最終話
シュノーケルなしで泳ぐのは、意外にむつかしかった。フィンの力が強すぎて前につんのめるようになり、うっかりするとうねりの山腹に顔を突っ込んで、何度か水を飲んだ。フィンを取ってしまおうか、とも考えたが、やはりフィンがあればスピードが出る。結局、背泳ぎのように仰向けになり、足の力だけで進む。
空だけが見える。所々に雲が浮かんでいた。さっき海岸で見たのと同じ空だった。音が水で遮断され、世界に自分ひとりしかいなくなる。人が死ぬ瞬間というのは、こんなふうかもしれない。そう思ったとたん、心配になって頭を起こし、直子を探す。五、六メートルほど前にシュノーケルが見える。その後ろで、ばた足の泡が立っている。
直子は今何を思っているのか、と小暮は考える。早く岸へ着くことか? それとも、さっきの出来事を思い返しているのか? 直子は溺れかけたというのに、パニックにならなかった。しがみついても来なかった。自分で泳げる、といい、自分で小暮のシュノーケルをつけた。職場では芯が強い女として通っていたが、あれは本物だったようだ。
だいぶ浜が近づいたので、立ってみようとしたが、まだフィンが砂をこするだけだった。さらに泳ぎ、立ち上がると、直子はもう、波打ち際でシュノーケルとフィンとはずしているところだった。
木暮もフィンをはずし、浜へ上がる。直子は、道具をぶら下げ、二人のパラソルに向かっている。
小暮がパラソルの下に入って行った時、直子はビニールシートの上に膝をかかえ、顎を膝頭に乗せて、ぼんやりと海を見ていた。
「大丈夫か?」
直子は惚けたように小暮を見上げた。
「あ、うん、だいじょうぶ」
「病院とか……行かないでもいいか?」
「だいじょうぶ」
小暮は、とりあえず何ともなさそうだと見て、自分のフィンを置く。
直子の横に腰を下ろし、水平線を見、直子を見、また水平線を見る。青い空の遠くにポコンと浮かんだ雲は、ここを出る前と同じで、あれから一秒も経っていないようだった。温かい風が強まり、パラソルの布がはためいた。
小暮はどうしていいかわからずじっとしていた。何か言うべきか? それとも、このまま何も言わない方がいいのか?
だるくなった両腿を拳で叩く。ふと、直子のバッグの中に、ラムのポケット瓶を入れてあったのを思い出し、飲みたくなる。バッグは直子の後ろにあったが、その前でじっとしている直子を見ると、手を伸ばせない。
夜ベッドの上でなら、歯の浮くようなことを平気で言えるのだが、今のような時に何を言えばいいのか、木暮はまったくわからない。大体、何かを言うべきなのか? 助けただけで充分じゃないのか? 一番大事なことはちゃんとやってのけたのだ。
視界の端で、直子がこちらを見たのがわかった。小暮がゆっくり顔を向けると、直子はそれと同じタイミングで顔をそむける。
横から見ると、長い睫毛と、小さく形のいい鼻がよく分かる。
「コンタクト、流れちゃった」唐突に直子は言った。
「そうか……」小暮はしばらく考えてから「また買えばいい」と言う。そんなものは……と思ったが、口には出さない。
水中メガネも無くなってしまったことを思い出す。そもそもどうして、直子のシュノーケルが外れるようなことになったのか?
「どうして、シュノーケル外したんだ?」
「え?」直子は焦点の合わない目を小暮に向けた。小首をわずかにかしげ、小暮の表情をうかがっている。
小暮はしばらく答えを待ったが、どうでもよくなり、また海に目を向ける。
「あなた、前に出ようとしたでしょう」
小暮は驚いて直子を見る。
「俺がやったのか?」
直子は苦笑いする。
「いつ?」
「急に深くなったところで」
「どうやって?」
「手は横にかかないで、って言ったのに」直子はそこで止めてから間をおいて、「おぼえてる?」
まるで覚えていない。
「横にかいちゃ、いけないのか?」
「人と一緒の時は、手は使わないで足だけで進むの」直子の表情に活気が戻った。「じゃないと手が当たって——」
「そうか」小暮は下を向く。直子の小さな足が目に入る。ごめん、という言葉が頭に浮かぶが、それは灰のように死んでいて役立たないように思える。
直子は体をよじり、後ろのバッグからペットボトルを取り出す。キャップを開け、口に運び、飲み終わるとキャップを閉め、ボトルをバッグの中に戻し、膝をかかえて同じ姿勢に戻る。小暮は期待したが、直子は何も言わない。
二人は黙り込んだ。
「さっきまで、何考えてた?」と小暮。
「さっき、って?」
「ここに戻ってくるまでの間」
直子はまた虚ろな目をして、長い間考えた。
「いろいろ」
「そうか」小暮は間を置いてから、「それ……教えてくれるか?」
直子の無表情が、溶けるように微笑に変る。「いいよ、でも、後でね」
小暮は水平線に目をやって、心の中で繰り返す。
いろいろ、か。
遠くの海は濃く、盛り上がっている。
了
北緯27度、東経128度のヒレ ブリモヤシ @burimoyashi
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