第十章 融和
良い意味でも悪い意味でも、日々は穏やかに過ぎていく。
最初に倉庫と厨房が元通りになってからさらに十四日後、つまり初日から数えて二十九日目の朝、
これにより、私達がかなりの長期にわたってこの世界で生活していけることが確定した。
「とてもクリーンです、感激です」と春沙さんは妙に昂ぶっていたが、もちろんそれは肝心の時間帯に部屋に入り込むのが危険であるということを意味するわけで、日付をきちんと確認し、その夜には決して立ち入らないことが改めて求められた。
土地が変われば、ルールも変わるのだ。
◆
やってやれないことはないのだが、基本的に私は祠に対して何かを隠すということを経験して育っていない。
彼女にはいままで、両親にも言いにくいことまで含めて、あらゆることをさらけ出してきたのだ。いまさらそんな大きな秘密を抱えてポーカーフェイスを貫くことは窮屈極まりなかった。
……それゆえに、祠の側が私にそんな秘密を抱えていたことにショックを受けたわけだが。
だからある日、私は祠に正直に打ち明けた。ちょっとした成り行きで、祠の「お務め」について知ってしまったことを。
祠は顔を真っ赤にして慌てふためいた。未だかつて彼女が私の言葉でそこまで動揺を見せたことはない。私に対して隠し通すことが彼女にとってどれだけ絶対のことであるのかが痛いほど伝わってきた。
私はそんな祠に、大丈夫、私はもう受け入れているから――と言いながら、彼女のその素振りにおおいに安心感を抱いていた。
祠は
糸氏さんはお父様とのことをクールに話して聞かせてくれた。それはいかにも糸氏さんのイメージだ。
でも私にとっての祠はまったく違う。そういうことを顔色一つ変えずに話すことのできるタイプではない。
まさにその通りの反応をしてくれたことで、私の中の祠のかたちが何もかも崩れてしまうことは避けられたのだ。
「……では、本当に許して下さるのですか?」と伏し目がちに祠は言った。
「許すも許さないも、それがお父様の頼みだったんでしょ? それで、祠もつらいとは思ってなかったんだから、私がどうこう言うことは無いというか」
「お嬢様」祠が少し潤んだ目を私に向けた。「正直、私のことを淫らな、エロゲーみたいな女だと軽蔑なさったのではないですか?」
「エロゲーって……いや、ごめん最初ちょっとだけ不潔だと思った。でももう平気。お父様とあなた達には独自の価値観があって、その中ではきちんと品位も節度も保たれてるって納得することにしたから」
「お嬢様――」
祠は私に抱きつく。私は泣いている子供をあやすみたいに、その頭をゆっくりと撫でた。
昔はよく祠にこうしてもらっていたものだ。逆の立場になるのはこれが初めてのことだが、悪い気はしなかった。大人にだって、たまには誰かにあやされたいときもあるだろう。
◆
屋敷の中における羽子の出現頻度は、明らかに高くなった。
これまでは図書室の他は夕食時の食堂でしかほぼお目にかかれなかったその姿を、あちらこちらでちらほらと見かけるようになった。
いちばん顕著な変化は朝食と昼食を自室の外で摂るようになったことだ。
それは食堂だったり厨房だったりバルコニーだったりしたし、毎日同じ時間帯でもなかったから、この時間にここで待てば必ず会えるというものでもなかったが、羽子との自然な接触の機会は確実に増えたといえる。
羽子なりにけっこう努力していたのだと思う。
すでに述べたことだが、引きこもってからの羽子は屋敷の中を移動することをほとんど憎んでさえいるように見えた。
そして本来自分が移動するぶんを、すべて
付き人がいるというのは多かれ少なかれそういうことなのかもしれないが、羽子のそれは明らかに極端だった。そして困ったことに、その生活スタイルは羽子の感性にとても合ってしまっているようだったのだ。
でもどうやら、そのままではいけないという気持ちは持っていたらしい。
「最近、アクティブだね」と私がからかうように言うと、羽子はほんの少しだけ恥ずかしそうに「することが半分なくなったから」と説明した。
「でもそのぶん、本をもっとたくさん読むって選択肢もあるわけじゃん?」
「……姉さんは私にどうなって欲しいの?」
「そりゃあもちろん、あんたの好きなように生きて、それがちょうど私達のことも嬉しくさせるようなものになってることだよ」
「欲張り」
「いまさら気づいた? 私は家族のことに関しては欲張りなの」
何と言っても微笑ましかったのは、少しずつ少しずつぎこちなさが解れていく冠奈と羽子のやりとりだった。
食堂のテーブルにおいて、この二人の席は隣同士である。
でも羽子が引きこもってからというもの、二人のあいだで食事中に会話と呼べるようなまともな言葉のキャッチボールが行われることはまったく無かった。
あるとしたら、冠奈が棒の先で恐る恐る虫の死骸を突っつくようなご機嫌伺いをして、羽子がせいぜい三文字か四文字くらいの身も蓋もない回答をするというだけの、聞いているだけで気が張ってしまうような問答だった。
それがいまでは、どうやら会話らしきものが成立している。
世界観がだいぶ異なるとはいえ、もともと二人とも会話のネタは豊富に持っているので、当人達の気持ちが噛み合いさえすれば、話は自然と弾んでいくのだ。
姉と妹が打ち解けていくのを見ているのは、とても感慨深いものがあった。お父様とお母様がいまの二人を見たら、きっと大喜びすることだろう。
そして羽子と共に忘れてはいけないのは、雨傘と冠奈の関係である。
ある日、私が暇を持て余して屋敷の中を徘徊していると、食堂に冠奈と羽子、そして羽子に付き添う雨傘の三人がいるのを見つけた。
私は咄嗟に数歩引き返し、三人がどんなコミュニケーションを取っているのかに聞き耳を立てた。
そこには確かに「三人の会話」があった。
これまではこの組み合わせから生まれるものといえば、冠奈から羽子への不器用な接触とその失敗しかなかったわけだが、いまはもう違った。
冠奈と羽子がお互いに言葉を交わしているのはもちろんのこと、冠奈から雨傘へも同じように親しげな言葉が向けられ、雨傘も多少気後れ気味ながらそれに受け答えしている。
冠奈はあの日言ったことを着実に実行してくれていた。この二人ももう、大丈夫だ。
◆
糸氏さんと
他の皆が日々の生活そのものに集中しているのと違って、銀見さんは周りの世界の把握と、元の世界に戻ったあとのことを重視していた。
毎日のように外気温を測り、望遠鏡で周囲に何か見つからないかを探し、屋敷の周辺を歩いてチェックしてくれた。
そしていつ世界が戻ってもいいように、彼はお父様の仕事に関係する書類やら何やらに毎日のように目を通していた。
次の瞬間に仕事のことを訊ねられてもあらゆることを答えられるようにしておく必要があります――というのが彼の言だった。その静かで堅固な姿勢を、私は尊敬する。
屋敷内の生活リズムを狂わすことなく毎日過ごすことができたのは、主に糸氏さんの功績だと言っていい。
彼女は祠と雨傘、そして春沙さんを率い、この何もない世界においても屋敷の中のすべての事柄を普段通りに進めていくことにこだわった。
掃除や洗濯や備品の確認といったあらゆる仕事を、使用人達は糸氏さんの指示のもと、これまでとまったく同じようにこなしていった。
このことは気持ちの安定の上で大きな意味を持っていたように思う。窓から外を眺めない限り、私達はまるで休暇をゆっくりと家で過ごしているような感覚で生活し続けることができたのだ。
世界がどんなになっても、糸氏さんは頼りになる女性だった。
◆
非日常の中の日常を、私達は少しずつの努力を掛け合わせ、磨き上げていった。
◆
十一月の末日、夕食の席にはいつもと少しだけ趣の異なる料理が並んだ。冠奈の十九歳の誕生日である。
「他にプレゼントとか用意のしようがない状況ですから、せめて料理だけはなけなしの特別感を出させて戴きました」と春沙さんは胸を張った。
「ありがとう」冠奈は微笑む。「誕生日、もちろん忘れていたわけではないのだけど、こんな状況だし、何も期待してはいけないと思っていたのよ。でもそうしたら、朝から皆に次々と祝福されて――いままでの誕生日の中で、ある意味ではいちばん贅沢な一日かもしれないわ」
「まあぶっちゃけて言うと、そろそろ何かイベントが欲しかったというのはある」と私は笑った。「そこへ来てちょうど姉さんの誕生日だったもんだから、血がたぎったといいますか」
「そういうのでも全然構わない。むしろ私の誕生日が役に立ったのであれば、それも本当に嬉しい」
「うわ、姉さん大人だ」
「さあ、そして冠奈お嬢様に次ぐ準主役」と春沙さんは言った。「材料の在庫と賞味期限のタイミング、ぎりぎり噛み合った奇跡の産物、バースデーケーキの入場です」
雨傘がワゴンを引いて食堂に入ってくる。その上には均等にロウソクの刺さった、ワンホールのケーキが乗っていた。
普段の我が家が用意するやや尊大なケーキと比べて見劣りすることは否めないが、しかし立派に装飾され祝福された一品である。
「あったんですよロウソク、小さいのが十九本」と些か興奮気味に春沙さんは言った。「二十本セットがまるまる残っていたんです。さすがに倉庫にある非常用のロウソクを刺すのはためらわれたところなので、感激しました」
「私はそれでも全然構わなかったけど……すごいわね、立派なケーキ。まさかここまでしてもらえるとは本当に思わなかった」
雨傘がライターでロウソクに火をつけ、ケーキを冠奈の前に差し出す。
「それでは」と春沙さんは言った。いつの間にか司会のようになっている。「十九本、ちょっと大変かもしれませんが一気にお願いします」
冠奈が大きく息を吸い――円を描くように火を吹き消していく。見事に一息で最後の一本まで消したのを見届けてから、皆は一斉に拍手をした。
「ありがとう」ともう一度冠奈は言った。これまでの誕生日には見られなかった、何か特別な照れのようなものがそこには見られた。
春沙さんがナイフを熱し、ケーキを切っていく。八人なので、ちょうど半分の半分の半分、八等分で切り分けられる。
一人分につき一つずつ、春沙さん曰く「ぎりぎり賞味期限の噛み合った」イチゴが乗っている。
ケーキをつつきながら、私は適当なタイミングで羽子にかねてからの計画の発動を促した。
「うずまき」
羽子は私と目を合わせ、それから間合いを取るように一回ゆっくりと瞬きをし、冠奈姉さん――と左隣の冠奈に言った。
「何かしら?」
「あとで、私と
冠奈は目を丸くする。「プレゼント?」
「そう。だから部屋で待ってて」
◆
冠奈の部屋の前で、私と羽子は最後の打ち合わせをする。
「いい、恥ずかしさを捨てるのがポイントよ。あんたの意外性がウリなんだから」
「本当に言うの?」
「いまさら変更はありません」
私は言い、迷う間を与えないよう、すぐさまドアをノックする。
「どうぞ」という冠奈の声が聞こえた。
私はゆっくりとドアを開け、羽子と共に部屋に入る。
椅子に腰掛けていた眼鏡姿の冠奈が、立ち上がり、こちらへ近づいてこようとして――私達の手元に目を留めた。
先制攻撃とばかりに、私はそれを掲げて声を張り上げた。
「六玄木冠奈、生誕十九周年記念企画!」
「――姉妹水入らず、お風呂で裸のお付き合い、ぶっちゃけトークのお誘いー」
うずまき、よく言えた。
「……は?」と冠奈はあっけに取られた顔をする。
「まあ、文字通りのお誘いです」と私は言った。「久しぶりに三人で大風呂に入らない? それで死ぬほどお喋りするの」
冠奈は私と羽子の手荷物を交互に見る。どちらもコンセプトは同じだ――マイ洗面器にマイバスタオル、マイ石鹸にマイシャンプー、マイブラシ、マイバスローブ。
大風呂というのは、主にお客さんをもてなすという建前でこの屋敷に設置された、それはそれは大きくて立派なお風呂のことである。
私達の部屋に一つ一つ備え付けられているお風呂とはサイズが違う。小型のプールというと大袈裟になるが、実際ちょっと泳ぐこともできる。
私達はもっと幼かった頃、よく家族全員で大風呂に入った。
冠奈がそこそこの歳になるとそこからお父様が抜け、さらに大きくなるとお母様が抜け、私達三姉妹での入浴になった。
そしてここ二年くらいはご無沙汰になっている。
「糸氏さんに話をしたら、きれいに洗ってくれて、お湯も用意してくれた。まあもともと定期的に掃除はしていたみたいだけど」
「大風呂……何だか懐かしい響きね。誰がそう呼び始めたのだったかしら? 私?」
「姉さんだろうねえ」と私は言った。「まあ正式な名前なんて無いから、そのまま家族に定着しちゃったんだね。――で、このお誘い、受けてくれますか? うずまきも乗り気なんでぜひともご一緒したい所存なんですが」
冠奈は羽子を見る。羽子はそっと入浴セット一式を持ち上げて、小さな声で、乗り気――と言った。
「――わかったわ」とおかしそうに微笑んで冠奈は言った。「意外なプレゼントで少し驚いたけど、ありがたく頂戴します。すぐ用意するから、待っていてね」
◆
最初に私と羽子がお風呂場に入り、それから少し遅れて冠奈が入ってきた。
バスタオルで前を隠している冠奈に、私は容赦なく突っ込みを入れる。
「姉さん、姉妹のあいだで体隠してどうするのよ。堂々と晒していこう、私達みたいに」
冠奈は何か言いたそうにしたが、黙って言われるままになった。
「うわ、すご」と思わず私は言う。「こういうのをいわゆる美乳って言うのかな。うずまき、私達もあれを目指すのよ、あれを」
「恥ずかしいからやめて。あなたが言うと何か下品に聞こえるのよ」
久しぶりに裸で三人揃ったわけだが、ブランクが空いていたあいだの変化は三者三様だった。
冠奈はもともとスタイルの良い人だったが、いまや出るところは絶妙に出て、引っ込むところはしっかり引っ込んだ、親しみやすいモデルみたいな域に達している。
二次成長期まっただ中のはずの羽子は、身長こそ伸びてはいるものの、体型の面ではどうもあまり成長が見られない。胸らしきものがあるにはあるのだが、全体として空気抵抗が少なそうなフォルムである。とはいえ肌の白さときめ細かさは圧倒的だ。
私はちょうどその中間で、ごくごく一般的に順当に成長している――かというとそれは少し疑問で、やや逞しさが勝ちすぎている気がしなくもない。まあ、健康的であることに関してだけは自信がある。
私達は体を洗い、湯船に浸かる。本当に久しぶりにお互いの背中を流し合った。それだけで何だか昔に戻ったような感覚になる。
「やっぱ広いお風呂は良いね。開放感が違うわ」私は伸びをしながら言った。
「しばらく旅行もしていないものね」
「海外に行くとさ、お風呂が広くても水着じゃん。あれ私、駄目。癒される気が全然しない。やっぱりお風呂は裸じゃないと意味がないよ」
「……さっきから裸にこだわるわね」冠奈は言い、お湯でぱしゃっと顔を洗う。「でも気持ちはわかるわ。人間、何か着ているうちは、本当には気持ちを緩めきれないような気もする」
「うずまきはさ」と私は羽子のほうを見る。「昔から靴とか靴下嫌いじゃない?」
「……うん」
「あんたほどじゃないけどさ、私もわかるよそれ。窮屈さってあるもんね。まあ真冬はべつとしてもさ」
「足に何か履いてるとイライラするの」と羽子は言った。「頭の回転も悪くなる気がする」
「うずまきは極端な例かもしれないけど、それは特別なことじゃないよ、たぶん」
「私だってわかるわよ、それくらいのことは」
冠奈が言う。少し意外そうに羽子が冠奈を見る。
「上から下まで万年フル装備の姉さんが?」と私はからかう。
「それは身だしなみの問題よ。誰の目も気にしなくていいのなら、裸足でいたいときくらいあるわ。鬱陶しいもの」
「だってさ、うずまき。よかったね、私達けっこう同類だ」
「私は他人の目にしっかり映ることを目標にしてきたし、そういう風にしか生きていけない性格だから」と冠奈は自嘲気味に笑う。「羽子の伸び伸びしているところが羨ましく思うことがよくあるのよ。心のどこかでは真似したいと思ってる。する予定はないけどね」
「……自分が好き勝手しすぎてるのはわかってる」羽子は言い、少し身を沈める。
「まあ、中学でも靴下ほっぽらかしだったのは凄いと思うよ。うずまきの学校、ちゃんと制服もあるし、そんな自由な校風ってわけでもないんでしょ? 小学校は私達公立だったし、その頃は好きにできたのもわかるけど」
「生徒手帳の校則を読んだら、靴下は黒か紺に限るって書いてあった。でも靴下を履かなきゃいけないとはどこにも書いてなかった。……先生にもそう言ったら放っておかれた」
「校則の穴を突いたわけね。好き勝手というか、ある意味痛快だわ」
「公立の小学校と言えば――」と冠奈が言った。「あ、いいかしら、話が変わるのだけど」
「どうぞどうぞ」
「このあいだ、友達にどうしてもって頼まれて、ある男性と食事をしたのよ」
「え、なにそれ、デート?」
「デート……になるのかしら」冠奈は天井を見つめて少し考える。「よくわからない。とにかくその男性が私の友達を経由して、私と仲良くなりたいって近づいてきたの」
「自分で直接来ないところが何かちょっとなあ。ちゃんとした人だったの?」
「いちおうちゃんとしていたわよ。品は悪くなかった。ただ、私の家柄のことを気にしていたのかしら、やたらと自分の生活レベルを語る人だったわね。ドラマのモデルにもなったタワーマンションに一人住まいだとか、マンションの中はほとんど英語が公用語みたいな感じだから面倒だとか」
「ああ、そういう人ね。うずまき、わかる?」
「少しお金持ってるのはわかる」
「正しい理解だと思うわ。姉さん、それで?」
「それでね、食事中にこれまでの経歴の話になって、私が公立の小学校出身だと知ったら、その人すごく驚いていたのよ。私がずっとエスカレーターで大学まで進んだものと思っていたみたいだったの」
「イメージがそうなるのはわかるけどね」
「で、それはべつによかったのだけど――そのあとその男性が言ったの。公立の小学校なんて、後のエリート官僚と定職にも就かない下層階級が同じように机を並べている、めちゃくちゃな環境じゃないですかって」
「え、それはしらふで?」
「しらふで。私は最初それをうまく飲み込めなくて。それから少しずつ腹が立ってきたの。だって私の小学校生活は本当に楽しい記憶ばかりなんだもの。それをこの人は、恐らく実際には経験したこともないまま変な風に決めつけるんだ――って。自分が侮辱されたみたいな気持ちになった」
「殴ってやった?」
「まさか」と冠奈は笑った。「でも別れ際に、またお会いできますかって訊かれたから、気が向いたらそのうちに、とは言ってやったわ」
「うーん、いまいち効果が薄い気もするけど……まあ姉さんにしては攻めたほうなのかな」
「でも、許せないと思わない? 私達の通った小学校をそんな風に言われて」
「それは確かにそう。ただ……」私は腕を組んで小さくうなる。「見下してるかどうかは逆だけど、お父様が私達をあえて公立の小学校に通わせてたのも、理由は同じなんじゃないかという気もする。庶民の水準で庶民と接する機会を、小さいうちに積ませておこう、みたいなことだったんじゃないかな。直に聞いたことはないけど」
「そう――なのかしら」
「そうじゃなかったらたぶん幼稚園か小学校からエスカレーターだったと思う。中学受験なんてすることもなかったよ。そういう意味では、根っこは同じなのかなって」
冠奈は何かを占うみたいに両手でお湯をすくってしばしそれを眺める。
その両手を静かに合わせると、指のあいだから音もなくお湯がこぼれ落ち、湯船に戻っていった。
「――結局さ、私達は『いいとこのお嬢様』ということからは逃れられないんだよね」と私は言った。「うずまき、この前言ったよね。自分は恵まれてるから引きこもってもこういう生活ができるんだって」
「……言った気がする」
「そこは私達三人とも、似たり寄ったりなんだよ。例えばさ、姉さん。姉さんが最後に電車に乗ったのって、いつ頃?」
「電車」と冠奈は言う。そして考え込む。「電車――いつだったかしら。小学生の頃に社会科見学みたいなので、皆で乗ったけど……」
「普通、大学生でそれってあり得ないんだよ。高校もそうかな。よっぽど家から近いのでもない限り、皆電車で通ってる。付き人の車で行き帰りしてる学生なんて、作り話の世界にしか出てこないと思ってる人もたくさんいるよ、きっと」
「電車……」冠奈はもう一度繰り返す。刺さるものがある例だったようだ。
「そんなわけでさ、その男の人も、私達と似たような人種だったと思うんだ。で、私達とは違って素直にエスカレーターだったんじゃないかな。だからすごく驚いたんだろうし、偏見もちょっとは仕方ないのかなって思わなくもない」
「……真都衣はこういうとき、おおらかよね」
「いやいや、こだわりが無いだけ」私は言った。これは謙遜でも何でもない。
少しのあいだ、静寂の時間が流れた。
体が芯から温まるにつれて、良い具合に思考もふわふわとしてくる。羽子を見ると、彼女の真っ白い顔は桜色に染まりつつあった。
何となくちょっかいを出したくなって、私は羽子めがけて指でお湯を弾く。
「――っぷ」羽子が顔にかかったお湯を手で拭う。「なに」
「可愛いよねえ、うずまきは。うん」
「意味がわからない」
「いつも思ってることなんだけどさあ」と私は言った。「私ももう少し、お嬢様らしく生きたほうがいいのかな。姉さんはもう完璧にお嬢様だし、うずまきは自由奔放だけど、お嬢様の資質があると思うんだよね。そのへんがどうも私は弱い気がするの」
「気にしていたの? 気にしていないからそういう感じなのだと思っていたわ」
「姉さん、それけっこうきつい」
「……私に資質なんてあるのかな」
「あるよ。着る物ちゃんと着て、履く物ちゃんと履けば、深窓の令嬢の出来上がりよ。読書は教養だし、無口はちょっと改良すればお淑やかさになるし、何よりあんたの場合、雰囲気が基本的にそれっぽいの」
羽子は少し首をひねる。自分ではそのあたりがよくわからないようだ。
「私も何か、お嬢様の嗜みとしてふさわしい趣味でも持ったほうがいいのかなあ。姉さんみたいにピアノとかバイオリンを習うとか」
「べつに私の真似をする必要はないと思うわよ」
「音楽もなあ、私が知ってるのは五分で終わる普通なのばっかりだし。姉さんはクラシックとか詳しいじゃない。お父様の持ってるレコードやCDもたくさん聴いてて。そういう積み重ねをいまのうちにしておかないと後悔するのかなあ」
「陸上部、頑張っているのでしょう? いまはそれで十分じゃないかしら」
「まあ、楽しいんだけどね。たださっきも言ったけど、お嬢様っていうレッテルからは逃れられないから――こっちから合わせにいかないと、将来困るのかなって」
「いろんなお嬢様がいていいと私は思うわよ。私は逆に、スポーツをもう少しやっておくべきかと思うこともあるの」
「姉さん、テニスサークルでしょ?」
「あんなのお遊びだもの」
「ふーん」と私は言い、羽子に話を振る。「うずまきは、毎日それなりに運動してる?」
「……柔軟体操とかは部屋でしてる」
「じゃあ体、柔らかいんだ」
私が言うと、羽子はおもむろに立ち上がり、湯船の縁に座って体を九十度回転させる。
両足をぴったり閉じて前に伸ばし、上半身を倒すと、羽子は折り紙を畳んだみたいに綺麗に二つ重ねになった。
「ああ、これはすごい。ちゃんと毎日やってるんだね」
「学校行ってたときより柔らかくなった」と言いながら羽子は再び湯船に浸かる。「その頃はやってなかったから」
「うずまき成長期だから、ちょっと心配してたんだよね。動かなさすぎると後々に悪い影響が出るんじゃないかって」
「でも体力はたぶん無い。……私も走ったほうがいいのかな」
「併走してくれる人が出てくるぶんには、私はいつでも歓迎するよ。明日からでも」
「羽子の体でいちばん羨ましいのは視力だわ、私」と冠奈が言った。「あんなにしょっちゅう本を読んで、モニターを見つめていて、まったく目が悪くならないというのはどういう仕組みなのかしら。私は小学校の終わり頃にはもう落ちてきていたのに」
「私も悪くならないなあ」
「真都衣は何となくわかるのだけど……」
「どういう意味よ」
「他意はないわ。とにかく私だけこんな酷い近視というのは不公平な気がする。ただただ遺伝の問題なのかしらね」
「うずまきはあんまり変化しない生き物だから、比較するといろいろつらいかもね」
「そんなことはないでしょう。羽子もきちんと背が伸びているものね?」
冠奈が羽子に微笑む。羽子は湯船の底で伸ばした足下を見つめながら、でも背が少し伸びただけ――と呟いた。
「目は悪くならないけど、胸も大きくならない」
「ときどき妄想しちゃうんだよね。うずまきは三十年くらい経っても、ほとんど見た目がいまのままなんじゃないかって。永遠に歳を取らない種族って言われても納得しちゃいそう」
「そんなことを言っているうちに、否応なしに大人になるわよ」
「わかってるけど、さ」
私は苦笑する。冠奈も羽子も何も言わない。
私は目を閉じて、はー、と大きく息をついた。お風呂というのは本当に気持ちのいいものだ。お湯を貯めてそこに入るという行為の歴史はかなり古いとどこかで見たことがある。素晴らしい発明だと思う。
「……みんな大人になるんだよね」とふいに羽子が言った。
「そうだよー」と私は目を閉じたまま言う。「姉さんなんか、いよいよあと一年で大人の仲間入りだ。そうすればお酒も飲めるし煙草も吸える」
「煙草を吸う予定はないわね。お酒は社交的な意味で必要だと思うけど」
「大人になったら」と羽子は言った。「いつか離れ離れになる」
「まあ、全員がお婿さんもらってこの屋敷に住み続けたら話はべつだけど、現実的に考えればそうはならないだろうしねえ。いつかは私達もそれぞれの生活をするようになるわけだ」
私はふと気になって目を開け、羽子を見た。その表情は心なしかほんの少しだけ曇っているように見えた。私は湯船の中を立て膝で移動し、羽子の隣につく。
「そうなったら寂しい?」
羽子は黙っている。私はそんな彼女の顔を覗き込んで、優しく微笑む。
「ん?」
「……寂しい」と小さく、本当に小さく羽子は言った。
「そっか。そうだよね、寂しいよね。もちろん離れ離れになるってことはそれぞれ新しい出会いがあるってことだから、独りぼっちになるのとは違うけど。でもいままでずっと一緒に暮らしてきたんだものね」
「――私は、しばらく家族を無視してた。でも家族が嫌いなんじゃない。本当にいなくなったら、それはすごく――」
羽子はそこで言葉を止める。感情にぴったり合う言葉が見つからなかったみたいだ。
私は羽子の横顔を指先で撫でる。
「でも、もうしばらくは一緒だよ。姉さんが急に結婚でもしない限りはね」
「それについてはまったくの白紙ね」
「だそうだ」
私は言い、羽子を小脇に抱える。
何事かと驚いている羽子ににやりと一つ笑いかけると、私は湯船の中を再びずかずかと移動し、羽子と二人で冠奈の胸に飛び込んだ。
「な、なによ」
飛び込まれた冠奈は焦ったような声を出す。
私はそんな冠奈の顔を間近で見つめ、それから羽子の顔を見つめ――二人に向かって宣言するように言った。
「ずっと一緒というわけにはいかない。でもしばらくは一緒。……仲良くやっていこうよ。いつか離れるときまでは。いや、もちろん離れてからも」
二人はとても真剣な顔で私の言葉を聞いていた。
やがて冠奈は慈しむような微笑みを口元に浮かべ、そして羽子も――本当に久しぶりに、純真な笑顔を見せた。
「うん」と羽子は言った。
「最初に離れるのはたぶん私だけど――けっこう粘ると思うわよ」と冠奈は言った。
「いまはこんな奇妙な世界にいるけど」と私は言った。「必ず何とかなる。道は開ける」
「……名著ね」
「読んだことある」
「え?」
「有名な本のタイトルよ」と冠奈は言った。「知らずに言ったの? いつか読むといいわ」
◆
私達はのぼせ上がるまで延々と、とりとめのないことを話し続けたのだった。
――そしてその翌日。文字通り、道が開かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます