ねこの足音

秋野たけのこ

ねこの足音

 窓から差し込んだ柔らかい朝日で私は目を覚ます。ゆっくりとまぶたを持ち上げて、遠慮せずに上あごをぐーっと上に伸ばして大きなあくびをひとつ。


 おはよう、おばあちゃん。


 私は声を出せないけれど、同じベッドの上で眠る家族にすり寄ってそう伝える。するとおばあちゃんは瞼を閉じたままのっそりと動き出し、少しだけ間があって熊のように体を起こす。


「ああ、おはよう」


 起きたおばあちゃんと目を合わせて、それから私は窓のほうを見る。今日もいい天気。夏が過ぎ去って空気はちょっと冷たいけれど、そのおかげで差し込む日差しがぽかぽかと心地いい。


 うっとりと目を閉じて体で陽光を感じていると、私の背におばあちゃんの手が触れて、背中を上から下まで、もうしわだらけになってしまった手で撫でてくれる。


 何度も何度も。それがうれしくて、私はほうきのようなしっぽがぐっと上がってしまう。もう何年経ってもこの心地よさにはまいってしまう。


「さて、お腹もすいてるだろうし、ご飯をあげないとね」


 そう言っておばあちゃんは私から手を離し、ベッドの脇に置いておいた杖を手に取って立ち上がる。


 いけない、微睡まどろんでいる場合じゃなかった。


 もうすっかり衰えた筋肉に喝を入れて、とんっ、と私も床の上に降りておばあちゃんの前を歩き出す。


   とっとっとっと。かつん、かつん。


 私の足音に続いておばあちゃんがそろそろと歩いてくる。おばあちゃんは杖を前に出して、それを時折イスや壁に当てて障害物を避けている。


 私のおばあちゃんは目が見えないのだ。


 いつからかは知らない。私がこの家にやって来たときにはもうすでに目は閉じていた。ただそれでも問題なかったのは、一緒に住んでいたおじいさんがいたからだ。


 でも、そのおじいさんも今年の春に死んでしまった。老衰で穏やかな寝顔のまま、中身だけがすっぽりと抜け去っていた。


 その日以降、おばあちゃんはこの家でねこの私とふたりで暮らしている。


   とんっ、とんっ、とんっ、とんっ。


 私は少し勢いをつけて小さな階段を降りた。この家は少しいじわるな造りをしていて、おばあちゃんの寝室から居間までに4段だけの階段がある。この階段の下は作ったまきを入れておくための倉庫だったそうだ。


「ああ、そこかい」


 私の足音を聞いて、おばあちゃんは杖で階段がある場所を探し、一段、また一段と降りてくる。おばあちゃんが下まで降りてくると、再び背を向けて歩き出す。


 少し暗い廊下を進んで居間の前までくると、いつものように扉の取っ手の下で爪を出してカリカリと引っかいた。そして追いついたおばあちゃんが戸を開けて中へ入れるようにしてくれる。


 まだ戸も開ききらないうちにするりと体を滑りこませ、冷たい空気で満たされた居間に到着した。


 木製床の冷たさが肉球を伝って体を駆け、肩から尻尾までをぶるりと震わせる。


「よしよし、じゃあご飯をあげるからねえ」


 ここまで来れば慣れたもので、おばあちゃんは横長い棚に歩いて行って、私のご飯が入った瓶を手に取る。


   とっとっと、かたん。


 足元に食事用のお皿を運ぶ。


「はい、どうぞ」


 乾いた音をたててご飯がお皿に注がれていく。私は焦ることなくそれを待って食事を始めた。


「ふぅ……」


 おばあちゃんは一息ついて、窓際のほうへ歩いていく。カーテンを開けて明るい日差しを部屋の中に満たして2脚ある揺りイスの片方へ座った。


 そこがおばあちゃんの定位置なのだ。昔はそれほど使う頻度は多くなかった。けれど息子が家を出ておじいちゃんとふたり暮らしになってからは、毎日のようにこの窓際へ座り、いろんなことを語り合っていた。


 もうこの場所へ座っても語り合う相手はいないのだけど、それでもおばあちゃんが1日をそこで過ごすのは、やっぱり誰かとのつながりを感じたいからだと思うのだ。たとえそれが想い出の中であったとしても。


 食事を終えた私は顔のまわりをしっかりと洗い、おばあちゃんのほうへ歩いていく。


   とんっ、きぃ、きぃ。


「おや、こっちへ来たのかい?」


 隣のイスに飛び乗ったときの揺れで分かったようだ。ふぅ、体が重たい。ここ最近は自分の体重をハッキリと感じている。


「ふふ、いつもありがとねぇ。あんたいつも私のために足音をたててくれてるんでしょう。ねこなのにねぇ」


 おばあちゃんやおじいちゃんの話ではねこは足音をたてないらしい。けど、それがどういうことなのか、私には分からない。物心がつき始めたころからここで暮らし始めたからだ。


 私は生まれたときから鳴けなかった。どうやっても声が出せない私は、ある嵐の日にお母さんとはぐれてしまった。


 冷たい雨がバチバチと体に降り注ぎ、吹き付ける風で体が凍えた。命の危機を感じた私は震える足でなんとか歩いた。ただがむしゃらに、どこへ行けばいいのかも分からずに歩き、どうにか雨風をしのげる場所まで行くことができた。それがこの家なのである。


 そのとき以来、私はここで暮らしている。だから、ねことしての家族や暮らしは知らない。私の家族はここで一緒に暮らした人たちなのだから。


 そうしてもう長い年月が流れた。私のつややかだった毛はいつしかおじいちゃんのおひげのようによれて、テーブルの上へ飛び乗るのも楽ではなくなった。それに、だんだんと人もいなくなっていき、静かな時間が増えた。


   きぃ……きぃ……。


「――♪ ――♪」


 でも、悪いことばかりではない。来年の春には家を出た息子が帰って来るそうなのだ。


 今年の冬さえ越えられれば、もう大丈夫なはず。おばあちゃんにまた賑やかな生活が戻ってくる。


 だからちょっとだけ――もうちょっとだけ、がんばろうと思った。

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