あやかし斬り

由希

あやかし斬り

 細い三日月に照らされた川沿いの夜道を、行灯を持った一人の男が歩いていた。

 男はすっかり出来上がっているらしく、足取りはふらふらと覚束無い。上機嫌に出鱈目な旋律を奏でる鼻は、薄闇でも解るほど酔いに赤く染まっていた。

 やがて男が、橋の袂を通りかかる。と、その足がぴたりと止まった。


「あー……ん? 誰だ、こんな所で」


 男の目に止まったのは、河原に仰向けに倒れている一人の男だった。暗がりの中に見える、腰に差された刀がその男が武士階級である事を伝える。


「おーい、お侍さん、そんなとこで寝てたら風邪ぇ引いちまうぞ」


 そう声をかけながら、男は武士に近付く。切り捨て御免の横行する時代、下手に武士に関われば少しの不興で斬られかねない世の中ではあったが、この時は酔いで男にそこまでの考えが巡る事はなかった。


「お侍さん? お侍さん……おーい」


 武士は男の呼び掛けに、何の反応も返さない。これはよっぽど深く酔って、すっかり寝入ってしまったのだろうと自分の事を棚に上げ、男が思った時だった。

 男は気付いた。武士の倒れている地面、それが広い範囲で黒ずんでいる。

 少しだけ酔いの覚めた男が、自分の足元を見る。大きめの砂利が敷き詰められた地面は、乾いた灰色を見せていた。


「……お侍さん?」


 呟いて、男は大きく息を飲む。それでも足は止まらず、今も倒れたままの武士に近付いていく。

 そして――男の視界にそれ・・が入った。


「っ!? ひっ、ひいっ……ひいいいいっ!!」


 悲鳴を上げ、腰を抜かして後ずさる男。その目には、何かに大きく食いちぎられ、肉とはらわたを剥き出しにした武士の腹が映っていた。



「これで三件目……か」


 早朝の河原、茣蓙ござのかけられた仏を前に、北町奉行所同心、安田やすだ清四郎せいしろうは苦々しげに呟いた。

 清四郎は一年前に父である半三郎はんざぶろうから役目を受け継いだばかりの若き同心である。その彼にとって、この件は初めて直面する大事件であった。

 事の起こりは一週間前。同じ河原で、やはり腹を食いちぎられた町人の男の死体が見つかった事に端を発する。

 当初は野犬の仕業という意見が多数で、恐らくは酒の飲み過ぎで眠ってしまったところを襲われたのだろうと思われていた。しかしその見解は、四日後に再び同じ河原で見つかった、同じく腹を食いちぎられた町人の男の死体により揺らぐ事となる。

 本当にこれはただの野犬の仕業なのか。それとも何者かによる殺人なのか……奉行所がその判断を決めかねているところに、今回の更なる死体発見が起こったという訳だ。

 ましてや今回の犠牲者は武士階級。武士が被害に遭ったとあっては、奉行所としても本腰を入れない訳にはいかない。


「清四郎、仏のご家族が到着したぞ」

「松本さん」


 不意に声をかけられ清四郎が振り向くと、そこには中年の同心と、それに縋るようにして立ち不安げに辺りを見回す妙齢の女がいた。それを確認すると、清四郎は茣蓙に近付いていく。

 そして清四郎が茣蓙を捲り、仏のその苦悶に歪んだ死に顔を見せた瞬間――女がひっ、と引きつったような悲鳴を上げ、腰を抜かした。


「……ご主人で、間違いないですか」


 その様子を心苦しく思いながらも、清四郎は努めて冷静に問い掛けた。女は大分狼狽えていたようだが、辛抱強く待つと、やがてはい、と小さく呟き頷いた。


「あなた……何で……何でこんな」


 次第に感情が現実に追い付いてきたのか、女の目に涙が溜まっていく。その背を中年の同心が優しく擦り、清四郎はそれ以上は仏の姿を彼女に見せないよう茣蓙を元に戻した。

 実際、死に顔だけは面通しの為に仕方なく見せたものの、その全容は女にとても見せられるものではなかった。食いちぎられていたのは腹だけではない。喉もまた、骨が見えるほど大きく食いちぎられていた。

 その無惨な姿は、これで同じ状況の死体を三度見る事になる清四郎が見ても思わず肝が冷えるほどであった。

 やがて河原に集まった野次馬を掻き分け、遺体を運ぶ為の荷車が到着する。それを見て遂に大きな声を上げて泣き出した女を横目に、清四郎はこの一連の事件について考えを巡らせた。

 これまでの被害者に、共通点らしき共通点は見当たらない。町人が二人、武士が一人。強いて言うなれば、三人とも男である事ぐらいか。

 犯人は男だけを狙っているのか。それともただの偶然なのか。そもそも犯人など本当にいるのか。もし人の肉の味を覚えた凶暴な野犬の仕業だったら……。

 考えれば考えるほど、泥沼に沈み込む思考に清四郎は気付いていた。それでも考えるのを止められない。これ以上、哀れな犠牲者を出す訳にはいかない。


「旦那、それじゃあ出やすぜ」


 そんな思考に没頭する清四郎を我に返らせたのは、奉行所仕えの下人の声だった。清四郎は軽く頭を振り、それ以上の思考を払うと下人に頷き返した。


「ああ、頼……」


 続けて言いかけたその瞬間。一人の人物が、清四郎の目に止まった。

 それは橋の上にたむろする野次馬の中の一人。他の野次馬よりも随分と背の低いその姿は、一目で子供であると見てとれた。

 しかし、清四郎が気になったのはそこではない。子供の、顔が問題だった。

 子供の顔は、縁日に売られているような狐の面にすっぽりと覆われていた。その端から僅かに短いざんばら髪が見えるだけで、それ以外に子供の顔形が解る要素はない。

 子供は他の野次馬のように、騒ぐ様子も怯える様子もどちらもなくただじっとこちらを見つめていた。それが酷く不吉なものであるように、清四郎の目には映った。


「清四郎。どうかしたのか?」


 その異様な風体から目が離せずにいる清四郎に、中年の同心が声をかける。清四郎はハッと気を取り直すと、中年の同心の方を振り返った。


「いえ、橋の上に妙な子供が……」

「子供? どこにだ?」


 言われて、清四郎がもう一度橋の方を見る。するとあの子供の姿は、影も形もなくなっていた。


「……何でも、ありません」

「そうか。あまり気負い過ぎるなよ。捜査はお前一人でやる訳ではないんだからな」

「はい……」


 自分を気遣う言葉に思わず顔を赤くしながら、清四郎は今見たものを思う。あれは見間違いだったのか。それとも妖怪変化の類だとでも言うのか。

 妖怪――浮かんだ言葉に、清四郎は思わず苦笑する。田舎ならばいざ知らず、この江戸に妖怪などがいる筈もない。

 気持ちを切り替えよう。今はこの事件を解決するのが先だ。

 そう己に言い聞かせ、清四郎は荷車に乗せられ運ばれていく仏を見つめた。



 清四郎が奉行所に戻って後、町方の同心を集めての会議となったが内容は先の死体発見の時と同じく、明確な捜査方針の出ないものであった。

 何しろ今回のような事態は一番若い清四郎だけではなく、奉行所の誰もが経験した事がなかった。どうすればいいかを決めかねるというのも、無理のない事だったのかもしれない。

 そして結局、仏の周辺への聞き込みを行うと同時に遺体発見現場の深夜の見回りを行うという事だけが決まり、会議は終結したのであった。



彦六ひころく、お前はこの件をどう見る」


 会議の後、父の代から安田家に仕える古株の目明かし、彦六のいる詰所を訪れた清四郎は開口一番にそう切り出した。


「どう、と申しますと」

「何者の仕業だと思う。人か、獣か」


 清四郎の、疲弊はしているが真摯な目が彦六を見つめる。彦六は暫く考えるように顎を擦ると、やがてぽつりと呟いた。


「……町では、狐の仕業だ、なんて言われてますね」

「狐? 馬鹿な、山ならいざ知らず」

「そっちの狐じゃあありませんよ。狐ってのは……あやかしの事でさ」


 言いながら、彦六が肩を竦める。その言葉に、清四郎の眉間に皺が寄った。


「そんな噂が流れているのか。馬鹿な事。そのようなあやかしの類など、この江戸にいる筈がない」

「若旦那が、そういうのを信じない質なのは知ってますがね。まぁ最後まで聞いて下さいよ。実は、仏が見つかったあの河原で妙なものを見たって町人がいるんでさ」

「妙なもの?」

「それが、狐の顔をした子供だって言うんですよ」


 狐の顔をした子供。清四郎の脳裏に今朝河原で見た、狐の面を付けたあの奇妙な子供の姿が蘇った。見間違いかとあの時は無理矢理自分を納得させたが、もしあれが見間違いではなかったとしたら。


「それで狐……か?」

「へえ。それも、見たのは一人や二人じゃないようで」

「何人もいるというのか」

「それで、狐の祟りだってんで、今お稲荷さんに拝みにいく人が増えているようですよ」

「……………………」


 清四郎は考える。狐のあやかし、そんなものは自分は信じない。だが、一連の事件を狐の仕業に仕立て上げようとする誰かが存在するとしたら。

 この事件は、やはり人為的なものなのではないか。そんな予感が清四郎にはした。

 しかし、だとしても疑問は残る。これまでの検死に当たった医者の話では肉を食いちぎられたのはまだ生きている間の事で、それ以外に目立った外傷はなかったという。

 生きている人間の肉を食いちぎる。果たしてまともな人間に、そのような芸当が可能なのか。


「……とりあえずは、聞き込みに行くしかないか。彦六、お前も……」

「清四郎様、こちらにおられたのですね」


 清四郎が、腰を上げようとしたその時だ。戸口の方から、そんな清涼感を感じさせる声が響いた。

 二人の目が戸口に向けられる。すると、藍色の着物に身を包み、愛らしい顔立ちをした小柄な女性がそこに佇んでいた。


「お千代ちよ殿。どうしたのですか?」

「父から聞きました。今宵は夜回りの任に就くのでしょう?」

「ああ、その事ですか。ええ、一刻も早く江戸の民を安心させなければなりませんから」


 親しげに、しかしどこかぎこちなく会話を交わす二人。そんな二人を、彦六が微笑ましげに見つめる。

 彼女は松本まつもと千代といい、今朝河原にもいた清四郎の同僚、松本伝八でんぱちの娘である。清四郎とは家族絡みで昔から交流があり、いわゆる幼馴染みの間柄に当たる。

 子供の頃は気兼ねなく遊んでいた二人だったが、成長し、大人になると互いに相応の付き合いをせねばならないと思うようになり、自然と今の距離が出来上がった。

 とはいえ、清四郎も千代も互いを嫌っている訳ではない。寧ろ只の幼馴染み以上の感情を持っているが故に幼馴染みとしてはどこかぎこちない接し方になってしまっている事は、双方の両親や彦六を始めとした周知の事実であった。

 尤も、当の本人達はといえば、相手の気持ちどころか自分の気持ちにすら気付いているかは怪しいのだが。


「では、これをお持ち下さい」


 千代が、懐から何かを取り出す。清四郎が視線を向けると、それは小さな古い御守りであった。

 それを見て、清四郎は目を見張る。清四郎には、それに見覚えがあった。


「これは、お千代殿が大事にしているものでは?」

「はい。今は亡きお祖母様から頂いたあの御守りです」

「いいのですか?」

「事件解決の後に、しっかりと返して頂けるのであれば」


 戸惑う清四郎に、千代が小さく微笑み返す。基本的に祈祷や御守りといったものには懐疑的な清四郎であったが、そこに籠められた想いを無下にするほど頑なな訳でもなかった。


「……ありがとうございます。お借りします」

「お勤め、頑張って下さいね」

「はい。奉行所の誇りにかけて、必ずや、事件を解決してみせましょう」


 御守りを受け取り、清四郎は力強く笑みを浮かべた。心からの笑みだった。

 自分を気遣ってくれる千代の為にも、必ず江戸に平和を取り戻す。清四郎の心に、活力が沸き上がった。


「……早く、祝言でも上げちまえばいいと思うんですがねぇ」


 そのやり取りを黙って見つめていた彦六のそんな呟きが、二人の耳に届く事はなかった。



 曇天の湿った空気が、露出した顔や手にじめっとまとわりつく。嫌な天気だ、と清四郎は思った。

 陽がまだ高いうちは晴れていた空だったが、夕暮れ近くになるとみるみる雲が増えていき、今では月どころか星一つ見えなくなってしまった。


「……しかし」


 行灯の灯りを頼りに河原を歩きながら、清四郎は昼の聞き込みの内容を考える。死んだ三人にさしたる接点は結局見出だせなかったが、たった一つ、気になる共通点が浮かび上がった。

 それは、三人が共に女好きであるという点であった。


「犯人は女か。それとも美人局のように女を使って男をおびき寄せたか……」


 現場に現れた狐の面の子供を犯人の差し金とするならば、複数人による犯行という説は悪くない線だと清四郎は思った。だが、それでも解らない事はある。

 動機は勿論だが、一番解らないのは食い殺すという殺害方法を用いた理由である。ただ殺すならば、他にいくらでも方法はあるというのに。


「お侍さん」


 その時、不意に聞こえた女の声に清四郎は立ち止まった。低めの、少し年のいった声だ。

行灯を掲げ、声の主を探す。すると橋の下に隠れるようにして、茣蓙を持った女が佇んでいた。

 ――夜鷹。真っ先に清四郎はそう思った。夜鷹とは、年齢などを理由に遊廓にいられなくなった云わば非正規の娼婦である。清四郎は女遊びはしなかったが、知識としてはそのような者がいる事は知っていた。

 女は清四郎の方を向きながら、妖しく手招きをしている。普段ならば夜鷹などは相手にしない清四郎だったが今は少しでも情報が欲しかった。

 あの夜鷹がこの辺りを根城にしているならば、何か事件について知っているかもしれない。そう思い、清四郎の足は橋の下へと向けられた。


「ふふ、こんばんは」


 清四郎が近付くと、女は口元に小さな笑みを浮かべる。目元は、深く被った手拭いと辺りの暗さのせいで解らない。


「そなたは、この辺りを根城にしているのか?」

「ええ」

「なれば、聞きたい事があるのだが……」


 口に出しかけたその時、ふと河原に夜風が吹いた。それは女の方から、清四郎の方へと抜けていく。

 だが、その気紛れな夜風は――ある重大な事を、清四郎に伝えた。


「……貴様」


 清四郎の手が、自然と腰の刀に伸びる。掌に、急激に汗が溜まっていくのを清四郎は感じた。

 気付いたものは、今朝方味わったばかりのもの。決して良い気分はせず、だが、それゆえになかなか忘れられない。

 それは……。


「何故、貴様の体から――死臭がする?」


 そう清四郎が問い掛けた瞬間、女の口がにたり、と不気味に歪んだ。


「――運のない男よ。気付いたところで、苦しむ時間が延びるだけと言うに」


 嘲るように笑いながら、女が一つ歩を進める。清四郎は行灯を手放し、素早く刀を抜き放った。


「貴様が……やったのか」

「ふふ、なればどうする。我を斬るか?」

「何故、このような真似をする!」


 清四郎の叫びに、女はまた一歩歩を進めた。刀を握る清四郎の手に、自然と力が籠る。


魍魎もうりょう……というものを知っているか?」

「魍魎だと?」

「水辺に住み、死肉を喰らう。我はそういう存在よ」


 その話は、清四郎も昔聞いた事があった。幼い頃は信じて水辺に近付けなくなった事もあったが、元服する頃には、江戸にそのようなものは存在しないという考えに変わっていた。

 また一歩、女が清四郎に近付く。そこで清四郎は気付いた。女の言葉が、真実であるという証拠に。


 手拭いの下から覗いた女の目。それは、この暗闇においても、爛々と金色に輝いていた。


「……だとしても、何故生者を狙う」


 自分の前に立つ事などないと思っていた人外の存在、それが目の前にいる現実に微かな恐怖を覚えながら清四郎はなおも問い掛ける。逃げたいという思いはあった。だが同心としての責任感と、三人もの人間を殺した犯人が相手であるという正義感が清四郎をその場に引き止めた。


「気付いたのよ」

「気付いた?」

「我は死肉を喰らう定めを義務付けられていた。だが……」


 一旦女、いや魍魎の動きが止まる。地面に落ちた行灯に、いつの間にか鉤爪のように奇妙に変化した魍魎の腕が微かに照らし出された。

 時が、一瞬止まったように辺りが静まり返る。そして。


「死肉よりも生者の肉を喰らった方が……何倍も美味い事になぁ!!」


 魍魎の足が、地面の砂利を蹴った。その音に清四郎が反応した時には、魍魎は既に清四郎の目前で腕を振りかざしていた。


「くっ!」


 それを見た清四郎は、咄嗟に中段受けの構えを取る。響く鋭い金属音。清四郎の刀と、魍魎の爪が激突したのだ。

 その強い衝撃に、清四郎は驚愕する。清四郎の師事する道場には何人か力自慢もいたが、その誰よりも魍魎の力は強かった。

 魍魎が、今度はもう片方の腕を下から突き上げてくる。清四郎は辛うじてこれに反応し下段受けの姿勢に移ろうとしたが、先の衝撃は清四郎の刀を握る力を僅かながらに削いでいた。


「!!」


 ぎぃんと、一層高い金属音が響いた。次の瞬間には刀は清四郎の手を離れ、くるくると宙を舞っていた。

 にやりと、魍魎の金色の目が弧を描く。そして、身を守る術を失った清四郎に再び腕が振り上げられる。

 ――死ぬのか。清四郎がそう覚悟した、その時だった。


「伏せろ!」


 突然、そんな空気を切り裂くような鋭い声が響いた。同時に、どこからか下駄の音が聞こえ始める。


「!!」


 それを聞いた魍魎の顔が、微かに強張る。その様子に僅かながら気力を取り戻した清四郎は、声の言うままに深く身を落とす。


「ギャアアアアアアアアッ!!」


 直後に響く、大きな悲鳴。清四郎が顔を上げると、魍魎の右肩に深々と刀が突き刺さっていた。


「これは……私の」


 それが先程弾き飛ばされたばかりの自分の刀だと清四郎が気が付くと同時、背後から現れた小さな影が魍魎に逆袈裟に斬りかかった。まさに一閃、と言うべき、素早く鋭い一撃。それは魍魎の体を、大きく斜めに切り裂いた。


「おのれぇ、あやかし斬りめ……おのれええええええええっ!!」


 苦悶と怨嗟に満ちた形相で、魍魎が叫ぶ。その傷口からは血ではなく白い煙が立ち上ぼり、魍魎の体を覆っていく。

 間もなく、魍魎はその煙に包まれるようにしてその場から消えてしまった。後に残ったのは消えた魍魎から落ちた清四郎の刀、そして――。


「……お前は……」


 傍らに立つその小さな影を、清四郎は見る。いつの間にか空に覗いていた月の光を受け、妖しい輝きを放つ刀を持った短いざんばら髪の子供。その顔には、大きな狐の面が付けられていた。


「怪我はないようだね」


 清四郎を振り返り、子供が言う。その声は低く作られてはいたが、まだ変声期前の少年のものであるように清四郎には聞こえた。


「お前は何者だ。ずっと、この辺りをうろついていただろう」

「ああ、礼はいらないよ。僕は僕の勤めを果たしただけだからね」

「質問に答えろ!」


 わざと自分の問いを受け流す――少なくとも、清四郎はそう感じた――子供に、清四郎が声を荒げる。

 大人げないとは思わなかった。自分がまるで歯が立たなかったあやかしを、一刀の元に斬り伏せたその力。ただの子供でない事は、既に明白だった。

 暫しの沈黙。それを先に破ったのは、子供の溜息だった。


「……やれやれ。怪しいものは捨て置けないか。同心というものは実に面倒臭いお役目だね。だがそれは僕も同じか」

「どういう意味だ?」

「僕は、言うなればあやかしの世界の同心だ」

「あやかしの……世界?」


 耳慣れない言葉に、清四郎の目が丸くなる。そんな清四郎を面越しに見ながら、子供が続けた。


「君達人間と同じように、あやかしにも社会がある。そして、そこには一つの掟があるんだ」

「それは?」

「生きている人間には手を出さない。人間に危害を加えれば、いずれあやかしが滅ぼされるから」

「……どういう意味だ」

「この江戸の世がいい証拠だ。人が町を作る為、幾千幾万ものあやかしが住処を追われ、或いは殺され、ひっそりと生きるしかなくなった。今僕が斬った魍魎も、そんなあやかしの一人だった」


 淡々とそう語る子供の表情は、狐の面に遮られて読み取る事が出来ない。しかし清四郎は、まるで今自分が責められているような錯覚に陥った。


「けれど、そんなひっそりと生きるばかりの生活が嫌で嫌で仕方ないものもいる。人の近くで暮らすうち、毒され狂ってしまうものもいる。そんな、生きている人間に手を出したあやかしを取り締まり、時に排除する……それがこの僕、『あやかし斬り』さ」

「あのあやかしは、だから斬られたのか。掟を破り、人を襲い喰らったから」

「そう。人間にあやかしの存在を、深く知られる訳にはいかない。あの魍魎は巧妙に姿を隠していたから、今日まで見つけられなかったがね」

「……それで、礼はいらないと言ったのだな」

「理解が早い。そう、僕は役目さえ果たせれば君の生死などどうでも良かったのだからね。……ただ」


 そこで言葉を切ると、子供は清四郎に手を伸ばす。そして、その胸元をとん、と軽く叩いた。


「そこに籠められた想いが、君の無事を強く祈った。だから、助けた。それだけだ」


 子供に叩かれた場所に、清四郎はそっと触れる。探らなくても、そこに何があるか清四郎には解っていた。

 昼に千代から預かった、あの小さな御守り。肌身離さず身に付けていたそれが、そこにはあった。


「……お千代殿」

「これで君の問いの答えにはなったかい? それじゃあ僕はそろそろ行くよ」

「待て」


 くるりと背を向けた子供に、清四郎は立ち上がり声をかけた。子供はそれに、面倒臭そうに振り返る。


「まだ何か用かい? 君達と同じで、僕も忙しいんだが」

「ありがとう。お前のお陰で私はお千代殿との約束を果たす事が出来る」

「……え?」


 清四郎の言葉に、子供が戸惑った声を上げる。それは清四郎が初めて聞く、子供の見た目相応の幼い声だった。


「……」

「引き止めて悪かったな。さて、私はこの件をどう上に報告するか考えねばならん。よもやあやかしの仕業である、などと報告して上が信じる筈もなし。全く頭の痛い」

「……君は……」


 子供が、何かを言いかけてそのまま押し黙る。清四郎はけして急かさず、子供の次の言葉を待った。


「……もし」


 暫しの沈黙の後、子供が口を開く。それは先程の言葉の続きではなかったが、わざわざ前の言葉を問い直す真似を清四郎はしなかった。


「もしまた、君達の手に負えない事件が――あやかしの存在を感じる事件が起こったなら、この近くに一つだけある無人の稲荷を訪ねる事だ。そこに僕はいる」

「解った。無人の稲荷だな」

「……ただし、僕の存在は他言無用だよ」

「ああ。承知した」


 清四郎が頷くと、子供は今度こそ清四郎に背を向け歩き出した。その背に、再び清四郎は声をかける。


「私は安田清四郎だ。お前は?」

「……れい。そう呼ばれている」

「零か。またな」

「……」


 子供――零は、清四郎の言葉に振り返らずそのまま下駄を鳴らし去っていった。

 零の去っていった後を、清四郎は、不思議な気持ちになりながら暫しの間じっと見つめていた。



 これより後、清四郎と零はあやかしの起こす様々な事件を解決していく事となる。

 けれど、それはまた今回とは別の話――。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あやかし斬り 由希 @yukikairi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ