第十二章 収束

 帰り道、私達の会話は行きのときほど活発ではなかった。

 あとは同じ道を戻るだけという安心感のせいもあったし、気疲れのようなものに三人が三人とものし掛かられていたというのもたぶんある。

 いずれにせよ運転するのは冠奈かんなで、彼女に比べれば私と羽子うずは気楽なものだったと言える。


 冠奈が事の真相に関してどのように感じているのか、正直に言うと帰るまでのあいだに話をして私の中にも何らかの整理をつけたかったのだが、それについてはうまく話題を振ることができなかった。

 それにしても世の中には不思議なことがあるものだよねえ――という切り出しを思いついたきり、それを実際に口にする機会は訪れなかった。

 どうしたって話は重くなってしまうし、いまの冠奈にその重い部分について自発的に言及させるのは酷だったからだ。


 代わりに、というわけではないが、私は冠奈が車の外で眠る番だった日に、車内で羽子と二人、書斎の寝室でのことについてあれこれと話し込んだ――というより、一所懸命に羽子を説得した。

 お父様と付き人達のあいだにはああいう関係があるが、それはお父様が強制しているものではないこと。

 雨傘あまがさは少なくともまだお父様とは関係していないこと。

 人にはそれぞれの価値観があって、法律にでも触れない限り、他人がそれを自分の価値基準で裁くのはたぶん間違っているのだろうということ。

 ――こんな偉そうなことを言いつつ、私自身も知ったときはかなり混乱したという事実も正直に伝えた。だから無理強いすることはできないけど、あんたにもできればわかってあげて欲しい、と。


「……あのときは大丈夫って言ったけど」と羽子は言った。「本当はあんまり大丈夫じゃなかった。なんか、頭がくらくらした」

「わかるよ。それはすごくわかる」

「ネットで見慣れてるっていったけど、あれも嘘。知らない人がどんな過激なことをやってても、それはしょせん他人事で、話が全然違う」

「それもわかる。わかるよ、うずまき」

「……弥々ややが関係ないって聞いて、ホッとしてる」

「その雨傘が言ってたよ。このことでお父様を嫌いにならないで下さいって。だからうずまきも、落ち着いたら自分の中のお父様達を、元通りのお父様達に戻してあげて」


 羽子は少しのあいだ返事を決めかねているというように沈黙していたが、やがて何かを諦めるみたいに、小さな声で、善処する――と言った。

「是非とも善処してあげて」

 私は言い、ちらりと羽子のほうを見る。羽子は無表情で車の天井を見つめている。羽子ならきっと善処できるだろうと私は信じる。ほんのちょっと前までは、それが少しだけ難しくなっていたのだけど。


「皆、素敵な人だよ。それは変わらない」

「……大人になったら、もっとよく理解できるのかな」

「どうだろう」と私は言った。どうだろう。「何しろ私もまだ子供だからね。子供は子供の立場で何とか対処するしかない、としか言えないや」


 結局のところ、人によるし、状況にもよるのだ。

 少なくとも冠奈にとって、それは発作的に凶行に及ぶほどに耐え難い苦痛だったことになる。

 その行為を責め、自分はそんな風にはならないと言い張るのは簡単だ。

 でも人の心はもっと複雑なものであるように私は思う。

 人それぞれに強さがあり、弱さがある。冠奈は私より強いところをいっぱい持っている。ただ今回の場合、物事の組み合わせが冠奈にとって最悪のかたちであり――彼女の恐らくはいちばん弱いところに、それが刺さってしまったのだ。

 私は受け止めたいと思う。冠奈のその弱さを。世界の残りの部分がどう判断するとしても。


 ◆


 私達の車が屋敷の門をくぐった直後、付き人達が玄関から飛び出してきた。

 恐らくエンジンの音を聞きつけたか、あるいはたまたま窓の外を見たら車が目に留まったというところなのだろうが、一瞬、もしかして二十四時間態勢で道路を監視していたのだろうか、と思ってしまった。

 別れ際の彼女達の振る舞いから考えると、それくらいのことをやっていてもおかしくないように思えたのだ。


 冠奈が庭の中央に車を止める。まずは私と羽子が車から出る。それからゆっくりと冠奈がドアを開け、体を外に出した。


 ほこらが私に飛び込んできて、両腕を首に回す。雨傘は二度と離すまいといった勢いで羽子をその胸に抱きしめる。糸氏いとうじさんはそっと冠奈の目の前までやって来て、お母様のようににっこりと微笑む。その胸元に冠奈がすっと入っていき、二人はどちらからともなく抱き合う。

「お帰りなさいませ」

 三人の声がほぼ同時に響いた。


「ただいま」と私は祠の頬ずりを受けながら言った。「元気にしてた?」

「それはこちらのセリフです」と祠は言う。少し声が震えている。「危険はありませんでしたか? 怖くなかったですか?」

「平気だったよ――それより、あんまり近づかれると、ほら、髪を洗えてなかったんで、ちょっと恥ずかしいんで」

「そんなのどうでもいいです」と祠は頬ずりを続ける。「本当に良かった――心配で食べ物もろくに喉を通らなかったんですよ?」

「じゃあむしろ私達のほうがちゃんと食べてたかもね」


 私は笑いながら残り二組の様子を窺う。羽子と雨傘は小声で何事かを言い合っている。冠奈と糸氏さんはお互いに無言だ。

 やがて誰からということもなく、三人の付き人は満足したように主からそっと離れる。そしてうって変わって引き締まった表情を作る。代表して糸氏さんが口を開いた。

「それで、何かを発見することはできたのですか?」


 私と羽子は冠奈を見る。すべては冠奈によって語られるべきことだと、その権利も義務も彼女にあるのだと、二人とも考えたからだ。

「ええ――すべての答が出た」

 冠奈は言い、付き人達を見渡す。そして糸氏さんに目を留める。

 糸氏さんはまっすぐな瞳でそれに応える。答が出たということの意味を、糸氏さんは十分に理解している。

「今日をこの世界での最後の日とします」と冠奈は宣言した。「夕食までは普通に過ごしましょう。あとは――私が決着をつけます」

 祠と雨傘は、意味がよくわからないという顔をして、私と羽子を見る。

「ま、そういうこと」と私は言った。「でもとりあえず、何はともあれお風呂に入りたい。用意してくれる?」


 ◆


 久しぶりにお湯に浸かってから昼食を摂り、いつものように午後の時間を適当に潰した。

 祠は具体的なことを一切訊こうとせずに私の世話をしてくれた。言わずとも何となく伝わったのだろう。語る役目を持つのは私ではないということが。

 決着をつけると冠奈は言った。何をもって決着をつけることになるのか、私は冠奈から何も聞かされていない。でも何となくわかった。この世界を終わらせる鍵が何なのか。


 夕食の席で、冠奈は皆に説明した。

 道を遥か先まで進んだところにもう一つの屋敷があったこと。

 そこには自分の記憶が宿っていて、この世界が自分の意識の中であることを示していたこと。

 最後に見たものについては話をぼかしていたが、現実の世界において自分がお父様に何をしたかということも、冠奈は正直に語った。

 それがすべての元凶であるということを真正面から認める冠奈はとても毅然としていた。


「今日まで、こんなおかしな世界に付き合ってくれてありがとう」と冠奈は言った。「これでおしまいにします」

「あの……」と春沙はるささんが言った。「おしまいにするというのは、どういう風に……?」

「皆さんは気にせず、いつも通りにしていて下さい。そのあいだに私が終わらせます。その結果、ここで過ごした私達の記憶がどうなるのかはわかりません。でも間違いなく、この世界は閉じられるでしょう。心配は要りません。そこには何の苦痛もないはずです」


 名残惜しいかと言われると、それは微妙だ。灰色の空にも赤茶けた大地にも、繋がらない電話やネットにも、思い入れらしき思い入れは特にない。すっかり不便に慣れてしまったが、この環境を愛するに至ったかといえば、そんなことは全然ない。

 ただ――私達には確実に、この世界で育んだものがある。できればそれは、失うことなく元の世界に持って帰りたい。


「羽子」と冠奈は隣にいる羽子を見た。「あなたの心に少しでも触れることができたのは、本当に嬉しいことだったわ。元に戻っても、また一緒にお話ができるといいわね」

「できる」と羽子はきっぱりと言った。「絶対にできる」

 冠奈は目を細め、羽子の頭を撫でる。それから雨傘の顔を見た。

「あなたとも、もっといろいろお話がしたいわね。もしあなたがそれを望んでくれるのであれば、だけど」

「望んでいます」と雨傘は即答した。「冠奈お嬢様とお近づきになれたこと、私は、その――絶対に忘れたくありません」

「ありがとう」

 冠奈は言い、全員の顔を順番に見る。

「ではこれでお開きにしましょう。皆、本当にごめんなさい――本当にありがとう」


 ◆


 二人がやって来るのを、私はそのドアの前で待ち構えていた。

 万が一にも間に合わないという目には遭いたくなかったので、予想される時刻の二時間ほど前から、私は延々とそこに陣取っていた。

 ようやく二人の足音が階段の下から聞こえてきたとき、私は読んでいる本を閉じて懐にしまい、さもついさっきここに来たという風に振る舞った。ずっと待っていたというのが何となく恥ずかしかったのだ。


「ハーイ」と私は二人に向かって片手を挙げる。

 冠奈と糸氏さんの反応は、私が考えていたよりもずっと薄かった。もうちょっと意外な顔をされると思っていたのだが、そのような感じは微塵もない。

「あれ、もしかして読まれてた?」

「何となく、あなたは来るんじゃないかと思っていたわ」と冠奈が言った。

「もしお邪魔だったら――二人だけで決着をつけたいって言うなら、私は部屋に戻るけど。でもできれば見届けたいの。決して悪趣味な意味じゃなくて」

「邪魔ではないわ」

真都衣まといお嬢様はこの世界で本当にご活躍されました」と糸氏さんは言った。「すべてを見届ける権利がおありになると思います」

「ありがとう」


 糸氏さんは書斎の鍵を取り出し、ドアを開ける。

 私達は中に入り、そして真っ直ぐに寝室のドアへと向かう。その先に何があるのか、もう私達三人はわかっている。

 寝室へ入る。あのときのままの血だまり。しかしその傍らには、あのときにはなかったものが一つ、無造作に転がっている――血の付いた包丁。事件の夜、冠奈が厨房から持ち出し、春沙さんが足りない足りないと言っていた、あの包丁だ。


「春沙さんには失礼なことをしてしまいました」と糸氏さんは言った。「少なくとも今回に関しては、彼女は正確に把握していたのです。厨房のことを」

 冠奈はその包丁を手に取る。それは罪の証だ。そこにべっとりと付いた赤いしるしを、彼女は受け止めなければいけない。

 糸氏さんが壁掛け時計を見る。私もつられてそれを見た。

 あと少しで一時になろうというところでそれは止まっている。それから私は自分の腕時計を見る。この部屋に来るにあたって身につけてきたのだ。

 ――腕時計の時刻と壁掛け時計の時刻は、間もなく一致する。

 あと三分。あと一分。

 あと十秒。

 ――そして二つの時刻が重なる。

「認めます」と跪いて冠奈は言った。「私の罪を。そして二度とこのことから逃げません」


 ◆


 その瞬間、空間が歪んだ。

 自分の存在が周囲から浮き上がり、周囲もまた何か留め金のようなものを失って、世界の基礎となる部分から浮き上がる。

 視界が七色になり、そしてモノクロームになる。あらゆる有と無がごちゃまぜになって、一つに収束していこうとする。収束の先にいるのは冠奈だ。すべてが一緒くたになって冠奈に向かっていく。冠奈の中にすべてが吸い込まれていく。

 否。すべては冠奈の一部だったのだ。空間と重力と物体は境界を失い、一つ残らず冠奈の元へと戻っていく。冠奈から始まったすべてのものが、再び冠奈と一体となることで、冠奈となることで幕を閉じていく。

 さよなら不思議世界、と私は思った。決して有り難いものではなかったけど、無駄な時間ではなかったよ。いろんなことがわかったし、いろんなことが繋がったよ。不便だったけど、少しだけ感謝する。ありがと。

 もしできることなら、このことを帰ってからも――。

 そこで私という個体は途絶えた。


 ◆


 私はベッドの上で目を覚ます。常夜灯の明かりだけがともる自室のベッドの上。私は普段、一度眠ったら目覚まし時計か祠に起こされない限り目を覚ますことはない。でもアラームは鳴っていないし、祠もいない。

 上半身を起こして時計を見る。深夜の一時近く。寝起きで思考がごちゃごちゃしている。

 あれからどうしたんだっけ、とまず思った。こう、周りがねじ曲がっていって、私もそれと一緒に巻き込まれていって――。


 しかし間もなく意識ははっきりしてくる。

 いやいや、何を寝ぼけているんだ、私は。変な時間に起きてしまうと、こんなにも夢と現実がごっちゃになるんだっけ。久しぶりのことだからその感覚を忘れてしまっている。

 私は目をこする。もう一度眠るために体を横にする。

 ――だが、胸の真ん中あたりに小さなざわめきがあり、それが収まらない。私の中のもう一人の私が告げている。ほら、覚えているでしょう、何もかも。


 私は再び体を起こし、ベッドから出る。そして静かにカーテンを引いた。

 ――夜空。

 ――ほんとうに、久しぶりに見る夜空。

 私の中でそれは確信に変わる。

 私は着替えることもせず、そのままの姿で部屋のドアを開け、廊下に出た。

 ほとんど同じタイミングで隣の部屋のドアが開き、同じくネグリジェ姿の羽子が飛び出してきた。

「うずまき」と私は言う。

 羽子は何も言わずに一つ大きくうなずく。


 私達は廊下を駆け、階段を駆け上がる。書斎のドアは開きっぱなしになっていた。

 私達は躊躇することなくそこへ入っていく。そして同じく開きっぱなしになっている寝室への入り口をくぐり――二人と対面した。

「姉さん」

 冠奈は血だまりの前で力なく座り込んでいる。その両肩を、傍らの糸氏さんが支えている。

 少し離れたところには、放り捨てられた包丁。あの日、糸氏さんから聞いたままの状況がそこにはあった。


「真都衣。羽子」

 冠奈は私達のほうを見る。もう泣いてはいないようだが、その顔には涙の跡が幾重にも見て取れた。

「姉さん――」と私はもう一度冠奈を呼ぶ。

「ごめんなさい」と冠奈は涙声で言った。「本当に、ごめんね」

 私は冠奈の側まで行って床に膝を降ろし、彼女と目線を合わせる。そして静かに言う。

「もういいの。……つらかったね、姉さん」


 冠奈は弱々しく手を伸ばし、私の頬に触れ、何度も撫でる。

 撫でるほうが慰められるほうである場合もあるのだということを私は知る。私は何も言わず、その愛撫を受け続ける。

 やがてその手がゆっくりと私から離れる。冠奈は自分の両手をじっと見つめる。その手からこぼれ落ちてしまったものと残されたものを、一つ一つ確かめるみたいに。


 やがて書斎の入り口の向こうから複数の足音が聞こえてきた。祠達だろう。彼女達が私と羽子より少し遅れた理由はわかる。使用人が着替えもせずに屋敷の中を行き来することは、私達以上に御法度だからだ。

 祠、雨傘、そして春沙さんの三人が寝室へとやって来る。……恐らくは銀見ぎんみさんも、いま頃は病院の中で同じ記憶と気持ちを共有しているのだろう。

「大丈夫」と私は祠達に言った。「もう大丈夫」


 安堵の空気が広がる。そして改めて私達は少しずつ実感する。とうとう元の世界に戻ってきたのだ。

 春沙さんが床に転がった包丁のところへ歩いていき、しゃがみ込んでそれを見つめる。それから独り言のように静かに言った。

「……包丁は武器じゃないんですよね、やっぱり」

「その通りだわ」と冠奈は言い、少しだけ微笑んだ。「もっと立派な道具よ。そんなものを持ち出してくるなんて、本当にどうかしていたわ。……ごめんなさい、春沙さん」

「構いません。いや構いませんというのは違うかもしれませんけど、でも構いません」


「さて」

 私は立ち上がった。時間は動き出したのだ。すべきことをしなければならない。

「忘れそうになるけど、お父様はいま病院で、お母様はまだ何も知らずに寝ているのよね。それで、ええと、どうなってて、どうすればいいのかな?」

「真都衣お嬢様と羽子お嬢様はこのままお休み下さい」と糸氏さんが言った。「細かな事情は明日お話ししますし、すべてのことは我々が処理します。真都衣お嬢様、明日も平日であることをお忘れにならないよう」

「ああ、そうか学校か」

 学校。とても久しぶりの響きで、すぐには感覚が戻ってこない。夏休みよりも長い期間、私は学校というものから離れていたのだ。主観的にだが。

「じゃあ、お任せしちゃっていいのかな」

「はい。すべて問題ないように致します」糸氏さんが力強く言う。

「なんか迫力あるな……でもわかった、私達は寝るよ」そういって私は羽子の肩にぽんと手を置いた。「じゃあうずまき、行こう」

「――うん」

「お休み」と私は皆に言った。

「お休みなさいませ」使用人達の声が重なった。


 ◆


 ――こうして私達は、真にいるべき世界へと帰ってきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る