第3話

 乗換駅まで快速で、さらにそこから目的地の海辺の町までローカル線で計二時間少々。交通費も片道二千円ほど。

 乗車料金が高額になる特急を除外し、なおかつできる限りスピーディに目的地へ到着できるルートを交通料金サイトに調べるとそうなった。


 最初は緊張の裏返しから不自然にはしゃいでいた二人も、乗換駅に到着するあたりでは電車の旅にも飽きはじめ、北へ行くにつれて深さを増してゆく秋の山里の景色に寂寥感をおぼえているうちにミナミは睡魔に襲われて船をこぎ出す。シンシアはというと、今読ん出る最中だというやたら分厚い文庫本の推理小説をすかさず読み出す。


 こうして普段の通学途中と大して変わらないテンションに最終的には落ち着きながらも、徐々に広くなってゆく河川や、その先にある広々とした山間に二人がめざす海の気配を感じられるころには次第にテンションはV字回復してゆく。ミナミはというと車窓から無暗に写真を撮影しまくる迷惑JKになり果てていた。

 

 天気予報も的中して、空の青さは目に染みるほど。これは絶好の海日和だ。


 普段利用する車体とは違う電車内の風景や、地元のイベントを告知するポスターなどはわざわざ写真に収めず、それでも忘れないようにと網膜に焼きつけながら、ミナミはシンシアによりかかる。


「ついにここまで来たね、シーちゃん」

「だねぇ、『あの坂を登れば海が見える』だね」

「? なんだっけそれ?」

「中学の時、模試の問題文に出てきたんだよ。覚えてない?」

「そんなの覚えてるのシーちゃんだけだって」


 なんだかピントのずれた発言をするということはシンシアなりに興奮しているのだろう、と、ミナミは理解する。寄りかかったために、シンシアの匂いに一瞬包まれた。ワンピースに染みついた古着屋の洗剤、シャンプーやデオドランドなどの匂いの奥から、本人は気にしている特有の体臭を強く感じる。やっぱりミナミはどことなくスパイスがかったシンシアの匂いが好きなのだが、シンシアはいつものように嫌がって密着するミナミをぐいと押して遠ざけた。


「ほら、もう着くよ。準備しな」

「イエッサー」


 いつも利用するのとは違う電車は、いつも利用する電車と同じように大儀そうに車体をゆすって、駅に着いた。一拍間を置いてドアが開く。


 こうして二人は路線図上でしか知らない、未知なる駅のホームに降り立った。

 


 ミナミとシンシアにとっては海水浴場とカニで印象づいているこの町は、旅行業界では伝統工芸で潤っていた大正・昭和の風情を多く残した風情ある街並みを残している日帰り旅行にもってこいの場所としても知られていたらしい。

 駅に降り立つなり、奇麗にリノベーションされた町屋風のメインストリートが目に飛び込み、土産物である海産物やかつてこの町を潤した和装小物などを求めるおばさま達のグループがいくつか目に飛び込んできた。

 他には、駅を利用する地元の人々が目立つ印象。ミナミとシンシアのように、なにか特別なことをしてやるとばかりに勢いこんでやってきた十七歳前後の少女は、当たり前のように見当たらなかった。


「着いたね……」

「着いた」


 未知なる駅の前で、二人はとりあえずポツンと呟き、無感動に返した。とにもかくにも本当についてしまったのだ、海のある町に。


 駅前からは見えないが、海は近いようだ。空気にはどこか潮の気配が含まれている。内陸育ちの二人にはなじむのに時間がかかる、どこか生々しい磯の香が含まれている。

 数百メートルほどあるけば夏にはにぎわう海水浴場に出られることは、シンシアのガイドブックで把握済みである。さっさか歩けばすぐにたどり着ける場所である。


 しかし二人は躊躇して、ともに時間を確かめあった。正午にはまだ少し早いが、土産物屋から海産物を焼くような食欲を否応なしに刺激する匂いを無視するには難しい時間でもあった。

 空腹だったのは確かである。しかしなんとなく海へ行くのは先延ばしにしたい気持ちが胸に刺したのもまた確かだ。ミナミは無邪気を装い提案する。


「シーちゃん、とりあえず先に何か食べない?」

「だね。じゃあ本に載ってたカフェでも行く?」

「あのシフォンケーキのとこ!? 行く行くっ!」


 今度はことさら意識しなくても無邪気な声が出た。シンシアのガイドブックを覗いていた時からひそかに気になっていたのだ。

 思わず飛び跳ねるミナミの手を、シンシアがさりげなくぎゅっと握る。


「じゃ、決定~! 混んじゃ困るからさっさと行くよ」

「う、うん!」


 そして、ミナミを引くようにとことこと歩きだした。

 ミナミとシンシアが手を握ることはよくある。ふざけあったり、退屈しのぎに腕相撲や指相撲をしたり、軽いスキンシップの一貫でしかない接触はいつもの通りだ。

 しかしこのタイミングで手を握るのはちょっとばかしずるい、と、ミナミは胸をざわつかせつつシンシアの手を握り返した。いつもよりちょっと汗をかいてるらしく、今日のシンシアの手は他の部位の温かさに反してひんやりしている。


 そんなことをしみじみ感じていると、手を引いて先に歩いているシンシアがちょっと怒った顔で振り返った。


「ちょ……っ! 変な手の握り方するなってば。恥ずかしいじゃないっ!」

「だって、シーちゃんがさっさか手握ってくるからびっくりしたんだもん」


 振り向いたシンシアの顔が、やはりさあっと赤らんでいる。肌の色が白いので、シンシアの紅潮はよく目立つ。これも本人にとってはコンプレックスなのをミナミは知っている。体臭、紅潮でそばかすが浮かぶ白い肌、手汗で冷たくなる手、少し肉厚な体つき。シンシアが気に病んでいる部位こそミナミが快く思っている部位だというのは難儀なものだと、ミナミはひっそり思う。


「今更びっくりしなくてもいいじゃん。いっつもやってることなんだから」

「いやでもさ、やっぱ学校でやるのとは違うよ、こういうのってさぁ……」

「こういうの? って?」

「こういうのって、だから……」


 デート? と、うっかり口を滑らせそうになったミナミは慌てて言い換えた。


「だから、アレだよ。いにし……いにしえ、いにしえがどうとかいう」

「イニシエーションね。あんたいい加減それくらいの単語くらい覚えよう?」


 あえてすっとぼけてみせたことを、前をむいたシンシアが気づいたか気づいてないのかはミナミには分からない。ただ、なんとなく二人をつつむ空気がややじっとりしたのを感じただけである。

 それを払拭するために、なおさらわざとらしく明るい声を出す。


「えーと、例のカフェってこっちでいいの?」

「間違ってない筈……、あ、ホラあったあった!」


 シンシアがはしゃいだ声を出した先に、漆喰の白壁に格子戸の前に小さな黒板を出した、明らかにカフェだとわかる店舗があった。ガイドブックの写真で見た通りの店構えだ。


 気まずさから逃げ出すように、二人は同時にメインストリートを駆けだした。



 

 カフェで昼食を摂るのは、決して財布が豊といえはない高校生の財布に大ダメージを与える。

 ファストフードやフードコート以外の店でちゃんとしたご飯を食べると、大人の階段を駆け上がった気がする。

 

 通過儀礼の旅の結果まずそれを身をもって学習したミナミは、海を目指して歩く道中で頭にそんなことを書きつけた。財布にダメージを与えた分、デザートつきのランチプレート(海鮮フライ盛り合わせとサラダに五穀ごはん)は十分美味しかった。海までの数百メートルも、よい腹ごなしになってくれる。


 海水浴場は駅前からのびるメインストリートの終点、夏には民宿にもなる民家の立ち並んだ一帯からさらにその先にあるという。

 昔ながらの瓦屋根の民家が多く立ち並んでいる、家並み全体が午睡しているような一帯に来ると、さすがに潮の匂いも強まり、波の音まで聞こえてくる。

 こうなると内陸育ちの悲しい性で、落ち着きのないミナミはもちろん、どちらかといえば冷静なシンシアですら顔を見合わせるや、海水浴場への行く先を示す看板を見つけてからは示し合わせたように走りだしてしまうのだ。

 その日は一台も停まっていない駐車場、そのむこうにある松の防風林を抜け、二人はついに十月の海と対面を果たした。


 白い砂浜、紺碧の水平線、押し寄せる白波。体を震わせる潮騒。


 まごう事なき完璧な海である。きゃああああ、だの、海だああああ、だの、口々に歓声や当たり前の事実を口にしながら二人は波打ち際まで走った。砂が入って不快なので、靴は適当な場所で脱いで裸足になり、深く考えることなく押し寄せる波に足を浸す。

 水は冷たいが、やや汗ばむ程度の陽気だったせいかそれがむしろ快い。なんなら一気に全身を水に浸したくなるほど。

 ただしそれを実行するほど我を忘れはしなかった、着替えを持ってきていなかったからである。


 そのかわり、お互い水を蹴って跳ね上げたり、手ですくってシンプルに掛けたり、それなりに遊んだので服はところどころすぐに濡れる。特にシンシアのワンピースは裾が長い分、すぐにびしょ濡れになってしまった。

 夏の海水浴では濁って正直あまりきれいに思えない海なのに、シーズオフだと信じられないほど透明だ。どこかの観光地のビーチの様。


 十数分ほどそんな風にはしゃいでいたら、お互いに満足してハアハア息をしながら靴やカバンを投げ出した場所まで帰った。用意のいいシンシアがビニールシートを広げるのを待ってから二人で濡れた両脚を投げ出して座る。


 水のかけっこで濡れた服や髪、脚が乾くのを待ちながら、ざざん、と押し寄せる波を見つめる。シーズンオフの海は綺麗なだけでなく、青くて広くて大きい。海が常に傍にある町での生活ってどんなものか、ミナミは一瞬夢想した。

 好天も手伝って、濡れた服や体はすぐに乾いた。砂を適当に払ってから靴下をはいて、靴を履く。波打ち際で無心に遊んだが、なにかしらまだ目的の半分以上が達せていない気がするのはなぜか。


 んー……、と、三十秒ほど考えたのちにミナミはシンシアへ提案した。


「シーちゃん、あたし今から十数えるからその間にできるところまで逃げな?」

「は? 何? なんで急に鬼ごっこなの? 脈絡ないなあ」


 体を動かすのがあまり好きではないシンシアは、ミナミの提案に露骨な不満そうな顔をするが、次の説明をきけば納得したらしく、微妙な表情で頷いた。


「いいから、あたしからのプレゼントだよ。砂浜を走るシーちゃんを捕まえてやるよ。あの歌みたいにさ」


 んじゃあ十数えるからねー、と、なんの間も与えずにミナミがおもむろにカウントを開始すると、服に合わせてバレエシューズなんて履いてきてしまったシンシアは、ずるいだ卑怯だちょっと待てだのと、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら肉厚の体をゆすって走り出した。完全に鬼ごっこで足の速い鬼にターゲットにされやすい子の走り方だった。

 ミナミはさほど俊足というわけではないが、比較的ゆっくり十まで数えた後にわりとタイトなスカート&ハイカットのスニーカーという条件で砂浜を走ってもやすやすとシンシアとの距離を詰めることに成功した。振り向いたシンシアは、子供時代の鬼ごっこの記憶がよみがえりでもしたのか、ぎゃあああ! と風情のない悲鳴をあげて本人なりに馬力をかけた。その姿には、愛を確かめたくて恋人の腕からするりと逃げ出した女の子の華麗な情緒は無かった。そこがむしろたまらなくて、ミナミはスピードをあげる。


 砂浜を蹴る。

 ジャンプする。

 そのままシンシアの背中に抱き着く。


 捕まえたー! と叫んで、まだ少し湿っているシンシアの金茶の髪越しに肩とうなじに顔を埋める。

 スパイスのような体臭に潮の匂いが付いた匂いを嗅ぎながら、ミナミはそこに額をくっつけた。


 シンシアはそれなりに重量があるので、小柄なミナミが飛びついてもよろめくくらいで倒れはしない。肩に回したミナミの両腕を抑えて、中途半端におんぶするようなことになった。

 砂浜で全力疾走したシンシアからは、ミナミの好きな匂いが一層強まる。そして、普段嗅がない海の匂いもそこに交じる。どくどくと早く力強いシンシアの心臓と、ざざあ、ざざあ、と気持ちを盛り立てるのが憎らしいくらい上手い潮騒も聞こえる。


 感情が限界に達して、ミナミはぽろりと呟いた。


「シーちゃん、好きだぁ……」


 これを言ったら、気持ちは収まるのかと思っていた。しかしミナミの予測に反して、むしろ胸の中で気持ちは一層高まって、むやみやたらとたまらなくなる。

 シンシアに海に誘われた夜に気付いた気持ちが、この瞬間でやっと固まる。本気になる。覚悟が決まる。


「シーちゃん、あたしの誕プレになってよ。そしたら、あたしもシーちゃんの誕プレになってあげるから」


 なんだかもう少し気の利いたことを伝えたかったのに、普段からロクな文化に触れあっていないミナミにそんな芸当ができるわけがなく、ただ切羽詰まった感情が幼稚な言葉と合わさってあふれだす。

 そもそもミナミに大変なショックを与えたあの漫画に影響されたようなセリフを吐くのはどうなのか? 頭の片隅ではそんな反省が浮かぶものの、そんな些細なものは感情の奔流でどうにもよくなる。ぐい、とシンシアが乱暴に背中に抱き着くミナミの腕を引っ張って前に回したから。

 

 あとはもう、ミナミよりちからのあるシンシアのされるがままだった。ギュウっとだきしめられて、そのまま唇を奪われる。


 ざざん、と波は押し寄せる。北にあろうが南にあろうが、どこまでも海は気分を高めるのが上手かった。


 あの『十七才』とかいう歌を作った大人は、海に行けば何とかなるってことも伝えたかったのかもしれない。

 絡まった舌の先からお互いの感情以外にこういうバカみたいな考えも伝わったりするんだろうか、だとしたら面白いのに。

 

 歯止めが利かなくなっているシンシアからあふれ出る気持ちに濡らされながら、ミナミはそんなことをぼんやり思った。

 相槌を打つように波がまた押し寄せて、ざざん、と鳴った。



 

 今日はシンシアの誕生日。そして日曜日、明日は変哲もない月曜日。


 というわけで、ミナミ自身が朝に語った通りに因るには帰らないといけない。

 どうしても抑えが聞かなくなった時は、なんとしてもミナミを自分の家に泊めようとまで思いつめていたシンシアも太陽が西に傾いた時にはだいぶ冷静さを取り戻していた。

 冷静になったのもミナミも同じだった。唇が腫れそうなほど長々とキスをしていたら、放置しているとどうにかなりそうだった衝動も感情も鎮火されてしまったのである。要は、「気が済んだ」という状態に二人して陥ったらしい。


 これが俗にいう賢者タイムか、と、二人して同時に知る気持ちをしみじみかみしめながら、砂浜に放置した荷物を取りにとぼとぼ戻り、そのまま素直に帰ることになったのだ。


「やっぱ初めてが野外ってのはハードル高いよね……」

「誰がいて、どんなヤツが見てるわかんないしね……」


 帰りの電車を待つホームで、ベンチに並んで座りながら二人はポツポツと言葉を交わす。

 今このホームには二人の他に人影はいないが、ひょっとしたらあのビーチにはだれかいたかもしれない。そんなことを考え出すと、今度は恐怖と羞恥で全身が震えてしまいそうになる。


 疲労感と眠気に襲われながら、ミナミはホームから見える景色を網膜に焼き付けた。波の音、シンシアの匂い、息遣い、海の水の冷たさ、抱きしめられた時の感触、カフェのお昼ご飯、気持ちを伝えなければ破裂するんじゃないかとさえ思った感情の高まり。

 

 あの日電車の中で誕生日の愚痴をこぼさなければ体験できなかった諸々を思い出しながら、ミナミはシンシアに尋ねた。


「シーちゃん、いい誕生日になった?」

「――まあね。我ながらアオハルって感じだった。ありがとね、誕プレ」


 急に照れくさくなったのだろう、シンシアはそっぽをむいたままぶっきらぼうに告げた。

 その様子がちょっと憎たらしくて、最後にミナミは爆弾を投下する。

 

「実はねシーちゃん、あたしパンツとブラジャーそろえて来てたんだ」

「……なんでこのタイミングで言うかなぁ?」


 ミナミのカミングアウトにシンシアは恨めし気な声を上げた。が、すぐに気を取り直したのか、声の調子を元に戻した。


「ま、いいや。今度お泊り会の時に見せてもらうから。お楽しみはもうしばらく取っておくよ」


 ぶはっ、と、ミナミは思わず噴き出した。

 電光掲示板の表示によると、電車が到着するまであと十数分かかるようである。

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ミナミとシンシアの場合 ピクルズジンジャー @amenotou

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