ママのろうや

真花

ママのろうや

「ありがとうって言いなさい」

 私の六歳の誕生日、パパとママと三人で楽しかったのに。

 いつもママはそう言う。毎日そう言う。私は「ありがとう」って、言う。

 でも今日は、嬉しかったのに楽しかったのにそれがいっぺんになくなって、胸の辺りが、ぐっ、て嫌な感じがする。「ありがとう」って言いたくない。

「真里、言いなさい」

 黙って下を向く真里に圧力をかける母親。真里からは見えていないがその声色と遜色のない形相をしている。

 やだ。言いたくない。

「真里、どうしたの」

 ママが楽しいを壊して、どうして私の誕生日なのにこんな気持ちにさせるの。

 真里が自分の気持ちに届いた途端に、涙が染み出た。涙の感触が悲しさを噴き出させ、彼女を塗りつぶした。でも、彼女は泣くことが禁止されていることを分かっていて静かに肩を震わせた。もし声を上げて泣いたら今拮抗しているエネルギーは母親のヒステリーに流れ、一挙に場は沸騰するものの、それはそれで終息には向かっただろう。しかしそれはさせてくれない。母親はこの状態から彼女の望む形での出口以外を禁じている。母親に生命も生活も愛情も握られている状態の真里が抗うことは不可能だ。逆らった場合にどうなるかを十分に刻み付けられている。小さな子供が親に反抗出来るのはそこに安心が、大好きな中での反抗と分かって貰えるという確信が、あるからで、それらが人質になっている親子関係では大々的な反乱を起こすことは根元から封殺される。子供は生きていくために適応する。真里も、母親の機嫌を損ねないように顔色を伺って毎日生きている。父親は役に立たない。止めることをしないばかりか母親の肩を持つ。きっと真里が大人になったら父をして、母の奴隷だと言うだろう。家庭という、世界から区切られた場所で三者のみの力関係が変わることなく続いてゆく。

 いつもママの言うことをきいてる。ママが怒らないようにしてる。パパもそれが一番大事だって言ってた。でも今日は、今日は私の誕生日、私が楽しいのがいい。

 父親は遠巻きに見ている、何も言わない。

「真里、ありがとうって、言いなさい」

「やだ」

 蚊の鳴くような声。母親の剣幕が軋む。

「して貰ったことに、ちゃんとありがとうが言えないと、ダメな人間になるわよ」

 それでも怒鳴らない。怒気を無理矢理押さえ込んだ声は、声を荒げるのとは違う形式で真里を脅かす。

「やだ」

「いい加減にしなさい。自分がしてることが分かってるの?」

 怖い。

 顔を上げることが出来ない。

 睨み合いではなく、一方的なねめつけで圧力ばかりが増して真里は動けなくなってゆく。

「ありがとうの言えない子を育てたママが、みんなにダメな親だなって思われてもいいの?」

「やだ」

「じゃあ言いなさい」

 ママのために私はありがとうって言うの? じゃあ今日の誕生日会もママがありがとうって言われるためにしたの? 

「黙ってても分からないわよ。何か言いなさい」

 どうせ何を言ってもダメって言われる。

 二人とも黙り込む、同じ格好のまま、三十分、父親は何も言わない。

「じゃあ、真里はうちの子じゃないってことね」

「違う」

「違うならどうすればいいか分かるでしょう」

 真里の中をぐちゃぐちゃな線が駆け巡る。

 もういい。

 ママがいいようにすればいいんでしょ。

 ママはママしか見てない。私なんて言うことをきかなければ子供じゃないくらいにしか好きじゃないんだ。

「ありがとう」

「よろしい。それじゃこれで、楽しい誕生日会、おしまいね」


 誕生日の日にママに「ありがとう」を取られてから、胸の中に隙間がずっとある。幼稚園に行っても全部嘘みたいに感じる、遠い。

 何だか先生もユミちゃんもトモヤくんも他のみんなも、顔がないみたい。違う、私が顔を見てないのかも知れない。足下ばかりを見ている。ママの居ないところなのに、前は楽しかったのに、何も感じない。ただ行って、帰って、またママの場所。

 ママは誕生日のことなんかなかったみたいにいつも通りで、それとも、あの日のことがあったからいつも通りなの? いつも通りに私に「ありがとう」を言えって言い続ける。言わないと同じことが何回でも起きる。だから私は出来るだけママを見ないように、近付かないようにする。でも、どうしても毎日ママと居る。でも家はここだし、外は怖いところだから、ここに居る。

 ミキちゃんが、辛いときは手をつねるといいって教えてくれたけど、やってみたら痛くて、出来なかった。ミキちゃんは体に青い所がいっぱいあって、辛くても生きるんだよ、って大人みたいなことを言う。教室の端っこに座ってた私のところに来て、遊ぼ、って言う。でも何もしたくなくて、いいや、って言ったら、じゃあ横に居る、って二人で黙って座る。

 ミキちゃんの鼻水がつつと出た。

 私はぽっけからティッシュを出して、はい、って渡す。

「ありがと」

 言葉が胸に入る。

 空きっ放しだった隙間がちょっと埋まった。

 そのことに驚いている間にミキちゃんはチンと鼻をかんで、ゴミになったティッシュを捨てに行ったところで遊びの時間が終わった。


「真里ちゃんは皆に色々やってあげて、ありがとうっていっぱい言われているんですよ」

 迎えに来たママにキョウコ先生が言っているのが聞こえる。ええ、そうですか、ありがとうの大事さをよく言ってますから、って嬉しそうにママがしている。そうか、これでいいんだ。ママがそう言っても信じられないけど、キョウコ先生が言うならそうなんだ。もっとしていいんだ。

 私はケーサツのように見回って、誰かが困っているのを見付けては何かをしてあげる。困っている子はいつもそれなりにいるけど、いないときにはこうする。

 ヒロシくんに絵を描いてあげて、渡して、「ありがとう、は?」

 シズクちゃんにクレヨンを持って行ってあげて、「ありがとう、は?」

 キョウコ先生の肩を揉んであげて、「ありがとう、は?」

「ありがとう」が私に入る度に、ちょっと胸が埋まる。でもそれはすぐにまた流れていってしまう。穴の開いたバケツのように。

 でも、段々誰もありがとうと言ってくれなくなった。

 絵をあげても「欲しくない」

 クレヨンを持って行っても「いらない」

 肩をたたこうとしても「今はいいわよ」

 それでも何かをしてあげようとしたら「うるさい」と言われる。

 だから私の胸は誕生日のままの空っぽに戻ってしまった。


 また教室の隅に座る。

 ミキちゃんが来た。相変わらず青いのがいっぱいだ。

「マリちゃん、遊ぼ」

「いいや」

「ふーん、じゃさ、先生には内緒だよ、チョコレート持ってるんだ、あげるよ」

 え、と驚く私の横に、す、と座る。

「手」

 言われて掌をおずおずと出す。

 ザララ、と粒のチョコレートがひと山出来る。

「これね、宝物なんだ。いつもチョコレートなんて食べれないから、おじいちゃんがくれたんだ、ひみつ、って」

 そんな物を貰っていいの?

 手とミキちゃんの顔を交互に見る。

「マリちゃん泣いてるから、元気出るように」

「私泣いてないよ」

「こころが泣いてる。私には分かるもん」

 言われたらずっとママにされていた涙の蓋がバリって破れた、目からボタボタと溢れて来る。

「私も一人で泣くよ。でも一緒に泣いたらきっといいから、ねえ、今日の秘密でさ、今度私が泣くの一緒にいて欲しいな」

 うん、うん、と言葉にならない、でも強く頭を振る。

 ミキちゃんはだからと言って何もせず、横にくっついている。

 きっと泣き止むのを待ってるんだ、そう思っても、積年の涙はすぐには止まらない。

 黙って、横に居るミキちゃん。

 泣いてるだけの私。

 少しずつ溶けてゆくチョコレート。

「ごめん、やっぱり私も泣く」

 ミキちゃんはそう言ってしくしくと、静かに泣く。その姿を見ていたらもう少し涙が出た後、しゃっくりを残して治まった。

 ミキちゃんもすぐに泣き止んだ。涙の出し入れを操れるみたいに。

「食べるね」

「うん」

 一口で全部を口に入れる。甘い。手に残った溶けた分はぎゅっと握りしめた。

「ありがとう」

 生まれて始めて、こころのあるありがとうが出た。それはとても自然で、今までの全てのありがとうと違って、命があった。

「どういたしまして」

 にこ、と笑うミキちゃん、自分の言った言葉、どっちのせいなのか分からないけど、胸の穴が埋まった気がした。ありがとうをどれだけ集めても空いたままだった隙間が、満たされた。

 ありがとうを集めるのはもうやめよう。

 自分が言えるときに、こうやってありがとうって言おう。


 ママは変わらない。でも、本物を知った私は偽物も使いこなせるようになった。だからママにはすぐにありがとうと言う。だからママのろうやは少しだけ息が出来るようになった。本物は、家の外で言えるときに、言う、ミキちゃんに言うのが一番多い。



(了)

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