5
楽屋泥棒の一件から一週間ほど経った頃。あの少女がこの町を離れることになったと、誠一郎は椿月から聞いた。
役者を諦めるとか、劇場に悪い印象を持ったとかいうわけでは決してない。
実は、以前から勧められていた、弱い握力を治すための手術を受けるそうだ。
手術は大変なものだそうだし、術後の回復や訓練もかなり根気よく時間を要するものだという。
単に手術が怖かったということもあり、少女はこれまでは手術を受けるつもりはなかったのだが。
今回の事件で、自分が逮捕されるかもしれない、夢が絶たれるかもしれないというとき、「こんなことなら手術をしていれば、役者になるために全力を尽くしていればよかった!」と強く思ったそうだ。
悔いを残したくはないと、今回ようやく心を決められたらしい。
役者になるために必ず戻ってきます、と少女は椿月に約束した。
劇場からの見送りには、誠一郎も同席した。椿月は彼に、「少し寂しいけど、きっとこれが一番いいのよ」と笑ってみせた。
そして。
まだまだ残暑厳しい、ある日。
今日は、椿月が改めて深沢家にやってくることになっていた。
彼女が「今度また、ちゃんとあなたのおうちに行ってみたいわ」と言うので、誠一郎はすぐに快諾した。
しかし、家に帰ってみて、この汚くておんぼろの家に椿月を呼ぶなどなんということを引き受けてしまったのだろう、と激しい後悔の念にさいなまれた。
最後にいつ掃除をしたかも思い出せない我が家を、出来る範囲で整える。
物の片付けや掃除でどうにかなる部分はまだいいのだが、そもそもこの家はもとから古くてボロボロだ。床が抜けかけている場所だとか、雨漏りしている箇所だとか、隙間風を板きれでふさいでいる場所だとかはどうにもならない。
やるだけのことはやって、もうこれ以上は仕方がない、と半ば開き直るようにして諦めた。
彼女が来る日、近くまで迎えに行くと申し出たのだが、一人で行きたいの、と言われてしまった。
なので仕方なく、誠一郎は家の前で彼女を待っていた。
この暑さと、家ということもあり、いつもの袴姿をする気にはなれなくて、引っ張り出してきた薄手の布地の着物に身を包んでいる。
残暑とは名ばかりの、強い夏の日差しを受けながら道の向こうをながめていると。
奥の方からこちらにやってくる女性の姿が見えた。
薄物の着物は白地に涼しげな薄い青で植物の柄が描かれていて、帯は深い瑠璃色。淡い水色の風呂敷包みを抱えている。
袴姿が多い普段の椿月からすると、ずいぶん雰囲気が違って見える。何より一番異なっていたのは髪形だった。
椿月は視界に誠一郎の姿を認めると、手を振って足を早めた。
目の前までやってくると、誠一郎は挨拶よりも先にまずこう言った。
「……今日は髪を上げているんですね」
いつも下ろされている長い髪が、まとめて頭に持ち上げられている。首もとがすっきりして、首筋の白さがよく分かる。
「暑かったから……。どうかしら?」
椿月が尋ねてきたので、誠一郎は「似合ってると思います」と簡潔に答えた。
実際は、脳内で小説を一作完成させられるほどの感想が繰り広げられていたのだが。
非常に勝手な考えだが、誠一郎は、その特別な姿を自分以外には見せてほしくない、なんて思ってしまう。
玄関に入ると、椿月は風呂敷包みを開き、彼に手土産を手渡した。木箱に入った水ようかんだった。
「あとで一緒に食べましょう」
そう言ってほほ笑む椿月。
人の家にあがるときは手土産を持参する、という礼儀を誠一郎は久々に思いだした。
廊下に差し掛かったとき、椿月は「わっ」と声をあげた。
「辰巳が言ってた通り、すごい音がする床ね」
ギシと音が鳴る板張りの床を、好奇心から恐々何度か踏んでみる。
誠一郎は、自分が普段から思っていることを、椿月も同じ場所で同じように感じていることをなんだかおかしく、面白く思った。
「僕が歩いて大丈夫ですから、椿月さんなら跳ねても平気ですよ」
彼はそう言うが、椿月はそんなことを試す勇気はわいてこなかった。
「いつもどこでどうやって過ごしているの?」と質問されたので、大したところではないが誠一郎は家の中を案内することにした。
書斎机があるだけの、殺風景な原稿を書く部屋。椿月が来る前に、大量に散らばった原稿用紙と資料用の本はふすまの奥にしまい込んだ。
寝室の万年床は、久々に片付けたらその部分だけ畳が変色していた。
「お布団、いつもは敷きっぱなしなのね」
椿月にクスクス笑いながら指摘されて、すぐ見抜かれた。
神矢がいつも本を借りに来る、ただ本棚が無秩序に置いてあるだけの部屋。そこも椿月は見たがったのだが、あそこは手が回らなくて、というかどこから手をつけていいのかすら分からなくて、一切掃除をしていなかった。
かなり散らかっていてホコリっぽいことを事前に断った上で案内する。
彼女は部屋の汚さよりも、その本の量に驚いていた。
「ここにある本、全部読んだことあるの?」
「……多分、九割くらいは読んでると思いますよ」
彼女は目をパチパチさせて「すごいわね」と感心していたが、彼からすると昔からまるで水を飲むように本を読むので、逆に、こんなことで感心してもらえるのかということに驚いた。
部屋をある程度まわりきると、二人は居間に腰を落ち着けた。
居間の脇の障子が引かれ、縁側から殺風景な庭が見える。真上から降り注ぐ強い日差しで庭は光るようにまぶしく、対照的に部屋の中がやけに暗く感じられる。軒からは古びたすだれが無気力にぶら下がっていた。
汗ばんだ肌をうちわでを扇ぎながら、椿月が家の感想を言う。
「ずいぶん広いのね」
「僕が住む前は空き家だったんですが、その前は大家族が住んでいたみたいですよ」
どうしてこんな広い借家に住んでいるのか、祖父母と大家とのつながりなど、椿月に訊かれたことに答える形で、あらかたのこの家のことを話した。
会話がひと段落し、沈黙が訪れると、誠一郎はこの風景をとても奇妙なものだと思った。
いつも自分が一人で過ごしている場所に、椿月の姿がある。起きながらにして夢をみているかのように、なんとなく現実味が感じられなかった。
それから。
会話が途切れたのを利用して、誠一郎はまたあのことを口にした。
「あの……。あの時は、本当にすみませんでした」
彼の謝罪の言葉に、椿月は彼の顔をじっと見つめる。
あれ以来、誠一郎は会うたびに必ずそのことを詫びる。
そのたび、「気にしてないから、もういいわよ」と椿月は言うのだが、いつも彼は深刻そうな顔をする。
なので。
椿月は四つんばいで彼の方ににじり寄っていくと、おもむろに手を伸ばした。
「んわっ……?!」
椿月が聞いたこともない、誠一郎としても自分がこれまで上げたこともない、気の抜けた悲鳴のような声。
椿月が彼の脇腹をくすぐったのだ。
「ふふっ、変な声」
楽しそうにクスクス笑う椿月。
そして彼にこう伝えた。
「ねえ。お互い様だから、もう謝るのはやめましょう。今日は久々に、あなたと楽しくお喋りがしたいわ」
優しくほほ笑む椿月に、誠一郎は夏の暑さのためか、はたまた恥ずかしさのためか、頬を少し赤く染めながら「はい」と返事した。
それから、椿月が手土産で持ってきた水ようかんを二人で食べようとしたのだが。
椿月が何の気なしに「冷やしたほうがもっと美味しいんだけどね」とこぼしたので、誠一郎は「買ってありますよ、氷」と答えた。
今日は朝からとても暑くなりそうだったので、氷売りが来た時に多めに買っていたのだ。
氷を詰め込んでおいた木製の冷蔵庫の中に、水ようかんの木箱を押し込む。
食料を冷やす以外にも、自分で使うものも考慮して多く買っていたので、水ようかんの木箱に押し出される形で氷がはみ出た。
それを見て、椿月がこう提案する。
「ねえ、たらいか何かないかしら? 氷水を作って足を浸けるの」
ピンときた誠一郎は、庭の片隅にある物置に向かった。
ここには大家が色々なものを詰め込んだままにしていて、自由に使っていいと言われていたのだが、これまでほとんど開く機会がなかった。
中を調べてみると、予想通りそこには大きなたらいがしまってあった。古びてはいるが、水を溜めてみても漏れなどはない。
椿月の期待に応えて、行き場のなくなった氷をそこに浮かべた。
軒が日差しをさえぎり日陰になった縁側に腰掛けて、彼の作業を見ていた椿月が、用意された足元のたらいに足を浸けてみる。
「あっ、冷たい!」
そう声を上げて、楽しそうにはしゃぐ。
彼女が足を動かすたび、パシャパシャと涼しげな音がする。
作業を終えて同じく縁側に腰掛けた誠一郎が、そんな彼女をながめていると。
椿月が、
「ねえ、誠一郎さんも一緒に」
と誘う。
彼女は自分の片足をたらいの外に出して、彼の片足を入れるための空間を作った。
誠一郎は彼女のそばに座りなおして、遠慮がちに片足を浸す。
同じ人間のそれとは思えないほど、大きさの全然違う二つの足が、隣に並ぶ。
「……冷たいですね」
「でしょう?」と、椿月はふふっと笑う。
普通に浸していることに飽きてくると、椿月はふざけて足先で水滴を飛ばしたり、誠一郎の足をいたずらに踏んでみたり、ちょっかいを出しはじめた。
「ほら、誠一郎さんもやってもいいわよ」
笑いながらそう言って、自分の足を彼の方に差し出す椿月。
「できませんよ」
夏の日差しのいたずらか、誠一郎は柔らかな表情で目を細めた。
あっという間に氷は溶けてなくなり、水の冷たさも感じられなくなってきた。
それでも二人は静かにそこに腰掛けていた。
椿月はおもむろににじり寄って、彼との距離を詰める。
そして、そっと静かに彼の方に身を寄せた。
女優としての姿の時でならともかく、普段の姿の時にこんなに接近されるのは初めてのことで、誠一郎は反射的に緊張した。でも、その緊張感は決して不快なものではない。
水を感じる足と、彼女の熱を感じる腕と肩。
残暑の熱気の中、彼女の身体の熱を愛しく思いながら、どこからか聞こえる風鈴の音に耳を澄ませる。
結局渡されることはなかった、椿月への想いを綴った手紙が、引き出しの中から二人を優しく見守っていた。
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