アリンカ

スヴェータ

アリンカ

 そう遠くない昔、アリンカは愛に満ちた両親の元に生まれた。母は服を作ることで、父はおもちゃを買い与えることで、その深い愛情を表現した。だから、アリンカはとても裕福な家庭の子どもに見えた。


 外ではロシア語を話しても良いが、家庭ではフランス語を話すように躾けられた。アリンカはほとんどフランス語しか聞かずに育ったから、ロシア語を全く話せなかった。


「どうしておうちではフランス語を話すの?」


 こういうちょっとした質問に、両親はいつも笑顔で、優しく答えてくれた。


「いいかい、アリンカ。昔から、お姫様は皆フランス語を話すと決まっているんだ。アリンカはうちのお姫様だろう?だからフランス語を話すんだ」


「そうよ、アリンカ。そして世界をどんどん広げていくの。いずれフランスまであなたの国になれば、フランス語が必要になるでしょう?」


 その優しく丁寧な説明に、いつもアリンカは納得できた。


 7歳になっても、アリンカはうまくロシア語を話せなかった。両親以外と会うこともなかったし、遊び場である家の裏の林には人が来ることはなかったから。ただ、学校へは行かず、全て両親に教わっていたため、それで困ることはなかった。


 10歳になった頃、アリンカに弟ができた。名前はイリヤ。イリヤは両親から、これまでアリンカが受けた愛の何倍もの愛を注がれた。アリンカは内心面白くなかったが、イリヤがとてもかわいかったから、それを口にも態度にも出さなかった。


 イリヤが成長するにつれ、両親の態度はどんどん変わった。新しい服を作ってくれなくなったし、おもちゃも絵本も買ってくれなくなった。挙句、ロシア語で話しかけられるようになった。


「お姫様はフランス語を話すのでしょう?どうして私が分からない言葉を話すの?」


 アリンカはこれまでのように尋ねたが、もう両親は優しくも、丁寧にも答えてくれなかった。


「アリーナ、君はいつからお姫様だったんだ?それに、分からないなら学べばいいじゃないか」


「そうよ、アリーナ。そもそも、ここはロシアであなたはロシア人なのに、ロシア語さえ話せないなんて。あなたいったいいくつなの?」


 両親はロシア語で答えた。アリンカは自分の名前が子どもの頃の呼び方とは変わっていることに気付けなかった。全て、何を言っているのか分からなかった。もう一度聞き直そうとすると、イリヤが泣き出し、両親はそちらへ駆けて行ってしまった。


 アリンカはとぼとぼ林へ向かった。ふと明るいところで空を見上げると、雲が木の円のど真ん中にとどまっていた。そこには、アリンカが生まれてすぐにもらったテディベアの顔が描かれているように見えた。


 少しばかり元気付けられたアリンカは、くるりと踵を返し、家の扉を開けようとした。しかし、ガンッと音が鳴るばかりで開かない。扉を叩いても、大声で叫んでも、その扉が開くことはなかった。


 仕方なく林へと戻り、その日の晩は何とかしのいだ。そして早朝、扉の前で立っていると、父が郵便受けを見るために家から出て来た。アリンカは泣きながら「ごめんなさい」と言ったが、父は目さえ合わせず家へと戻り、そのまま扉を閉め、鍵をかけた。


 アリンカにとって、家と林が全て。だからこの父の行動は悲しみを超えて、絶望だった。アリンカはただただ泣き暮れ、何も解決しないまま時だけが流れた。


 しかし、両親の元と林以外、外へ出て行くことなんて考えもつかなかった。だからアリンカは林へ足を向け、テディベアの雲が見えたところまで戻った。


 木の円には陽が注いでおり、何だか妖精でも降りて来そうな雰囲気だった。アリンカが思わず見惚れていると、何かが映し出されているように見えた。目を凝らすと、それは20歳前後の男性だった。


「アリンカ、アリンカ。僕はイリヤ。将来のイリヤ。この家はおかしい。アリンカも僕も、まともには育たない。僕は両親を殺した。アリンカは随分前に林で死んで、そのまま放置された」


 イリヤと名乗る男性は、アリンカにフランス語で話しかけた。にわかには信じがたかったが、その男性にはイリヤの面影があった。とても父にそっくりで、アリンカは信じるしかなかった。


「ねえ、イリヤ。それは本当なの?どうしてパパとママは変わってしまったの?私たち家族はおかしいの?」


「アリンカ。今の君には分からない。アリーナになれなかった、ずっとアリンカだった君には分からない。でもアリンカには良い人生を送ってほしいんだ。ここで死んではいけない。外へ、外へ出るんだ。そして未来を変えるんだ」


 言い終わると、日が陰り、大人になったイリヤは消えてしまった。


「……これが、本当に本当なら、イリヤはパパとママを殺してしまう。それだけはだめよ」


「……だって私、今こうやって外にいるんだもの。私はイリヤを信じるわ」


 アリンカは小屋へと向かい、外にかかっている斧を手に取った。そうして両手に斧を持ち、掲げ、扉を何度も叩いてこじ開けようとした。


 あまりの騒音に、父が扉を開けた。それが突然だったから、父の頭に斧がドンと叩きつけられた。アリンカは急いで斧を引っこ抜くと、倒れ込んだ父の首に振り下ろした。


 目撃した母が悲鳴をあげたので、アリンカは母が投げてくる物をうまくかわしながら、夢中で追い回した。部屋の隅まで追い詰めると、母がイリヤを背中の方にかばった。アリンカはイリヤに当たらないよう気をつけて、母の顔をめがけて斧を投げた。


 母はイリヤを両手に抱えながらかばっていたから、顔の少し右方ではあったものの、まともに斧がぶつけられた。母がイリヤを落とし、うずくまると、アリンカは近くのコンセントを引き抜いて、母の首を締めた。


 イリヤは大泣きしていた。元気そうな声を聞いて、アリンカはとても嬉しかった。アリンカはイリヤが両親を殺す未来を変えたことに満足した。


 アリンカは風呂場で汚れを綺麗に落とすと、母が最後にアリンカのために作った服を着た。丈がすっかり短くなったドレス。とても着て外へは出られそうになかったから、母の服を引っ張り出して着た。


 イリヤを抱えて初めて外へ。行く当てはなかったが、とにかく屋根のあるところを探した。うろうろしていると警察に話しかけられ、この事件が明らかになった。


 警察はフランス語しか話せないアリンカに手を焼きつつ、1つずつ話を聞いた。同情して泣く者もいたが、アリンカを守る法律はなく、服役が決まった。


 服役からわずか2年後、アリンカはロシア語がうまく話せないことを他の受刑者から疎まれ、暴力の標的となり、遂には命を落とした。アリンカは最後まで自分のことを「アリンカ」と名乗り、また、Здравствуйте(こんにちは)とさえ言えないままだった。


 一方イリヤは名前をアレクセイと変えられ、アリンカたちのことは知らないまま成長し、92歳まで人生を謳歌したという。

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アリンカ スヴェータ @sveta_ss

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