アジサイ

真花

アジサイ

 散った桜の香りがまだ残り、これも辛うじて花冷えか、腕をさすりながら誰もが足早に街を抜けて行く。

 横断歩道の中でもそこだけは極端に車が横切ることが稀で、早く暖を取りたいから皆信号の色に構わずに渡る。私も同じ理由で急いでいた。あとどれくらいかな、縮こまる体から首を上げると違和感があった。

 女性。

 流れる人の中に凛と立って信号を待っている。

 誰も彼もが別のこと、そう宣言するように彼女だけが一歩目を出さない。

 真っ直ぐな髪は首が少し見える長さ、スーツは紺、パンプスはヒールの低い。私の肩くらいの背だろう。

 意識が引き寄せられる。

 あの信号で待つことを選ぶ彼女の行動の引力。いや、後ろ姿そのものも力がある。

 ここの信号は長い。誰のためでもなく長い。

 だから私は彼女の場所に追い付く。

 三メートル右側、横断歩道の端と端に並ぶ。

 通過してゆく全ての人々と同じように信号など無視する筈だった。でも、私は彼女の隣で信号を待った。信号を理由にした。

 彼女の横顔を盗み見る。柔和の中に知的で意志のある目がある。どんな顔をして笑うのだろう。でもそれ以上は凝視出来ない。危険な人だと思われるリスクより、ぞんざいに扱ってはいけない、そんな気がした。

 彼女の気配を左に感じる、いや、捉えようと努力する。流れる人の中二人だけがじっと立つ。清流の対岸にある岩と岩のように。

 風が吹き込む、咄嗟に彼女を見る、目は合わない。

 信号よ変わるな。

 そう念じても、時が来れば信号は変わる、彼女は進み出す。私も。道程が重なり意図せずに彼女の後を歩く。追っていた訳ではないけれども、途中で右折したときに彼女を見失った。少しつまらなく、足を止めて空を見上げた。

 私の中に灯ったものはしかし、仕事に戻れば忘れてしまう程度のものだった。

 だから次に同じ信号で彼女を見かけたときはワープをしたかのようにそのときと繋がって、私はまた信号を待つ人になった。二回、三回と邂逅が続いたら、彼女を探すようになった。五回目から後は、たとえ彼女が居なくても信号で待つようになった。概ね空振りなのだけどときにそれは功を奏し、ふ、と彼女が左端に立つ。ただお互いに立って待っているだけ。信号が変われば日常に帰る。


 空の機嫌が読めないなら傘を持ち歩く。

 駅前に昼食を食べに出たときは雲なんてなかったのに、店を出ると降っている。しとしとの雨。

 道をゆけばあの信号。流石に今日は無視しよう。

 視界に横断歩道が入ったとき、もう一つ目に入って来た。

 彼女だ。

 傘も差さずにいつもの左端で信号を待っている。

 私は右端に向かう、違う、決意をする。

「あの、濡れてしまいますよ、入りませんか」

 彼女は、じ、と私の顔を見る。

 ニコ、と微笑む。

「ありがとうございます、お言葉に甘えます」

 傘の中に入って来た。

「つい、晴れている空に引っ掛かって、この時期は傘ないとダメですよね」

「うっかりは誰だってありますよ」

 彼女の匂いが雨で流されていても、する。

 信号が変わる。

「心配にならない範囲で送りましょうか?」

「ありがとうございます。遠からず会社があるので、そこまでお願いしてもいいですか」

「もちろん」

 一つの傘の中でお互いに踏み込み過ぎない距離を保つ。それでも訊いておきたいと思う。

「どうしてあの信号を待っていたんですか? 皆無視するのに」

 うーん、と彼女は考える。

 雨音は傘に触れたときに最高潮。地面じゃない。

「何となくです」

 疑問は解けないまま育つ。きっと今日は教えてくれない。

「何となくですか」

「はい、あ、ここ右です」

 黙って歩く。彼女の会社に着く。

「ありがとうございました」

 笑顔はあまりに輝いている。雨の中に花が咲くよう。

「いえ、では」

 私はどんな顔をしていたのだろう。


 二週間、信号で彼女を探しても決して会えなかった。知らない男性と一つの傘に入って、後から警戒したのかも知れない。

 私は少し萎んだまま毎日を進んだ。


 今日も微妙な空は昼食中に泣き出していつもの通りに会社への道を歩く、傘を差して。

 信号のところに彼女が立っていた。また傘がない。少し躊躇われたけど、無視される惨めさよりも無視する残念さの方が大きくて、それが勇気に変換されて、彼女の側に寄る。

「入りますか?」

 私の顔を見てニッコリと笑う彼女。

「お願いします」

 連れ立って一つの傘。雨音が傘で生まれている。

 信号が青になる。

 やはり訊きたい。理由が知りたい。

「どうしてあの信号を待っていたんですか?」

「何となく、じゃないです」

 彼女は前を向いたまま呟くように言う。

 相槌を打って、次の言葉を待つ。

 彼女は急に立ち止まる。私も応じて止まる。

 雨の音。

 車が水たまりを割る。

 傘の内側、一人と一人。

 目の前の彼女。

「待っていたんです」

 信号を待っていたのは知っている。

「あなたを。ああしていればまた、傘と一緒に現れてくれるんじゃないかと思って」

 言葉の意味が浸透するまでに少し時間がかかる。

 心臓が鳴る。でも、私も応えないといけない。応えるべきことがある。

「私も、あの信号に行けば会えるんじゃないかと、思っていました」

 私はどんな顔をしていたのだろう、彼女はこれまでで一番硬く微笑んだ。そして意を決した目になる。

「一緒に行きましょう」

 私の覚悟が結実するまで時間は掛からなかった。

「一緒に、行きましょう」

 私達はまた歩き出す。

 もう私達は信号の向こう側、傘の中、二人。アジサイが咲いている。



(了)

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アジサイ 真花 @kawapsyc

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