20XX年 一杯の幸せ

バスロマン

短編


20XX年、月日はおそらく7月11日だろう。            


 3年前のインド・パキスタン間の核戦争の影響は、はるか東、日本にも届いていた。その結果、日本の豊かな土地は荒廃し、人々の食生活は栄養を取るための食事と化していた。そんな生活に耐えきれず餓死するものは多数、道端には平気で死体が転がっているありさまである。


 少し私の話をしよう、3年前までは某大手企業に勤めていた、いわゆるエリートサラリーマンであった。その頃の私の生活は、忙しく、荒んではいたものの、ひどく充実していたように思える。そんな私も、今では空腹に耐えながら、腐臭く、切れた街灯の夜道をまさぐり歩くだけである。


 そんなときである、一つの懐かしい明りを見つけたのは。


 吸い込まれるように近づいていくと、「極楽家」と書かれたのれんをかけた、屋台がそこにはあった。重厚な匂いに誘われ、のれんをくぐると店主の声がした。その声から、年齢を推し量ることはできなかった。

「いらっしゃい。おひとりですか。」

 他に視線を感じたような気がしたが、私以外の客は見当たらない。顔から察するに、店主は30代から50代にも見えた。

「ラーメンを一杯いただきたい。お代はこれで頼む。」

 私は内ポケットから、もしもの時にとっておいた1000円札を出した。

「これはいただけません。」

 コップにほんの一杯の水を汲み、店主は答えた。

「しかし、そういうわけにもいかないでしょう。」

 少量の、細いちぢれ麺をゆでる店主を横目に、私は言った。 

「お客さん、お名前は。」

 店主はがちゃがちゃと、古びた器を用意しながら言った。

「A氏です。」

 水を一口含み、私は答えた。 

「A氏さん、今は幸せですか。」

 私は、答えられなかった。じゃっじゃっと、小気味のいい湯切りの音が聞こえる。

「私はね、こんな世の中でも道端には幸せが転がっていると信じているんです。今日、あなたがこの店を見つけてくれたそして、私の作った一杯のラーメンを食べる。それだけで充分幸せとは思いませんか。だから、私にとってお代なんて何の価値もないんです。」

 そう言って、店主は私の前にラーメンを置いた。チャーシューも煮卵もメンマもない、とても質素なものだった。しかし、私はそれから目が離せなくなった。濃厚な動物性のスープの匂いが鼻孔をくすぐる。私はついに箸を手に取り、一口麺を口にいれた。


「うまい、、、、、、。」


 気が付けば私の目からは涙があふれていた。食事に対して、こんな気持ちを抱いたのは3年ぶりであろうか。いや、もっと前かもしれない、忘れていたのだ、日々の忙しさの中で。気づけば、器は空になっていた。

「ごちそうさまでした。これを受けとってください、せめての気持ちです。」

 私は再び、千円札を渡した。それを受け取って店主は言った。

「わかりました。お気をつけて、いつかまた会える時を待っています。」

 私は軽くうなずき、のれんを出た。


 外に出ると、あたりは薄っすら明るくなり始めていた。

そういえば、こんな世の中でどこでスープの出汁を手に入れたのであろうか。

そんな疑問は、吹き抜ける最後の夜風と共に消え去ってしまった。  <終>

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