連理の契りを君と知る episode1「あなたに出会う日」

瑠璃森しき花@コミカライズ単行本発売中✿





――その時の僕はまだ、恋を知らない。





 ほんの半世紀ほど前まではここに存在しなかったとは思えないほど、この国に、この町に染み渡る西洋の文化。


 瓦屋根と木造建築と洋風のコンクリート建築が競演する町並み。


 洒落た車が行きかう往来で、人々は時代の波に乗り、和服と洋服を器用に使いこなす。右手に扇子を、左手に洋傘を。身体に着物を、足元にブーツを。


 この町には様々な文化があらゆる可能性として存在し、そこに独自の空気をかもし出していた。




 そんな時代を生きる、ある一人の青年がいた。


 彼はここしらばく、足しげく劇場に通っている。


 勤勉を良しとし、一人前の男の身体をした見てくれとは裏腹な、まだ年若い純朴さを内包した彼の目当ては、華やかな舞台でも見目麗しい役者たちでもない。


 彼は自身の「先生」である有名な人気小説家に、ある件についての聞き込みを任されていた。


 作家を志望する彼が師事するその先生は、推理小説などの分野で名作を連発する人気作家でありながら、時に警察の依頼を内密に受け、本業のかたわらで探偵業まがいのこともこなしている。


 過去に何度か、難事件を解決する大きな手助けとなったとして、今では警察上層部にも一目置かれ、強い発言権を持つ。


 しかしながら、先生はとにかく出不精。家にこもりがちな先生に代わり現場を駆け回ることになるのが、弟子であるこの男だった。


 見てくれなどにあまり気を遣わないことがうかがえる、彼の着古された着物と袴、足元の草履。襟元に白いスタンドカラーを覗かせ、かぶった帽子の下からは丸い眼鏡の銀縁が光る。




 片仮名表記の看板が賑やかに踊り、ハイカラな配色の店たちが軒を連ねる通りを抜け、冬を裸で耐え抜いた木々たちが立ち並ぶ並木道を進む。


 彼が通う劇場は、西洋と東洋の文化が入り乱れ、流行の最先端を行くこの町の中でも老舗の有名劇場。ここから何人もの有名な役者たちが生まれ、活躍し、名を残していった。


 行き着いたその先。


 西洋を丸ごとそこに持ってこようとしたかのような、洒落た意匠のコンクリート建築。外壁を赤茶色のレンガに埋めさせている。建物内の柱は木造建築ではなしえない重厚な作りで、壁には精巧な模様が彫られている。天井は見上げるほど高く、床には分厚い赤じゅうたんが敷き詰められていた。


 公演を見にきた観客らで、劇場周りやエントランス、ロビーなどはとてもにぎやかだ。皆が皆よそいきの格好をして、これからの観劇に期待をしている空気感が満ち溢れていた。


 人ごみを縫い、関係者通路へ。


 誰でもいいので話を聞かせてもらおうとウロウロしていたが、彼の劇場関係者への聞き込みは難航していた。


 生来の口数の少なさに加え、端的にしかものを言わない上、表情の変化にも乏しい。要するに、人との交流が極めて下手だった。


 話しかけても、いきなり核心の質問をぶつけてくる無愛想な男になど、会話の時間を割いてくれる人などいるはずもなく。おまけに忙しさもあって、軽くあしらわれてしまうことがほとんどだった。


 彼はどうしたらよいものかと、忙しなく劇場関係者たちがが行きかう廊下を、あてもなくさまよっていた。


 そこに、彼の頭上から降ってくる声があった。


「キミ、人にモノを尋ねるのが下手ねぇ」


 鈴の音のような声。


 見上げた視線の先は、通路脇の階段の上。


 一人の女性が彼を見下ろしていた。


 彼は彼女を一目見て、派手な格好と存在感、そしてその美貌から、彼女がこの劇場の女優であろうことがすぐに分かった。


 特徴的に短く切りそろえられた栗色の髪。太陽の輝きと精巧な人形のような可憐さを併せ持ち、目は長く黒々しいまつげに覆われ黒目がち。まぶたにはきらめく粉がしっかり塗られ、頬にも唇にも濃く紅が引かれていた。身体の線がくっきり出る深紅のドレスにその身を包みんでいる。


 彼女の第一印象は、毒々しいまでに鮮やかな花を想像させた。


「面白い人がいるなぁと思って、上からずっと見てたの」


 階段を降ってきた彼女は目の前に立ち、彼の頭一、二個分下から妖艶にほほえむ。


「もしかして、探偵ごっこでもしてるの? そういうの面白そう。私にもやらせて」


 軽い口調でそう言ってくる彼女に、男は不快感をあらわにする。


「大声でそういうことを言わないでください。あと、探偵ごっこなんかじゃありませんから」


 彼女は不満そうに、色っぽい赤い唇をとがらせる。


「じゃあ、私に聞き込みしてよ。何について調べているの?」


 男は躊躇したが、誰も話を聞いてくれない今、何も情報を得られる可能性がないよりはマシだと思い、口を開いた。


「……この劇場敷地内にある旧劇場の中に、ある古い部屋があります。そこに出入りしている人間を探しています」


 そう聞くと彼女は口角を上げてうなずいた。


「分かったわ。それを人に尋ねたらいいのね」


 はめられた。彼がそう思った時にはもう彼女は歩みを進めており、その背を慌てて追いかけた。


 彼が止める間もなく、彼女は近くにいた人間に声をかける。


「ねえちょっと、訊きたいことがあるんだけど」


 愛想よくほほえみをたたえてそう尋ねる彼女に対し、人々は男に対する反応とは違う様子を見せた。


 せっかく聞き込み相手が口を開いてくれたのに、それを止められるはずもなく。彼はまるで彼女の助手であるかのように、後ろで黙って待つことになる。


 彼女は口が上手く、巧みに話を聞きだし、逆に触れてはならない情報に関してはすっと足を引く達者さを兼ね備えていた。


 彼女と何人もの人に話を聞いていく中で、男は分かったことがある。失礼ながら初対面の彼女にはあまり聡いという印象は持てなかったのだが、実際の彼女は決して頭が悪いわけではないということだ。


「うーん。目撃情報、全然出てこないわね。どういう人なら知ってそうだと思ってるの?」


 手当たりしだいに結構な人数に尋ねたあと、彼女は振り返り、そう問いかける。


 彼は自分の手帳を見ながら、


「……今、旧劇場は倉庫として使われているようなので、裏方の仕事をしている人が詳しいのではないかと思っているのですが」


 と、先生からもらった意見をそのまま口にする。


「裏方さんね。分かった」


 うなずいてきびすを返した彼女の背についていきながら、彼は後ろからぽそっと尋ねた。


「……貴女はおいくつなんですか」


 彼が直球でそう尋ねたのは、別に彼女に興味がわいたからではない。


 自分の体格を差し引いても、彼女は自分の胸ほどまでしか頭が届いていないし、女性という点を考慮してもかなり細身だ。でも、派手な化粧の施された大人びた美しい顔と、曲線美をかもし出す衣装、そして圧倒的に上から来る態度で、彼女の年齢が全然分からなかった。一応何となく年上だとは思い、敬語で接しているのだが。


 彼女は振り返り、片方の口角と片眉を吊り上げる。


「女性に年齢を訊くつもり?」


 生まれてこの方長いこと本の世界だけに没頭していた彼は、女性の扱いのことなどよく分からない。素直に口を閉ざすしかなかった。


 彼女はそのあと裏方と思われる人たちに何度も声をかけた。


 そのさまは、彼の聞き込みに彼女が同行しているというよりも、彼女の聞き込みに彼が同行していると形容した方がしっくりくる。


 色々な人々から話を聞いていく中で男は知った。彼女はやはり役者で、この劇場で活躍するそこそこ有名な若手女優らしい。流行にうとく、舞台にも興味がない彼は彼女のことなど全く知らなかったが、周りの反応を見れば、この劇場で彼女の名が知れ渡っていることはよく分かった。


 しかも彼女は、物語に刺激を加える“悪女”の役として、舞台に欠かせない存在だそうだ。彼女の濃い化粧とけばけばしい格好にようやく納得がいった。




 結局、様々なところで訊いてまわったのだが、目撃談は何も得られなかった。


 そもそも、倉庫代わりになっている旧劇場にはほとんどの人間が立ち入らないそうだ。倉庫でなくただの廃墟として放置されていると思っている人も多かったくらいだ。


 しかし、今日は他の細々した情報を色々と得ることはでき、彼にとって初めて聞き込みがうまくいった日となった。


 それも彼女のおかげなわけだが、彼はそういうところに気の回るような男ではない。


 今日知った情報を一言半句漏らすことなく手帳に記すと、もう今日はやるべきことが済んだと、黙って先生の元に戻ろうとする。


 彼女に何も言わず階段をくだっていく。すると、階段の段差を利用して、彼女が背後から彼の肩に乗っかってきた。


「作家先生のお弟子さんはお礼の一つもしてくれないのかしら。私、とっても役に立ったでしょう?」


 彼女の突然の大胆な行動に内心では大分驚きながらも、彼はじっと考える。


 劇場の人々に聞き込む中で色々な話をしたし、自分の素性もあらかた明かしてしまった。自分がどこの誰か、何の調査をしているのか、彼女にはすっかり把握されている。


 にんまりほほえむ彼女の言葉を断る余地はない。彼女に構うのはこれがどうせ最後だ、と彼は自分に言い聞かせた。


「どうしてほしいんですか」


「劇場内に食堂があるんだけど、そこのケーキが食べたいわ」


 すぐに要求が出てくるあたり、この希望はあらかじめ考えられていたものなのだろう。男はそう察した。






 劇場内にある、劇場関係者のために設けられた食堂。


 分厚い赤いじゅうたんの敷き詰められた床に、装飾の施された革張りの一人掛けソファ。食堂といっても内装や雰囲気は街中にある洒落た喫茶店に近く、こういう場所に行き慣れていない彼は、居心地の悪い思いを終始いだいていた。


 彼女はそんな彼の様子を気にすることもなく、おいしそうにケーキを味わう。その隣には砂糖とミルクがたっぷり入れられた珈琲。


 ちなみに、人に合わせるということを知らない彼の前には、珈琲の一つも置かれていない。


 形の良い唇についた生クリームを細い指先ですくい取りながら、彼女は自身の仕事についてこう語る。


「“演じる”って別に特別なことだとは思ってないの。だって、世の中で何も演じていない人間なんていないもの。誰もが何かのふりをしているのよ」


 彼は相づちの一つもまともに打たず、彼女のケーキが早くすべて胃袋に収まってくれないか、そればかり考えていた。


 彼が興味を持っていないことは誰が見ても丸分かりなのだが、それでも彼女は自分の調子で会話を進める。


「……私ね、前からこういう探偵っぽい調査とかちょっとしてみたかったの。地道だけど、ドキドキするわね。あなたはいつもこういうことをしてるの?」


 彼女が楽しそうにそう尋ねるも、男はその質問を黙殺した。先生の手伝いでたまにこういうことをしているということは、先程の聞き込みの際にちらっと話したはずだからだ。


「……それにあなた、誰にも話を聞いてもらえなくて廊下で右往左往してたでしょ? なんだか放っておけなくって」


 そう言って彼女はニコッと笑う。


 それでも彼は、「そうですか」と冷めた言葉だけを返す。


「あ、そうだわ。聞き込みをしていて思ったんだけど、私は劇場関係者以外が怪しいと思うんだけどな~」


 調査に関する彼女の意見に、彼が珍しく視線を合わせる。


「その、旧劇場の古い一室に出入りしている人だっけ。皆は全然知らないって言ってたけど、私見たような気がするのよね。その例の部屋に入っていく人影」


 ケーキ用のフォークを顔の脇でリズミカルに動かしながら、彼女は記憶をたどる。


「見たら思い出せると思うのよ。劇場関係の人とはずいぶん雰囲気が違ってたし……」


 思い出すようにしながら視線を右上にやり、そうつぶやいたかと思うと、


「どうどう? 未来の作家先生様? 何か役に立ちそう?」


 と子供のようにワクワク、楽しそうに訊く。


 まじめに考えているのか、ふざけているのか。恐らく半々だろうと男は思った。


 何より、そういうことを考えるのは先生の仕事だ。自分は言われたことをやり、先生の思考の手がかりになるよう情報を集めるだけ。


 彼女が珈琲の最後の一滴を飲み終えるのを確認するなり、彼はすぐに席を立った。






 なんとか彼女から解放されて先生のもとに戻った時には、既に日が暮れていた。


 先生の屋敷は広い。これまでいかに先生の本が流行ってきたのかを体現するかのように。


 彼は通いの弟子ではあるが、一日の大半をこの家で過ごしている。玄関を抜け、慣れた廊下を通り、先生の書斎に向かう。


 先生に家族はおらず、この家には先生以外住んでいない。外からの声も聞こえなくなる夜ともなると、落ち着いた静寂が建物全体を支配する。


 薄暗い書斎では、手元の明かりを頼りに、先生がいつものように書斎机で原稿に向き合っていた。背中を向けたままで彼の報告を聞く。


 彼の優れた記憶力とそれを補完する手帳のメモ書きで、人々から聞きだした言葉や交わしたやり取りを、一言半句たがわず伝えることができた。


 すべてを聞き終えてから、先生は言った。


「今日はやけに聞き込みがうまくいったようだね」


 そう先生が漏らしてしまうくらい、普段の彼の聞き込みの成果はひどいものだったわけだが。彼は素直に事実を語る。


「本日は一日ずっと、“なんとか”とかいう女優がやたら絡んできました。そのためだと思います」


 そう言って彼女との一連のやり取りを詳細に語った。


「なんとか? ……名前は?」


 先生は、男のした表現を訝しげに繰り返す。


 男はスッパリとこう答えた。


「興味がないので知りません」


 先生は呆れた様子で手を止め、彼の方に向き直る。


「人の名前を把握するのは基本中の基本だ。明日もう一度劇場に行って、本人に訊くでも調べるでもいいから、彼女の名前をちゃんと知ってきなさい。君自身で」


 例えるのならもう“おじいさん”に近い先生の穏やかな顔に浮かぶ、子供を諭す時のような表情。


 なぜ先生が、“彼”が彼女の名前を知ることにこだわらせるのか。それは彼自身にも心当たりがあった。彼はどうも、他者に関心が無さ過ぎる。先生もそれを懸念しているようだった。


 先生のような作家になりたいのであれば、まず身の回りの人に積極的に興味を持たなければならないと、彼は何度か指摘されたことがある。


 それから先生は、


「それに彼女は唯一の目撃者かもしれないしね」


 と、言葉を足す。


 言われてみるとその通りで、よく考えると彼女はあいまいながらも目撃談を語った唯一の人間だ。


 彼は先生の意見を「はい」と承諾し、素直に頭を下げた。

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