17.代償に


玄関の向こう側を覗く。七三分けの、初老手前の男。無表情に佇んでいる。紺色ビロードのスーツに、埃ひとつ付いていない。


「どちら様ですか」

「契約にお困りですね」

溌剌に彼は言った。

なるほど確かに困っていた。しかしよく嗅ぎつけてくるものだな。


「担保に出すモノが無くてね。だがいいんだ。自分でなんとかする」


営業マンの男は下がらない。


「うちなら担保はとりませんよ」

「その分の代価が嵩むだろう?そうすると支払いが間に合わんのだ」

「代償は変わりません」

男は顔が千切れんばかりに、一層笑みを浮かべた。

少し不信感を抱いた。

「今時、そのような上手い話があるのか」

「主人は酔狂なお方でしてね。一般とは少々変わった趣向を持っているのですよ」

「簡単な仕事ではないぞ」

「どんなご依頼でも代償はかわりませんよ」商談の成立を確信したのか、もはや笑っていなかった。


後日、男に問い合わせた。男はすぐに出た。

「不明な点でもございましたか」少しあざわらう様に聞こえたのは、自分自信の心境を映しているのだろう。そう一人で納得した。


「待てども来ないので、問い合わせたのだ」

「おやおや」男はくすりと笑った。

「お客さん。鏡はお持ちではありませんか」

私は少し居心地が悪くなり、一つ咳払いをした。

「まいど」男は楽しげに電話を切った。


テレビを見ている老父の前を通って、私は洗面所の前に立った。

埃を被った鏡には、白髪混じりの痩せた髭面。少ししてから、それが自分ではないと分かった。

私は無表情に鏡を見ているのに、鏡の中の私はだんだん笑みを浮かべた。


代償に、あれを貰う。

嗄れたどす黒い声が、頭の中でそう言った。

私は身体の制御を失った。


私はあの男の悪態を叫ぼうと思ったが、実際にはそれが出来なかった。悪魔のしようとしている事が分かっても、私は叫ぶ事ももがく事も出来ない。

私はきびきびと廊下を歩き、父の後ろで止まった。

頭を両手に掴んだ。骨が砕ける振動が、電気のように指先を走った。鐘の余韻のように、指の痺れがしばらく収まらなかった。

悪魔は恍惚として、焦点の合わない瞳を見つめた。

私は今さら気づいた。先日結んだ契約に、代償の詳細が無かった。男のあざ笑う声が聞こえる気がした。

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奇妙なショートショートを読む本 伯爵 @hurito

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