初めましてをもう一度貴方と
琳
第1話 忘れ去られた記憶
―――
「……え…?」
突然鳴った携帯に何の心構えもなく出た私の耳に聞こえた、信じられない言葉。私は携帯を耳に当てた格好のまま固まった。
『もしもし?白本さん?聞こえてますか?』
「……は、はい。聞こえてます……」
電話の向こうから黄瀬さんの焦った声が飛び出してくる。何度か深呼吸を繰り返し、やっとの事で声を絞り出した。
『病院の場所を言いますから早く向かって下さい!我々も今から急行しますから。』
「わかりました……」
蚊の鳴くような声で返事をした後、ボーッとする頭に病院の場所を叩き込むと私は走り出した。
(赤江さん……!)
どのくらい走っただろうか。いつの間にか病院の前に立っていた。無我夢中で走ってきたから呼吸が追いつかない。私はしばらくその場に立ち止まって息を整えた。
「……よしっ!」
自分を鼓舞するように気合いを入れると、意を決して病院の中に足を一歩踏み入れた。
(赤江さん!どうか無事でいて!)
受付で教えてもらった赤江さんの病室を目指して病院内を走る。普通の病室だという事を聞いて緊急の状態ではないと思い、私の中の不安は少し晴れていた。
走ってきた勢いのまま病室に転がり込むと部屋の中にいた人達全員がこちらを向く。赤江さんはとベッドに目をやると、体を起こしている彼と目が合ってホッとした。
「あ、皆さん……私より早かったんですね。」
「えぇ……車を飛ばして来たので。」
窓際に固まっていた同僚達の内、電話をくれた黄瀬さんが口を開く。私が笑顔を向けると何故か全員から目を逸らされた。黄瀬さんも気まずそうに下を向き、それっきり黙ってしまった。
「あの……?」
そんな彼らの様子に戸惑った私は、ベッドの脇にいた医師の方を見た。
「赤江さん事故に遭ったって聞いたんですけど、大した事ないんですよね?こんなにぴんぴんしてますもん。軽傷で済んだんですよね?」
どこか普通じゃない部屋の雰囲気に、嫌な予感がする。私はその医師の白衣の袖を力一杯握りしめながら叫んだ。
「……うるせぇな…」
「え……?」
唐突に聞こえた声に私の動きは止まった。
「赤江さん!ほらやっぱり大丈夫なんじゃないですか。良かった!」
それは紛れもなく赤江さんの声で。変わらない低音。いつもの不遜な口調。私はホッと安堵のため息を漏らした。
頭に巻いてある包帯が痛々しかったが、私はしゃがみ込んで赤江さんの手を握った。
「もう驚かせないで下さいよ、赤江さん。」
「…………」
「……赤江さん?」
乱暴に手を振り払われた。呆然と赤江さんを見ると赤江さんも私をじーっと見つめている。
……否、その瞳は明らかに焦点が合っていなかった。
「え……?ちょっ…どうしちゃったんですか?赤江さん……?」
さっき感じた嫌な予感が再び頭の中を支配する。後ろにいる医師や皆の方を見る事が何故か出来なかった。
私は赤江さんのその澄んだ瞳に魅入れられたかのように、しばらく動けずにいた。
一瞬のようでそして永遠のようにも感じられた時間は、やがて終わりを迎える。
「……あんた、誰だ?」
これまで培ってきた大切なものを、道連れにしながら……
―――
私は白本百合子、26歳。警視庁捜査一課特別犯罪対策係所属の刑事である。刑事になってまだ二年目の新人だが、係長の赤江真警部補の元で日々奮闘している。
『特別』とついている通り、殺人事件専門の一課や知能犯担当の二課等では扱えない、または広域で起こる犯罪を担当する部署で、特に科学捜査やサイバー犯罪を得意とする所だ。
メンバーは私以外全員科捜研や研究所から集まった優秀な人材で、その分どこか変わっているという面々である。
そんな中に何故平凡な私が放り込まれたかは長くなるので割愛するが、紆余曲折を経て今ではここが私の居場所になった。そして恥ずかしい話だが実は私は上司である赤江さんと付き合っている。
だけど……赤江さんは私の事を、忘れてしまったというの?私ってそんなに簡単に忘れられる存在だったの?
ねぇ、嘘だと言ってよ……赤江さん……
―――
「……あれ?ここは…?」
「百合ちゃん!……はぁ~良かった。気がついた。」
「紫織さん……」
ふと気付けば、私は見知らぬ部屋のベッドで寝ていた。ぼんやりと天井を見つめていたらすぐ横で紫織さんの声が聞こえて、ゆっくりと顔を向けると困ったような顔の彼女と目が合った。
「あの、私……」
「急に倒れるんだもん、ビックリしたわよ……でもただの貧血だって。慣れない運動したからなんじゃない?」
「運動?……あっ!」
紫織さんの言葉でここが病院だという事と、走って来た事を思い出す。
そして赤江さんの事も……
「赤江さんは!?赤江さんは大丈夫なんですよね?どうせ記憶喪失なんて嘘で、私を騙したんでしょ?あ、わかった!青依さんですね?もう……子どもじゃないんですからこんなお遊びに付き合わせないで下さいよ。」
呆れた顔でそう言うと、彼女はその綺麗な白い顔に力ない笑みを浮かべた。
紫織さんもさっき名前の出た青依さんも私の同僚で特別犯罪対策係のメンバー。特に入ったばかりで何もわからなかった私に色々と教えてくれたのがこの紫織さん。
紫織さんは美人で頭もいい正に才色兼備な女性。元々は薬の開発が専門で、大手の製薬会社の研究所にいたのを刑事部長が直々にスカウトしてきたという異例の経歴を持っている。もちろん薬に詳しく、ドラッグによる犯罪が得意だ。
青依さんは遺留品から犯人を割り出すという特殊な才能を持っている凄い人。超能力とは違い、ちゃんと理詰めで推理してしかもそれが100パーセントの確率で的中するのだから、もはや超能力と言ってもいい程だ。
そして私よりも年上なのに子どもっぽい悪戯をよくしてくる。だから今回も彼女の悪戯だと思ったのだ。……いや、そう思いたかっただけなのかも知れない。
でも紫織さんの表情は、私の浅はかな考えを壊すには十分だった。
「……ホント、嘘だったら良かったのにね。」
「………」
顔を窓に向けながらそう呟く紫織さんの横顔を、私は呆然と見つめた。
「…本当に…?」
「えぇ。もちろん夢でもないわ。」
「そんな……」
残酷な事実にがっくりと肩を落とす。すると椅子から立ち上がった紫織さんの手が、私の目の前に差し出された。
「?」
「赤江さんの担当の先生から説明があるそうよ。立てる?」
私はしばらく彼女の細くて綺麗な手を見つめていたが、一度大きく深呼吸するとその手に自分の手をそっと重ねた。
「本当に大丈夫?」
「え?」
「赤江さんは自分の名前しか覚えていないわ。みんな忘れちゃったの。百合ちゃんの事も、あたし達の事も。」
「………」
「あたし達はもう腹を括った。百合ちゃん、貴女……覚悟はできてる?全てを受け止める覚悟が……」
ドアノブを掴んだ紫織さんの手が止まる。彼女の背中が私の返事を待っていた。
そっと瞳を閉じる。
赤江さんと初めて会った時からの事が、走馬灯になって次々と蘇る。そして昨日署の前で別れた時を最後に、映像はプツッと音を立てて終了した。
私はそっと瞳を開けると、紫織さんの背中に向かって言った。
「……はい。」
その声は思っていたより小さくて掠れていたけれど、彼女にはちゃんと聞こえていただろう。
だけど私には、扉を開ける音だけがやけに大きく聞こえた……
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