《距離感》
1
机に突っ伏していた隼人の頭に分厚い教科書が振り下ろされた。
ゴンッ、と鈍い音が響く。
重い衝撃が走り、意識が強制的に現実へと引きずり戻される。
隼人は寝ぼけ眼で衝撃を加えてきた攻撃者を睨むように見た。そこにいるのはスーツ姿の男性教師である神楽坂慎吾だった。
「よお、立花。起きたか?」
腕を組み、鋭い視線を隼人へ向ける。
隼人は辺りを見渡す。
黒板の上にある時計は11時半を過ぎたところで、まだ四時限目の授業中だ。
「理解したか? 俺の時に寝るとはいい度胸だな」
「……すいません」
状況を把握すると隼人は素直に謝罪の言葉を口にする。それに満足した神楽坂は「もう、寝るなよ」と言って、教卓へと戻った。
「あの時の夢……か」
窓外の景色を横目で眺めながら、誰にも聞こえない程度の声で呟いた。
それは隼人に残る断片的な記憶が夢という形で見させたものだ。
少なくとも当時の隼人には最も大切と思える程のものだった。しかし、あの時から十年が経ち、互いの関係性は変わりつつある。
幼馴染である姫宮雫は純情可憐な少女へと成長していた。誰に対しても分け隔てなく接する様に男女問わず人気がある。
一方の隼人はその正反対な性格だ。人と関わる事が苦手で、一人でいる事が多い。故に何かしらの標的にされる事も少なくはなかった。
唯一関わりが深いのは雫だけだが、隼人は彼女に対する苦手意識は過剰だった。それはおよそ六年前に起こった悲劇によるものだ。
守ると誓ったのに、それが出来なかった事に申し訳なさを感じ、考える度に強い心痛が走る。
思考が更に奥深くへ堕ちようとしている時に授業の終了を報せる鐘が鳴り響いた。
「おおっと、もうこんな時間か。じゃあ今日はここまで。立花、次は寝るなよ」
神楽坂は注意をして教室を出て行く。
授業中の真剣な雰囲気は一気に弛緩していき、仲の良い者同士が集まり、持ってきたお弁当などを広げる。
しかし、隼人は外の景色を眺めたままだ。動こうとはしない隼人を気にするクラスメイトは一人を除いてはいなかった。
「隼人はご飯出さないの?」
雫だった。他の人と話すのと同じように声をかける。隼人は突然の事で驚き、咄嗟に胸を強く押さえる。
しかし、視線だけは強情に空から外そうとはしない。
「ねえ、聞いてるの?」
やや語気を強めて、もう一度訊く。それでも隼人は頑なに耳を傾けようとはしない。
「そんな奴放っておいて、こっち来いよ」
クラス全体に聞こえるような声量でそう言ったのは木戸拓巳だった。
拓巳は金髪を獅子のたてがみのように立てたムードメーカー的存在だ。
見た目で不良と間違えられる事は多いが、クラスではそれなりに発言権を持っていた。
「放って置けないよ、一応私達幼馴染だし」
「関係ねえよ、それに姫宮が傷つくだけだろ」
拓巳は鋭く尖った瞳で隼人を射抜こうとするが如き眼光を飛ばしていた。
「私、別に傷ついてなんて……」
「いや、自分じゃ気づいてないだけだろ」
拓巳は雫を案じていた。雫は精神面は屈強な人間だとは思っているが、限界はある。それと隼人が嫌いだった。
隼人が他人と関わろうしないで、周りにバリアを張っているように感じがあり、苛立ちを抱いていた。
「ごめんね、木戸くん。でも、私がしたくてやってる事だから」
雫がそう言った事には驚きはない。拓巳もそれは予想済みのようで、やれやれとオーバー気味なリアクションを取る。
拓巳は断られると食堂に行く為に教室を後にした。
雫は落ち着き、自分の鞄の中から小ぶりをお弁当箱を取り出し、隼人の隣の席に座って食べ始めた。
「なあ、なんで俺のところに来るんだよ?」
それは純粋な疑問だった。拒絶とまではいかないが、隼人のところに来ることで少なからず傷つく事は分かっているはずだ。なのに、雫は積極的に関わろうとしている。
「別に、理由なんてないよ」
「いつも一人でいる俺を憐れんでんのか?」
「そんな事ないよ」
こんな酷い事を思っていない。けれど口から零れ出た言葉は既に回収は不可能だった。八つ当たりするように苛立ちをぶつける。
「ただ、隼人と昔みたいな関係に戻りたいだけだよ」
「……無理だ。俺もお前も昔とは違う。変わらないものなんてない」
突き放すように言い放った。
雫は優しさの塊のような性格だ。きっと、こうしなければずっと隼人を気にしてしまうだろう。
「なんでそんな事、言うの?」
隼人は自分の事を過小評価していた。存在価値として、いてもいなくても変わらない人間だ。自分には雫と対等に渡り合う資格はない。
これは隼人のエゴでもある。けれどそれだけ今の隼人は自信を損失している状態だった。例え、どんな言葉だろうと心を癒す事は難しい。
隼人は再び視線を窓の外へ向ける。
景色を眺めているとクラスメイトの会話が聞こえる。
「そう言えば、今度新しいゲームが出るんだよね」
「ああ、知ってる。確か、《セブンス・エンド・オンライン》だったかな?」
「そうそう、それそれ」
特にゲームに興味のない隼人ではあるが、そのタイトルについては聞き覚えがあった。
仮想現実没入型マルチデバイス。通称、《アイズ》と呼ばれる第三世代デバイスとほぼ同時期に開発が開始された代物だ。
しかし、凡ゆる不具合が重なり無期限の発売延期となり、開発が中止されたとの噂話まで流れていた。
それが数年越しに発売されるとなり、注目度は高い事が伺える。
「全員が買えたらだけど、みんなでやろうぜ」
拓巳もその話に混ざる。それによってその話題はクラス中に伝播し、広がっていく。その流れの中で雫にまで話題に加わるのは自然の流れだった。
「姫宮さんもやろうよ」
その勧誘に少し考えるような素振りを見せる。雫とて興味がない訳ではない。拓巳の勧誘に同調するようにそれを見ているクラスメイトは盛り上がる。
この中でやらない、と一蹴するのは雫には出来なかった。
「うん。じゃあ、みんなでやろうか?」
クラスの盛り上がりは最高潮を見せる。普段は雫と何かをする事はほぼない。それが雫がそう言っただけでこの盛り上がり。それだけ彼女の人気が高い事が解る。
(やっぱり、雫は俺と一緒にいるべきじゃないんだよ。なあ、そうだろ)
クラスが一つになっているこの瞬間は隼人にとって居心地の悪いものだった。重圧から逃げ出すように教室を出て行く。
「あっ……」
隼人が出て行くのが見えたが、この中で追い掛ける事はしなかった。けれど瞳だけは隼人の姿が見えなくなっても追っていた。
屋上に出ると、壁に寄りかかる。
「くそッ、なんなんだよ」
そんな汚い言葉を吐き出した。
あのまま教室に留まれば苛立ちが限界を超えて、風船の如く膨張し、破裂してしまいそうになる。だから、逃げるという選択をした。
間違った選択ではない。けれど、そうするしか出来ない自分が途轍もなく嫌いだった。
抱え込んだ罪悪感が隼人の心を少しずつ蝕んでいき、一緒にいる資格はないと思うようになった。
「なんで……俺なんかに、優しく出来んだよ?」
真っ青な空を見上げる。
脳裏には思い出したくない記憶が鮮明に映し出されている。自分という人間の持つスペックを誤認していたが故に起きた悲劇。
「空は、こんなにも青いのにな」
目を閉じれば小鳥の囀りが聞こえてくる。
その心地良い音色が心を落ち着かせる。
意識を夢想へ誘うような音色に耳を傾ける。その瞬間、昼休みの終了を報せる鐘の音が鳴り響いた。それによって、意識が覚醒する。
戻りたくはないと思いつつも隼人は足早に教室へと駆けていく。
教室に戻ると未だにゲームの話題で盛り上がっているようだった。その会話の中に混ざっていた雫は隼人に気づくとそこから離れて、席に着いた隼人の隣へと座る。
「ねえ、隼人。どうして私から距離を置こうとするの?」
唐突に言われた言葉。まるで時間が止まってしまったように動けなくなる。口の中は一気に乾き、水を欲しているようだ。
「そんな事……ねえよ」
なんとか紡ぎ出した言葉。けれど明らかに強がっているのは見てとれる。
「なら、私の事をちゃんと見てよ。今日は一度として私の目を見てくれてないよ」
雫は隼人へと詰め寄る。けれど、それでも頑なに視線は別のところへと向いている。
「放っておけよ。俺の事なんて──ッ!」
隼人の怒声が教室中に響き渡り、騒がしかったクラスを静寂が包む。
クラスメイトの注目を浴び、隼人に侮蔑的な眼差しと敵意が込められたじっとりと粘つくような視線が向けられる。
「放っておける訳ないよ、だから私は、例え隼人が嫌がっても話しかけ続けるからね」
そう言って、雫は自分の席へと戻る。
そのタイミングで午後の授業の教室が入ってきて、授業が開始される。
しかし、雫が最後に捨て台詞のように吐き出した言葉が脳裏をぐるぐると回り、隼人は集中が出来なくなってしまう。
放課後になると隼人は雫に声を掛けられるよりも早く教室を出る。
「アレ、隼人がいないなあ」
ホームルームが終了すると雫は真っ先に隼人の席を見た。けれど、その時点で既に隼人の姿はない。
普段は横に引っ掛けてある鞄が見当たらないのを見ると既に帰宅した後のようだった。
「雫、何処を見ているんだ?」
雫に声を掛けたのは和装が似合いそうな黒髪の少女である岩田羽咲だ。
羽咲の背中には竹刀ケースが見えていた。
彼女は剣道部に所属している。その腕前はその界隈では名が知れ渡っている。
「あっ、羽咲ちゃん。隼人見なかった?」
「立花か。立花にはホームルームが終わると同時に急いで出て行ったが……」
「逃げられたか」
雫は戯けるように言った。
けれど、本当に残念そうな顔をしている。
「こんな事を聞くのはどうかとは思うが、どうして立花に固執する? 雫とはタイプがまったく違うと思うのだが……」
「うん、確かに私と隼人は性格とかも違うとは思う。けど、私は昔の隼人を知ってるから。誰よりも友達思いなんだよ」
当然の質問に驚いた様子は見せるが、雫は隼人という人間がどんな人物なのかを語る。その真摯な語り口調に嘘偽りもない本音だと悟る。
「すまない、不躾な質問をした」
羽咲は謝る。
けれど、その疑問は当然の事と言えるだろう。
社会的な雫と内向的な隼人では、到底友達と呼べるほど親しくなれるとは思えない。
だが、それはあくまで第三者的視点から見たものでしかない。他人である自分がそう決めつけるのは可笑しな事だと気づく。
「ううん、別に大丈夫だよ。実際、ほんとに私と隼人じゃ、タイプが違うと思うしね。それに…………もし、あの時の事が関係してるなら、私にも責任があるから」
後半の言葉は羽咲には聞こえない。
「じゃあ、帰ろうか」
雫は無意識に出した言葉を誤魔化すようにそう提案した。羽咲もその意見に反対もなく、鞄を持ち教室を後にした。
女子生徒二人の話題にしては些か珍しい《セブンスエンドオンライン》について話す。
「そういえば、雫はほんとにやるのか?」
主語が抜けているが、それだけで何について訊かれているのかは理解する。
「うん、一応そのつもりだよ。みんなの前でも言っちゃったしね」
「だが、やりたくないなら無理にやる必要はないと思うぞ」
「ううん、別に無理してやるって事じゃないよ。私も少し興味はあるし。もしかしたら、隼人がやるから話せる機会になるかもしれないし」
「そうだな、男はこういうものが好きみたいだしな」
勿論、羽咲の言った言葉に隼人が当てはまっている保障はないが、それを聞くと雫は嬉しそうに笑う。
「そうだと、いいなあ」
「大丈夫、きっとキッカケにはなる」
羽咲は真剣な眼差しで雫を見る。
高校に入ってからの付き合いで、まだ短い間でしかないが、それでも二人は互いに"友達"と認識していた。
羽咲は友達として雫が抱くその願いを応援したいと強く思っていた。
「でも、かなり注目を集めているみたいだし買えない可能性は大きいかな」
「確かにな。買えたらラッキーくらいに思っていた方が却って良いかもしれないな」
期待し過ぎれば、入手出来なかった時のダメージは大きい。
「そうだね……って話してる間にもう分かれ道まで来てたんだね、気がつかなかったよ」
「話しながらだと、早く感じるよ。それじゃあ、また明日だな」
「うん。じゃあね、羽咲ちゃん」
二人はその分かれ道で解散した。
羽咲と別れてからものの数分で雫は自宅に着いた。隣家の二階にある一室は明かりが着いていた。
「隼人はもう、帰ってるのかな?」
呟き、施錠されている玄関を鍵を使用して開き、中へと入った。
「あら、お帰り雫」
玄関を入ってすぐのところでは母親である姫宮桃が掃除がエプロンを着けているところだった。
「ただいま、お母さん」
靴を揃えて、鞄を自室へと置いてリビングへと向かう。
「今日、久し振りに隼人と話せたんだ。けどね、放って置いてくれって怒鳴られちゃった。やっぱりまだ、気にしてるのかな?」
それは心配する声だった。それを真剣に訊いている桃は言った。
「アレは不幸だったのよ。でも、隼人君はそうは思っていないんでしょ」
隼人の内向的な性格となった原因はその事件があるのだろう。それまでの隼人は活発的な少年だった。心が深く傷ついている。
その傷は簡単に癒えるものではないだろう。
桃がそう言うと、雫は表情に暗さを見せるが、肩をポンっと叩き言葉を続ける。
「でも、だからこそあなたが支えてあげるのよ。あなたの勇者様をね」
「もっ、もう、茶化さないでよ」
雫は桃が言ったその言葉に白雪の肌を紅潮させる。それを隠すように怒ったような素振りを見せるが、桃は微笑ましく笑顔を浮かべる。
雫と桃の会話の中で隼人に関する話題を大半を占めている。二人にとってそれだけ大切な存在なのだ。
だからこそ、ふさぎ込んでしまっている隼人を如何にかしたいという想いは桃にもある。
一つの大きな失敗が隼人の精神を破綻させてしまった。
精神的に追い詰められ、素直に受け取る事が困難な状況だった。それを救う事の出来ない無力さに憤慨すら抱く。
「雫、頑張りなさい。私も応援するからね」
それが親として大人として精一杯の言葉だ。それ以上の事でしてあげられる事はない。
「うん」
雫はその意図を理解し、短く返事をする。桃はもう一度微笑みを見せた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
隼人は帰宅して直ぐに自室のベッドへ飛び込むように倒れこんだ。清潔感のある天井を見ながら、思考内を堂々巡りしているのは、消える事のない罪悪感だった。
守ると約束をしたのに、それを果たす事が出来ずに彼女が傷ついた。
なんでも出来ると驕っていた事に気づく。自分は無力な人間でしかないのに、勘違いして無謀にも立ち向かった。
その結果、雫の腹部に生々しい傷痕を残す事となった。自分という人間のポテンシャルを認識し塞ぎ込むのを促進させる。
負の連鎖だ。歳月を積み重ねる事により悪いところばかりが顕著となり、重圧となる。隼人を押し潰す。
無価値な存在だと言われているような感覚が全身を這い回る。
「……俺はあの時のままだ。弱い癖に過信して、なんでも出来るつもりになっていた馬鹿な俺のままだ」
自分に対する苛立ち。隼人しかいない部屋の中で呟き、ギュッと手を強く握る。そんな言葉だけが木霊する。
後悔を抱えたまま意識を闇に落とす。
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