第十一章 記憶
門の前で、全員がそれを見つめていた。
「……例によって」と
「はい」と代表して
門に繋がる形で、道路ができている。幅十メートルくらいの、割と広い道路だ。それが真っ直ぐに地平の彼方まで伸びている。
その先に何かがあるのか、それとも何も無いのか、まったくわからない。
いつぞやのように望遠鏡を取り出してきたのだが、やはり何も確認することはできなかった。信号も標識もない、ひたすら先へと続くだけの直線道路だ。
「どう考えても、この先に進め、っていうことだよね、これ」と私は言った。「世界の主様からの贈り物というか、命令というか」
「進まない、という選択肢は、私達にはたぶん無いわね」冠奈が言い、振り返る。「
「――そうですね。このまま直線が続く道なのでしたら経済速度で走り続けることが可能ですから、ざっと見積もってリッターあたり二十五キロ。ガソリンは四十リッター少々入りますから、単純計算で一〇〇〇キロといったところでしょうか」
「倉庫にもガソリンの備蓄はありましたよね?」
「はい、一〇〇リッターほど。それをすべて積んで、限界まで走るとしたら、二十五かけることの百四〇ですから……五十の七十……三五〇〇キロほど走れることになります」
「往復で、だよね」と私は言った。「つまり行ける先は半分の、ええと……一七五〇キロか」
「それって時間にしてどれくらいかかるのかしら」
「経済速度を時速六十キロと考えるとして――」銀見さんは小さく独り言を呟きながら計算をする。「一日十二時間運転するとして、一日七二〇キロですから……二日半ほどかかります」
「それも往復すれば二倍。五日分の水と食料も持っていかないといけないわけだ。で、これがいちばん大事なことだけど、この先に何かあるとして、それでも届くかどうかはわからない」
「……本州の長さが、だいたい一五〇〇キロくらいある」と
「うずまきはそういうのよく知ってるね――じゃあとりあえず、ざっくりとした問題。この道は本州より長いか否か?」
皆が考え込む。
常識をすべて外して考えなければいけないことは誰もが承知している。そうであるがゆえに、何も言い切ることができない。
しばらく進んだところで突然カーレースのサーキットみたいに道が曲がりくねり出すのかもしれないし、直線のままだとしても、もしかしたら赤道より長いかもしれないのだ。
「……ガソリンと食料は増やせるわけだけど」と冠奈が言った。「たとえば一ヶ月走り続けるだけの量を積むのは現実的ではないわよね。重さや容積の問題で。限界はどれくらいなのかしら」
「その前に質問、というか確認」と私は手を挙げる。「いちばん遠くまで行ける車の話をしてるってことは、全員で行くって前提ではないんだよね」
我が家には車が五台ある。お父様は特に車好きというわけではないのだが、家族の人数と同じ数だけ揃えてあるのだ。
その気になれば、八人全員で出発することはたやすい。
ただし車の種類はすべて異なるので、走行距離に違いは出てくる。そこは工夫しなくてはならない。
「……変に思われる話かもしれないけど、してもいいかしら?」冠奈は言った。
「思いついたことはどんどん言ってよ」
「まず、この屋敷を完全に留守にしてはいけない気がするの。ここには必ず誰かが残っていなければいけないという決まりのようなものを、何故か感じる。それから――」
冠奈はそこで言い淀む。とても言いにくそうに眉をしかめる。
「お嬢様、お気になさらず何でもおっしゃって下さい」と糸氏さんが背中を押した。
「ありがとう。どう言えば気を悪くさせないか、それから説得力を持たせられるか、とても悩むところなの。……うまい言い方を思いつかないから、素直にそのまま言うわね。どうしてなのかはわからないけど――この先には、
六玄木の人間。それはつまり――。
「姉さんと私と、うずまき?」
冠奈は黙って頷く。
少しの間が空く。恐らく皆がそれぞれの立場で、その意味するところについて考えている。
「姉さん、免許取りたてだったっけ、そういえば」
「持っているわ。運転はできる。……実を言うと、私一人で行こうかとも思っているの」
「駄目、それは無し」と私は言った。「一人っていうのはいくら何でも危ないよ。何かあったときに人手が足りなくなって、どうにもならなくなる危険もある。六玄木の人間しか進めないっていうなら、私も行くよ」
「あの」と
「同感です」糸氏さんが続く。「我々付き人は、お嬢様方の代わりに面倒と危険を受け入れるためにいるのです。お嬢様の直感を軽視するわけではありませんが、そのようなことをお嬢様方だけにさせるわけにはいきません」
「やはり説得力に欠けたわね――」と冠奈は苦笑した。「でも私の中ではこれは絶対のことなの。行くならあなた達には残ってもらわなくてはならない。――あえて言うわ。これは初日に屋敷のことを任された私からの命令。あなた達はここに残りなさい」
命令と言われて、糸氏さんと祠は口をつぐむ。彼女達の中では、そのような言われ方をしたらその内容は絶対の力を帯びる。
「私はその範疇じゃないよね」と私は言った。「ついていくからね、何を言われても」
「……そうね。
冠奈がそう言って微笑んだとき。羽子が意を決したように歩き出し――冠奈の目の前で立ち止まり、その顔をじっと見つめた。
「お嬢様」と
「私も」と羽子はいつもより大きな声で宣言した。「一緒についていく」
◆
私達はガソリンを倉庫からすべて出し、次に倉庫の中身が戻る日を待った。
二十リッターのガソリンタンクが十個。そして車にもともと入っているガソリンが四十リッター。これで進める距離は片道三〇〇〇キロ。それを四日と少々かけて進む計画だ。
それだけ進んでも何もなければ、また引き返してきて、今度はそれ以上のガソリンを用意して再挑戦することになる――無事に帰れたならば。
現実的に対処できるあらゆることを想定して準備を整えた。
水と食料の他に、懐中電灯や救急箱や、その他諸々の道具。
サバイバルナイフは一人一本ぶん用意できたが、それとはべつに
出発のとき、付き人達はさながら今生の別れのようだった。
三人が三人とも、私達それぞれを抱きしめてなかなか離そうとしない。
糸氏さんはそれでも冷静なほうだったが、祠は目を赤く腫らしていたし、雨傘に至っては涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
これほどまでに私達を想ってくれていることに改めて感激したし、そんな彼女達を置いていくことには確かに抵抗があった。
だがそれでも私は冠奈の直感に重きを置いた。それ自体が私なりの直感であったと言える――大切な鍵がそこにあるし、恐らくそのことで何かの決着がつくはずだ、と。
そして私達三姉妹は屋敷を離れた。
◆
景色の一切変わることのない道をただひたすらに走っていると、本当に前に進んでいるのかだんだんわからなくなってくる。
人間は何らかの物体を目印とし、それとの距離感で己の移動を認識するわけだが、ここにはその目印とするにふさわしいものがまるで見当たらない。
予想されたことではあるが、それは実に気持ちの悪い感覚だった。手応えというものがそこにはまったく無い。
エンジンの音をこれほど頼もしいと思ったことはなかった。この音だけが、私達の進行を保証してくれているのだ。
最初のうち、後ろを振り返ることを極力避けるようにしていたのだが、出発して小一時間ほど過ぎた頃、私はつい振り返ってしまい――すでに屋敷が肉眼では見えなくなっているということを直に確認することとなった。
恐怖を感じなかったと言えば大嘘になる。
たとえばもしここで車に何か異常があって、動かなくなってしまったら? この先に何かがあったとして、もしそれによって車が破壊されてしまったら?
私達はその時点でおしまいだ。
決して軽い気持ちでこの旅を決断したわけではないが、もう一度覚悟を決め直す必要があった――私達はいま、命を賭けている。
大風呂に入ったときと同じように、私達は道中いろいろなことを話した。
純粋に退屈であったというよりは、もうちょっと深刻な意味で、正気を保つための歓談だった気がする。
冠奈はもちろんのこと、羽子もいつもより饒舌であるような気がした。羽子なりに気持ちが張っていたのだと思う。私達の通っている学校のことを訊いてきたり、自分の学校での思い出を話してみたり、普段はどちらかといえば避けているような話題を積極的に振ってきた。
私もそれに応えるように、いままで語らなかった本当にプライベートなことも幾つか勢いで語ってしまった。初恋のことや、思い出すだけで頭のてっぺんから煙が出るような恥ずかしい過去まで。
まっすぐな道を同じ速度で走るだけの運転とはいえ、一日十二時間それをするのはかなりしんどいことだったと思うが、冠奈は妥協せずにきっちりそれを務めた。
毎朝七時に起きて、三時間運転するごとに一時間の休憩を入れ、体に負担がかからないようにした。
夜は二人が前の座席を倒して眠り、一人が外で寝袋に入って眠る。眠る場所は夜ごとに交代した。
祠がアイマスクを持っていてくれたのは本当に助かった。これが無ければ、私達は中途半端に明るい空を直に感じながら眠らなくてはならなかったのだ。
生理現象については、ここでは詳しくは言及しない。旅の恥はかき捨て、と言うに留めておこうと思う。
そんな風にして私達は進んだ。
道はいつまでもまっすぐで、当初計算していたいちばん効率のよい運転を続けることができたが、ゴールがわからない以上、どこかに辿り着ける見込みがあるのかはわからない。
とにかく進むしかなかった。
そして同時に、決められた量のガソリンを使い終えたら、潔く引き返す必要があった。もしそこで判断を間違えて余分なガソリンを先に進むことに使ってしまったら、私達はもう帰ることはできなくなるのだ。
三〇〇〇キロという距離のことを、私は改めて想った。
羽子の知識を信じるならば、本州の長さの約二倍。飛行機ならいざ知らず、車でそれだけ移動するのは相当のことだ。
ましてや道中にサービスエリアがあるわけでもない。どこまでも虚無的な三〇〇〇キロだ。それでもなお、もう少しガソリンを多めに持ってくるべきだったか、と考えてしまう。
この道は決して無限に続いてはいないはずだ、と私達は信じた。
何故ならこの道は恐らく、世界の主が私達を何かに導くために用意したものだろうからだ。
私達に不可能なことは恐らくないはずだ――それは半ば祈りのような判断だったが、間違ってはいないはずだという確信もまた、私達の中にはあった。
この先には絶対に何かがある。それは私達の到着を待っている。
◆
――私達の判断が勝利を収めたことを知ったのは、予定していた限界よりも少し早い、四日目の朝のことだった。
◆
「――何かあるわ」と運転していた冠奈が唐突に言った。
そのとき私は助手席に座り、後部座席の羽子のほうを向いて会話をしているところだった。あまりにも唐突な言葉に、私は前方より先に冠奈のほうを見てしまった。
「え?」
「ほら、あれ」と冠奈は顎で前方を示す。
私は目を凝らして遥か先を見つめる。羽子も身を乗り出してきて同じ方向を凝視する。
少しずつ、少しずつそれは大きくなっていき――その形らしきものが確認できるまでになったとき、私達の中でもっとも目の良い羽子が、呆気にとられたように言った。
「――屋敷だ」
「屋敷?」
私と冠奈は、それがもう少し大きく見えるようになるのを待つ。そして羽子の判断から遅れること十数秒、私達二人もその意味するところを確認するに至った。
それは私達の屋敷だった。
「え、どういうこと?」と思わず私は言った。「まさか戻ってきたんじゃないでしょうね」
「そんなはずはない――とは言い切れないけど。とにかく、行ってみましょう」
そう時間はかからずに、車はその屋敷の近くまで辿り着いた。
私達は警戒の意味も込めて少し手前で車を降り、それぞれに道具を持って足で近づいていった。
それは確かに私達の知る、私達の屋敷だったが――すぐに一点、違うところが見つかった。門の扉がないのだ。
私達はその門をくぐる。
「玄関」と羽子が言った。「あれ見て。玄関のドアもない」
「ずいぶんウエルカムな姿勢ね」私は小さく笑う。「もしかして屋敷の中も、ドアが一切なかったりするのかな」
――その直後、屋敷の裏側から庭に向かって、何かが走ってくるのを私達は察知した。
私は反射的にサバイバルナイフの鞘を抜いた。ついに春沙さん言うところの「敵」と遭遇することになるのか。心臓の鼓動が急激に高まる。
――しかし、その姿をはっきり認識するに至り、私達の緊張は予想もしていなかった驚きへと変わっていく。
それは犬だった。一匹の黄金色の大型犬。
ただの犬ではない。どこかで見たことのある――いや、その顔立ち、大きさ、手触りに至るまで、すべてを知り尽くした――ラブラドール・レトリーバーだった。
「コロン……?」と羽子が呟く。
「……そうよ」と冠奈は応えた。「コロンだわ」
コロンは私達に突進してきたわけではなかった。
彼は私達の十メートルほど手前で止まり、背後を振り返った。軽く尻尾を振っている。何者かが自分を追いかけてくるのを楽しみに待っている動作だ。
やがて二つの人影が、コロンの軌跡をなぞるように屋敷の裏手から現れた。
小さな二人の女の子だ。可愛らしい顔立ちをしていて、とても上品な服を着せられているが、まだまだそれに見合った所作など知りもしない、腕白と言ってもいい感じの女の子達だった。
私達は三人ともほぼ同時に、彼女達の素性を悟る。
小さい頃の、私と、羽子だ。
女の子達はやがてコロンに追いつき、全身で覆い被さるように彼に抱きつくと、二人がかりで頭と背中をわしゃわしゃと撫で回す。
可愛がっているのだろうが、その手つきはいささか乱暴だ。
しかしコロンは黙ってその雑な愛撫を受け入れている。そう、コロンはとても忠実な犬だった。そのことは忘れようとしても忘れられない。
今度は女の子達が先を走る番になった。小さい私が先頭を切って庭を横切るように走り出す。それに小さい羽子が続き、待ってましたとばかりにコロンが走り出す。
しかし走力の違いは圧倒的で、瞬く間にコロンは二人に追いつき、追い越し、再び二人がコロンを追いかける形になってしまう。しかしそんなことはお構いなしとばかりに、二人は笑いながらコロンを追いかけ始める。
――目の前の光景について、私達は漠然とだが理解する。
これは現実にこの場で起きていることではない。私達はいわば、この庭を舞台にした過去の出来事を見ているのだ。
誰からともなしに、私達はコロンと女の子達が走っていったほうへ向かった。屋敷に沿って庭を折れ曲がったその先には、何年かあとに訪れる結末のしるしがある。コロンの墓だ。
私達の目前にその墓が現れる。
墓の前では、小さい私と羽子が泣きじゃくっていた。その傍らにはお母様と銀見さん、かつての私達の付き人が立っている。一人は糸氏さんだ。
お母様はとても暗い顔をしている。銀見さんと付き人達の表情も神妙だ。小さい羽子がコロンの名を何度も叫び、墓の前にひれ伏す。しかしもちろんコロンはもう応えない。尻尾も振らない。
私は思い出す。これはコロンを埋めたときのことだ。
「……うずまきは覚えてる?」と私は訊ねる。
「覚えてる」と羽子は即答する。「いままでで一番悲しかったこと」
そしていまさらのように私は気づく。……小さい冠奈はなぜいないのか? コロンを埋めたとき、間違いなく冠奈もその場に立ち会っていたはずだ。しかし先程からの光景には、冠奈の姿は一度として現れていない。
――私の頭に、一つの仮説が浮かぶ。
私は冠奈を見た。
冠奈は黙ってコロンの墓を取り巻く人々を眺めている。その姿を小さくして、あの墓の前に移動させれば、あの光景は完成するのだ。しかし冠奈だけがいない。それはつまり――。
「……屋敷に入ってみましょうか」と冠奈が言った。
◆
いちおう礼儀とばかりに、私達は内履きに履き替えて屋敷へと入っていく。
玄関に備えられた内履きのサイズは、いまの私達のものだった。ここは完全に過去の屋敷というわけではないのだ。
「うずまきもちゃんと履いたほうがいいよ。床に何が落ちてるかわからないから」
「……そうする」
屋敷の中は、私が冗談で言った通りになっていた。ドアというドアが一つもない。すべての部屋が開け放たれ、いわば一つの空間として繋がっていた。
それだけで屋敷のイメージはだいぶ変わる。良い意味でも悪い意味でも、部屋というものは閉じられているから部屋なのだ。
ある程度予想されたことだが――部屋から部屋へ移るたびに、べつの出来事が現れた。
お父様とお母様の昔のアルバムを皆で見ている光景。リビングでオリンピックをテレビ観戦している光景。食堂で年越し蕎麦を食べながら大晦日の二十四時を迎える光景。お母様が寝室で、結婚前にお父様からプレゼントされたという砂金の砂時計を見せてくれている光景。
私の知っているものもあれば、知らない――あるいは覚えていないものもあった。
しかし後者の光景も、間違いなく実際にあったことなのだろうという確かな実在感があった。私達が目にしているものは、すべてこの屋敷の過去だ。
その過去の中には、私の知らないものもあり。
そして相変わらず、冠奈だけが一向に現れない。
「姉さん」と私は言った。「もう気づいてるかな。姉さんだけ――」
「わかってる」と冠奈は遮るように言った。「コロンのお墓の光景を見た時点で、察しはついたわ。これは――全部私の思い出なのよ」
冠奈の思い出。
それが意味するところはもはや一つに絞られたようなものだが――私達はあえてそれを議論することなく探索を続ける。
私達はすべての部屋を一階から順に確認していった。
使用人達の部屋に足を踏み入れることには若干の抵抗があったが、事態が事態だけに確認しないというわけにはいかない。
私は心の中で謝りながら各人の部屋を回っていった。確かに冠奈の記憶であるということが、違う意味でわかる光景もあった。
たとえば雨傘の部屋に現れたのは、雨傘の前任者が生活している光景だった。冠奈は雨傘が屋敷にやって来て以降、彼女の部屋には入ったことがないのだ。
一階をすべて回り、二階をすべて回り――私達は三階へと辿り着く。
「ねえ」と私は二人に言った。「やっぱり、入らなきゃいけないよね?」
何のことを言っているのかは説明するまでもなかった。
三階にあるのはほとんどが普段使われていない客室で、重要な意味を持つ部屋は一つしかない。お父様の書斎だ。
この屋敷の中でもっとも堅固に閉ざされた、お父様の聖域のような部屋。
「抵抗は感じるけど、ここまで来たら入らないわけにはいかないわ」冠奈が言う。
「姉さんもあそこに入ったこと、数えるほどしかないよね」
「最後に入ったのは小学生の頃じゃないかしら。……羽子は入ったことある?」
「いちおうある。真都衣姉さんと一緒に入ったはず」
「そうそう、覚えてる。うずまき、お父様の椅子に座ってご満悦だったよね」
「……満悦してたかどうかは覚えてない」
書斎のドアもやはり存在しなかった。だから入り口に近づいた時点で、中が少し見えてしまう。
それだけで、我が家の大切な決まりを破ってしまったような背徳感が湧いてくるのを感じた。お父様は決して厳しく怖い人ではないが、屋敷においてその存在は絶対的なのだ。
私達は顔を見合わせ、最後のコンセンサスを取る。そして冠奈から順に、その聖域へと入っていった。
昔のお父様が本棚の前で何か本を探している。そしてその合間にちょくちょく、机のほうに向かって笑顔で話しかけている。
引き出しを開けてもいいけど、中身をめちゃくちゃにしないでくれよ――。
机のほうには誰もいない。しかし恐らく、そこに昔の冠奈がいたのであろうことが想像される。
「姉さんもあの椅子に座ってたわけね」
「そういうことになるかしら。この部屋に来て子供がやりたくなることといったらそれなんでしょうね。見たことないくらい立派な机と椅子だから」
「見て」と羽子が言い、部屋の奥を指差した。「あのドア」
私と冠奈はその細い指の差す先を見る。そこには羽子の言う通りドアがあった。
……より正確に言うならば、その先にある部屋はドアで閉ざされていた。他の部屋とは違って。
「あっちは寝室だっけ?」と私は言った。
「そうね。お父様が仮眠を取るのに使っていた寝室よ」
「どうしてここだけドアがあるんだろう。――ああ、考えてみれば私達の部屋もそれぞれお風呂場とかトイレのドアは消えてなかったけど」
「でもそういうのは部屋とはちょっと違うわね。この屋敷で、部屋の中に本格的な部屋がもう一つあるのはここだけよ」
その意味では――この部屋が、ドアで閉ざされた唯一の部屋ということになる。
「なんか――なんだろう、深い意味があるのかな。それとも、部屋の中のドアは消えないっていう法則に従ってるだけなのかな」
「……どっちみち入るんでしょ?」と羽子は言った。
「まあ、そうだね。入ってみるしかない。とりあえず最初の探索としては、この部屋が最後の締めくくりだ」
私は冠奈を見る。冠奈は小さくうなずいて、ドアへと近づいていき、ノブに手をかける。
ゆっくりとドアが開かれる。
「――ここ、姉さん入ったことある?」
「ないわ」と冠奈は答えた。「……ないはずよ」
「じゃあ、この中では何も見えないのかな。もし姉さんの思い出が現れてるのだとしたら」
「そうなるかしら――とにかく、入ってみましょう」
私達は順番にその入り口をくぐっていく。
冠奈と羽子に続いて、最後に私が入ったとき――それは現れた。
◆
ベッドには、裸のお父様が仰向けに横たわっている。昔のお父様ではなくいまのお父様だ。しかし体はよく鍛えられ、まるで若者のように引き締まっている。
そのお父様の上に――同じく一糸纏わぬ姿の糸氏さんがまたがっている。
その頬は上気し、その表情は普段の糸氏さんからは想像もつかないほど、恍惚に満ちている。
二人は腰のところで繋がっている。
お父様が糸氏さんの太ももを両手で掴んでいる。
糸氏さんはそこから逃れようとするかのように腰を浮かせ、そしてまたそれをお父様の元へと深く沈み込ませる。そのたびにお父様と糸氏さんの両方から艶めかしい声が漏れる。それが時に素早く、時にゆっくりと繰り返される。
お父様の両手が糸氏さんの太ももから上に伸びていき、その豊満な胸の先を指で挟み込む。
糸氏さんがびくりと体を震わせる。しかし腰の動きを止めようとはしない。
糸氏さんはお父様の体に倒れ込むようにベッドに手をつき、その腰の動きに前後のグラインドを加える。
まるでお父様のものを飲み込んでしまおうとしているかのように。
そこから生まれる快楽を、ただのひとかけらも逃さず食い尽くそうとするかのように。
◆
「うずまき!」と咄嗟に私は叫び、羽子の前に出てその顔に抱きついた。「見ちゃ駄目!」
「……大丈夫」と胸元で羽子は言った。「こういうのネットでよく出くわすから」
「そういう問題じゃなくて!」
私は言いながら、冠奈のほうを見た。本当は冠奈にも同じことをしたいが、体が足りない。
「姉さん」
冠奈は返事をしない。私はその表情を窺う。
しかしそれは私の予想に反して、驚愕にも憤怒にも悲哀にも染まっていなかった。冠奈はまったくの無表情で、ベッドの上で繰り広げられる痴態をただただ眺め続けている。
「……思い出したわ」と冠奈は抑揚のない声で呟いた。「全部、思い出した」
そう、私も思い出した。先日、この書斎で糸氏さんから聞かされたことを。あの血だまりを。そして自分が抱いた、この世界の正体についての確信を。
ここは冠奈の世界だ。私達は、混乱し一時的に自分の世界に閉じこもってしまった冠奈の意識の中に、存在の――魂の一部を引きずり込まれてしまったのだ。
「真都衣姉さん」と羽子が言った。「もう離れて平気。エロ動画、消えたみたい」
私はベッドを見る。そこにはもうお父様の姿も糸氏さんの姿もない。
脱力感から一つ大きなため息をついて、私は羽子を解放する。――そして冠奈に向き直る。
「姉さん――」
大丈夫、と訊ねようとして、私は言葉を止めた。
冠奈の目から、一筋の涙がすうっと流れ出た。
冠奈はそれを拭おうともせず、ただ黙って誰もいなくなったベッドを眺め続けている。まるで冠奈にはまだ何かがそこに見えているかのようだった。
それを最後まで見届けなくてはならない義務があるかのように、冠奈は泣きながらベッドを凝視し続けた。
私と羽子は黙って冠奈の姿を見つめていた。決して声をかけてはいけない時間であることが私達にはわかった。冠奈はいま、何かに遭遇している。そしてそれと戦っている。その決着がつくまで、私達は見守るしかないのだ。私達に参戦する権利はない。それは冠奈個人の戦いだからだ。
……どれくらいのあいだ、そうしていただろう。腕時計はしていたが、ここに着いてからずっと時間を計るという発想がなかったからわからない。五分ほどだったようにも思うし、一時間以上ずっと固まっていたようにも感じられる。
やがて冠奈がハンカチを取り出し、自分の涙を拭う。
「……お化粧、崩れちゃったわね」と冠奈は静かに言い、私と羽子を見た。「私、いま酷い顔してるでしょう?」
「こんなときでもお化粧を忘れない姉さんの美学の証だよ」私はそっと微笑む。
「そう言われると救われるけど。車に戻ったらまずこれを直さなきゃ」
「ここでの用件は――もう済んだということでいいのかな」
「ええ」
冠奈は断言する。その目には力強さが戻っている――いや、いつにも増して力強い何かが宿っている。
自分の中の暗闇に戦いを挑み、勝ったことも負けたことも踏まえて獲得した新たな力強さだ。
「真都衣、羽子」と冠奈は言った。「ありがとうね、ついてきてくれて。そして――ごめんなさい。おかしなものを見せてしまったわ」
「まあ、私達は好きでついてきたわけだし、おかしなものはどう考えても姉さんの責任じゃないし。ねえうずまき?」
「お父様が悪い」
羽子は渋い顔で絞るように言う。ショックはあるはずだ。私ですら最初はショックだったのだから。
冠奈は私と羽子の目の前までやって来ると、私達の頭にぽん、と手を置いた。本当に久しぶりの動作だ。
「戻りましょう」と冠奈は微笑んだ。「私達の、本物の屋敷へ」
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