記憶を踏みつけて愛に近づく ―出会い―

野森ちえこ

愛情の切れはし

 誰でもよかった。あたしも、きっと彼も。

 抱きしめあえる誰かを、探してた。



 ◆



 ――あんたを見てるとイライラする。


 はじめて母親にそういわれたのは、五歳か六歳か、たしかそれくらいだったと思う。


 母親だけじゃない。父親にも友だちにも。高校生のとき、はじめてできた彼氏にもいわれた。つきあって一週間もたたないうちに殴られるようになった。


 人より少し、行動が遅い。反応が鈍い。

 そこにいるだけで人をイラつかせてしまう。


 それが、あたしという人間だった。



 ◆



 相手に笑顔になってほしかったら、まずは自分が笑顔でいること。どこかでそんな話を聞いた。


 だから、笑顔でいようと思った。


 お母さんに笑ってほしかった。

 お父さんに笑ってほしかった。


 でも、ダメだった。あたしが笑えば笑うほど、お母さんは怒った。お父さんも怒った。


 わかってる。怒鳴られるのも、殴られるのも、痛いのも、苦しいのも。あたしがみんなをイライラさせてしまうから。ぜんぶあたしが悪いの、わかってる。


 だけど、わからない。どうすればいいのかわからない。


 みんなをイライラさせないですむのなら。

 みんなを不快にさせないですむのなら。

 なんだってするのに。その方法がわからない。

 ねぇ、あたしはどうすればいいの。


 なにをされても抵抗しない。逆らわない。それでも生意気だといわれたら、もうどうすればいいのかわからない。


 謝って謝って、もうなにを謝っているのかもわからないくらい、あたしの存在ごと謝って。どうして生きてるのかな。ねぇ。もうわからない。



 ◆



 最後にしよう。もうおわりにしよう。

 だけどそのまえに。一度でいい。

 愛情の切れはしでいい。

 少し、ほんの少しでいい。

 最後にふれてみたい。

 誰かのぬくもりに。

 誰かの笑顔に。

 ふれてみたい。

 そう、思った。



 ◆



 高校を卒業して数か月。夏がおわるころ、あたしは家を捨て、街を捨て、遠く離れた、誰も知らない土地にやってきた。


 人どおりのたえた、深夜のゴミ捨て場。血まみれの若い男が倒れていた。死んでるのかと思ってつついてみたらピクリと動いた。生きてた。


「ちょっと、ドジった」


 彼は赤黒く腫れあがった、化け物みたいな顔で笑った。


 そんな、出会いだった。


 誰でもよかった。

 あたしも。きっと彼も。


 抱きしめあえる誰かを探してた。

 

 記憶を踏みつけて。

 過去をねじふせて。


 最後に。あたしをおわらせるまえに。


 ただ少し。ほんの少し。愛情の破片にでもふれることができるのなら。


 誰でもよかった。



 ◆



 彼はあたしになにも聞かなかった。ケガがひどくてそれどころではなかったのかもしれない。因縁をつけられてケンカを買ったものの、思ったより相手が強かったらしい。


 あたしがいうのもなんだけど、この人、バカなのかな――というのが第一印象だった。


 彼に肩を貸してアパートまで送って、二日、三日……一週間くらいたってからだろうか。


「帰らないの?」


 やっと、彼の口からそんな質問が出たのは。


 帰る家がないといったら「そっかー」と、なんでもないようにうなずいてそれっきり。


 彼は健一けんいちといった。バーで働いているらしい。腫れの引いた顔は、さっぱりとした好青年に見えた。彼のことであたしが知っているのはそれだけ。あたしのことで彼が知っているのも、キミカという名前だけ。


 そのまま語らず聞かず、お互いのことなんてほとんどなにも知らないまま、すがるように抱きあった。


 知らなくても、わかることがある。


 あたしも彼も。踏みつけて、ねじふせたい過去があって、なにも聞かず、なにもいわず、ただ感じあって、抱きあえる誰かを探してた。


 もう十分だって思った。

 出会って一か月。


 彼はあたしを怒らなかった。

 怒鳴らなかった。殴らなかった。

 いっぱい、笑顔を見せてくれた。


 だけど、これ以上一緒にいたら、あたしはきっと彼をイライラさせてしまう。笑顔を消してしまう。そうなるまえに、このぬくもりだけを記憶に刻んで、おわりにしようと思った。



 ◆



 どうしようかな。痛いのはやだな。どうしよう。どうしよう。なんで、あたし、イヤだって思ってるのかな。


 おわりにしたいのに、したくない。


 なんで。なんで。なにがなんでなのかもわからない。怖い。怖い。死ぬのが怖い。怖くて怖くて、気がついたら彼と出会ったゴミ捨て場にいた。あの日とおなじ。路地裏の、人どおりがたえたゴミ捨て場。うずくまって、おでこを膝に押しつけて、いったいどれくらいそうしていたのか。足がしびれて感覚がなくなってきたころ。


「キミちゃん――!」


 切羽詰まったような声と同時に、横からガバっと抱きしめられた。シャツ越しにもわかるくらい彼の身体が熱くて、音が聞こえてきそうなほど、強くて早い鼓動が伝わってくる。


「……仕事は?」


 ああ、ほら。こんなときに、こんなことを聞いてしまうから、あたしはダメなのだ。そう思ったけれど、彼はフッと息をもらすように笑った。


「早退した。最近キミちゃんのようすおかしかったし、いくら電話しても出ないから。心配になって」

「……怒らないの?」

「怒ってるよ」

「怒ってるのに、抱きしめるの?」

「怒ってるから、だよ」


 怒ってるのに、殴らないで抱きしめるなんて。意味がわからない。


「黙っていなくなって、心配するだろ」


 ぎゅうぎゅうと、痛いくらいに抱きしめられる。


「……帰ろ?」


 彼はやっぱり、なにも聞かない。どこに行くつもりだったのか。なにをするつもりだったのか。


「足」

「うん?」

「……しびれて、立てない」


 彼はあたしを抱きしめたまま一瞬固まって、それからクツクツと笑いだした。首すじに息がかかってくすぐったい。


「じゃあ、背中乗って」

「え」

「おんぶ」

「やだよ。子どもじゃないし」

「なら抱っこして帰るけど」

「もっとやだよ!」

「じゃあほら、乗って」


 子どもじゃない――なんていったけど、ほんとうはおんぶなんて、記憶にあるかぎり一度もしてもらったことがない。抱っこもない。赤ちゃんのときは、さすがにあったのかな。どうなのかな。わからないけれど、もう、過去なんてどうでもいいや。


「おれ、キミちゃんのこと、もっといろいろ知りたい」


 結局、ほとんど問答無用でおぶわれて、彼の見た目より広い背中に揺られている。


「今まで、聞いたらどこか行っちゃいそうな気がして聞けなかったんだけどさ。なにも知らないままいなくなられたら、探しようがないんだよな」


 近づいて、いいのかな。


「……ケンちゃんて、呼んでいい?」

「もちろん。ていうか、うれしい。はじめて名前呼んでくれたな」


 怖かったから。名前を呼んだらそれだけ近くなるから。


「……ケンちゃんのことも、教えてくれる?」

「ああ。なんでも聞いて」


 近づいて、近づきすぎて、イライラさせてしまうのが怖い。イライラさせて、怒らせて、殴られるのが怖い。


「キミちゃん」

「……うん」

「お互いのこと、少しずつ、知っていこう」

「……うん」

「もう、黙っていなくならないって約束してくれるか」

「…………うん」


 ケンちゃんの背中にぎゅうっと抱きつく。もう少し。あと少し。近づいても大丈夫かな。



     (おわり)



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記憶を踏みつけて愛に近づく ―出会い― 野森ちえこ @nono_chie

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