してほしいと切実に思う信忠だった。
ささは、しかし、うろたえることなく優しい声で答えた。
「私でよいのでしたら、喜んで義母にならせて頂きますよ。縁が羨ましいのでしたら」
「違います!
途端に信雄が顔を赤く染めてそっぽを向いた。ささはくすくす笑っているが、急な大声に驚いたのか、縁が顔を歪めてむずかりだした。信雄がますます狼狽し、不器用に縁を揺するが、全くの裏目にでている。縁はとうとう悲しげな声で泣きだした。
急いで立とうとするささを制し、信長が信雄に歩み寄った。
反射的に身体を強張らせる信雄の腕から、縁を抱き上げる。するとそれだけで、縁はぴたりと泣きやんだ。
「相も変わらず、下手な男よの」
信雄を一瞥し、信長は言った。淡々とした声音だったが、そこに以前のような憤怒や冷淡さがないことに気づき、信忠はひそかに驚いた。ささの隣に再び座し、我が子をあやすその顔を見て、さらに驚愕する。
信長は、笑っていた。家臣や息子達に向ける尊大な笑みや、皮肉げな笑みではなく、心の内から自然に溢れたような柔らかい笑みだった。細めた目で縁を見下ろし、それからささを見る。湖面にともる光のように、ささも同じ眼差しで信長を見返した。
その時、信忠は悟ったのだった。ささにとって、信長が今や、どれほど大切な存在なのか。ささの内側から照り輝く美しさが、どこからもたらされたものだったのか。そして信長もまた、ささと縁をどれほど愛しく思い、心を癒されているのか――。
「縁は本当に、父上が好きなのですね。こんなに機嫌よく笑っていて」
ささが、信長に抱かれた縁の顔を覗き込んで笑った。見守る信忠の顔にも、知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。微笑まずにはいられない、それは温かな家族の光景だった。
「縁が大きくなったら、私が弓矢を教えましょう」
信忠は穏やかな声で言った。ささが顔を上げ、驚いた顔になった。それは信長も同じだ。だがすぐにささは微笑み、頷いた。
「ええ。その時はぜひ、お願い致します。信雄さまも、よろしければご一緒に」
そう言って、信雄も会話に引き込む。また子供のように突っぱねるかと思いきや、信雄は憮然とした表情のまま頭を上下に動かした。
「お教え致します。『下手な男』でよければ」
信忠は思わず噴き出した。ささも、楽しそうに声を上げて笑った。
そして縁は、母と父の笑顔を見上げ、無垢な大きな目を機嫌よくくりくりさせていた。
ささが安土となって二度目の春が訪れ、そして去って行こうとしていた。高い層にあるささの部屋に、風に乗ってきた小さな若葉や桜の名残の花びらが時折舞い込んだ。縁に乳をやっていたささは手を伸ばし、白い花びらをすくってそっと袂にしまった。縁が寝ついてから、お気に入りの
乳母がついているにもかかわらず、ささは縁をできるだけ自分の手で育てると言い張った。武家の
己の胸に無心に吸いつく我が子を見つめていると、ささの全身があたたかくなる。我が子に手ずから乳を飲ませる、これ以上の喜びはないと思った。
お腹が一杯になると、縁はすぐに眠ってしまった。縁を浅葱に預け、ささはひと息ついて身体を伸ばした。今日は風が強い。ひらり、ひらり、と花びらが再び窓から入ってきて、ささの膝に落ちる。それをまた手ですくい、草子に挟んでいるうちに、ささはふと去年の桜を思い出した。京の桜。盛りの花。天下人の、盛り。
(御馬揃えから、一年が経つのね。お市さまと
束の間ささの心は安土を離れ、京で出会ったあの誇り高い女性へと彷徨った。誰より美しく、誰より凛とした眼差しの姫君。その強さと美しさは、信長を思わせた。彼女がささに見せたのは、剥き出しの嫌悪とわずかな好奇心だけだったが、ささは市が好きだった。信長の妹だからというだけではない。市の頑なな強さの裏には、孤独や哀しみ、そして繊細な愛情が隠れているという気がしてならなかった。
(もう一度お会いしたら、あの方は認めてくださるかしら。私が信長さまのお子を産んだことを。私が今、とても幸せだということを…)
ささは花びらをそっと手で包みこみ、それから草子を閉じた。
縁が眠っている間、部屋はいつもとても静かだった。あまりの静かさに、舟を漕いでいる侍女もいる。ささは窓の下に座り、じっとしたまま、信長に贈られた貝を耳にあてていた。
その日、信長はささを訪れなかった。縁を抱いてあやすか、貝の音を聴いて一日をやり過ごしたささは、暗くなってからようやく腰を上げた時にはすっかり身体が冷えきってしまっていた。
いつもより時間をかけて夕餉を終える。長い髪を指で梳いて耳ばさみにする。そうして、縁の寝顔をしばし見つめてから、ささは床についた。
途端、言い知れぬ寂しさがささを襲った。
息が乱れ、冬の雪原に放り出されたように身体が震える。ささは両腕で己を抱きしめ、縁といる時は意識の外に追いやっていたその寂しさを、何とかやり過ごそうとする。けれど、苦しかった。たとえようもなく苦しくて、会いたいと願った。
(信長さまに、お会いしたい。声が聴きたい。触れてほしい…)
深く息を吸って吐いて、ささは涙を押し戻した。
(どうしてこんなに私は弱いんだろう。側室になって…私が安土だと、多くの人に認められて…子を授かったのに。私は縁を守る母なのに。信長さまのお傍にいないと、私は『笹』ですらいられない)
身を起こし、ささは枕元に置いていた小箱を開けて、白い貝を取り出した。ごつごつした手触りに、安心感を覚える。耳をあてると、寄せては引く波の音が微かに聴こえてきた。波と一緒に、思い出もささに打ち寄せた。貝を贈られた時の喜び。あの時、ささの内にも外にも溢れていた、光。触れあった手。そして、琵琶湖のほとりで初めて重なった唇の温もり。
耳と心を貝に澄ませながら、ささは再び身体を横たえた。まだ見たことのない海が、ささを包み込んでいた。果てしなく広く、奔放で、たゆたう波と風が遊ぶという海。それはまるで信長のようだと、ささは思う。
(ならばこの貝は、あの方の一部だ)
ささは静かに目を閉じた。そうしていると、波立つ心が徐々に鎮まってゆき、やがてささはとろとろと眠りに落ちていった。
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