春の雨

 むかし、むかし。

 これはまだ、猫が二本足で歩いていた頃のおはなし。


 西に大きな海を臨み、東に大きな山を背負う小さな村に、とら柄が自慢のトラ吉という雄猫がおりました。

 働き者のトラ吉は、額に汗してせっせと畑を耕す毎日をおくっております。

 冬の寒さも緩んで、お日様がぽかぽかと畑を暖める頃。土の中で眠っていた生き物たちを揺り起こす時分になって、畑仕事はますます捗るようになりました。

 そんなある日、トラ吉がお昼にしようと畦に腰かけると、隣の畑から仲良しのブチ助がやってまいります。

「なんだい、トラ吉どんもいまからお昼かい」

「そうさな。ブチ助どんもいかからお昼かい」

 二人は並んで、握り飯の包みをひらくことにしました。

 トラ吉が用意した握り飯の具は鮭の身で、半ばまで噛り付くと、何とも言えない塩味と旨味が広がります。

 うんうん、とおひげを揺らしておりますと、隣からブチ助が覗き込んで、

「トラ吉どんは鮭握りかい。確かに旨いが、おいらはおかかの握りが一番だなあ」

「そうかい? おいらは鮭がいっとうに好きだがなあ」

「そんなら、取り換えっこしてみるか」

 二人は握り飯を一個ずつ取り換えて噛り付いてみれば、

「おかかもいっとうに旨いなあ」

「だろう? だけど、鮭も負けちゃあいねぇ。一番に好きかもしらん」

 旨い旨い、としっぽを振り振り、顔を見合わせます。

 ぺろりと平らげた頃、ブチ助がおもむろに、知っているかいと切り出してまいりました。

「お山のなかほどに、広くなっているところがあるだろう」

「お猿のお岩から、もう少しばかし登った先の、一本桜のあるところかい」

「おお、その一本桜のあるとこよ」

 手に付いた米粒を舐めながら語るブチ助の言うことには、一本桜の近くは、晴れているのに雨が降るのだとか。

 にわかに信じられない話に、ブチ助は首を傾げます。

「わざわざ一本桜の場所だって言うってことは、狐の嫁入りとは違う話なんかい?」

「黒猫のじいさまが言うことには、あの辺りに狸はおっても狐はおらんから違うんだと」

 なで肩をすくめて語るブチ助自身も、まじめに信じているようではありません。

 けれども、大きな目は楽しそうに、春の陽に光っていて、

「なあ。畑もだいぶ順調だろう。明日でも見にいって見んか」

「確かに、最近は天気が良くて捗ったからなあ」

 ならそうしよう、と二人はお昼の最後に、空になった包みに移った米の香りを楽しみながら、顔を洗うのでした。


 あくる日、二人は一本桜を目指してお山を登っておりました。

 お空は雲一つない最高の模様で、風が少しばかり強かったのですが、山登りで汗を垂らす二人にはちょうどいい塩梅であります。

 雨に備えて、頭には笠を。

 お昼に備えて、腰には握り飯の包みをぶら下げて、えっちらおっちら、朝も早いというのに薄暗いにけもの道を進んでいきます。

 雪で倒れた大木を越えて、野ウサギの揺らす茂みの音に驚かされ、冬眠明けの熊が残した縄張りの印にしっぽを巻きながら。

 あと少しで一本桜、というところで、ブチ助が背を伸ばしながら、

「ああ腹が減ったなあ。なんどきなんだろうかなあ」

「木が多くて、お日様も見えんからなあ。なに、間もなく一本桜だ。そこでお昼にしようじゃないか」

「そうさなあ。おかか握りが楽しみだ」

「おいらも鮭握りが楽しみだ」

 二人はよだれを拭き拭き、道のりを急ぎます。

 それからしばらくして、トラ吉が陽のこぼれる藪を掻き分けると、一挙に青空が広がりました。

 着いた着いた、と広場に躍り出た二人のしっぽは、ピンと立ったまま右に左に揺れております。

 見れば、まるで木々がすっぽりとくり抜かれでもしたようで、下草が芝生のように茂るばかり。その真ん中に、立派な桜の木が一本だけ隆々とそびえておりました。

 見上げるばかりの桜に、二人の猫背はどこまでも反り返ってしまって、背筋がにゅっと伸び上がります。

「すごいなあ、ブチ助どん」

「そうだなあ、トラ吉どん」

 それはもう、咲き誇るきれいな枝ぶりに見入っていたのですが、はたと気が付くと、雨の気配なんかこれっぽっちもありませんでした。

 抜けるような青空で、海の方を見渡しても雲一つないのです。

「降らんなあ」

「ブチ助どん、黒猫のじいさまに担がれたんじゃなかろうか」

「どうだかなあ」

 けれども、待てど暮らせど、ぽつりとも来ません。

 お日様がてっぺんに辿り着く頃まで空を見上げていたブチ助でしたが、耳としっぽを垂らすと、腰の包みを外しました。

「担がれたかどうかはわからんが、腹が減って仕方がねぇ。昼飯を食いながら、もう少し待ってみんか」

「そうだなあ。降り始めちまったら、飯どころじゃなくなるだろうしなあ」

 そうしようそうしよう、二人は下生えに腰をおろすのでした。


 包みを開ければ、美味しそうな握り飯の並ぶ姿が。

 トラ吉は一つを手に取り、半分ほどを一息に齧れば、相も変わらない絶妙な味わいに、思わず喉を鳴らしてしまいます。

 隣を見ればおかか握りを頬張るブチ助も同じようで、二人は風に揺れる桜の花と口に入れた塩気を楽しんでおりました。

 竹筒から冷たいお茶を一口、含むと、トラ吉は首を傾げます。

「けどなあ、天気雨なら村でも時たまあるだろうに。じいさまはどうして、わざわざここを名指ししたんだろうかなあ」

「ただの天気雨じゃないなんだろうと、おいらも思ったんだがなあ」

 とはいえ、お日様も陰らず、ぽかぽか陽気が二人を暖めていては、ただの天気雨すら姿を見せてはくれません。

 どうしたものかと顔を洗っていると、不意に強い風が吹きつけてまいりました。

「あ、こりゃいかん」

 浜から吹き上げる春の突風に、握り飯が包みからこぼれそうになります。トラ吉は慌てて包みを抱え直し、間一髪と額の汗を拭うと、

「トラ吉どん、雨だ。雨が降ってきおった」

「ブチ助どん、何をバカ言いおるんだ。お空は真っ青のつやつやじゃあないか」

 それでも見ろ見ろと急かしてくるので、握り飯から目を離して見上げれば、確かに降り注ぐ雨に目を奪われたのでした。

 雨は、けれども薄紅色で、ひらひらと粉雪のように舞うもののだから、

「なるほど。桜の花びらが落ちてきとるのか」

「これだけ立派な枝ぶりだからなあ。一つ吹けば、確かにまるで雨のようだなあ」

 日が陰るほどの散る桜の花びらは、隙間から青空を覗かせ、薄い身は柔らかい陽を透かすから、それはもう美しく、二人は食い入るように見つめます。

 ため息ばかりのトラ吉でしたが、隣のブチ助が残念そうに、撫で肩をなおさら落としたのに気が付きました。

「どうした、ブチ助どん。こんなきれいな桜を見て、なにをがっかりしとる」

「その、きれいすぎるのがいけねぇや。竹筒に酒でも詰めてくりゃ、この上ない花見酒が楽しめたんだがなあ」

 ブチ助の言葉に、トラ吉はまさしく言うとおりだと大きく頷きます。

 と、抱えた包みに目を落とすと、中から一つを取り出して、さらに肩を低くしているブチ助に差し出しました。

「トラ吉どん。握り飯がどうしたんだい……ああ、なるほど」

 二人は下草に腰をおろし直すと、しばらく花見さけを楽しみましたとさ。


 めでたしめでたし

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トラ吉とブチ助 ごろん @go_long

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