庭に花束を届けに来た人(三部作) 第三部 オリーブの風に吹かれて

日南田 ウヲ

第1話

「オリーブの風に吹かれて」



 僕の記憶では夕暮れ時に窓にもたれて外を眺める母の横顔ほど、この世界で美しいものは無かった。

 黒く何処か憂いを含んだ瞳はどこまでも続く青い空を見つめ、その透き通った視線が子供である僕の心ですら虜にした。

 そして豊かな唇に触れるように置かれた白く細い小指は母の何か心の奥底に秘められた想いを撫でるように時折深いため息と共に動き、僕が心配そうに母を見つめていると子供の僕を呼んで近くに来させ優しく頭を撫でて、栗色の髪にキスをした。

「チコ」

 母は僕をそう呼んだ。それが僕の名前だった。

 バスクで生まれた僕はオリーブ畑で働く叔父とこの土地で育った。

 母は父を知らない。僕も同じように父を知らなかった。

 叔父はそんな母と僕には何も言わず、豊かな髭を撫でては「それもまた人生の秘密なのだ」と言って陽気に笑って僕のそういう質問をはぐらかせて困惑させた。

 それが僕に対する優しさだと気がつくには、僕は当時まだ幼すぎた。

 母は月に一度小切手を受け取り現金にする為、子供の僕を連れて銀行に行った。

 そして決まってその日は街でお菓子を買って帰った。

 月に一度のその日だけは母は沢山の笑顔を見せた。

 子供の自分にもその日の母はすごく陽気で僕とダンスを踊ったりするので、銀行に行くその日はすごく待ち遠しい日になった。

 或る日、僕は母も叔父もいない日曜日の午後に自宅に届いた郵便を受け取った。それは国際郵便で送り先は日本とあった。

 学校で地理の時間に習ったその国は確か遠く東の果てにあり、マルコポーロの話だと黄金の眠る国ということになっていた。

 どうしてそんな遠い国から母宛に郵便が届くのか、疑問に思いながら僕はテーブルに手紙を置いた。

 不思議なことはその一週間後にあった。

 母が昼の食事を作っていると、家のベルが鳴った。

 僕は立ち上がり家のドアを空けた。するとそこに藍色のジャケットを着た東洋人が一人立っていた。

 肩に画板を掛け、手には絵の具ケースを持っていた。頭に被ったブロードハットは少し破けていた。

 東洋人の瞳は黒く、その深い眼差しは母と似ていた。

 東洋人はスペイン語で僕に母はいるか、と訪ねた。

 僕は頷くと急いで母の元に行き東洋人が来た、と告げた。そしてその足で隣に住む叔父の下にも走っていった。

 叔父は扉を叩く音を聞くと窓から顔を出して僕を見つけ、東洋人が訪ねてきたと言う僕の言葉を聞くと、何か思いあたりがあるのか笑顔で直ぐに行くと言った。

 母のところに戻ると東洋人は椅子に座っていた。

 そして母に手紙を渡すと沈黙のまま母が手紙を見終わるのを待っていた。

 母は手紙を読んでいた。所々母の視線が手紙の文字の上で止まるのが分かった。その内、叔父が部屋に入ってきた。

 東洋人は立ち上がると叔父に向かって帽子をとって頭を下げた。

 叔父はうんと頷くと、黙って母の横に座った。

 母は手紙を読み終わるとそれをテーブルの上に置いて、顔を両手で覆って声を上げて泣き出した。僕は何が起きたのか分からず、ただ呆然としていた。

 東洋人はその母の沈痛な表情を黙って見ていた。

 叔父は置かれた手紙を手にとり静かに手紙の内容に目を通していた。

 叔父は手紙を読み終わると、静かに胸の上で十字を切った。

 僕はそれで誰かが亡くなったのだと思った。誰かが神に召され、天国に行ったのだと思った。

 叔父は東洋人に言った。

「次郎は天国に召された。君はそれをイザベラに伝えに来たのだね」

 叔父は東洋人に言った。

「トーレスさん、大変つらい事を僕はイザベラさんに伝えに来ました。僕は芹澤馨と言います。先生の絵画の弟子です。先生の最後の言葉を伝えにここまで来ました」

 僕はその東洋人を見つめた。一重の瞼の下に宿る彼の目はやがて溢れ出る涙で潤み、母と同じように両手で顔を覆い嗚咽を漏らし始めた。

 僕は叔父を見た。

 叔父も顔を下げ、目頭を押さえて声を押し殺すように泣いていた。

 僕はそんな中、一人静かな空気の中で窓の外から見えるオリーブ畑の葉を見ていた。



 東洋人は暫く僕の家にいた。彼は母を訪問した日から叔父の家に下宿を始めた。

 彼は朝起きると決まって叔父と一緒にオリーブ畑に出た。僕はそんな彼らの後についてオリーブ畑に行った。

 彼の日本の故郷は僕の住むこの土地と同じオリーブ畑の或る海に浮かぶ小さな島だと言っていた。

 その為、彼は部屋代の代わりにこのオリーブ畑で午前中は働き、午後になると彼は自分の部屋からキャンバスを持ち出して庭で風景や時には近くの教会へ行って絵を描いた。

 最初僕はそんな東洋人の行動を黙って見ていたが、その内彼のすることに興味を持ち始めた。

 或る夕暮れ時、僕は彼の部屋に行った。

 彼はそこで画用紙に向かって木炭で絵を描いていた。僕は静かに彼の背中越しに、その絵を見た。

 暗い室内に届く夕暮れの陽に照らし出されたその絵は女性の横顔だった。

 僕が街で見るスペインの女性ではなかった。彼と同じ一重瞼の東洋的な面持ちをした女性の横貌だった。

 僕はそれを見て、とても美しいと思った。東洋のなんともいえない神秘的な微笑が、僕の心を奪った。

 いやこの東洋人が描くこの絵に僕の心は奪われた。

 彼は描いていた指を止めると僕のほうを振り返った。

「チコ、絵に興味があるかい?」

 彼はそう言うと僕に椅子に座るように勧めた。

 僕は椅子に座り少し下を向きながら、うんと言った。

「母さんが絵をあなたから学びなさいと言いました」

 彼は僕のほうに背を曲げて僕の頭を優しく撫でた。

「そう、母さんがそう言ったのだね」

「でも僕は大きくなったら、叔父さんの仕事を手伝ってオリーブ畑で働きます」

 僕は彼に言った。

 彼は僕の目のほうに顔を近づけながら言った。

「チコ、働くことはとても大事なことで、とても尊いことだよ。労働の中にこそ人間の尊徳や尊厳がある。君はミレーやゴッホという画家のことを知っているかい?首を振ったね、知らなくていいのだよ。でも大人になったら彼らの絵を一度見るといい。労働がいかに人間にとってとても気高いものであるか知ることになるだろうからね」

 そう言うと彼は僕に鉛筆を持たせた。

「チコ、労働はとてもつらいことの連続だ。時には心が折れそうになることもある。人間はそうした時、ふと神と話をしたくなるのだよ。そうした厳しい労働の中に、人間がこの世界を創られた神と話をする機会が設けられているのだ。たとえば日曜日に教会に出向くとかね、人は神と対話する時間を必要としている、いや神という潜在を通して宇宙と言う大いなるものと・・そういうものなのだ。絵を描くことはそうした神やその先に広がる宇宙との交信の一つなのさ」

 僕は鉛筆を握りしめ、彼の描く絵を見た。

 そしてその絵の中の女性が彼の神なのだろうかと思った。

 彼は部屋を出て小さな小皿の上に一つのオリーブを持ってきた。

 そしてそれを僕の前に置いた。

「このオリーブを描いてごらん、よく観察して、慎重にゆっくりゆっくり描いてゆくのだよ。もしかしたら描きながらオリーブの声が聞こえるかもしれない。その声は君が好きな隣に住むリサの声かもしれない。それでも心を集中して、描くのだよ」

 彼はそう言うと僕に絵を描くように促した。僕は置かれたオリーブを見つめた。

 オリーブを見つめながら暑い日々を思った。沢山の汗をかく叔父と母と僕。

 そして大地のむせ返るような匂いと時折吹く涼しい風。

 午後になると自分達の足元に落ちる雲の影と僕を呼ぶ隣に住むリサの声。

 僕はそうしたひとつひとつの情景を、オリーブを描きながら思い出した。

 そしてその思い出が心を占めるころには僕のオリーブの絵は完成していた。

 僕はその絵を見て美しいと思った。

 そして彼を見て微笑んだ。


 僕は彼について絵を学んだ。

 彼は僕とオリーブ畑で働いたあと、午後になると色んなところで絵を描いた。

 それは森や庭や時には街の通りなど様々な場所だった。僕は描いた絵を母や叔父に見せた。

 二人とも僕の絵を見ると賞賛の声を上げてくれた。隣に住むリサは僕と遊ぶ時間が無くなったことが厭だったらしく見向きもしなかった。

 東洋人は僕の先生だった。僕は彼を「カオル」と言った。

 カオルはそんな僕にひとつひとつ絵を描く上で大事なことを教えてくれた。

 僕は夢中で彼から絵を学んだ。カオルといる時間は僕にとってとても楽しい時間だった。

 隣の街で流行風邪が流行ったのはそんな頃だった。

 それは勢いを増して僕の住む街を襲った。

 まずリサがその犠牲になった。感染すると数日後には彼女は息を引きとった。

 叔父も襲われたが、一命を取り留めた。

 しかし流行風邪は僕の大事な母とカオルを襲うと、母は一週間後にカオルはその数日後に命を落とした。

 母は息が苦しい中、僕を呼んだ。そして熱を帯びた手で僕の頬に触れて、涙を流し呟いた。

「チコ、母さんはもうすぐ天国に行きます。もし寂しくなったら絵を描きなさい。母さんはあなたと絵を通じてお話をしますから」

 母は涙を流し、そして僕を見て最後に呟いた。

「主よ、母と父と優しい息子に出会えた人生を与えたくれたことを感謝します」

 そう言うと母は静かに瞼を閉じて僕と叔父の前から去って行った。

 僕はその日一日中、母の眠るベッドに顔を埋めて声を出して泣いた。

 僕は一人になった。

 カオルは流行風邪に感染した後、近くの病院に担ぎ込まれたがやがてその病院から抜け出し、ふらつく足で近くの教会に行った。

 そこにはエル・グレコの絵が一枚あった。彼はその前に立ち気力を絞って一枚のデッサンを仕上げると絵と共に身体を投げ出すように床に倒れ、絶命した。

 僕と叔父はそれを聞いてその教会へ向かった。

 そこには絵を抱いて静かに眠るカオルの姿があった。

 その横顔は肌が透き通るように白く涙が流れ僕の目にはとても美しく見えた。

 僕はそっと亡骸に近寄ると、彼が最後に描いた絵を見た。それはエル・グレコの絵の模写ではなかった。

 その絵はとても美しい東洋の女性の半身だった。

 右下に“JYUN”と書かれていた。僕はその絵を見て彼が言ったことを思い出した。

「チコ、偉大な巨匠の絵の前で模写をすることより、その前に立ちその作品から受ける本質を理解しなさい。そしてその理解したものを自分の心の中に投影して、心の奥底から湧き上がるものを描くことが、僕が絵を描く上で学んだ重要なことだよ。まだ幼い君には分からないかもしれないけれど、君もいずれそうしたことを理解できる時が来るだろう。なぜなら、チコ、君はとても偉大な人の形見なのだから」

 僕はその絵を見て、カオルがエル・グレコの絵の本質に迫りながら、自分の心に投影されたこの女性を描いて亡くなったのだと思った。


 僕はその後長い間、悲しみの中に居た。

 僕は叔父と二人オリーブ畑に出てはそこに母の面影を見つけては泣き、また部屋に戻れば窓から見えるカオルの部屋の窓を見て、もう帰らぬ日々を思った。

 母の死後、僕は叔父の養子になり叔父の息子として育った。

 叔父はいつも陽気だった。母やカオルが亡くなった時でさえ、弔問客に冗談を言っては笑わせた。僕はそんな叔父の陽気さが強い悲しみの裏側にあると言うことを理解するにはまだ幼すぎた。

 その後、僕は勉強をして街の奨学金をもらえる程の優秀な成績を収めるような学生になり、その奨学金で大学に進んだ。

 大学では農業を学び、今後のオリーブ農業について専門的に学んだ。

 僕は大学卒業後、叔父のオリーブ農園を引き継ぎ祖父より引き継いだ土地を守り農園を育てていきたいと願った。

 大学の卒業の最終年の夏に教授から、東アジアにおけるオリーブ農園の現状についての論文の提出を求められた。

 僕は亡くなったカオルの存在がずっと心の中にあり、そのため独学で彼の母国語である日本語を学んでいた。そしてカオルがオリーブの実る島の出身だということを僕は覚えていたから、教授からその話を受けたとき真っ先に日本へ行きたいと思った。

 僕は大学の寄宿舎から叔父の家に手紙を送り、この夏に短期留学として日本へ行くことを伝えた。

 数日後叔父からの手紙を僕は受けた。

「チコ、日本へ行くことはお前にとってとても素晴らしい経験になるだろう。そしてそこに眠る祖父と会うことはとても良いことだ。日本にはお前の母のイザベラの従姉妹、名前はソウマリンコというかたと会うがいい。父のほうからお前が日本に行くことを伝えておこう。全て初めて聞くことで驚いているだろう。お前の母のイザベラの父は、タキジロウという日本の画家だ。そしてソウマリンコという人はタキジロウの姪にあたる人物で、イザベラの従姉妹にあたる。遠い日本へ行く目的はオリーブの研究だと書いてあった。先祖伝来の土地を新しく次の世代に伝えるためにお前が異国の土地のオリーブの研究をすることを、私は誇りに思っているよ。そしてその土地を彼・・懐かしい私達の友人であるカオルの故郷の島に決めたこともとても嬉しい。小さな島のようだが、お前の研究が成功することを主と共に祈っている」

 手紙の中には、母の形見のロザリオが入っていた。

 一緒に持って行けという事だろう。



 僕はスペインから日本へ向かった。

 飛行機の窓から眼下に見える雲や青い空をみながら遥か遠くの日本から、母を訪ねてきたカオルのことを思った。

 カオルは遠いスペインの田舎まで一人やって来た。彼の日常はまるで基督教の修道士のように清廉で清貧で、まじめに働きそして自分の芸術を探して指を動かし絵を描いていった。

 そして彼は異国の地で亡くなった。

 当時、地元の新聞記事に彼の死亡について載っていた記事を僕は切り抜いて大事にしていた。

 その記事を僕は心の中で思い出した。

(無名の画家のその死に顔はとても美しく安らかで、瞼から流れた一筋の涙の後があった。そして異国でなくなったひとりの画家のその横を向いた表情を見た無数の弔問者たちは、口々に古今のどの名画にも勝るものだといいながら白い百合と薔薇の花弁で彼の魂を包んだ)

 僕も彼の棺に美しい薔薇と百合を置いた。

 薔薇は彼の芸術に対する情熱の証に、白い百合は純で無垢な彼の魂とその死の美しさを思い、僕は献花した。

 僕はカオルが亡くなった後、彼の荷物を日本の親類に送るため彼の部屋に入った。

 薄暗い朝の日差しが差し込むその部屋の机の上には、白い皿の上に二つのオリーブが置かれ、その横に数枚のデッサンがあった。

 彼のベッドに腰を下し、僕は窓から朝陽の差し込む先を見た。そこには額に入った二枚の女性の絵があった。

 カオルがいつその絵を壁に掛けたのか、僕は知らなかった。

 二枚の絵は鉛筆の濃淡が美しかった。朝陽の薄い檸檬の色の輝きがやがてその絵を満たしてゆくと僕は立ち上がり、その絵の前に立った。

 一枚の絵はとても母に似ていた。美しい青地の紙の上にそれは書かれていた。胸に十字架を掛け、少し右を向いて視線は外を向いていた。

 もう一枚の絵は横を向き、その視線は何か遥かな先に訪れる未来を見つめているかのような、そんな絵だった。

 僕はカオルが生きていたら、素直に誰だろうと聞いてみたかった。

 その疑問がずっと心に残った。

 僕はそれを日本には送らず、自分の宝物として部屋に飾った。そして勉強の間に、その絵を見てはデッサンをした。

 僕は今回の自分の日本行きの旅に、この二枚の絵を持ってきた。もしかすると自分のこの答えを聞けるのではないかと思ったからだ。

 飛行機の室内灯がやがて消え、外を夜の闇が包みだした。

 僕は少し眠ることにした。起きる頃には日本に着いているだろうと思った。



 僕は空港でソウマリンコを待っていた。

 到着後、入国の手続きを終えた僕は一人ロビーで初めてみる日本の風景を見た。

 空港はとても近代的な建物で、空港島と対岸を繋ぐための大きな橋が掛けられていた。

 僕は腕時計に目をやった。時刻は丁度正午を過ぎていた。

 そのとき僕に向かって声が掛けられた。

 顔を上げると、夫婦が二人僕の前に立っていた。

 女性の方は手に写真を持って、僕のほうを見ていた。僕と目が合うと、女性のほうは横の男性に目を遣り、一歩僕の前に出た。

 僕はこの人がソウマリンコではないかと、思った。

 彼女は僕にスペイン語で言った。

「私は相馬凛子です。あなたはイザベラの息子のチコさん・・・?」

 僕は笑顔になり、日本語でそうですと言った。

 それを聞くと二人の表情に笑顔が溢れ、彼女は僕の手を握った。

「お会いできて嬉しいわ、この写真はまだあなたが幼い頃に撮った写真だったから、とてもこの写真の人物があなたとは自信が無くて」

 そう言ってから彼女は僕にその写真を見せてくれた。

 その写真はセピア色になっていたが、とても大事に保管されていたことがわかった。

 若い母と手を繋ぐ僕、そして横にいる叔父と闘牛士の写真だった。

 僕はそれを彼女に返すと、改めてお辞儀をした。

「チコ、日本へようこそ。横にいるのは私の夫で相馬一平と言います」

 彼は彼女の言葉を受けると僕の前へ来て手を差し出して微笑んだ。

「相馬一平です。はじめまして。君に会えるのを本当に楽しみにしていました」

 そして満面の笑みを浮かべて僕の手を握ってくれた。

 僕は異国の地での二人の歓迎にとても感激して、涙が溢れてくるのを抑えることが出来なかった。

 僕達は空港を出ると、大阪と呼ばれる街に向かった。僕は今回の旅がオリーブの研究であることを告げ、その研究先にある小さな島を選んだことを行った。

 その島は瀬戸内という内海に浮かぶ島で、自分が知る唯一の日本人の友人の故郷であることを言い、そして叔父から聞いた自分の祖父の墓に挨拶をしたいとも彼らに言った。

 二人ともよく頷き、とてもいいことだと言ってくれた。

 一平氏が日本の友人について僕に聞いてきた。

「チコ君、日本の友人と言うのはもしかして芹澤馨君のことかな」

 僕はそうです、と驚いて言った。

「知っているのですか?」と僕は彼に言った。

 彼は僕のほうを見て「勿論知っているよ、彼と僕は君の祖父である滝次郎先生の相弟子なのだよ」そう言うと、彼は凜子さんのほうを見て微笑んだ。

 彼女は、とても懐かしいねと呟いた。

 一平氏は話を続けた。

「君の祖父である滝次郎はとても素晴らしい画家だった。そしてとても素晴らしい作品を多く生み出した。欧州ではフランスをはじめ色んな場所で先生の作品は評価され、それはLa Vie En bleu(青の中の生命)と言われた」

「青の中の生命・・」

「そう青の中の生命だよ」彼は僕を見つめた。

「そんな先生の弟子の一人に芹澤君がいた。彼の描く作品は、とても神秘的で宇宙的な広がりを持ち見る人の心を常に魅了していた」

 僕はその言葉を聞きながらカオルの絵を思い出した。

 確かにカオルの絵は何処かこの世界の深い部分と繋がるようなそんな神と僕達を繋ぐ門のようなものに思えた。

 僕は荷物の中に彼の絵があることを思い出し、二人に言った。

「僕は今回、二枚の絵をスペインから持ってきました。実はオリーブの研究をする時間の少ない時間を使って、カオルが誰を描いたのか知りたくて持って来たのですが、もしよかったら後で見ていただけませんか」


 日本に到着した晩、僕は相馬夫妻の家に泊まった。

 相馬一平氏は現在小説家として活躍していることを三人で夕食をとりながら僕は聞いた。

 そして今は亡き祖父のことや、母のことそして僕の祖母のことを相馬凜子氏から聞いた。

 彼らは話の途中で祖父や母、祖母のことを思い出すと、時折涙ぐんで僕と視線を外した。

 僕は明日カオルの故郷に向かう予定だったので二人とも夜が更けてきたのを気にしてくれたのか、僕を寝室に案内してくれた。

 僕は寝室で必要な荷物を解き、眠りに着く準備をした。

 スペインに住む叔父の事が気になった。明日はひとりオリーブ畑に出るのだろうか、そう思っていると部屋をノックする音が聞こえた。

 僕は振り返るとそこには相馬一平氏が立っていて微笑みながら僕に声を掛けた。

「そう言えば、さっき車の中で絵を見せていただくことになっていたけど、忘れていたのを思い出してね。どうかな、もし疲れていなければ、見せていただけると嬉しいのだけど」

 僕は疲れていませんので、どうぞ見てくださいと言って荷物から二枚の絵を彼に見せた。

 彼は額に入った二枚の絵を見ると、とても懐かしい顔をして僕に言った。

「この青い紙に描かれた絵は滝先生の絵を芹澤君が模写したものだ。とてもよく描けているな・・、芹澤君、久しぶりに君に会えたよ」

 彼は目頭が熱くなったのか指で瞼を押さえた。

「チコ君。この絵は君の祖父の滝先生が生前欧州旅行に行かれ、或る教会に立ち寄ったときにお世話になった修道士の女性なのだよ・・そう、これは君のお母さん、イザベラさんだ」

 僕は驚いてもう一度その絵を見た。

 初めてこの絵をカオルの部屋で見たときから感じていた何かとは、それは母の面影だったのだ。

 この絵は母の若い頃の顔なのだ。青地の画用紙の上に斜めに引かれた均等な斜線がとても美しく、カオルの技術がとても素晴らしいものだったと僕は改めて思った。

「母は昔、村外れの修道寺院に居たと言っていました。そこでは毎日夕餉前になると神に祈りの言葉を唱えていたそうです。ではその修道寺院に居たころ祖父が訪ねて来たのですね」

 僕は描かれた母の面影を暫く見ていた。

 写真ではないこの素描画があの美しい母の横顔と同じ美しさを永遠に輝かせているようだった。

 彼はもう一枚の絵を手にとった。

「これは・・、誰だろう」

 そう言うと彼は暫く黙って考えこんだ。

 そんな彼の背中から凛子さんの声が掛かった。

「これはモデルの藤咲純さんよ。忘れた?」

 そう言うと彼は振り返り、ああそうかと言った。

「それは誰ですか?」僕は相馬一平氏に尋ねた。

「この絵の女性は藤咲純さんという美術モデル兼画家だった。芹澤君は巴里の公募展に作品を出すため一度だけこの女性をモデルに絵を描いてことがあるのだけど・・彼らの関係は恋人とかではなかった。モデルと画家という、そう・・・とてもはっきりした関係だった」

 僕はもう一度その素描画を見つめなおした。

 幾つもの斜めの線のリズム感がモデルの気持とそのときのカオルの気持を僕に運んでくれた。それはとても清潔で、まるで渓谷を吹き抜ける涼風のようだった。

 彼は続けて僕に言った。

「彼女はその後、洋画研究所が閉鎖されるまでモデルと画家を続けて、その後そこに通っていた画家の一人と結婚した。彼女の結婚は芹澤君が無くなった頃だったから、もう二十年ぐらい前になるだろうか」

 そう言うと彼は立ち上がり凜子さんを見た。

「そうね、もうそれぐらいになるわね。とても長い時間が過ぎたのね。あなたもうそろそろ失礼しましょう。チコ、それではおやすみなさい。今日はとても長い旅をしてきたから、また明日会いましょう」

 そう言うと相馬夫妻は、静かに僕の部屋を出て行った。

 僕も二枚の絵を枕もとの横に置くと、静かに寝息を立てて眠りについた。



 翌朝、僕は早くに相馬家を出た。夫妻は近くの駅まで送ると、電車が来るまでホームで一緒に居てくれた。

 遠くで踏み切りの音が聞こえてくると、僕の研究が上手くいくことを祈っていると言ってくれ、握手をしてくれた。

 僕は異国に住む身内にそれぞれ優しく抱き合うと、またお会いしますと言った。

 電車がホームに入って来て僕は乗り込み、窓のほうへ寄るとガラス越しに見える夫妻に微笑した。夫妻も微笑した。

 やがて電車は動き出し、ゆっくりと僕の視界から夫妻の姿を消して行った。

 席に座り、窓から街の風景を見た。大阪と呼ばれた街の屋根は低く、遠くに雲が掛かる山並が見えた。

 きっと叔父は今頃オリーブ畑にひとり出て、ひとつひとつオリーブたちの輝きを手にとって確認をしているだろう。僕はそう思いながら胸元にぶら下がる母のロザリオをそっと撫でた。

 電車はやがて大きな近代的な駅舎の中に入っていった。

 僕は電車から降りると相馬夫妻から聞いたとおりに電車を乗り継いだ。駅舎の隙間から青い空が見えた。

 その青い空の下を僕は進み、電車を乗り継いでゆく。

 電車は都会の街並みを出て行き、緑豊かな場所を抜けやがて海が見えた。

 瀬戸内という海が見えた。向かいには大きな島が見えた。

 僕はこの小さな湾とも言える場所を行き交う白いヨットを見て、自分の終着先はどのような場所なのだろうと思った。

 少年の頃、僕が今から向かう終着先からひとりの日本人がやって来た。カオルはとても誠実で目元に静かな微笑を携えていつも僕に絵を教えてくれた。

 日中はオリーブ畑に出て働き、午後になると絵を描いた。庭の大きな木の木陰では昼食を楽しむ母と叔父の姿があった。

 僕達は家族だった。

 僕達は血の繋がりは無かったが、カオルと過ごした日々の僕達は本当の兄弟のようだった。

 カオルは僕の兄だった。

 目を今でも閉じるとカオルの細く尖れた鉛筆の切っ先から描き出される線と奏でられる紙の上を滑る音が自分の心に響いてくる。

 僕はカオルの二枚の絵を持っている。

 この絵が誰を描いているか、それは昨日分かった。

 自分の母とそして日本人の女性で藤咲純と言う女性だった。

 僕は昨晩眠りにつきながら二枚の絵について考えた。母の絵はカオルの師である僕の祖父の絵を写したものだった。

 それは自分がこの師を心から尊敬している、という思いが込められているのだと思った。

 そして自分がこの師の画業を継ぐという職人としての気持が込められた宣誓書だったのだろう。

 僕はそこで身体を横に向け、もう一枚の絵のことを考えた。

 もう一枚の絵を描いたときのモデルの女性に対するカオルの気持はどうだったのだろう、僕は昨晩眠りにつく夜の暗闇でその絵を心に浮かべた。

 横を見た女性の顔を僕は心の中に沈めていった。

 母のロザリオがその絵に触れた。

 僕の耳元に晩鐘が聞こえた。まるでミレーの絵画の世界に流れる晩鐘だった。

 どこまでも果てしなく広がる大地の隅々まで覆う夕暮れに人々の労働に対する感謝の祈りの響きが染まっていった。

(ああ、そうかこの絵を描いたカオルはこの女性に対して祈るような心持でいたのだな)

 僕は車窓から見える海を見つめた。

 島に掛かる大きな橋が過ぎていく。

 僕は窓から見える景色を見ながら、陽に輝く穏やかな波間を見つめた。

 電車はやがて海辺の駅に着いた。

 僕はそこで降りた。

 そして駅から見える港に向かう道を一人歩いた。

 港へ向かう人々に混じりながら、僕は異国の言葉の中に一人置かれた孤独を感じた。

 孤独は影となって、自分の足を離れることはなかった。

 桟橋を渡り小さな白い旅客船に乗り込んで僕は荷物を席に置くと甲板に出た。

 そしてどこまでも続く青い空を見上げた。

 スペインとは違って乾いた青ではなく、低く自分の心に降り注ぐような青い空だった。

 カオルも同じようにスペインで孤独を感じていただろう、そんな孤独の中でカオルは絵を描きながら何を探していたのだろう、一人ベッドに腰掛けてイーゼルの前で絵を描いていた異邦人。

 そんなことを思う頃には僕は海の上を行く船上の人になって、潮風に吹かれていた。

 白く小さな旅客船は、時折波に揺られながらゆっくりと進んでゆく。

 沖まで出ると風が強くなってきたので、自分の席に戻った。

 地元の年配の婦人が愛想よく僕に笑顔で会釈をしてくれた。僕も笑顔を返すと、東洋の仏教徒のように頭を下げた。

 その後船内には波間を行く旅客船のエンジン音だけが響いた。

 やがて赤い灯台が見えた。

 そして島影が見えた。

 遠くに輝くオリーブの木々が見えた。スペインとは違い海の光に反射して、緑が輝いているのが分かった。

 僕は荷物を持つと駆け足で甲板に登り、島を見た。島全体にオリーブの木々が見えた。

 この島がカオルの育った島なのだと、僕は思った。

(カオル、僕はあなたの故郷に来ました)

 僕は自分の荷物の中にある絵を取り出して島のほうに向けた。


 僕は島に到着すると一軒の農家に向かった。そこは僕がこの島で短い滞在をする場所で、カオルが少年の頃住んでいた生家だった。

 僕は海沿いの道をあるきながら地図に目を落とし、やがてなだらかな舗装されていない緑の木々の小路の中を進んだ。

 木々の葉の隙間から檸檬色のような夏の日差しが道に降り注いでいた。

 ルノワールの緑輝く絵画の世界を歩いているようだと思った。

 後ろから風が吹いた。

 僕は振り返った。頬を吹き抜ける風の先に先ほど僕が渡ってきた海原が見えた。

 青くそして薄い桜の花弁のような色が檸檬色の中で輝き、僕の網膜を優しく撫でてくれた。

 僕は目を細めると、少し微笑んでやがて小路を登った。

 ゆっくりと曲がる路の先に石垣が見えた。

 石垣の側に麦藁帽子を被りこちらを見ている老婦人が居た。

 僕は少し駆け足になって、彼女のところまで行った。僕は、彼女の前で立ち止まると微笑みながら手を出した。

 彼女も僕が出した手を握って微笑んだ。

 麦藁帽子の下で陽に焼けた笑顔が見えた。

「はじめまして、今日から一週間ほどお世話になりますチコ・フェルナンドです。カオルの妹さんの野田ちえこさんですね、お会いできて嬉しいです」

 そう言った後で彼女は被っていた麦藁帽子をとり、僕に深く頭を下げた。そして頭を上げた。

「兄が生前はスペインで大変お世話になりました。また兄の最後を看取っていただき、そして遺骨を丁寧に日本まで送っていただき、その時分は大変お世話になりました」

 そして目の端に涙を溜めて僕の手を再び取って、暫く泣いていた。

 僕達は檸檬色の陽光の下で暫くの間、いくつかの感謝と気持を伝え合った。

 僕はその後彼女の案内で二階建ての木造の母屋の中に入った。

 母屋の中には海に面した庭が広がり、そこから遠くにオリーブ畑が見えた。

 僕は縁側に腰掛けながら暫くその風景を見ていた。

 横にちえこさんが膝をそろえて座ると僕はまた暫く無言のまま外の風景を見た。

 耳に遠くで波打つ海の音が聞こえた。

「カオルはいつもこうして海を眺めていたのですね」

 そう言うと彼女が言った。

「兄は子供の頃、よくこうして縁側で寝そべりながら絵を描いていました。青年の頃は大学の休みにこちらにかえるとよく詩を書いていました」

「詩を?」

 僕は身を乗り出した。カオルは詩人でもあったのだ。

「はい、ヘルマン・ヘッセが好きでしたが小説は書かずに外国の詩人の方の原文を訳しては詩を書いていました。卒業後は大阪で働き、やがて弁護士になりましたが、急に画家を志して有名な画家・・」

「滝次郎・・」

「そう、その先生のもとで修行しました。やがて巴里に渡りその後欧州を回りそしてスペインに渡り・・」

「亡くなった・・」

「ええ、そうです」

 遠くで蝉の鳴く声がした。

 それはやがてゆっくりと木々を抜け潮風に乗り、地平線の向こうに沈む太陽の明かりに触れてゆっくりと沈んでいった。



 夕暮れが訪れた。

 僕は一人頬杖をついて、机に腰を下ろし夕暮れ前に去ったちえこさんの言葉を思い出して、瞼を閉じながら考えに耽っていた。

 ちえこさんの言葉には兄の人生に対して悔しいとか悲しいとかそうした感情は無く、ただ人生の中で与えられた時間を精一杯生きた一人の人間として心から尊敬しているといった感情が溢れていた。

「神が与えてくれた時間が絶えるその瞬間まで、僕は命の燃焼をしたい」

 その言葉はちえこさんがカオルから聞いた最後の言葉だったと聞いたとき僕はカオルが流行風邪になっても、エル・グレコの作品の前で生き絶えるまで描きつづけたのは、自分の生命の最後をベッドで静かに眠るのではなく、画家として自分の人生というキャンバスの最後の部分を虹色に輝き彩りたいと願ったのかもしれないと思った。

 庭に月光が降り注ぎ始めた。

 ちえこさんは帰り間際に「二三日前から東京の大学生が一人住み込みで現在来ているので、暫く同居してもらうことになりそうです」と言った。

 同居人は既に僕と暫く同居することは了解済みで、僕にも特に支障はないとちえこさんには答えた。

 歳もあまり歳が変わらないまだ見ぬ同居人に僕は少し心を寄せながら、自分の研究資料を整理はじめた。

 そして二枚の絵を出してそれぞれ窓の陽が差し込む場所に架けた。

 本来ならばここにあるべきものを僕はやっと届けることが出来たのかもしれないと思った。

 カオルの魂がやっと故郷に戻ってきたのだ、そう思うと僕は母の形見のロザリオを手に取り、片膝をついて瞼を閉じた。静かに頭をたれると神に祈った。

 そしてこうした幸運な機会をくれた叔父に感謝した。

 暫く静かな時間が過ぎた。

 庭の短い草が柔らかなものに押しつぶされる気配を感じた。

 僕は立ち上がり庭を見た。空に月光が輝いていた。

 夕暮が過ぎたばかりの群青を塗りこんだ夜の世界に薄い霧のような乳白色の人影があった。

 僕は目を凝らして、その人影を見た。肩に荷物を持ち向こうもこちらを見ているようだった。

 僕は縁側まで行き、靴を履いて庭先に出た。

 庭先に出て近づくと人影は僕のほうに背を向けて夜の海を見ていた。

 女性だった。僕は声をかけた。

「失礼ですが・・」

 その声に人影は振り返り僕のほうを見た。

 短い前髪の下に黒い瞳が見えた。そしてやがて睫毛を伏せると僕に微笑んだ。

「ちえこさんから伺っています。スペインの方ですね、はじめまして、私は青山瑠璃子と言います。あなたは?」

 僕は短く揃えられた彼女の前髪が風に揺れているのが止まるのを待って言った。

「僕はチコ・フェルナンドです。オリーブの研究のためスペインから日本に来ました。暫くこちらに滞在します。宜しくお願いします」彼女は僕がそう言い終わるのを待ってから「日本語が上手ですね」と微笑んでから僕と握手をした。

 月光の下で彼女の瞳が輝いていた。

 僕も彼女の細い手を握り微笑んだ。



 翌朝、僕は起きると窓を開けた。

 そして早朝の空気を吸い込むと、鼻腔の中でオリーブと潮の香りがした。

 ここは海に浮かぶオリーブの島なのだと、僕は思った。外を見ると海原に雲の影が落ちて、ゆっくりと流れていくのが分かった。

 僕は着替えると、帽子や論文を作成するうえで必要な道具類を小さなバッグに入れて家を出て海へと続くなだらかな石畳の道を下っていった。

 同居人はもう起きているだろうかと考え振り返ると二階の海側に面した部屋の窓が開いていて、白いカーテンが外に流れていた。

 カーテンの向こうに窓に手をついて外を見ている青山瑠璃子の姿が見えた。

 海から森を抜ける潮風が吹くと、彼女の黒い髪が流れるのが僕にも見えた。

 僕はそれを暫く見た後、森の石畳の小路を抜けて行った。

 今日は港でオリーブ農家の方と待ち合わせをしており、一日檸檬色の空の下で一緒に働くことになっていた。

 一人の労働者として異なる土地で今日は生きるのだ、と思いながら母のロザリオを撫で叔父に祈りを捧げた。

 今日は長く暑い日になるだろうと思った。



 白い海鳥が桟橋から空へと登り夕暮れに同じ場所に戻った頃、僕は家に戻った。

 まだ陽は沈んでいなかった。

 僕は昨日、青山瑠璃子がしたように庭先から家に入ろうとした。

 短い草の上を歩く僕の足音が心地よく庭に響いた。やがて庭の向こうに海が見え、続いて木製のイーゼルにキャンバスを載せて絵を描く彼女の姿が見えた。

 彼女は僕のほうに背を向けて木製椅子に腰掛けながら、庭先から見える海の風景を描いていた。

(彼女は、画家だったのだ)

 僕はそう思うと静かに後ろから彼女の描く絵を見ていた。

 キャンバスの画面半分以上を青色が覆いそれは空と海を描き、白い絵の具が雲の稜線と流れる風を表現している。

 印象派のモネのように所々黄色と橙色、そして移り変わるように点在する赤が彼女の感性の豊かさを表しているようだった。

 短い髪が柔らかい風に吹かれるまで、僕は暫く見ていた。

 こちらを振り返る彼女の視線が僕の夢心地の世界から現実の世界に引き戻してくれなければ、僕はずっと彼女の絵の世界の中に生きていただろう。

「お帰り、チコ。今日は暑かったでしょう?」

 彼女は僕の少し日焼けした頬を見ながらそう言って微笑んだ。

「美しい絵ですね、まるで印象派のモネのようです。何よりも青色が良い、プレシアン・ブルーやセルリアンがとても良い調和をしていますね」

 僕のその言葉が彼女を驚かせた。

「絵の具のこと知っているのね、絵を描くのかしら?」

「はい、スペインで時々勉強の合間とかオリーブ畑での労働の後など描いていました。母を早くに亡くしたので、時々絵を描きながら天国の母と会話をするのです」

 そう言って僕は微笑した。

 彼女も微笑を返した。

「とてもいい話ね。私の両親も画家だったので、幼い頃から絵を描いていました。でもその内、才能が無いことに気づいて絵を描くのをやめていたのだけど、ここに来たら何故か急に描いてみようと思って久々に描いてみたところです」

 僕は少し目を細めて再び絵を見た。才能が溢れている素晴らしい絵だと、僕は呟いた。

 ありがとう、そういう彼女の声が風に運ばれて消えた。

「私、大学卒業後は学芸員そう外国ではキュレイターかな、世界各国の美術館でいつか働きたくて東京の美術大学に通っています。今年の夏が最後の年になるので、論文を作成するためにこちらに来たのです」

「卒業?僕と同じだ。僕も東アジアにおけるオリーブ農業の現状を論文にするためこちらに来たのです」

「そう、チコも同じなのね」

 はい、と僕は言った。

 陽が暮れ始めたのか蝉の鳴き声が少し小さくなって静けさが庭に迫ってきた。

「でも、どうしてここに?」

 僕は彼女に聞いた。

 彼女は筆を置くと椅子から立ち上がって身体を伸ばして、僕に言った。

「私は第二次世界大戦後の日本の洋画界を研究しています。戦後、藤田嗣治をはじめ沢山の方が世界で活躍していたのだけど私は或る日本の画家に注目しました」

 そして一枚の写真を胸ポケットから取り出して僕に見せてくれた。それは二人の歳の離れた二人の日本人の写真だった。

 夕暮れの群青の中で写真に写るひとりの人物はカオルだった。僕の視線は動かなくなった。

「その写真に写る人物は滝次郎と芹澤馨という、二人の画家です」

 僕は動かなくなった視線で二人を追うように左右に動かしたとき、長く重い時間が一緒に引きずられるように動いたように感じた。そしてもう一人を見た。

(これが僕の祖父なのだ、そしてカオル・・、何と爽やかで莞爾とした笑顔なのだろう)

「滝次郎は戦後の美術界にあって異色の存在だった。その作風はLa Vie En bleu(青の中の生命)といわれて、またその構図もひとつの形に嵌らず、新しい時代と未来への息吹を感じさせていた画家なの」

 僕は彼女の説明を聞きながら、心臓の鼓動が高くなるのを感じた。

「そしてもう一人横に居る青年が、芹澤馨という人物。彼は滝次郎の弟子で、滝次郎の画業を唯一引き継いだ人物なのです。彼の描く作品は何かこう、宇宙とか神とかそういった存在を見てきたかのような神秘的な感性に溢れた作品を描いた画家なのだけど、活動期間が短くあまり作品がありません。滝次郎が特にその才能を愛した謎の青年画家なのです。そしてここは、その彼の生まれた家です。私はここで彼が感受性豊かな少年時代に見た風景が彼の作品にどのような影響を与えたのか考えたくて、こちらに来ました」

 僕は膝から落ちてしまいそうな感覚をこらえて彼女の言葉を聞いていた。

 激しく鼓動する心臓の上で母のロザリオが僕の高鳴る心臓を押さえてくれなければ僕は倒れていただろう。

 僕は言った。

「何故、瑠璃子さんがこの写真を持っていたのですか?」

 彼女は笑って言った。

「私の母は二十年程前にそんな彼らが生きていた時代に洋画研究所へ彼らのモデルとして通っていたのです。結婚する前の名前は藤咲純、といいます」

「藤咲・・純」

「ええ、そうです。純です。日本語では純粋という意味ですね。英語ではpureかな」

 その時カオルの最後に描いた絵が脳裏を過ぎて行き、僕は咄嗟に言った。

「純、その日本語をアルファベットで書くとどう書くのですか?」

 それを聞くと彼女は僕の腕をとり手のひらを広げ、そして白い指を動かした。

「JYUN・・・」そう、ぼくは思い出した。

 カオルが最後にエル・グレコの絵の前で描いた最後の絵にその文字はあった。

 それは日本語で“純”だったのだ。そして相馬夫妻との会話で出てきたあの絵のモデルが藤咲純だった。

 そして青山瑠璃子はその彼女の娘なのだ。

 僕は訪れ始めた夏の夜の暗闇の中で、彼女を見た。

 僕は視線を夏の夜空に向けた。空に夏の星座が輝き始めた。蠍座のアンタレスが見えた。

 彼女の言葉を聞きながら、僕はカオルの最後の眼差しを、涙が零れ落ちた彼の最後を思いだした。

 カオルの最後の瞬間がアンタレスの輝きの中で再び彩られて僕の心に落ちてきた。

(カオルは彼女のことを聖母のように純粋に愛していたのだろう。自分の肉体から魂が消え去った時、最後の瞼の重みの中から自然と涙が零れた。それは本当に命の燃焼が出来たことに対して、彼女に感謝をしたのだ)

 星座の輝きの中、彼女の言葉が続いた。

「彼は巴里で一枚の絵を発表しました。それは母をモデルにした作品です。タイトルはDonna Santa、イタリア語で「聖女」という意味です。その作品と数枚の油彩と素描画を残し、彼はスペインで流行風邪が原因で亡くなりました。しかし彼の現存する作品は作品数の少ないフェルメール同様、多くの方に愛されて今もひっそりとこの時代に存在し、失せることの無い輝きを放っているのです。私は彼がスペインで描いた最後の一枚を見たことはまだ無いですが、彼の葬儀が行われた教会にあるその一枚は、教会を訪れる多くの巡礼者達の心の苦難を癒すと聞いています。そして私が調べたところ、彼の最後について書かれた新聞記事があって、それはこうでした。無名の画家のその死に顔はとても美しく安らかで、瞼から流れた一筋の涙の後があった。そして異国でなくなったひとりの画家のその横を向いた表情を見た無数の弔問者たちは、口々に古今のどの名画にも勝るものだといいながら白い百合と薔薇の花弁で彼の魂を包んだ」

「そう包んだのです・・!!」僕は彼女の言葉の後に言った。

 彼女は驚いたように僕を見た。「チコあなた知っているの、彼のこと?」

 彼女の言葉に僕は無言で頷くと、自分の部屋に戻り二枚の絵を持ってきた。

 そして彼女に見せた。

「これは・・」

 彼女が視線を落としながら呟く言葉に僕は「カオルの作品です」と言った。

 そしてカオルは僕の絵の先生でそして滝次郎は僕の祖父ですと、彼女に言った。

 彼女は二枚の絵から視線を戻すと僕のほうを見た。

 母に似た美しい黒い瞳が僕を見ていた。

 青山瑠璃子と母が重なって僕を見ていた。それだけではなかった。

 彼女の周りに多くの暖かい霊質なものが集まり、それが庭の僕達を包むように感じた。それは美しい花に囲まれているような気分だった。

 彼女は視線を外すと、星空と庭との間に広がる宇宙に向かって呟いた。

「まるで私達この庭で彼達のことを話すために生まれてきたみたいね」

 彼女の言葉の後に夜が僕達二人を包み、どんな言葉も必要の無い時間が始まった。

 僕達はこれ以上話す事は無かった。

 そして静かに星空が輝く庭で風に吹かれながら星空をいつまでも見ていた。



 最後

 スペインに戻った僕はオリーブ畑で汗を流して、時折叔父と一緒に流れる雲を見た。雲の切れ間から過ぎ去った季節の太陽が僕を見ていた。

 叔父の変わらぬ陽気な声が僕に響くと、僕も笑った。

 僕は叔父に日本で相馬夫婦が見せてくれた写真のことを叔父に話した。

 叔父はその話を聞くと僕に、闘牛士の青年はお前の父だ、そして彼は私の良き友人だったと言った。

 僕はそれを聞くと、「そう」と短く言って叔父に微笑んで空を見上げながら満足して頷いた。

 それで十分だった。

 帰国してから数週間後、日本から手紙が僕宛に届いた。

 それは青山瑠璃子からだった。

 僕は夜に自分の部屋で彼女から届いた手紙に目を遣った。そしてペンを取り彼女に返事を書いた。

 手紙を書きながら僕は思った。

 あの夜、僕達だけでなく多くの魂が僕達の庭に集まってきたように感じたのは何故だろう。

 僕は日本の習慣についてあまり知らなかったが、その時僕と彼女が過ごした日々は日本の盂蘭盆会で仏教では亡くなった人々の魂が愛する人々のところに還ってくる季節なのだと大分後になって知った。

 僕達はそんな美しい時に出会い過ごしたのだった。

 僕はカオルの生家を後にする時、ちえこさんから一枚の詩を貰った。

 それはカオルが生前書いたものだった。

 その詩を僕は彼女への手紙の最後に書いた。彼女の研究の最後を飾る大事な資料になるだろうと思ったからだ。

 僕は日本へ持って行ったあの二枚の絵を一枚は彼女に、そして一枚はちえこさんに渡した。

 あの二枚の絵は帰るべきところに帰るべきだと思ったからだ。

 一枚は美しい故郷の海が見える窓辺に、そして一枚はあの美しい藤咲純の心の窓辺に。

 僕は日本を離れる最後の日に青山瑠璃子と一緒に祖父が眠る墓地へと向かった。

 祖父の墓は海の見えるとても美しい草原の丘陵にあって、そこは短く刈られた黄緑色の草がセガンティニーの描く草原の風景画のように輝いていた。

 僕は祖父の白い墓石の前で手を合わせると墓前に白い百合と赤い薔薇を置いた。

 そして深く頭を下げると母のロザリオを静かに置いて膝をついて祈った。

 やがて僕は立ち上がり、青山瑠璃子と一緒に歩き出した。

 僕は墓前に母の形見を置いてきた。それは僕の目の前で、誰かが忘れたのだ。(勿論、それは自分だが)

 母のロザリオは現在、青山瑠璃子に預けている。

 僕はそれを取りに行くだろう、またオリーブの輝く季節に。

 だから、それまで母を祖父のところに預けて置こう、そしてそのロザリオを持って僕達は二人でカオルの最後の絵を見に行こう、そう僕が思ったとき草原の中を強い風が吹いた。

 僕が祖父の墓前を振り返ると、百合と薔薇が重なりあい母のロザリオに触れ、やがて二つの花弁が交じり合いながら空へと舞い上がった。

 それはとても美しい光景だった。

「チコ」と、誰かが僕を呼ぶ声がした。

 僕は声がしたほうを見た。

 そしてそれが誰かだと気づくと、僕はポケットに手を入れて歩き出し、下を見て微笑んだ。

 その声の先に居たのが誰であったのか、それはこれからの人生で決して誰にも話せない僕だけの秘密としてそっと心の底に宝箱として閉まっておこう。

 そう僕は決めて、この美しい彼達の庭を去って行った。




 君が僕を訪ねてきた本当の理由は

 その美しい花で

 僕の心の庭を、唯、満たしたかった、

 そんな小さな理由だったのかもしれない。


 芹澤馨


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庭に花束を届けに来た人(三部作) 第三部 オリーブの風に吹かれて 日南田 ウヲ @hinatauwo

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