アーク・エンジェル

賢者テラ

短編

 ある日突然、世界中の空を不思議な雲が覆った。

 それは、見たこともないような気味の悪い雲だった。

 晴れ間は、ほとんど見られなくなり——

 びっしりと密集したその雲は、うろこをもつ魚の表面にも見えた。

 人々はこぞってこの不思議な現象を噂し、報道はあらゆる憶測を垂れ流した。



 三日たっても雲はなくならず、ますます増えていった。

 そのせいで、地上は昼間でも暗いままだった。

 地上の科学者と軍事力は、雲を人の力で吹き飛ばす計画を進めていた。

 しかし、それらの準備を待たずに、事態は次の段階に入った。

 


 雲の、うろこのようなひとつひとつの部分が、はがれていった。

 やがて、その無数の小さな黒い固まりは規則的に一定数で寄り集まり——

 無数の編隊となった。まるで羽虫の大群のようである。

 羽根があるわけでもなく、手足や顔があるわけでもない。

 ただの黒い塊としか言いようのないそれらは、世界の空を飛び回る。

 そして、まるで意思を持つかのように地上に降臨した。



 人々は、一瞬何が起こったのか分からずにいた。

 黒い小物体は、破壊を始めた。

 軍事施設、ビル、空港、テレビ局、発電所——

 不気味な青い光線を発しながら、次々に目標を灰にしてゆく。

 人類は、あらゆる火力兵器や化学兵器を用いて対抗を試みた。

 相手は卵ほどの大きさで、小さすぎて狙撃することもできない。

 おまけに、何をしてもダメージを与えられない。

 広範囲を巻き込む兵器を使用したせいで、かえって人類は自分たちがその影響による被害を被る結果となった。ゆえにその日は、化学兵器が使用された地域で赤子を産んだ母と幼子を持つ大人にとっては、まさに悲劇の日となった。

 化学兵器の残存成分が、天空より降り注ぐ。

 抵抗力の弱い幼児を失った親の絶叫が、空にこだました。

 もはや人類は、家屋の中で震えることしかできなかった。

 地球の全ての戦車・戦闘機・ミサイルは黒の天使の前に敗北した。

 その圧倒的な強さゆえに、人々はその物体を『アーク・エンジェル』と呼んだ。




「……お空、ヘンだね。母さん」

 サレナは窓から外を見て、言った。

「そうね」

 幼い娘にそう相づちを打った母は毛布にくるまり、部屋の隅で震えていた。

 父は銃を片手に、母に寄り添っていた。

 もちろん、銃など役に立つとは思っていない。

 極限状態に追いつめられた人間の、気休めに過ぎなかった。



 恐怖と不安。そして空腹が生き残りの人類を責めさいなむ。

 アークエンジェルは、不思議な攻撃パターンをした。

 人が立てこもっている建物は、これを破壊しなかった。

 ただ、一歩でも人が戸外に姿を現した時。

 一瞬にして光線で狙い撃ちにされて、消滅してしまう。

 建物の中にいる者は、一歩たりとも外へ出られなかった。

 それは、人類の死を意味した。

 なぜなら、一歩も外へ出られないということは、食料を手に入れに行くこともできないからである。その建物の中にある食料を食べ尽くした時、飢え死にへのカウントダウンが始まるのである。

 飢えでジワジワ死ぬのに耐えられなくば、外に飛び出てアークエンジェルにひと思いに葬り去ってもらう、という選択肢もある。

 ゆえに、このままではいつか人類は地上から消えてなくなる。



「いやだああああああああ」

 一人の男が発狂した。

 アークエンジェルの出現前に、宝くじで一億ドル相当を当てた。

 しかし。世界がこのようになっては何の意味も持たなかった。

 札束は紙切れに過ぎず、通帳の数字はケタがいくら多かろうがただの数字だ。

「どうしてくれるんだよおお」

 また別の場所では、時価数億ドルの絵画や骨董品を抱きしめて、無様に震える男の姿があった。

 その建物へ、アークエンジェルの一体が衝突した。

 天井から、傾く建物。

 骨董の壺や皿は、耐震のためのセキュリティシステムで守られていたが……それはあくまでも地震による『揺れ』に対しての対策に過ぎず、建物自体が根底から破壊されることを想定してはいなかった。

「ひいいいいいっ」

 男が財産をかけて長年集めてきた骨董は、一瞬にして無に帰した。

 たった一つだけ、彫刻の像を持ち出すことに成功した。

 しかし、男は飛び出した外で、浮遊するアークエンジェルを目にした。

 もちろん、それが男の見た最後のものだった。

 宝くじに当たった男も、狂気のあまり外に飛び出したところをアークエンジェルに葬り去られた。



 ただ、人類の中にはアークエンジェルを恐れない人種がいた。

 恐れないというより、怖いことが分からないとも言える。

 それは、『子ども』である。

 サレナは、もう父と母が三日も何も食べておらず、衰弱していることに小さな胸を痛めた。家に残った食料を幼いサレナに食べさせ、自分たちは我慢したのである。

「パパとママに、何かあげなくちゃ」

 貯金箱をひっくり返して硬貨を握りしめたサレナは、スーパーにお買い物に行こうと考えた。世界がえらいことになっているのに、である。

 アークエンジェルは地上の通信網を破壊してしまったので、実のところ人々は世界中がどういう状況にあるかという情報に関して、襲撃より一日後を境にまったく知らされなくなっていた。

 そのように情報のない中で、幼いサレナが事態の深刻性を理解してなくても、無理はなかった。

 親に言うと心配すると分かっていたから、サレナはこっそりと家を出た。



 窓から外を見たサレナの母は、心臓が止まりそうになった。

 我が子が、道路をひょこひょこ歩いていたからだ。

 光線で人が焼き殺されるのを見ていた母は、言葉もなかった。

 しかし——

 不思議なことに、サレナが攻撃される気配はない。



 一体のアークエンジェルが飛来してきた。

 それは、サレナの鼻の先で静止した。

「あら、こんにちは」

 サレナは、可愛く頭を下げる。

「今からね、パパとママに食べ物を買いに行くの。忙しいから、またね」

 それを聞き入れたのかどうかは分からないが——

 アークエンジェルは何もせずに、再び上空に飛び去って行ってしまった。



「おやおや、これは驚いた! お嬢ちゃん、どうやって来たんだい?」

 大型スーパーに閉じ込められていた人々は、目が飛び出そうなほど驚いて小さな訪問者を迎えた。

 攻撃もされずに生きて外を出歩けるということが、とても信じられなかったからである。

「パパとママがお腹をすかしているの。食べ物、売ってくださる?」

 お金など意味を成さない状態だったから、サレナはただで食料を分けてもらえた。もうこうなっては、助け合いの時代である。

「わぁい! ありがとう——」

 人々は、ここで考え込んだ。

 この子は、どうして外を出歩けたのだろう?

 どうして、死ななかったのだろう?



 考え抜いた末、ある結論を導き出した者は、思い切って外に出た。

 こうなっては、震えて閉じこもっていても死ぬだけだからだ。

 同じ死ぬなら、ひとつの結論に賭けてみよう——。

 サレナは無事に、食料を父母のもとに持ち帰った。

 我が子が心配でならなかった父母は、泣いて喜び迎えた。

 そして、食事をとって元気になった。

 


 世界中で、サレナのような子どもたちが外へ出た。

 そして、何の害も受けなかった。

 大人たちはそれを見て、子どもたちをまねた。

 ある者は同じように飛び出しても、平気だった。

 しかし何も考えずにまねをしたある者は、光線で焼き払われた。

 何がその違いを生んだのか?

 子どもは、自然にアークエンジェルを「トモダチ」と認識しただけ。

 大人たちの場合は、相手が敵であるという固定概念を捨て、恐れを捨てた者が助かった。



 交通も通信も遮断された世界。

 やがて身近な食料品を食べ尽くしてしまうのでは、という現実を危惧した大人たちは、これからどうしていくのかを考えはじめた。

 事実上、国や政府という組織は完全に沈黙し、意味をなさなくなっていた。

 サレナは、こともなげに言った。

「このへん、ぜ~んぶ畑にしてしいましょ」

 ムチャクチャだがある意味的を得ているこの案に、大人たちは従った。

「どうせガソリンもないし。道路なんか惜しくないやね——」

 道路のアスファルトを、コンクリートを掘り起こして、無駄なビルや施設を取り壊し、土をむき出しにさせた。

 そこに肥料をまき、穀物の種や野菜を植えた。

 その日から、すべての人間が農業を始めた。 



 やがて、人々は自らの力で育てたものを食するようになった。

 余裕の出てくる中で、学校も生まれた。

 テレビも娯楽もなくなった代わりに、歌や演芸など、その方面に秀でた者が活躍することで、人々の慰めと心の安らぎのもとにとなった。

 世界中で、こういった共同体が生まれていった。

 それを見届けるのが使命だったとでもいうかのように、あれだけたくさん世界中の空を飛び回っていたアークエンジェルたちが、いつの間にかどこかへ飛び去り、いなくなってしまった。

 人々は、安堵に胸をなで下ろすのだった。

 サレナの父は、畑を耕しながらつぶやいた。

「愛する家族と隣人が無事やったら、もうそれだけでええ。余分な財産なんぞ、意味がないっちゅうことがほんまよう分かったわ」



「アークエンジェルさんがね、バイバイって言ってたよ」

 朝食の席でサレナが言ったことに、両親は目を丸くした。

「あんた、あれの声を聞いたのかい?」

 大人たちは、初めは何をバカな、と思ったが——

 町に奇跡をもたらした我が子のことだから、そういうことがあっても不思議ではないかも、と考え直した。

「で、他に何か言ってたかい?」

 母の問いに、サレナは可愛く小首を傾げた。

「うーん、確かね………」

 やっと言葉を思い出したサレナの顔が、花が咲いたように輝いた。



「また僕らが来なくてもいいように祈ってる、って」

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アーク・エンジェル 賢者テラ @eyeofgod

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