いつ痛みが来るのか。一秒後には声も出せない激痛に見舞われるのか。もしやもう自分は気を失っているのか。


 時間の感覚も、聴覚も視覚も嗅覚も何もかもが消え、色々なことが頭の中をぐるぐると回って、しばらく。


 自分の腕の中で何かがもぞもぞと動いている感覚で、五感が現実に引き戻された。


「撃たれて、ない……?」


 彼女の体越しに確認する、きちんと動く自分の掌。


 震える吐息を漏らしながら、彼は自分の体の感覚を取り戻していく。


「君たち大丈夫か?!」


 その声の主は、この劇場の館長だった。


「椿月……! 心配したよ……!」


 涙ぐむ館長の後ろには劇場関係者らが彼女の身を案じ集まっていた。その中の数人は、先生をがっちり床に押し付け、取り押さえている。


 その光景を見て、彼はようやく、自分はもう気を抜いてもいいのだと分かった。それでもまだ体を硬直させながら、長い長い息をついた。


 そこに、館長から遠慮がちに声をかけられる。


「あのー……君、もう大丈夫だから、そろそろ椿月を放してあげてくれないか? 多分、息が出来ていないと思うんだ……」


 そう言われてハッと自分の胸に視線を落とすと、彼女は必死に指先を動かし体をくねらせて彼の腕から脱出しようともがいていた。


「ぷはぁっ……!! し、死ぬかと思った……」


 ようやく開放された彼女は、大きく肩で息をして体中に酸素をめぐらせた。


 ずっと彼の胸板に押し付けられていた顔は、あまりの力の強さに赤みを帯びている。しかし、特に彼女に怪我はなかったし、声の具合からも元気そうだった。


 それを確認すると、館長は涙を流して彼女の無事を喜んだ。きっと、年齢差的にも彼女を我が子のように思っていたのだろう。


 自分の誤った憶測でそう思い込んでしまったのか、先生にそう思うよう仕向けられていたのかは分からないが、今回の事件の犯人は正直館長ではないかと密かに疑っていた彼は、心の中でそのことを非常に申し訳なく思った。


 館長はこう説明する。


「椿月が逃げ出すはずがないと最後まで信じてくれていた皆で、ずっと劇場内外や周辺を探していたんだ。その時、旧劇場の方から彼女の名前を呼んでまわる君の大声が聞こえてきてね。まさかと思って思考にも浮かんで来なかったんだが、もしかしたら旧劇場に居るんじゃないかと思いついて、皆で駆けつけたんだ」


 自分が彼女を呼ぶ大声が、こんな形で二人の身を救ってくれたとは。彼はまるで物語のようだと思った。同時に、自分はそんなに響き渡る声で必死に彼女の名前を呼んでいたのかと、少しだけ気恥ずかしくなった。


 皆が彼女の無事を喜び、駆けつけた警察に先生を引き渡した後。


 館長は改まり、彼女にこう伝えた。


「今からなら、夜公演はなんとか間に合うかもしれない。他の皆も劇場で椿月を待ってくれている。どうたい、できるかい?」


 その提案に彼女はハッと息を飲み、「もちろんです!」と即答した上で「やらせてください、お願いします」と深く頭を下げた。


 彼女のおじぎをきっかけに、皆が慌しく支度に取り掛かる中。


 最後に彼女は彼に向き直って、その湿った瞳で顔を見上げた。


「私、この舞台は、あなたのためにやるから……。必ず見に来て。お願い」


 彼女の言葉に、彼は今度こそ「はい」とうなずいて返事をした。口数は少ないし、言葉も上手でないけれど、その瞳の誠実さだけは揺るがない。


 彼女は彼と見つめあい、「ありがとう。頑張るわ」と伝えた。




 そして。定刻より大分遅れたが、幕が上がる。


 いつもの派手で色っぽい衣装と特徴的なカツラで着飾った悪女として出てくるのでなく、彼女は袴姿に黒髪を下ろした姿で舞台に現れた。


 会場の反応は芳しくはなかった。それもそうだろう。女優・椿月はあの姿でこそ多くの人に認識されているが、この姿では全くの無名役者と同じなのだ。


 それでも、悪女役で有名な女優「椿月」としてでなく、どこの誰とも知れない無名の役者として出ると決めたのは彼女自身だった。




 この劇の話はこうだった。


 女優を目指す純朴な少女が、舞台で売れるために本来の自分とはかけ離れたキャラクターを演じることになる。


 役者になんて何のツテもない、舞台や演技のことなどほとんど知らない小娘が、小さな町の劇場の出入り口で、門から出てくる関係者たちに「話を聞いてもらえませんか。女優になりたいんです」と直球で頼み込んではあしらわれ、朝から晩まで毎日そこをうろうろとする。


 男はその場面で、椿月が見かねて声をかけてきた、自分のヘタクソな聞き込みを思い出した。


 彼女はなんとかやらせてもらえた掃除や小間使いなどの手伝いの傍ら、袖から舞台を覗いて勉強し、端役をもらえるようになる。


 真剣に役に取り組む彼女は、元々の自分と舞台の自分、乖離していく二つの自分に悩む。次第に今はどの自分なのか、境目が分からなくなってしまった。


 見た目や舞台上での演技だけでなく、演じるキャラクターの格好をしていると、どんどん気が強くなったり普段の自分では出来ないような行動までできるようになってしまう。


 ついには舞台の自分がもともとの自分を侵食しはじめる。


 久々に会った、彼女が昔から慕っていた故郷の男性に、失望の眼差しでこう言われてしまう。


「きみはそんな風に媚びて笑う女だったか?」


 女優になる夢を後押ししてくれたの人からの、これまでの努力と今の自分を否定されたにも近いその言葉。


 それがひどくショックだった彼女は、女優になる夢も何もかも捨て、彼のためだけに生きようと決意する。


 舞台での全てを捨てて役者をやめ、昔の、元の自分の格好をし、彼に会いに行く。


 しかし。その時にはもう何が“素の自分”だったのか分からなくなってしまっていた。


 慕う彼に「これからはずっとあなたと一緒にいます」と伝えたかったのに、うまくふるまえなくて。思わず、舞台の上の自分であるかのように気持ちを饒舌に述べて見せる。


「好いた男の前でも、きみはそうして一生演技をしつづけるのか?」


 もうどうやっても受け入れてもらえないことが分かりながらも、彼女は涙ながらに訴える。


「私は今、分かったのです。本当の自分なんていうものは存在しない……何も演じないで生きられる人はいない。私はどの私でも私です。あなたと一緒にいた頃の幼馴染の私も、舞台に立つ私も、今あなたの目の前に立つ私も、まぎれもない一つの私なのです」


 彼女の必死の言葉は、届くことはなかった。突き放す言葉だけを残され、彼女はその場に崩れ落ちる。


「どうしたら、あなたが一番好きな私を演じ続けていられたの……?」


 女優になる夢も、慕っていた男性に思われることも、もう何もかもなくしてしまった。


 失意の彼女は、故郷の町も、役者として活躍できるはずだった土地も、去った。ひとりいなくなった彼女の行方を知るものは、いない。




 物語は悲劇で終わっていた。


 今日の彼女は、舞台での彼女の真骨頂としての「毒々しい花」としてではなく、等身大の少女として舞台に立った。


 彼は思った。この姿であればそれは見つけられないだろう、と。


 名前を聞き忘れ、劇場出入り口で彼女を閉館まで待ったあの夜。名悪女役の女優『椿月』としてでなく、ただの普通の少女として目の前を通ったのなら。


 彼はこの日、初めて舞台というものをきちんと見た。舞台に立つ人間の人生が体全体に染みこんできたような気がした。


 そして。こんなに離れているにもかかわらず、彼女の心と彼女の存在を、とても近くに感じられた。


 どうして彼女は、この舞台をどうしても見に来てほしいと言ったのか。今はなんとなく分かる。


 きっと彼女も、この舞台で演じた少女と同じで、舞台の上でないと上手に話せないことがあるのだ。


 この舞台上を逃したら、もう二度と伝えられなくなってしまいそうなこと。


 うまく言葉にできないものだが、それでも、彼はそれをしっかり受け取れたと、そう思えた。






 後日。


 二人は劇場ではなく、街中で待ち合わせた。


 調査のためでも、舞台のためでもなく。ただ、お互いに会うために。


 二人は市街の外れの並木道を歩いた。自分より背が低く小股で歩く彼女に合わせて、彼は歩調をゆるめる。歩く速度が落ちて辺りに目をやれば、厳しく長い冬で裸になっていた木々にも、気づけば緑が茂り始めている。


「昨日の舞台ね、正直なところあんまり評判が良くなかったらしいの。館長が言ってたわ。結局のところやっぱり、ある程度知名度のある人が、その人らしいことをしないと評価されにくいみたいね」


 そうあっけらかんと言ってみせる彼女は、自分のやりたかった舞台が評価されなかったことを全く気にしていない様子だった。


 彼女にとってはこの舞台で評価されるということよりも、この舞台をやるということ自体の意味の方が大きかったのだろう。


「そうそう。私が旧劇場に出入りしてた理由なんだけどね。誰も居ないからいつもあそこでこっそり着替えをしてたの。劇場関係者でも、あの悪女役の女優『椿月』が“この私”だってこと、知らない人がほとんどだと思う。ちゃんと分かってるのって、館長くらいじゃないかな……」


 “この私”と称する今の彼女は、年相応の娘らしい淡く明るい桜色の着物に、落ち着いた濃紺の袴を合わせていた。下ろした長い髪は、頭のところでかわいらしいリボンが結われている。


 彼女がこの姿なのは、劇場の外だからなのか、彼にあの舞台を見てもらったあとだからなのか。


 彼は、恐らく両方だろうな、と推測する。劇場の外では恥ずかしくて舞台の格好はできないと言っていた。でも、もしあの舞台を見ていなかったら、そもそもこうして外で会おうということにはならなかっただろう。


 彼女は両の手に小さな拳を作ってみせ、明るく言う。


「まあ、明日からは、また“悪女”を演じまくってやるんだから」


 そう元気に笑う彼女に、“あの舞台の話はあなたの過去の実話なのか”、と訊く勇気は彼にはなかった。


 だからその代わり、こう、彼女を肯定する。


「……良かったと思いますよ、僕は。昨日の舞台」


 彼女は彼を見上げて瞳をパチパチとまばたきさせ、小動物のように小首をかしげる。


「演技するというのがどういうことなのか、これまで演劇とは無縁だった僕にはまだよくは分かりませんが、あなたと居て理解できたことがあります。“人は誰しも、いつも何かしらの演技をし続けている”ということ」


 彼のつむいだ言葉に、彼女は足を止め、尋ねた。


「じゃあ……あなたも何かを演じているの?」


 彼も、更に一歩進んだ先で足を止め、意を決した。


「……ええ。気になる女性を前にしても、何も動じていないふりをするのは、僕の一番の得意演技です」


 彼女は目を見開いて、小さな両肩をびくっとはねさせた。


 思わず見上げた先の、彼の耳のふちが赤く染まっている。


 彼女の両の頬も、桜色に染まる。


「え……えっと……」


 彼には聞こえないくらいの蚊の鳴くような声で戸惑いの言葉をつぶやいたあと、一度深く呼吸をして、自分を舞台の上の女優『椿月』に切り替える。


 そして。


「ふふっ。……全然、“得意”なんかじゃないじゃない」


 彼女は一歩踏み出し彼の横に並ぶと、彼の左手に自分の右手を重ね、二人の指先を絡めた。


 初めて触れあった彼女のほっそりした手に、彼は初めての気持ちを感じ始めていた。


 道端の花のつぼみは、まもなく訪れる春に今にも開かんとしている。






――そして僕は、恋を知った。



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