不幸の子犬
烏川 ハル
彼女の場合
「ここで作者が登場人物に、あえて間違ったセリフを言わせているのがポイントだな。別に、作者自身が間違って覚えているわけではなく、そういうキャラクター描写なわけだ」
国語教師のダミ声に混じって、トントンと、チョークで黒板を叩く音が聞こえてくる。
「『相手のためにならない』という使い方、これは若者によく見られる誤用であり、本来は『他人だけじゃなく、回り回って、自分にも良いことがあるから』というニュアンスなわけで……」
教壇に立つ中年男性には、板書が多すぎるという悪癖があった。いちいち全て、教科書から黒板へ書き写す必要などないのに。
そのせいであろうか、彼は黒板に顔を向けてばかりで、ほとんど生徒の方を見ていない。真面目に授業を聞いていない生徒がいても、彼は気づかないらしく――あるいは見て見ぬ振りを決め込んでいるらしく――、注意することは全くなかった。
だから、この時間は、勝手に他の科目の勉強をしたり、居眠りをしたりという生徒が多く……。
窓際に座る
理系に進むつもりの佐知子にとって、国語は重要科目ではない。そもそも受験科目に含まれていない大学もあるし、仮に必要だとしても、配点比重が小さかったはず。
それでも少しは、授業が耳に入ってきてしまう。特に「『わけではなく』『なわけだ』『なわけで』と同じような言い回しを続けるのは、国語教師にあるまじき表現力ではないか」と、鬱陶しく感じる程度には。
気分転換の意味で、視線を空へと向ける佐知子。
数日前までの雨降りが嘘のように、澄み切った秋晴れの空だった。どこまでも続く一面の青には清涼感があり、教室の窓ガラスと自分の眼鏡を通して見ていても、自然の美しさが伝わってくる。
目にするだけで、心にわだかまるモヤモヤが――思春期特有の不穏な想いが――、軽くなっていくようだった。
自分でも気づかぬ程度に笑顔になった佐知子は、ふと、視線を下に落とす。今の時間、体育の授業をしているクラスはないので、校庭はガランとしていたのだが……。
土のグラウンドの端に植えられた、何本かの大木。その近くを、一匹の茶色が歩いていた。
「……犬?」
頭に浮かんだ考えを確認するかのように、小声で呟く佐知子。
ブルドックやプードルなど、犬といっても色々な種類がある。佐知子は、それほど犬には詳しくないのだが……。
それらカタカナで表記されるような種類の犬ではない。その程度は一目でわかった。少し狐っぽい顔立ちが特徴的。日本の犬の、代表的な品種。確か、芝犬という名前だったはず。
第一印象は『茶色』だったが、焦げ茶色のような濃い『茶色』ではなくライトブラウン。それもブラウン一色ではなく、顔の下半分とか、胸や腹など体の内側――佐知子の場所からは見えにくい部分――は、白くなっているようだ。
遠目でわかるのは、それくらいだった。周囲の物体と比較すると、それなりの大きさがあるようなので、いわゆる豆柴のような小型犬でもなければ、これから成長する子犬でもない。立派な成犬なのだろう。
そうやって観察しているうちに……。
「えっ?」
授業中だというのに――それでも一応は周りに聞こえない程度の小声ではあったが――、驚きの声が出てしまった。
問題の芝犬が顔を上げて、まるで佐知子を見返すかのように、校舎の方に視線を向けたのだ。
佐知子は、犬と目が合ったような気になるが、
「まさか、ね。こっちは教室の中、あっちは外の校庭。だったら、私の視線に気づくわけないし……」
と、小さく首を振った。頭に浮かんだ考えを、かき消すかのように。
――――――――――――
放課後。
「じゃあねー!」
「また明日!」
とか、
「なんだか、お
「駅前のいつものお店、寄ってく?」
とか。
授業が終わったという開放感が、教室には満ち溢れていた。そうしたクラスメートたちの会話を尻目に、佐知子は素早く帰り支度をして、そっと一人で教室から出て行く。
廊下や階段、校舎の玄関口には、他にも家路を急ぐ生徒たちが大勢いる。校庭を経て校門までは、佐知子もそうした集団に飲み込まれる形だったが、門から出たところで彼らから離れて、違う方向へ歩き始める。
この高校の生徒は、ほとんどが電車で通っているが、佐知子は徒歩通学。しかも彼女の家は、学校を挟んで、駅とは正反対に位置しているからだ。通学路が皆とは逆になることに、入学当初の佐知子は少し寂しさを感じていたが、むしろ今では「一人でいる方が気楽でいい」と思うようになっていた。
大通りを100メートルほど歩くと、警察や消防や水道局の出張所があり、この町の『官庁街』といった雰囲気になっている。そのうちの一つ、水道局の横を通り過ぎようとした時。
ワン、ワンワン。
動物の鳴き声らしき音が、佐知子の耳に入ってきた。
「犬かしら? また……?」
国語の授業中に見た芝犬のことが、頭に浮かぶ。もう放課後には、校庭にもいなかったはずだが……。
わずかに眉をしかめながら、佐知子は立ち止まり、鳴き声がした方角に視線を向ける。
灰色のビルを囲む、緑の生垣。よく見ると、その隙間に、茶色のダンボール箱が一つ挟まっていた。
「中から聞こえてくるということは……」
近寄って、開けてみる。
入っていたのは、少し狐っぽい顔立ちの犬。全体的にはライトブラウンで内側など一部が白いというのも、昼間に見た芝犬と同じ。ただしサイズだけギュッと小さくした、まるでぬいぐるみのように可愛らしい子犬だった。
「まあ!」
思わず顔が緩む佐知子。
彼女の様子を見て、子犬も嬉しそうに「ワン、ワン」と吠える。
箱詰めにされて、こんな場所に捨てられていた割には、特に衰弱している様子も見えない。なんとも元気そうだ。
子犬に対して愛おしさを感じて、佐知子の胸の奥底からは、その温もりを抱きしめたいという気持ちが浮かんでくるのだが……。
「ごめんね。うちのお母さん、生き物を飼うことに抵抗ある人だから……。残念だけど、連れて行けないわ」
自分の想いを押し沈めながら、ダンボールに蓋をする。
「大丈夫。ここは人通りも多いし、それに、お役所の建物だから。きっと誰か一人くらい、あなたを飼える人もいるはずよ」
その言葉と共に、ダンボール箱を元の場所に戻して、佐知子は立ち去るのだった。
小さな『官庁街』を越えて少し進めば、緑色の橋に差し掛かる。何気なく視線を下に向けると、数日前の雨の影響で、まだ川は増水しており、灰色に濁っていた。
「昨日と同じね。空とは違って、川は、すぐには回復しない……」
そんなことを思いながら、佐知子が橋を渡りきった時。
再び「ワンワン、ワン」という鳴き声が聞こえてくる。
「えっ?」
一瞬、空耳かと思った。捨て犬をそのままにしてきたことが罪悪感として残り、幻聴を生み出したのだ、と。
だが、違う。反響音のようにも聞こえるが、それでも現実感のある鳴き声だ。
「まさか……」
少し寄り道をして、川原に下りる。すると、すぐにわかった。
ちょうど橋の真下、つまり橋の上からでは見えない場所に置かれていたのは、一つのダンボール箱。先ほどのものとは違って、最初から蓋は開いており、中で一匹の子犬が、ちょこんと座っていた。
「また捨て犬!」
同じく茶色の芝犬で、サイズも同じくらい。
パッと見た感じでは区別がつかないが、別に先ほどの子犬が先回りしてきたわけでもなかろう。
「『事実は小説よりも奇なり』って言うけど……。偶然って、本当にあるものなのね」
一日に二匹の捨て犬に遭遇したことを『偶然』の一言で片付けて、佐知子は帰路へと戻った。
さらに数分の距離を歩くと、道路の両側は雑木林となり、道幅も少し狭くなる。ひたすら同じような木々が続くので、いつもならば、特に佐知子の注意を引くものは何もないのだが……。
今日は事情が違っていた。
一本の木の根元に置かれた、一つのダンボール箱。中身は「ワン! ……ワンワン!」と断続的に吠える子犬。しかも色や形は、最初の二匹とそっくりだ。
「もう偶然じゃない!」
顔を歪めて、佐知子は叫んでしまった。
もちろん『二度ある事は三度ある』という言い回しもあるが、現実的には、まずありえない話だろう。
「それよりも……」
佐知子は想像する。
三匹の容姿が酷似しているのは、同じ母親から生まれたからに違いない。ひょっとしたら、学校に迷い込んだあの芝犬が、この子犬たちの親犬だったのかもしれない。捨てられた我が子を探していたのかもしれない。
いや、そこまでは想像の飛躍だとしても。
誰かが子犬を捨てて回っていることだけは、まず間違いないだろう!
「なんでそんなことするの! 捨てるにしても、どこか一箇所でいいのに! なんでわざわざバラバラに!」
小さな怒りが胸の内に生まれて、思わず両の
捨てた飼い主に対して腹が立つと同時に、だからといって自分が飼うことも代わりの飼い主を探すことも出来ないという事実に、彼女は打ちのめされていた。
結局、今度もそのままにして、また佐知子は歩き始めたのだが……。
子犬と出くわすのは『二度ある事は三度ある』どころの話ではなかった。
この日、家に帰るまでの間に、何度も何度も佐知子は見かけたのだ。ライトブラウンの芝犬の子供が入った、同じようなダンボール箱を。
「これって……!」
最初は「誰かが子犬を捨てて回っている」と思った佐知子だが、四匹目、五匹目と続くうちに「それにしては、いくら何でも多すぎる」と感じ始めていた。
自分の行く先々だけでも、この数なのだ。ならば、もっと他の場所にも、たくさん捨てられているはず。
いや、あるいは。
それこそ『自分の行く先々だけ』を狙って、ピンポイントに捨てられているのだろうか?
しかし、それでは『捨てられている』というよりも、むしろ、この子犬たちが自分を追いかけ回しているような……。
そう考えてしまうと。
何か得体の知れない感覚が、佐知子の背中を、ゾワゾワと這い上がってくるのだった。
――――――――――――
数日後の朝。
まだ授業の始まらない教室では、おしゃべりに興じている生徒も多く、賑やかで穏やかな空気が醸し出されていた。
窓側に座る二人の少女も、外から差し込む日光に照らされて、明るく談笑している。
「昨日、うちに変なハガキが送られてきたのよ。『これと同じ手紙を十人に送らないと不幸が訪れます』みたいな」
「それって、チェーンメール?」
首を傾げながら聞き返したのは、サラサラと長い黒髪が特徴的な、スレンダー体型の眼鏡っ
天然茶髪をショートにした、見るからに活発そうな生徒が、友人の言葉を少しだけ訂正する。
「そう、チェーンメールのアナログ版。確か『不幸の手紙』って言うんだっけ」
「ああ、それなら聞いたことがあるわ。昭和の昔に、かなり流行した話でしょう?」
と言った後、一瞬の
黒髪ロングの少女は、軽く前髪をかき上げて、言葉を続ける。
「『不幸の手紙』といえば、最近は『不幸の子犬』というバージョンもあるそうね」
「何それ? 子犬が送られてくるの? ウケるー!」
キャハハと笑い飛ばす、茶髪ショート。
「そうそう。子犬を育て上げて大人の犬にして、十匹以上の子犬を産ませて配らないと、不幸に見舞われるらしいわ。もちろん、最初から子犬を受け取らず、見なかったことにする、というのも駄目よ」
「いやいや。おかしいじゃん、それ。手紙書くのと違って、時間かかるじゃん」
「そうなのよ。でも『不幸の手紙』みたいに一方的に『不幸が訪れます』ではなくて、きちんと全部の子犬の飼い主を見つけたら、良いことがあるという話で……」
「それじゃ『不幸の子犬』じゃなくて、『幸運の子犬』じゃん」
話がそこまで進んだところで。
「大変、大変!」
後ろ髪を束ねた小柄な少女が、二人のところに駆け寄ってくる。まさに『ポニーテール』という名称通り、馬の尻尾のようにブンブンと髪を振りながら。
「二人とも、聞いて! 三組の生徒が一人、昨日の帰り道、トラックに撥ねられたんですって!」
「三組の誰?」
「窓際の席の、ぼっち眼鏡!」
「ああ、あの地味な子。どうでもいいじゃん」
「まあ、あの子だったら、友達もいなさそうだし……。私たちにも関係ない話ね」
と返す二人に対して、ポニーテール少女は、左右に大きく首を動かした。
「どうでもいい話じゃないし、関係なくもないわ! 私の幼馴染のケンタ君、密かに、あの『ぼっち眼鏡』に憧れてたみたいで……」
「へっ? あんな子に? 趣味わるー!」
「まあ、おとなしくて眼鏡というだけで、需要あるのかもしれないわね。地味だからこそ可愛く見える、いわゆる『地味かわ』かしら」
黒髪ロングが、自分の眼鏡にクイっと指を当てる。まるで「それならば私もモテそうなものだけど」とでも言いたげに。
一方、ポニーテールの子は、幼馴染を馬鹿にされて、少しムッとした表情。だが、あらぬ方向に話が逸れそうなのを察して、すぐにその表情を消して、言葉を続けた。
「とにかくケンタ君、『俺、お見舞いに行く!』とか言い出しちゃってさあ。今日の放課後、本当に病院まで行くつもりみたい。ケンタ君、今まで『ぼっち眼鏡』とは一言も口きいたことすらないのに……」
(「不幸の子犬」完)
不幸の子犬 烏川 ハル @haru_karasugawa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
カクヨムを使い始めて思うこと ――六年目の手習い――/烏川 ハル
★209 エッセイ・ノンフィクション 連載中 298話
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます