最終章 一歩

 お父様の怪我は、あの血だまりから想像するほどには酷いものではなかった。軽傷と重傷の合いの子といった程度のものだった。人間の体は時に大袈裟に血を流すものなのだ。

 とはいえ予定されていた出張が務まるほどではなく、その仕事はキャンセルされ、少しのあいだ入院することとなった。


 銀見ぎんみさんが言うには、損失がないとは言わないが、それで何か大きな痛手になるということもないらしかった。

 お父様の周囲には優秀な人間がたくさんいる。お父様が指示さえできる状態なら、ほぼ普段と変わりなく業務は回るのだ。


 あの事件の夜、救急車がやって来たのに私達が目を覚まさなかったことの奇妙さについて、翌日学校でようやく気づいたのだが、その後受けた説明によると、あのとき糸氏いとうじさんは、救急車に対してサイレンを鳴らさないようお願いしていたらしい。

 だから物々しさがなく、眠っている私達はお母様も含めて、それに気づかなかったのだ。

 なぜサイレンを鳴らさなかったのか? それは冠奈かんなの事情とも浅からず関係する。


 ◆


 驚くべきことに――と言うべきか、冠奈は一切お咎めなしだった。

 あの夜、糸氏さんが救急車を呼んだあと、お父様がお腹から血を流しながらも糸氏さんに指示を出したのだという。

 これは事故だと。

 冠奈の持ってきた包丁を取り上げた自分が、転んで自らの腹にそれを突き刺してしまったのだと。

 そしてお父様は包丁に自分の指紋をたっぷりとつけた。念のため、警察が包丁を調べても話の辻褄が合うように。


 そのシナリオはお父様と糸氏さん、銀見さんのあいだで共有され、全員がまったく同じことを然るべき機会に説明した。

 それだけ固められたら――特に被害者であるお父様自身がそれを主張するのならば――外部の人間は納得せざるを得ない。


 冠奈だけは自分が刺したのだと頑なに言い続けたそうだが、それについても、冠奈は酷く混乱していて「事故」の瞬間のことをよく覚えていないのだとお父様達は主張し、結局そちらの言い分が通った。

 自らを裁きたかった冠奈にとっては不本意だったのかもしれないが、私達にとってはすべてがうまく運んでくれたと言うべきところだった。

 言うまでもなく、冠奈を社会的に汚してしまうことは私達の望むところではない。


 糸氏さんがサイレンを鳴らさせなかったことで、ご近所さんにもまったく余計な噂が立つことはなかった。

 ただお父様が怪我をしてちょっと入院している、という事実だけがそこそこ伝わるに留まった。

 よもやそこから、冠奈の行動にまで発想を巡らせる人間はいないだろう。冠奈は品の良いお嬢様としてよく知られているのだ。


 ◆


 結果的に、すべての物事は元通りのかたちに戻り――日常は完全に日常として続いてゆくこととなった。


 ◆


 いつものように授業を受け、いつものように部活をし、いつものように下校し、祠の待つ車へと向かう。

「お疲れ様です」とほこらは言い、後ろのドアを開ける。

「ありがと」と私は言い、後部座席に体を滑り込ませた。今日はそれほど疲れていない。そそくさとシートベルトを締める。「はい準備できました」

「では、出しますね」

 車が動き出す。屋敷までは二十分ほどだ。


 我が家に帰ってくると、私は真っ直ぐに自室へ向かい、制服のままベッドに倒れ込む。これが私の至福の一時だ。

 窓の向こうには秋の青空。やはり空には青くあって欲しいものである。とりあえずしばらくは灰色の空には遠慮してもらいたい。


 十分ほどそうしていると、祠がおやつを持って入ってきた。紅茶にエクレア。

 祠がそれをテーブルに置こうとしたとき、私はふと思いついて口を開いた。

「うずまきはどうしてる?」

「先程はバルコニーにいましたよ。帰ってきたときに車の中からお姿が見えました」

「まだいるかな……おやつはうずまきのところで戴くよ」

 私は言い、反動をつけて体を起こす。祠は置きかけたトレイを再び携え、私を先導するように部屋のドアを開ける。


 羽子うずはまだバルコニーにいた。折りたたみ式のリラックスチェアの背を倒して腰掛け、足先を揺らしながら本を読んでいる。近頃の羽子の読書スタイルの一つだ。すぐ側には雨傘あまがさが見守るように立っている。


「ただいま、うずまき」と私は言う。

「――おかえり」とこちらを一瞥して羽子は言った。

「お帰りなさいませ」と雨傘が頭を下げる。

「お邪魔していい?」

「構わない。そんなに集中して読んでるわけじゃないから。いまも弥々ややと話をしてた」

「そっか」


 私は祠が持っているトレイから紅茶のカップとエクレアの皿を取り、柵に置く。景色を眺めながら紅茶を一口飲んだ。まだ少し熱い。


「うずまきはもうおやつ食べた?」

「食べた」

「これ、半分要る?」

「要らない。食べたから」

 私はエクレアにかぶりつく。生クリームの甘さがちょうど良くて美味しい。いままで食べたことがない気がするが、新しいお店を開拓したのだろうか。

「これ、どこの?」と私は誰にともなく訊ねる。

春沙はるささんが作られました」と祠が答えた。「初めて挑戦した割にはなかなかでしょう、とおっしゃってました」

「……ほんと、口に入れるものは何でも作れちゃうんだね、あの人は」


 私が感心しながらもう一口頬張る。

 そのとき少し強い風が吹き、バルコニー全体を駆け抜けるように通り過ぎていった。

 その冷たさに、私はぶるっと体を震わせる。ここ数日で空気が一気に冷え込んできたような気がする。


「だんだん寒くなってきましたね」と代弁するように祠が言った。

「そうだねえ、秋も後半戦って感じだ」私は言い、羽子を見た。「あんたは相変わらず季節感ないよね。ある意味すごいなと思うけど」

「いまは日なたぼっこしてたから。結構あったかい」

「最近、あんた庭に出てたり、結構日の光の下にいること増えたよね」

「……青空も良いなと最近は思う」羽子は本から目を離して空を見上げる。「あのことがあってから、こういう空も好きになった。前は――元気を押しつけてくる感じがあんまり性に合わなかったんだけど」

「私は最近、夜空にはまってるね。星がそこそこ綺麗に見える夜とか、雰囲気があって良いものだよ。まあ、ああいうことがなかったらそういう感性にはならなかったかな、私も」


 地球が回転しているから、朝が来て、夜が来る。

 その地球が太陽の周りを回っているから、暑かった日々も移り変わり、やがて冬が訪れる。

 その間にも雲は延々と空を巡り、広大な宇宙を時には晒し、時には隠し、日の光を降らせたり雨を降らせたりする。

 世界はいろんな意味で回っているのだ。


「――そういえば姉さん、今日は大学じゃなかったよね。友達とどうとか言ってたっけ」

「十時頃に出かけていかれましたよ」と祠が答える。

「電車でね」と羽子が付け加える。

 私は思わず口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになった。

「電車? 姉さんが?」

「姉さんが煽ったせい」羽子は慌てる私を観察するようにじっと見る。少し面白がっているようにも見える。「冠奈姉さんが生きて帰れなかったら姉さんの責任」

「いや、途中で野垂れ死ぬかどうかはともかく――大丈夫なのかな。駅の中で右往左往する姉さんとか、車内でぎゅうぎゅう詰めになってストレスで熱出す姉さんとか、簡単に想像できるんだけど」

「そこまではいくらなんでも――」と雨傘が庇うように言う。「冠奈お嬢様も小さな子供ではないのですし……」

「甘いよ雨傘。姉さんは部分的に生まれたての子供みたいなんだから。……糸氏さんはどういう反応だったのかな」

「何かあったらすぐ連絡するよう、念を押されていました」と祠は言った。「本当は内緒でついていきたかったんでしょうけど、冠奈お嬢様からそういうことはしないよう注意されていましたね」

「先に釘を刺されたんだ」私は笑う。

「笑っていられるのもいまのうちかもね」

「うずまき、シャレにならないからやめてって」


 私が言うと、羽子は口の端を少しだけ微笑みの形に曲げ、本をぱたりと閉じて椅子から背を離した。

 音を立てずにすっと立ち上がり、私の隣へ来て外の世界を眺める。

 また強めの風が吹いた。羽子の長い髪が波打つように舞う。


「――私も」と羽子は言った。「いろんなところに行ってみようかな」

「……良いんじゃない?」私は羽子の頭にそっと手を乗せる。「行きたいところに行ってみるといいよ。私達の誰を誘ってもいいし、一人で何かやってもいい。……あ、一人はお母様が心配するかもしれないから、そのときは雨傘がセットになるかもしれないけど」

「お嬢様がお一人で何かなさりたいというときは、私が何とか奥様を説得してみます」と背後で雨傘が力説する。「お嬢様の意向が第一ですから」

「だってさ」


 羽子は何も言わずに敷地の向こうを見つめ続けている。

 この子はいまのところこの敷地の外に出ることはほとんどない人間だ。でもその目はちゃんといつでも外の世界を見ている。そして少しずつそこへ向かう準備を整えている。

「何だかんだで、いろんなことがちょっとずつ変わっていくなあ」と私は言った。

「諸行無常」

「そうだねえ。できればこの家が盛者必衰ってことにはなって欲しくないけど」

「きっと皆、大丈夫」と羽子は言った。「何とかなる」

「……不思議な感じ。あんたに言われるのがいちばん頼もしいわ。客観的にはあんたがいちばんの悩みの種なのに」

「大丈夫」と羽子は繰り返し、私の顔をじっと見つめた。「きっと全部ちゃんと回っていく」

 私と羽子はしばらく黙ったまま見つめ合う。それから私は心の動くままに羽子に微笑む。羽子もそれを返すように、ゆっくりと深い笑顔を作った。


 ◆


 朝が来て、夜が来る。夏が来て、冬が来る。晴れの日があって、雨の日がある。そんな太陽系第三惑星の上で、私達一人一人もそれぞれの思惑を持ち、それぞれの流れを持ち、動いている。

 そうやってこの世界は回っている。とても複雑に。とても広大に。

 時にはその複雑さと広大さに飲み込まれてしまうこともある。そのことからは人はどうやっても逃れられないのかもしれない。


 でもやれることをやっていこう。そこに絡まった糸があるのなら、端っこからちょっとずつほぐしていこう。

 何事も一歩一歩だ。

 生きていくというのはたぶんそういうことなのだ。

 人の力ではどうしようもない出来事が外にはある。自分の力ではどうしようもない自分が内にはいる。そんな縛りの中で、私達は何とか自分の人生を回していくのだ。たとえそれがこの世界にとって砂粒にも等しい小さな人生であっても。


 私は紅茶を一口飲む。ちょうどよい温度だ。体がまた少し温まる。

 もうすぐ冬が来る。今年の冬は寒くなるとニュースでは言っていた。そう遠くないうちに私達も冬支度を始めなければならない。

「……そろそろ戻るわ」と私は言った。

「私も戻る」羽子も追随する。

 とりあえず私の人生の次のステップは、今日の宿題をこなすことだ。そして夕食に何が出てくるかを楽しみに待つ。それから明日の準備をして、眠るまでの時間をまったりと過ごす。

 寝て起きれは明日がやって来る。そのとき世界はいかにして回っているだろうか――。そんなことを考えながら、私はバルコニーを離れ、自室へと戻っていった。数学と古文が私を待っている。【完】

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世界はいかにして回っているか loki @loki_uf

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