2
彼は翌日も劇場に行き、彼女に出会った。
「あら、また聞き込み?」
舞台が終わってすぐなのか、彼女は今日もまた、身体の線を引き立たせるきらびやかな衣装に身を包んでいた。大ぶりの耳飾りのきらめきが、顔周りを明るく照らしている。
彼の姿を見つけ驚きながらも、彼女はすぐに近寄って、真紅の口紅が引かれた唇で色っぽくほほえんだ。
彼が彼女に尋ねようとした時、ある人物が突然声をかけてきた。
「おや?」
二人のそばに現れたのは、ジャケットで正装している大柄な男性。年は二人の父親と同年代くらいか少し若いくらいだろうか。髪型はライオンのたてがみを彷彿とさせる。
その人物こそ、彼も何度かちらりと目撃したことがある、この劇場の総支配人である館長だった。
館長は二人が一緒に居るのを見て、目を丸くする。
「あなたは彼女の……?」
その反応に、彼女はべったりと彼の腕にひっついてみせた。
「ふふっ。この子かわいいでしょ? ご主人様のお使いを一生懸命こなしてるワンコなのよ」
彼女なりに変な誤解を生まないようごまかしたのかもしれないが、あまりの言い草に彼は何の言葉も出てこなかった。
「ああ。あの作家先生の助手の方が劇場に出入りしていると聞きましたが、あなたでしたか」
どうして今の彼女の説明で伝わったのか心底疑問に思いつつ、彼はとりあえずうなずいておく。
「ねえ、館長に色々聞かなくていいの?」
相変わらず腕にくっついたままの彼女が、彼を見上げてそう尋ねる。
「……何点かうかがいたいのですが、よろしいですか」
彼女の言葉を受けて彼が訊くも、館長はそばの柱時計を見て表情に渋さをにじませる。
「うーん……協力したいのは山々なんだけれども、このあとすぐに用事があってね……」
「館長。ほんのちょっとだけでいいから時間を頂戴よ。ね、いいでしょう?」
彼女がねだるようにそう言葉を重ねると、「まあ、少しだけなら……」と渋々承諾してくれた。彼女は「やったわ」とでも言いたげな笑顔で彼を見上げるけれど、彼はそれには視線もくれず、淡々と館長に質問を始めた。
その多忙さからこれまでなかなか捕まらなかった館長に時間を割いてもらえたことは、思わぬ収穫だった。
劇場のことであれば一番詳しいであろう館長を、先生の読みもあり、彼は内心かなり怪しく思っていたのだ。
だが。終始ずっと脇に彼女がぴったりくっついていたため、無防備に身体を寄せる彼女にやたら気が散って仕方なかった。そのことで彼が、自責の念と罪悪感にひどくさいなまれるのは、また少し後のことだ。
色々と話を聞け、忙しなく去っていく館長を見送った後。
いつまでもむっすりと黙ったままの彼に、彼女は尋ねた。
「怒ってるの?」
彼は視線を彼女に向けないまま、
「いえ……。館長に話を聞けたことに関しては、感謝しています」
と答えた。
いきなり人前で犬呼ばわりされたり、他の色んなことに心乱されたことは別として。彼は心の中だけでそう言葉を足した。
「じゃあ、もっと満足そうな顔をしたらいいわ。ニコッて。ほら、やってみて」
彼女はぐいと彼の服の袖を引っ張って自分の方に顔を向けさせると、自分の両の口角に人差し指をあてがい、きゅっと上にあげて見せる。
彼がそれに乗るわけがなく。無視に近い形で彼女を冷めた目で見つめていると。
「もう、せっかくの女優じきじきの演技指導なのよ。ちゃんとやって」
そう不満げに小さな唇をとがらせたあと、彼女は彼の顔に手を伸ばした。無理矢理その頬を引っ張る。そして。
「……ぷっ、あははは! やっぱりどうやってもダメだわ、余計に変な顔!」
自分でやったにもかかわらず、女優らしからぬ勢いで大笑いしだす。
はっきりイラッとした表情を浮かべている彼のことなど、今は眼中に入っていないだろう。物理的にも、精神的にも。
「はぁ~、おかしい。笑っちゃった、ごめんね」
胸に掌をあてがい、なんとか呼吸の落ち着いてきた彼女は、目尻の涙を指先でぬぐう。
彼からすると、彼が一生に笑う分を、彼女はこの一時で全て笑い切ったようにさえ思えた。
そして彼女は満面の笑みで言う。
「あなたって楽しくて面白い。よく言われない?」
「言われません。それに、僕は全然、楽しくも、面白くも、ないです」
彼はげっそりとそう返すしかなかった。
ちょうど人々の流れが絶え、二人しかいない廊下。半円型の天井に二人の声が反響する。
彼女は少し黙り、じっと彼のことを見つめた。
「……あなたって不思議な人」
目を細め、彼女は穏やかにそう言う。
彼からすると、彼女の方がよほど不思議な存在だと思うのだが。
自分がいくらこれといった反応を返さなくとも、何度も何度も話しかけてきて、自分に構うのだから。
彼女は言葉を続ける。
「どうしてかしらね……。こんなに私が“ワタシ”でいるのって久しぶりだわ」
最後まで聞いても、やはり彼には、彼女が何を言っているのか良く分からなかった。
夜の公演があるという彼女とようやく別れられ、夕闇の支配する帰路についたところで、彼はハッと大事なことを思い出した。
彼女の名を聞いていない。
先生に課された今日一番の目的はそれだったはずだったのに、すっかり彼女の流れにのまれてしまった。
目的を果たすまでは先生のもとに帰るわけにはいかない。
幸い、他の人たちに比べて忍耐力はかなり強い方だと自覚している。彼はそのまま、劇場の外で舞台の終演を待つことにした。
そして、日はすっかり暮れる。
長い時間が流れ、本日最後の舞台の幕が下りたようだ。正面口から沢山の観客らが吐き出されてくる。
しばらくし、裏口方面から大物役者が取り巻きをもって出、人気の有名俳優や女優たちが出待ちに迎えられながら続々出て行く。
その波が収まると今度は、裏方や劇場食堂の給仕、清掃員、警備員と思われる劇場関係者らがわらわらと出て行った。
その頃にはもうすっかり建物内の灯りも落とされ、外壁を煌々と照らしていた電灯も消される。
真っ暗になった劇場に、もう最後と思われる劇場関係者が扉に鍵をかける。
男はその人に尋ねた。
「あの。この中にもう人はいないんですか?」
そう尋ねられ、当たり前だとばかりに不思議そうに首をひねり、言う。
「はあ、そりゃそうですよ。どなたのファンだか知りませんが、出待ちをしてももう誰も出てきませんよ」
自分はずっと出口を見ていたし、塀で囲われた劇場敷地内から出られるところは正面口か裏口しかない。
あんな派手な女性を見落とすわけがないと思うのだが、と今度は男が首をかしげる番だった。
次の日。ようやく彼は彼女から名前を聞き出すことができた。
劇場で姿を見つけるなり、挨拶も挟まず開口一番「貴女の名前を教えてください」と言ってきた彼に、彼女は「えっ、今更?」と驚き、また吹き出すように笑った。
名前を教える条件という名目で、彼女の昼の空き時間に、二人は劇場裏手の小川沿いを歩いた。にぎやかな表通りに面した正面側とは建物を挟んで反対側にあるため、人もほとんどおらずとても静かな場所だった。
空気は少し涼しいけれど、それも気にならないくらいの日差しが穏やかに降り注いでいる。
二人だけの空間で、彼女がふいに尋ねる。
「あなたの調査している事件は解決しそうなの?」
「……さあ。僕は情報を聞き出して、先生に伝えるだけですから。詳しいことはよく知りません」
彼は淡々と言葉を返す。
彼女は不思議そうに小首をかしげた。
「どうしてそのことを調べているのかも、あなたは知らないの?」
彼は少し考えてから、うなずく。
これまで何回か先生に代わって情報収集をしてきたが、あまり核心に触れるようなことは説明されてこなかったし、自分も説明を求めなかった。先生に言われたことを忠実にやる。ただそれだけ。今までそれを疑問に思ったことなどなかった。
彼女はしばらく黙った。
最初の問いかけは、会話のクッション代わりだったようだ。
そして、改めて口を開く。
「……あのね。明日、初めて私のやりたいようにやらせてもらえる舞台があるの。脚本も、演出も。たった一日、明日限りの公演よ」
並んでゆっくり歩きながらそう話す。いつも自然体に見える彼女の声が、珍しく少し強ばりを帯びていた。
「私が今までどんな気乗りしない役でも全力でやってきたのは、この時のためなの。……緊張するけど、頑張りたい」
いくら彼でも、そう言われたら返すべき言葉は分かっている。
「……頑張ってください」
彼の言葉に気持ちがこもっているかどうかは別として、それでも彼女は「ありがとう」と嬉しそうにほほえんだ。
それから、改まってこう言う。
「あの、それでね。“ワタシ”のことを応援してくれている人がいると思えたら、きっと私、頑張れるから……」
彼女は彼の瞳をのぞきこむ。
「ね。だから、あなたに見に来てほしいな」
一度も舞台を見たことないんでしょう、と彼女は決断を後押しするような言葉を重ねる。
だが。
「どうして僕が?」
彼としてはこの言葉は、なぜ自分が誘われるのだろうと本気で不思議に思う素朴な気持ちから発せられたものなのだろう。
しかし、普通の人間がこの返答を聞いたなら、とても冷たい拒絶の言葉に聞こえるに違いない。
彼女はそっと目を伏せた。
「うーん……。そうよね……」
彼はてっきり、この後彼女がいつものように強引にお願いしてくるかと思っていた。そうしたら誘いに乗ってもいいか、くらいには思っていた。
けれど彼女は「分かったわ。いきなりごめんなさい」とあっさり引き下がった。
なので、逆に彼が言葉を重ねる。
「見に行かないと貴女の名前を教えてもらえないというのなら、見に行きますが」
彼女は首を横に振る。
「ううん。そんなイジワルなこと言わないわよ。私の名前は『椿月(つばき)』。良かったら覚えておいてね」
鮮やかな花の名と静かなる月の名をいだいた自分の名前をサラリと告げると、
「さて。これから夜までずっと、明日のための稽古なの。そろそろ行かなきゃ」
と、彼女が望んだはずの散歩を自ら早々に切り上げた。
これには彼も、肩透かしを食らったような感覚が否めなかった。
それと、いつもニコニコ笑っている彼女の表情に寂しげな影がかかったことを、いくら鈍い彼でもはっきり感じ取ることができた。
それから、「頑張って」の言葉も、「さよなら」の挨拶さえもすることができないまま、あっという間に彼は彼女と別れた。
その夜、彼はまた先生の元へ行き、彼女の名前も含め今日の一部始終を全て報告した。
いつもならそれで終わるのだが、彼は先生にこう尋ねた。
「先生。あの……今回の調査というのは、どういうものなのでしょうか」
彼の言葉に、背を向けていた先生は身体をひねらせる。
「どういうことだい?」
「……旧劇場のある古い一室に出入りしている人間を探していると、そういうことで情報を集めてくるように言われていましたが、なぜその人間を探しているのでしょうか。その古い一室とは一体何なのでしょうか」
今までまったく訊かれることのなかった、男からの事件の対する質問。
先生は少し面食らった様子で、少し黙って考えてから、からかうようにほほえみ、こう言った。
「君が興味を持って訊いてくるとは珍しい。その、椿月という女優の影響かな」
彼はどう返答したらよいのか分からなかったので、黙っていた。
彼女の名前を聞くとどうしても思い出されてしまう、最後のやり取り。
いつもと違う彼女の態度が、どうしても気になった。
自分は舞台や役者には詳しくないが、もしかしたらああいう誘いをされたら絶対に断ってはならないとか、決まった断り方があるだとか、暗黙の了解のような一般常識があったりしたのだろうか。
自分が礼節を欠いた振る舞いをしたから、彼女は呆れて冷たい態度を取ったのではないだろうか。
冷たい態度。自分が相手にそう振舞っても何も気にしていなかったはずなのに、人にされるとこんなにも気持ちが騒ぐものなのか。
彼女とはもう、いつ二度と話せなくなってもおかしくない間柄なのに。なぜあんな別れ方をしてしまったのだろう。
彼が心の中でもやもやと考えていた時、先生が話し始めた。
「今回警察から依頼された調査はね……端的に言うと、その旧劇場の一室に、違法な闇取引の商品が保管されていたそうなんだよ。建物が使われなくなって人が居ないのをいいことに、誰か悪い人が勝手に使っていたんだろうね」
「その部屋は、今はどうなっているんですか?」
「そのままにしておくよう、私が警察に指示した。その部屋の存在が発覚したことを知らなければ、犯人はまたそこに戻ってくるかもしれないだろう?」
なるほど、と彼はうなずく。
いつもなら夜は先生のお手伝いをして帰るのだが、今日は早く帰っても構わないと言われた。
色々と気に病んでいることがあり心が騒がしかったので丁度良かったと思いつつ、もしかしたら先生にそれを見抜かれて気を遣われたのかもしれない、とも思った。
自分の家に帰っても、彼は落ち着かない夜を過ごした。
こんなに心に引っかかるくらいなら、あの時素直に、彼女に舞台を見に行くと言えば良かったのだ。
布団の中で何度も寝返りを打ちながら、彼は明日は朝一で劇場に行こうと心に決めた。
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