翌朝。


 浅い眠りから目覚めた男は、草履の足を劇場に向かわせていた。


 今日限りの公演だと言っていたし、きっと昼公演と夜公演をやるだろう。


 大分朝早いが、このくらい早ければ出番前の彼女に会い、とにかく昨日の自分の態度を謝り、改めて舞台が見たい旨を伝えられるだろう。昨夜、眠れない間に考えた算段だった。


 しかし、たどり着いた劇場は思っていた様子とは違っていた。


 朝の静けさに似つかわしくなく、騒がしい。人々も忙しなく走り回り、ただ事ではない空気が漂っている。


 あちこちでザワザワと交わされる、人々の会話が耳に飛び込んでくる。


――主演女優がどこにもいない。


 男は我が耳を疑った。


――近くで事故があったような報せはない。逃げでもしたのか?


 そんなわけがない。彼は無責任な想像にとっさに反論したくなった。


 昨日の言葉を信じるのなら、彼女は今日の舞台に並々ならぬ思いをかけてきたはずだ。


 いても立ってもいられず、彼はとにかく館長を探した。


 主演女優が不在というまさかの事態に、まだ早朝にもかかわらず館内は騒然としている。


 劇場関係者たちは、主演女優が現れることを信じて準備をする者たち、心あたりの場所を探す者たち、万一のための公演中止を視野に入れて動く者たちなど様々だったが、皆一様に慌てていた。


 彼がなんとか館長を見つけられた時、館長もかなり狼狽し、疲弊していた。


 彼はすぐに話を聞いた。


「うちの椿月はこの公演にこれまでの女優人生の全てをかけていた。勝手にいなくなるなんてことはありえないはずなんだ……。警察にそう言って何度も捜索を依頼したんだが、事件性はないと言って全く取り合ってくれないんだよ」


 公演を中止しなければならなくなるという事態への焦りもあるが、女優としてだけでなく一人の人間としての彼女の身を案じていることが、館長の言葉から伝わってきた。


 そして不思議そうにこうこぼす。


「でも……最初にここの管轄の駐在さんに相談したときは、真剣に話を聞いてくれたんだよ。だが、事件として話が上に行った途端、まるで何かの圧力がかかったかのようにもみ消されてしまったんだ……」


 彼はその話を聞いて、自分の知らないところで何か大きな事件が起こっているような、椿月が大変なことに巻き込まれているような気がしてならなかった。


 彼はハッと思いついて、警察上層部にも口を出せるような存在、自分の先生に相談しに行くことにした。


 しかし。劇場からそう遠くない先生の家に駆けていくも、いつも家にいるはずの先生の姿はどこにもなかった。


 こんな時に外出されているなんて、と自分の悪運を歯がゆく思ったが、そうしていても仕方がない。


 彼は劇場内外で自分の思いつく限りの場所を、それからここは絶対にないだろうという場所まで、彼女を探して回った。


 だが、どれだけあちこち一生懸命探しても、彼女はどこにも見つからない。


 そうこうしているうちに無情にも時間は過ぎ、正式に公演中止の発表が出された。


 せっかく集まった観客たちは口々に不満をこぼし、従業員たちは返金作業と謝罪に追われた。


 一部の関係者たちは心無い言葉を投げていたが、彼は昨日の彼女の言葉を疑うことはできなかった。


――あのね。明日、初めて私のやりたいようにやらせてもらえる舞台があるの。脚本も、演出も。たった一日、明日限りの公演よ。


――私が今までどんな気乗りしない役でも全力でやってきたのは、この時のためなの。……緊張するけど、頑張りたい。


――あの、それでね。“ワタシ”のことを応援してくれている人がいると思えたら、きっと私、頑張れるから……。


――ね。だから、あなたに見に来てほしいな。


 彼女は本当にこの舞台をやり遂げたかったはず。それでも来られなかったのだから、何か大変なことが起こっているに違いない。


 彼は一度探したところも含め、また彼女を探した。近隣の店の人間にも何度も尋ねた。もう既に足は棒のようになっている。


 なぜこんなに必死に彼女のことを探してしまうのだろう。


 どうしてもちらつくのは、最後に話したときの彼女の寂しそうな顔。


――どうして僕が?


――うーん……、そうよね……。いきなりごめんなさい。


 もし万が一何かあって、あれで彼女と別れることになってしまったら、自分は絶対に後悔する。ざわつく胸の中、そんな気持ちがあった。


 しかし。そうしてあらゆる場所を探し尽くした彼には、もう行くような場所も思いつかなかった。


 その時ふと、彼女と話した記憶が呼び覚まされる。


 彼女は旧劇場の古い部屋に出入りする人影を目撃したことがあると言っていた。


 もうずいぶん前から使われなくなった旧劇場は、現在は一応は倉庫として使われるも普段は滅多に人が立ち寄らない場所だ。


 そんなところに行ったことがあるという彼女は、もしかしたらまたそこに行ったのかもしれない。そこで何か事件や事故に見舞われたのかもしれない。


 彼はまた駆け出した。


 旧劇場は、現在使われているこの建物のちょうど真裏にある。建物の脇から回り込むと、古びながらもかつての荘厳さを想像させる、重厚な造りの建物があった。かつてはここが劇場として使われ、様々な役者が演じ、いくつもの劇が上演され、多くの観客たちが笑ったり涙したりしていたのだろう。


 旧劇場入り口前には、一人の警官が立っていた。


 昨晩聞いた話と照らし合わせて考えると、ここに侵入しようとする不審な人間を捕まえるために、先生の指示で見張りに立たされているのだろう。


 彼は先生の手伝いである自分の身分を名乗り、その警官に尋ねた。


「ここに誰か来ませんでしたか?!」


 彼の勢いに押されながらも、警官ははっきりと首を横に振る。


 それでも彼は、もしかしたら他に入る口があるとか、見張りが立っていないような時間帯に入り込んだとか、何かあるかもしれないという気持ちを払拭しきれなかった。


 半ば強引に許可を得て、中に入り込む。


「椿月さん!! 居たら返事をしてください!」


 旧劇場で彼女の名前を大声で叫んで回る。昨日彼女の名を聞けていて良かったとこれほど思ったことはない。


 傾いた夕日が差し込み、建物の中が茜色に染められている。


 特に施錠されていない部屋がほとんどだったため、彼は一部屋ずつ全ての扉を開け、棚の中から長椅子の下まで隅々を探し回った。


 声が枯れるほど彼女の名を呼んだ。でも、彼女は見つからない。


 そして。


 無意識のうちに避けていたのか、最後に一部屋だけ残った場所があった。


 先生の指示で出入りの目撃者を探し回っていた、例の古い部屋。ここは闇の取引に行われる、表には出せない商品の保管がされていた現場だという。


 流石にその部屋の扉には大層な施錠があった。彼は外部からドアを壊せないことが分かると、中庭にまわってガラスを叩き割った。


 暗幕が引かれていて外からではよく見えなかったが、飛び込んだその中には、大きなものから小さなものまで、乱雑に物が置かれていた。


 彼はカーテンを端に引き、部屋の中に光を招き入れる。


 すると、物たちの隙間に落とされるようにして、誰か気絶した人間が後ろ手に縛られて倒れているのが分かった。


 差し込む西日の強い光に浮かび上がらされる袴姿。頭の部分でリボンが結われた長い下ろし髪。


 椿月を探していたはずが、思わぬ形で見知らぬ女性を見つけてしまった。


 放っておけるわけがない。彼はすぐ、気を失っているその正体不明の若い女性の傍に膝をついて、抱き起こした。


「君! 一体どうした、何があったんだ! しっかりするんだ!」


 肩をつかみ彼女の体を揺すると、気が付いたのか一度苦しそうに強く目をつぶった後、薄くまぶたを開いた。


「う……。こ、ここは……?」


 事態を把握しようと、女性がゆっくり首を回して周囲を見、数回まばたきをする。


 その仕草と、聞き覚えのある声。そして記憶に結びつく、つい最近そばで嗅いだことのある匂い。


 信じられないけれど、もしかして。


「……貴女は……椿月さん、ですか?」


 その言葉に彼女は驚き、自分を抱く者の顔を直視した。そして相手が彼だと分かると、ハッと息を飲む。


 互いに次々あふれる、沢山の訊きたいこと、話したいこと。


 しかし、一番は。


「ぶ、舞台は……! 今日の私の舞台は?!」


 一気に血の気が引いたような顔色になり、彼女は必死にしがみついて彼に尋ねる。


「……中止に、なりました。主演女優が不在ということで……」


 彼の言葉に、彼女の体は一気に脱力する。何を嘆くよりも一番深く悲しい嘆息が、彼女の口から漏らされた。


 そんな彼女に、彼が遠慮がちに問いかける。


「椿月さん……その姿は……?」


「……いつもの変わった色と形の髪は舞台用のカツラ。あとは舞台衣装と、お化粧。どっちかっていうとこっちの方がいつもの私に近いわ。……あんな派手な格好、劇場じゃなきゃ出来ないし……」


 抜け殻のようになりながらそうポツポツと語る彼女は、身体の力が抜けているにもかかわらず、両手にだけは強く力が入り、彼の服をしっかりと握っていた。まるで何かの恐怖から逃れようとするかのように。


 今の彼女は普段の彼女のままのようでいて、その見た目は彼には非常に幼く感じられた。いつもの派手な化粧、目を引く髪型と衣装、それらが引かれただけで、今度は下の方向で年齢不詳に見えた。いつもはなんとなく年上だろうと思っていた彼女だが、今は五つ六つ下と言われても全くおかしくはない。


 それにその態度も、見た目や気力に起因するものなのか、劇場での彼女が豪奢な花瓶に生けられた大輪の花だとしたら、今の彼女は雨に打たれる道端の小さなスミレの花のようだった。


「一体、何があったんですか?」


 そう尋ねる彼を、彼女はチラと遠慮がちに見上げ、理由を口にする。


「……私、昨日の夜の稽古が終わってから、あなたに会いに行ったの」


 どうして、と訊こうとした彼の目に入る、彼女の傍に落ちていた白い封筒。彼女のものと思われるそれからは、劇場のチケットがのぞいていた。


 昼間は引いたもののやはり諦められなかった彼女は、彼にもう一度、今度は直接チケットを渡して招待するつもりだったのだろう。


「あなたの先生のことは聞き込みの時に聞いていたから、そちらにお邪魔したらあなたに会えると思って。でも……そこで私、思い出しちゃったのよ」


「思い出した?」


 椿月はうなずく。


「お宅で先生の姿を見たとき、私がこの旧劇場で見たあの人影と重なった……。旧劇場のこの古い部屋に出入りしていたのは、先生だったのよ」


 そんなまさか、と彼から発せられるはずだった言葉は、背後の物音によって奪われる。


 外から鍵を開け、中に入ってきたのは紛れもない「先生」だった。


 先生は目を見開いてから、眉間に深くシワをきざむ。


「なぜこんなところに、君が」


 恐ろしいくらいに研ぎ澄まされた、冷たい声。


 彼女は彼の服に強くしがみつく。


「私をここに閉じ込めたのはあの人よ!」


「先生……なぜこんなことを……」


 彼女の言葉に、先生を凝視する男。


 その様子からもう彼を丸め込むことはできないと理解したのか、先生は諦めたかようにスラスラと説明しはじめた。


「……“優秀な”君の聞き込み調査で分かったからだよ。ここに出入りする私の姿を唯一目撃した女優の名は『椿月』だと。目撃者を消すのは推理小説では当たり前の行動だろう?」


 いつもの穏やかな先生とは違う。姿形は先生そのものなのに、まるで中に別の悪い生き物が入っているかのよう。でも、本の中の話ならともかく、現実ではそんなことはありえない。これは紛いもなくあの先生なのだ。彼の師なのだ。


「まあ、彼女の場合使い道が多そうだったから、この部屋の『闇取引商品』の一つにしてやろうと思っていたのだが、大分予定が狂ったな」


 警察に彼女の捜索をしないよう圧力をかけたのも先生だろう。そんなことが出来るのも、そんなことをする必要があるのも、先生しかいない。


 旧劇場の入り口に立っていた警官も、「不審な人物は居なかった」と言っていたがそれはそうだろう。警察が捜査協力を依頼している先生が、不審人物とみなされるわけがないのだから。もしくは先生の財力を使い、金を握らせたか、だ。


 彼は、目に写る全てのものが信じられなくなった。


 自分がここにいることも、彼女が腕の中で震えていることも、先生と対峙していることも、全部夢のように思えた。


 そして、先生がおもむろにそばの荷物箱から取り出した銃を自分に向けたこの光景も、覚めれば消える悪い夢であってほしいと心から思った。


「残念だ。二人とも。――さようなら」


 張り裂けそうな鼓動。つばも飲み込めないほど乾く口。


 でももう、どうしようもない。


 叫んでも、暴れても、走っても、銃の速さになんて敵いっこない。


 銃声を覚悟して、彼女を強く胸に抱きしめる。




 ああ。彼女に、最後に一言謝れたらよかった。


 それから、こんな自分にいつも笑いかけてくれてありがとうと、言えたらよかった。

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