第3話 地獄のような日々
―――
「赤江さん……」
私は赤江さんの病室をノックして静かに中に入った。そしてベッドの上に起き上がっていた彼を見つめる。
「さっきの…あんたか。」
「えぇ。さっきはすみませんでした。急に倒れたりして。ビックリしたでしょう?」
「いや。」
すっと目を逸らして窓を見る赤江さんを、私はじっと見つめた。
しばらくそうしていたが一つ深呼吸すると、意を決して口を開いた。
「初めまして、赤江さん。白本百合子といいます。……もう一度私と……」
喉がからからに渇いている。
だけど私は掠れそうになる声を振り絞った。
「私の事、もう一度知って下さい。貴方の部下として。」
「………」
「貴方が何をしてきたのか、何を私たちに残してくれたのか、私が貴方に全部教えますから。だから……上司と部下として、これからよろしくお願いします。」
ゆっくりと振り向いた赤江さんの顔が見れなくて、私はそっと瞳を閉じた……
―――
「どうぞ。」
「………」
私が開けたドアの中に、赤江さんは恐る恐るといった感じで入っていく。その姿に思わず吹き出した。
「…何だ。」
「い、いえ。」
鋭い目で睨まれて、慌ててキッチンに逃げた。
「赤江さん、コーヒーでいいですか?」
「あぁ。悪いな。」
「……いえ。」
いつもの彼だったら言わないような言葉に、一瞬手が止まる。そしてそっと息を吐き出した。
「……そっか…赤江さん、記憶ないんだった…」
小さく呟いた声は、今度は彼には届かなかった……
赤江さんが駅の階段から突き落とされて怪我をしたのが一週間前。目撃情報通り、刑務所を脱走した守口によるものだった。
命に別状はなく幸い頭の怪我も大したことはなかったが、赤江さんは自分の名前以外何も覚えていなかった。いわゆる記憶喪失というやつである。
逃げた守口に関しては菊池さん達に任せてるし、対策係も事件から三日後には活動を再開した。全員赤江さんの事を心配していて、しぶしぶではあったが。
上層部も赤江さんは絶対に戻ってくるという信念の下、対策係の係長の椅子を空けて待っていてくれるという。
そして私はといえば、赤江さんの相棒という事で、彼が記憶を取り戻すまでの身の回りの世話を担当する事になった。
最初はいくら付き合っていたと言っても結婚前の男女が一緒に暮らす事に抵抗を示すベテランもいたが、そこは菊池さんが説得してくれた。
私はちらっとリビングのソファーに座ってボーッとしている赤江さんを見る。そしてまた自分の手元に視線を移すと、ため息を吐いた。
はっきり言って今回の任務は、私にとっては地獄のようだった。
だって自分の事を何も覚えていない相手と、四六時中一緒にいなくてはいけないのだから。
しかもその相手が、付き合っていた恋人なのだから……
「はい、どうぞ。」
「あぁ、ありがとう。」
「………」
まただ、彼らしくないセリフ。隣に座るのが何故か気まずくなってしまって、私は対面の一人がけ用のソファーにゆっくりと座った。
気付かれないようにまた彼の顔を窺う。また洩れそうになったため息を飲み込むようにコーヒーを一口飲んだ。
彼は彼であって、彼じゃない。
何度この言葉が脳裡をよぎっただろうか。
姿形は赤江さんであるのに、中身はすっかり彼じゃなくなった。
赤江真という人間は冷徹で、特に犯罪者に対する態度などこちらが息を飲むくらい冷たい。仕事となると妥協は許さないし、少しでも気を抜けば怒鳴られる。
それは私に対しても同じで、時々本当に付き合っているのだろうかと不安になる程だ。
でもそれが警視庁きっての天才、赤江真だ。でも余りにも常人離れしている為どこか危なっかしくて、少しの力でも壊れてしまいそうで私はいつも目が離せないのだ。
だけど今の彼はそんな以前の姿がどこかに行ってしまった。
何度会っても何度言葉を交わしても、まるで知らない人を相手にしているようなもどかしい感覚。
怪我をしたのだって記憶喪失になったのだって赤江さんのせいじゃないのに、『何で?』『どうして?』と問いつめてしまいそうになるのをいつもぐっと堪えている。
私はまた出そうになったマイナス思考のため息を、もう一度黒くて苦い液体で流し込んだ。
「白本。」
「は、はい!」
突然の声にソファーの上で飛び上がる。そっと声のした方を見ると、赤江さんの訝しげな目と目が合って心臓がドキンと跳ねた。
「何ですか?」
「本当に良かったのか?」
「え、何がです?」
「俺の世話をしてる暇があるのか、って事だ。」
やっぱり彼らしくない。
心の中で密かに笑っていたのが顔に出ていたようだ。窺うように見ていた赤江さんの顔が、みるみるうちに不機嫌になった。
「笑うな。」
「い、いえ…笑ってませんよ?」
「ふんっ……」
子どもみたいに顔を逸らす赤江さんを横目で見る。こういう所は変わってないなと思いながら、私はしばらく笑った。
ひとしきり笑った後、私はふと自分の部屋を見渡した。
今日一週間の入院が終わって、赤江さんは無事に退院した。そしてそのまま真っ直ぐにここに来たのだ。
着替えや細々としたものは明日赤江さんの家に取りに行く事になっている。もしかしたら家に行ったら何か思い出すかも知れないと、私は密かに期待していた。
赤江さんは最初は一人でも大丈夫だと、自分の家で生活できると主張していたが、それでは危険だという事を言い聞かせて、ようやく私の家で二人で生活する事を受け入れてくれた。守口がいつまた狙ってくるかわからないからだ。
前の彼は許可もなく勝手にこの部屋に入ってきて、何日も入り浸っていたのにな……なんて思い出しては一人寂しくなった。
そして最後にはあの日――記憶喪失になった赤江さんに対して言った自分の言葉に思考が飛んだ。
『私の事、もう一度知って下さい。貴方の上司として。』
『貴方が何をしてきたのか、何を私たちに残してくれたのか、私が貴方に全部教えますから……。』
そこまで回想した所で、私はそっと目を開けた。
あの時は確かにそう思っていた。彼が記憶を取り戻す為なら何でもしたいと思ったのも嘘じゃない。
だけど今の赤江さんと一緒にいる事がこんなにも辛いとは思わなかった。そして人間って悲しい時や辛い時ほど笑って誤魔化してしまう生き物なんだと実感した。
「あ、そうだ!赤江さん、お風呂入って下さい。もう沸かしてあるので。」
さっきからソファーにじっと座ってこんなとりとめもない事を考えていたが、ふと思いついて赤江さんを見る。
赤江さんも物思いにふけっていた様子だったが、私の声に反応して顔を上げた。テーブルのカップを見ると、二人のコーヒーはもう既になかった。
「先に白本が入ればいい。俺は別に後でも構わないが。」
「いえいえ、赤江さんお先にどーぞ。私カップ洗わないといけないので。」
どっちが先にお風呂入るか、なんてくだらない口喧嘩してた数ヵ月前が懐かしい。溢れそうになった涙を誤魔化すようにコーヒーカップを両手に持つと、くるりと踵を返した。
「……じゃあ。」
赤江さんは一言そう言うと、病院から持ってきたカバンの中から着替えを取り出してすたすたとお風呂場へと入っていった。そんな彼の姿を見送った私は気を取り直すように肩を上下させると、カップを持ってキッチンに向かった。
「赤江さん…早く私を……」
『思い出してください』
その一言が続かない。
思いっきり蛇口を捻ると、水が跳ねるのも構わず一心不乱にカップを洗った……
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