第4話 思い出せない体温


―――


 それから一週間経っても赤江さんは相変わらずだった。

 守口の行方もまだ掴めない。


 最初の頃は一生懸命に赤江さんの記憶を戻そうと躍起になっていたが、思い出そうとする度に苦しげな顔をする彼を見ていられなくて、無理矢理思い出させようとする事は止めた。


 今日はさりげなく世間話みたいな感覚でやってみようと思い、まずは一年前の守口による事件の事を話して聞かせたら思いがけず反応があった。


「守口…確か恋人の元カレにつきまとった上に、首を絞めて殺害。更にその恋人をも自宅で……」

 すらすらと語るその口元を呆然と見ていたら赤江さんがまた眉間に皺を寄せたので、私は慌てて付け足した。


「包丁で数ヶ所刺して殺害。」

「そう…そうだった。」

「赤江さん、思い出したんですか?」

「断片的にな。だが他の事は何も……」

「そうですか…」

 目を逸らした彼をしばらく見つめていたが、パンッといい音を立てて膝を叩いて殊更明るい声を出した。


「さて、今日のお昼は何食べますか?」

「何でもいい。」

「またそれですかぁ~?それ言われちゃうと困るんですけど。」

「あぁ、悪い。う~ん……」

 わざと言ったのに思いがけず真剣に悩まれて、私は思わず噴き出した。


「冗談ですよ。たまには何処かに食べに行きますか?この近くに美味しいパスタのお店があるんです。ほら、前に一緒に行ったじゃ……」

 振り向いた先にあった表情に言葉が途切れる。

 またやってしまったと頭を抱えた。


 気を抜くといつもこうだ。以前の彼に接していた自分が出てしまう。

 そしてその度に苦悩の表情になる赤江さんに、申し訳なく思うのだ。


「…ごめんなさい。」

「いや、謝るのは俺だ。いつまでも記憶が戻らなくて、白本に迷惑かけてすまん。」

「ごめんなさい……」

 ますますシュンとなった私の頭をポンッと優しく叩くと、赤江さんは部屋を出て行こうとした。


「赤江さん?」

「行くんだろ?その美味しいパスタの店。俺一人じゃ場所がわからない。」

「……はい!」


 顔を見なくても照れてるのが声でわかる。ニヤけそうになるのを何とか堪えながら、素早く身支度を整えると彼の後を追った。


 赤江さんが記憶を無くして私の事を忘れた事は心底悲しいけれど、以前の彼にはなかったこういう優しさや気遣いに触れる度、こんなのも悪くないなと思ってしまう。


 以前の彼が何も言ってくれなくても、私の事を想っていなかった訳じゃないのは十分わかっていたけど、やっぱり優しくされたい時もある訳で……


 今の赤江さんは前の彼と比べてずっとずっと優しくなった、と思う。これで記憶が戻ったら最高なのになぁ~と密かにため息をついた。



―――


「でね、その時赤江さんが私を助けてくれたんですよ。格好良かったですよ~。こいつが殺されれば俺はお前を殺す!なぁ~んて言って。」


 そのパスタの美味しいお店で当店オススメの明太子パスタを食べながら、私は赤江さんに今まで対策係が解決した事件の話を語って聞かせた。

 今のところ思い出す兆候はまだないけど、私自身懐かしみながら一つずつの出来事を噛みしめながら語った。


「白本。」

「はい?」

 語り終わって渇いた喉を水を飲んで潤していると、向かいに座ってじっと話を聞いていた赤江さんが私を呼んだ。

「俺と白本は……どんな関係なんだ?」

「………」

 いつか聞かれるだろうと予想していたが、油断していて一瞬反応が遅れた。私はそっと顔を上げて赤江さんを見る。彼は真剣な瞳でこちらを見つめていた。


「……上司と部下、ですよ。」

「………」

 探るような目付きに思わず目を逸らしたくなったが、私も強い視線で赤江さんを見た。


「……そうか。」

「さて、行きましょうか。あ、そうだ。夕御飯の買い物に付き合ってくれません?」

「……あぁ。」

 不穏な空気を何とか吹き飛ばそうと明るい声を出しながら立ち上がる。しばらく無言で私を睨んでいた赤江さんは、やがて諦めたように目を閉じると伝票を持って立ち上がった。


「何食べたいですか?パスタ食べた後で聞くのもあれなんですけど。あ!何でもいいは禁止ですからね。」

「……着くまで考えとく。」

「ふふ…」

 店から出た私たちは、そのまま家とは反対方向のスーパーへと足を向けた。


「赤江さん?」

「ん?」

「もし…もしですよ?私が赤江さんの事……」

「………」

「ううん、何でもないです。すみません…」

「………」

 何か言いたげな視線を感じたけれど、恐くて下を向く。顔を見たら言っちゃいけない言葉を言ってしまいそうな気がしたから……


「……いい天気ですね。」

「あぁ…」

 そんな事しか言えない自分が酷く情けなくなった。



 季節は冬。


 私は顔を上げて空を見上げる。最近めっきり寒くなった風を感じながら、そっと目を閉じた……



―――


 私はどう答えれば良かったのだろう。


 私達は愛し合っていたのだと今の彼に伝えたら、彼はどんな反応をしただろうか。まず間違いなく動揺するだろう。


 早く記憶を取り戻して欲しいと思う反面、今の彼との関係を壊すかも知れない事は言いたくなかった。


 ……そう、私は卑怯者だ。


 以前の彼との思い出も今の彼とのこんな心地よい関係も、どちらも大切なのだから……


 早く思い出して欲しい、まだ思い出さないで欲しい。

 私はそんな汚い想いで溢れ返っているぬるま湯に、いつまでも浸かっていたかった。


「……好きです、赤江さん。愛してますよ…」

 前を歩く後ろ姿に呟く。それは思ったよりか細くて、発してすぐに澄んだ空気に吸い込まれていった。

 すぐ目の前にある彼の右手に手を伸ばそうとするが、あとちょっとの所で手を引っ込める。自分で自分の左手をそっと包んだ。


「赤江さん…私はただの部下じゃありません。私は貴方の……」


 目を瞑って赤江さんの体温を思いだそうとする。だけど何故か思い出せなかった……



 大事なものって一体何だろう?

 その人と過ごした幸せだった時の記憶?

 それとも今、目の前にある世界?


 思い出の中の二人はいつも白黒の静止画のように味気ない。だけどいつまで経っても色褪せない姿で、そこにいてくれるのだ。


 どんなに手を伸ばしても届かない。

 触れても暖かい体温なんて感じられない。

 だけどどうしてこんなに焦がれるのか、どこを探しても答えは見つからないんだ。けど今の私は、今この瞬間を生きている。


 色褪せないあの時と、キラキラに輝いているだろうその時の狭間で。



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